それから一時間もすると、彼は、墓場から蘇生した男がよろよろと自宅への道をたどり、三分一も歩かぬうちに息切れがして、道ばたに行き倒れたていをよそおって、とある森の茂みのかげに、土まみれの経帷子の姿を横たえておりました。ちょうど一と晩食わず飲まず働き通したのですから、顔面にも適度のしようすいが現われ、彼のお芝居をいっそうまことしやかに見せるのでした。

 はじめの計画では、死体を始末すると、すぐに経帷子に着かえ、寺の庫裏にたどりついて、ホトホトと、そこの雨戸をたたく予定だったのですが、死体を見ると、この地方の習慣とみえ、あの古くさいていはつの儀式によって、頭も髭もきれいに剃られていたものですから、彼もまた同じように頭を丸めておく必要があったのです。で彼は町はずれの田舎めいた商家の中から金物屋を探し出して、一梃の剃刀を買い、森の中に隠れて、苦心をして、みずから髪を剃らなければなりませんでした。

 それは例の巧みな変装を解かない前ですから、理髪店にはいったところで滅多に疑われるはずはなかったのですけれど、早朝のことで、朝のおそい理髪店は、まだ店をひらいていなかったのと、万一をおもんぱかる用心とから、剃刀を買うことにしたのでした。

 そして、すっかり頭を剃り、経帷子と着かえ、死人の手から抜き取った指輪をはめ、ぬいだ衣類そのほかを、森の奥の窪地で焼き捨て、その灰の始末をつけてしまった時分には、もう太陽が高く昇って、森のそとの街道には、絶えずチラホラと人通りがして、今さら隠れがを出て寺に帰りもならず、むを得ず、見つけ出すのに骨の折れるような、しかし街道からはあまり隔たらぬ、茂みの蔭に、気を失ったつもりで、横たわっているほかはなかったのです。

 街道にそって小さな流れがあり、その流れに枝を浸すようにして、葉の細かい灌木が密生し、そこからずっと森になって、背の高い松や杉などが、まばらに生えているのです。彼は、往来から見えぬように用心しながら、その灌木の向こう側にからだをくっつけるようにして、息を殺して横になっていました。そして、灌木の隙間から、街道を通る百姓たちの足だけをながめながら、気が落ちつくにしたがって、彼は変てこな気持になってくるのでした。

「これですっかり計画通り運んだわけだ。あとは誰かがおれを見つけだしてくれさえすればよいのだ。だが、たったこればかりのことで、海を泳いで、墓を掘って、頭を丸めたくらいのことで、あの数千万円の大身代がはたしておれのものになるかしら、話があんまりうますぎはしないか。ひょっとしたら、おれはとんでもない道化役を勤めているのではないかな。世間のやつらは、何もかも知っていて、わざと面白半分に、そ知らぬ振りをしているのではないかな」

 かくして、常人の神経が少しずつ彼によみがえってきました。そしてその不安は、やがて、百姓の子供たちが彼の気ちがいじみた経帷子姿を発見してさわぎたてるに及んで、一層はげしいものになったのです。

「オイ、見てみい、何やら寝てるぜ」

 子供の遊び場所になっている、森の中へはいろうとして、四、五人連れの一人が、ふと彼の白い姿を発見すると、驚いて一歩さがって、ささやき声で、ほかの子供たちにいうのでした。

「なんじゃ、あれ。気ちがいか」

「死びとや、死びとや」

「そばへ行って見たろ」

「見たろ、見たろ」

 田舎縞の縞目もわからぬほどによごれて、黒光りに光ったツンツルテンの着物を着た、十歳前後の腕白どもが、口々にささやきかわして、おずおずと、彼のほうへ近づいてきました。

 あお鼻汁ばなをズルズルいわせた百姓づらの小せがれどもに、まるで、何か珍らしい見せ物でもあるようにのぞきこまれたとき、その世にも滑稽な景色を想像すると、彼は一層不安にも、腹立たしくもなるのでした。

「いよいよおれは道化役者だ。まさか最初の発見者が百姓の小せがれだろうとは思ってもみなかった。これで散々こいつらのおもちゃになって、珍妙な恥さらしを演じて、それでおしまいか」

 彼はほとんど絶望を感じないではいられませんでした。

 でも、まさか、立ち上がって、子供たちを叱りつけるわけにもいかず、相手がなにびとであろうとも、彼はやっぱり失神者を装っているほかはないのです。で、だんだん大胆になった子供たちが、しまいには彼のからだに触りさえするのを、じっと辛抱していなければなりませんでした。あまりのばかばかしさに、一切がっさいオジャンにして、いきなり立ち上がって、ゲラゲラと笑い出したい感じでした。

「オイ、おとうにいうてこ」

 そのうちに、一人の子供が息をはずませてささやきました。すると、ほかの子供たちも、

「そうしよ、そうしよ」

 とつぶやいて、バタバタとどこかへかけ出して行ってしまいました。彼らは銘々の親たちに不思議な行倒れ人のことを報告しに行ったのです。

 間もなく、街道の方から、ガヤガヤと人声が聞こえて、数名の百姓がかけつけ、口々に勝手なことをわめきながら、彼を抱き上げて介抱しはじめました。噂を聞きつけて、だんだんに人が集まり、彼のまわりを黒山のように取り囲んで、騒ぎはいよいよ大きくなるのです。

「アッ、菰田の旦那やないか」

 やがて、そのうちに、源三郎を見知っているものがあったとみえ、大声で叫ぶのが聞こえました。

「そうや、そうや」

 二、三の声がそれに応じました。すると、多勢の中には、もう菰田家の墓地の変事を聞き知っているものもあって、「菰田の旦那が墓場から、よみがえった」というどよめきが、一大奇蹟として、田舎びとの口から口へと、伝わって行くのでありました。

 菰田家といえば、T市の附近では、いやM県全体にわたって、郷土の自慢になっているほどの、県下随一の大資産家です。その当主が一度葬られて、十日もたってから、棺桶を破って生き返ってきたとあっては、彼らにとっては、驚倒的な一大事変にちがいありません。

 T市の菰田家に急を知らせるもの、お寺に走るもの、医者にかけつけるもの、野らも何もうっちゃらかして、ほとんど村人総出の騒ぎなのです。

 さきの人見広介は、やっと彼の仕事の反応を見ることができました。この分ならば、彼の計画はまんざら夢に終ることもないようです。そこで、彼はいよいよ得意のお芝居を演じるときがきたのでした。彼は衆人環視の中で、さもいま気がついたというふうに、まずパッチリと眼をひらいて見せました。そして、何が何だかわからぬという面持で、ぼんやりと人々の顔を見廻すのでした。

「ア、お気がついた。旦那、お気がつきましたか」

 それを見ると、彼をだいていた男が、彼の耳のそばへ口を持ってきて、大声にどなりました。それと同時に、無数の顔の壁がドッと彼の上に倒れかかって、百姓たちの臭い息がムッと鼻をつくのです。そして、そこに光っているおびただしい眼の中には、どれもこれもぼくとつな誠意があふれて、少しも彼の正体を疑うものはないのでした。

 が、広介は相手のいかんにかかわらず、あらかじめ考えておいたお芝居の順序を変えようとはせず、ただだまって、人々の顔を眺める仕草のほかには、何の動作も、一言の言葉も発しないのでした。そうしてすべての見きわめをつけるまでは、意識のもうろうを装って、口を利く危険をさけようとしたのです。

 それから、彼が菰田家の奥座敷へ運びこまれるまでのいきさつは、くだくだしくなりますからはぶくことにしますが、町から菰田家の総支配人そのほかの召使い、医者などをのせた自動車がかけつけ、菩提寺からは和尚や寺男が、警察からは、署長をはじめ二、三の警官が、そのほか急を聞いた菰田家縁故の人々が、まるで火事見舞かなんぞのように、次から次へと、この町はずれの森を目がけて、集まってくる始末でした。附近一帯は、戦争のような騒ぎで、これを見ても、菰田家の名望、勢力の偉大なことが、充分に察せられるのでありました。

 彼は、それらの人々に擁せられて、今は彼自身の家であるところの、菰田邸につれて行かれるあいだ、それから、そこの主人の居間の、彼がかつて見たこともないような立派な夜具の中に横たわってからも、最初の計画を固く守って、啞のように口をつぐんだまま、ついに一ことも物をいおうとはしませんでした。

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