五 猫の鈴

 県の本署から一行が到着するに五時間の余もかかるのである。ところが南川友一郎巡査のうるさいこと、一同を食堂へカンヅメにして、外へ散歩にも出してくれない。

「アア、いかん、足跡が消える。廊下もうろついちゃ、いかん。犯罪はですな。毛髪一本、靴から落ちた一粒の砂、いいですか、これがかぎとなる。微妙なるものですな。皆さんの御協力、数時間の御辛抱によって、犯罪科学の偉大な機能が成果をあげる」

 一本の通路をきめて便所へ歩かせてくれるだけである。十一時半ごろ巨勢博士がきた。私はその来着を一同にろうして待ちかねていたのであるが、何がさて五尺そこそこの小男で、マン丸いクリクリした顔、愛嬌のよい二十三、四の小僧ッ子にしか見えなくて、喧嘩となると素早やそうだが大探偵の面影などはどこにもない。一馬や私が説明するのをまるで自分がじんもんを受けているように、ハア、ハア、と恐縮して承っている。

「これがその偽造の手紙だが、君の眼力にかかっちゃ、真相を見破ることはイト易いことだろう」

「とんでもない。僕なんか、とてもダメだな。へ、こっちが歌川先生の本当の筆蹟ですか。ウハおんなじじゃないですか。ウメエなア。本物と見分がつかねえもの、たいしたもんですね」

 だから巨勢博士は全然評判が悪い。その代り愛嬌があって、クリクリ可愛くて、御婦人に丁寧で、まったく凄味がないから、御婦人達には大もてで、

「巨勢さん、いい人いらっしゃるの?」

「え? ハア、おはずかしい次第で」

「つれてらっしゃればよかったのに。電報でよんであげなさいな」

「人見知りをしますんで、十七の可憐な少女ですから」

「あらあら、じゃアまだ、接吻もなさらないのね」

「それが一度。なんです。彼女はマッカになって、しかし、怒らなかったです。ハア」

「それじゃアもう新婚旅行なさってもよろしいわ。さっそく、およびしましょうよ、ねえ」

「それが、ここのウチじゃア具合が悪いことがあって。洋食の食べ方を知らないものですから。ナイフとフォークを握ったことがなかったもんで、目下練習中なんです」

 友一郎巡査にカンヅメにされているから、巨勢博士を慰みものにしてウップンをはらしている。

 二時半に予審判事、検事、警官の一行が官用の自動車で到着。一馬から頼んで巨勢博士を警官なみに現場出入を許してもらった。

 警察医の検視が終り、現場からかなり多くの指紋がとれた。捜査部長平野雄高警部は心眼の眼力、いかなる智能の犯行も一目でカングリ、二度三度、四度目にギロリと睨む時には見破ってしまう。田舎にはモッタイない探偵の大親分で「カングリ警部」といえば、その道では全国的に名が知れている。現場をジロリと三睨み四ツ睨みして、あれこれと綿密に捜査を命じる。

「出血がないのは特別の理由があるんじゃないですかな。すでに死んでいたとか、何か」

「解剖をしてみなければハッキリは申せませんが、この場合は俗に心臓タンポンという奴で、心臓へ直角に兇器が打ちこまれたときに、稀に内出血だけで終ることが有りうるのです。然し、解剖の上でなければ、何とも断定は申されません」

 解剖のため、屍体をトラックにつんで、県立病院へ送った。

「はてな。これはなんだろう」刑事の一人が寝台の下から、しんちゆうの小さな鈴を拾いあげた。この刑事は、荒広介という部長で、県内きっての探偵だ。どんな手口でも嗅ぎ分けて犯人を嗅ぎだしてしまう鋭敏な六感、刑事仲間で「八丁鼻」といえば一目おかれている敏腕家であった。

「何だい、それは」

「鈴ですがね」見たところ、極めて安っぽい品で、猫の首ったまにブラ下げるような鈴である。

「寝台の下に、もっと何かないか。おい、読ミスギ、お前チビだから、もぐってみろ」

 と八丁鼻が兄貴風を吹かせる。読ミスギとよばれた刑事は本名は長畑千冬というのだが、どこでどうして覚えたのだか似合わぬ知識がある。ドイツ語などをかじっておって、医学の心得などがあるが、探偵のこととなると決して敏腕とは申されない。単純な犯罪を複雑怪奇に考えすぎ、途方もなく難しく解釈して一人で打ちこんでしまうから「読ミスギ」というあだをとった。こんどの事件は東京から来たインテリ連の複雑な犯罪らしいから、案外こんどの事件に限って読ミスギにウマが合うかも知れないとカングリ警部が考えたから八丁鼻とコンビに連れてきた。八丁鼻は八丁先を鼻で嗅ぎだす敏腕だが、根があわて者の一人呑みこみ、田舎の犯罪にはカンは確かだけれども、インテリの計画犯罪には読み方の足らない憂いがあるのであった。

 読ミスギはベッドの下へもぐりこもうと四ツ這いになったが、

「おやおや、こりゃおかしいよ。ベッドの下には洋服の上衣がある」

 上衣をひきだしてみると、一ゕ所はほこりがベットリ、ちょうどぞうきんのように何かを拭いた跡をとどめている。

「おやおや、どこを拭いたんだろう。この卓の上かな、机の上かな」

「そんなところでこれだけのゴミがつくものかい。きまってるじゃないか。上衣のあった場所さ」

「ベッドの下ですか」

「のぞいて見ろ」

「ウム、なるほど、たしかに、ここをふき廻した跡があります。しかし、なんだってベッドの下を拭きやがったんだろう。血も水も、一滴もこぼれた跡もありゃしないに」

 上衣は、被害者のものであった。

 現場の綿密な捜査を終ったのが夕方で兇器には指紋がなく、枕元の卓上のフラスコとコップから、いくつかの指紋がでた。一同の指紋をとって合せてみると、被害者の指紋の外に珠緒さんと秋子さんの指紋がピッタリ合う。秋子さんの指紋は明かにフラスコを握ってコップにいだものであった。フラスコにはごく小量の暗いかつしよくの液体が残っていた。

「窓は始めから開いていたのか」

「ベッドの足の方の窓は明けっ放してありました。然し、犯人はそっちから侵入したものではありませんな。ハシゴをかけた跡も、よじのぼったあともありません」と友一郎巡査がムダに張番していたわけではない手並のほどを披露に及ぶ。

「このへんは蚊がいないのか」

「とんでもない。ヤブ蚊の名所ですよ。そこの違い棚に蚊とり線香をいぶす瀬戸物の容器があるでしょう」

「それぐらいのことは知っている。然し中に線香の灰が残っていないからきいたのだ」

 机の上には五十枚ほど書かれた原稿と、五百枚ほどの原稿紙、整頓して、手のふれた跡はない。部屋をかきまわしたあとはなかった。

 解剖の結果を待って正式に訊問を始めることにして、この日駐在所に泊りこむ数名を残して鑑識の一行はひきあげる。そのとき一行を送って出たカングリ警部が一人に向って、

「おい、あした、アタピンをこっちへ寄こせ、どうもお歴々のインテリ御婦人が、マンジどもえとからんでいるから、こっちは苦手だ。アタピンに限る」

 これを小耳にはさんだから私も驚いて、

「何ですか、アタピンというのは?」

「アッハッハ。きこえましたか。本署の名物婦人探偵ですよ。田舎の警察じゃ役不足の掘りだしもので、飯塚文子と申しますがね。ちょッと小生意気な美人で色ッぽくて、なんですな、ちょッと、からかいたくなりますぜ。ところが、ひどい。うッかりからかってオダテたが最後、つけあがること、男という男を鼻息で吹きちらして尻にしきまくる魂胆なんで、本県じゃア前科十犯の人殺し屋でもチヂミ上るという八丁鼻が、アタピンにかかっちや鼻先であしらわれていまさ。その代り、天才的な心眼で、なんでもアタマへピンとくる。見たもの聞いたものアタマへピン。黙って坐ればアタマへピン。尤も八割方外れますけど、時々あたる。推理ぬきの飛躍型、時々あたれば沢山さ。なんでもかんでも頭へピンピンくるのだから、いそがしくにぎやかな頭でさア。あなた方のインスピレーションがどんなぐあいのピン助だか知りませんが、アタピンのピン助ぶりはジンソク突入流線型、見事なものですな」

 カングリ警部の一行も、一緒に夕食のテーブルにつく。八丁鼻も読ミスギも杯をあげる。カングリ警部は甘党だった。

「こうして打ちとけていただけば、我々も光栄ですな。警察というと偏見的にいきなり敵意で迎えられるのが我々のつらいところで、警察は犯人製造会社じゃありませんや。ところで、せっかく御食事中無粋な話ですが、然し、こういう際には、事件の話題を回避するよりも率直にそれを話題にとりあげて銘々が腹蔵なく話を交される方が、気持が整理されて、互によろしいのですな。いかがでしょう。軽い座談の気分で、言ってよろしいところまで、気軽に語っていただけませんか。この離れの建物は山中に不似合な洋館ですが、これは鉄筋コンクリですな」

「そうです。ライト式という奴です。建ててから十五年ぐらいになりますか。おもの方は、百五十年ぐらいになります」

「すると入口の鍵などは極めて精巧なものですな」

「この山奥に鍵をかける家なんて有りませんよ。泥棒の恐怖なんて存在しませんから。もっとも夜間の侵入者はあります。夜這いと申しましてね」

「警部さん。無益な話は止しましょう。犯人は外から来やしませんよ。分りきった話です。そんな風にいたわられるのは、我々の神経には、からかわれると同じ意味にひびくのです」

 と、私はいささか気を悪くして言った。

「何でもズバズバ思う通り言い切って下さい。文学の仕事がそういうもので、私たちはそのやり方に馴れているのだから、変に持って廻って言われると、こっちはヒネクレて、返事もする気がなくなりますよ」

「いや、矢代さん、あなた方はこの事件に就いてともかく何か知っていらっしゃる。ところが我々はまったく白紙で、これから知らなければならないのです。ですから、あなた方には分りきったことが、我々には分っていない。そこを教えていただかなければならないのですよ。では矢代さんにおききしますが、犯人は外から来やしないと仰言おつしやる、そのワケはなぜでしょうか」

「物盗りの仕業でないからですよ。あいつを殺す目的で外から誰かがやってきますか」

「この家の住人以外に望月さんを殺す者が有り得ないというワケは」

「そんなことは知りませんよ。ただ、この家の住人なら、たいがいの連中が望月の息の根をとめたがっていましたよ。外から来るまでもないのだから」

「なるほど。然し、御説の内容だけでは外部から犯人が来なかったという理由にはなりませんな。廊下の出入口からはいって階段を登る、登ったところにあるのが望月さんの部屋だから、先ずそこへはいってみる。目をさましたので殺す」

「兇器の短刀は談話室の棚に飾られていたのだから、犯人は内部の事情に通じた者でしょうな。始めから殺意があって、そこから持ちだしたのでしょう」

「なるほど。然し、それも必ずそうだと断定しうる性質のものじゃありません。短刀はその日もそこに飾られていましたか」

 誰も返事をする者がなかった。飾られてあった筈ですと一馬が答えた。

「昨夜も皆さんはこうして食卓についておられた。それから……」

「それから? いつもでしたら食事のあとはみんなバラバラになるのですが、ゆうべは矢代たち新客が到着したので、隣りの広間でおそくまで飲んだり話したり踊ったりしていましたが」

「兄さん、よして、警部さんは何が知りたいの? いつ、誰が殺したか。それだけでしょう。私が教えてあげますわ。王仁さんと私は一足さきに王仁さんの寝室へひきあげました。何時頃だか覚えていません。私が王仁さんの部屋を去るとき、王仁さんはもう眠っていました。そしてその時はデスクの上に、このライターも、口紅のついた吸いがらもなかったのです。私はタバコを吸いませんから。私は電燈を消して部屋をでました。それから先は、このライターの持主、宇津木秋子先生が話して下さる番ですわ。宇津木先生、どうぞ」

 秋子さんはすでに覚悟していたようだ。

「私が王仁さんのお部屋へ行きましたのは、一時ごろです」

 と、キッパリ言った。

「王仁さんは眠っていました。イビキをかいてらしたから、まちがいはありません。揺りうごかしても目をさます気配がありませんので、椅子にかけて、タバコを一本吸ったのです」

「そのときフラスコの飲みものを召上りましたか」

「ええ、飲みました。いくらも残っていなかったのです」

「あの飲み物は何ですか」

「ゲンノショウコ。王仁さんは丈夫そうで、胃が悪いのです。お茶の代りに毎日ガブガブ、ゲンノショウコを召上る習慣でした」

「失礼ですが、あなたはちょッとよその部屋へ行かれるにもライターを持ってお出かけですか」

「いつもそうとは限りません。でも、王仁さんはタバコを召上らないのです。私も昨夜はライターを持たずにでかけたのです。するとドアに鍵がかかっていたのです。それで一度は戻ったのですが、考えてみると、おかしいのですわ。王仁さんの鍵は偶然私がお預りしていることに気付いたのです。探してみると、ありました。で、ついでにライターとタバコを持って、思いきって出直したのです」

「噓おっしゃい。私は鍵なんか、かけてきやしなかったわ」

 と、珠緒さんが叫んだ。

「でも、鍵がかかっていたのですもの」

「ははア。それは奇妙ですな。そして、その鍵はどうしましたか」

「又、私が持って戻りました。お部屋に鍵をかけて、私はワザとライターを置き残してきたのです。王仁さんが目をさまして、私の訪れに気がつくように。そして、誰かが鍵をかけたことにも気がつくように。私もきた。然し、私のほかに鍵をかけ得るどなたかも来た。そのどなたかは王仁さんだけが御存知でしょう。私のダンヒルはその抗議を語るために置き残されてきたのでした」

「噓です! 大噓。私が今朝王仁さんの屍体を発見したとき、ドアの鍵はかかっていません。現に鍵を持たない私が、あの部屋へはいって屍体を発見したではありませんか」

「はてさて。ややこしくなりましたな。いったい、このウチは、各々の部屋の鍵が共通ですか」

「いいえ、各々違っています。然し、内からも外からも一つで間に合う鍵なんです」

「すると、望月さんの鍵は宇津木さんが持っていらっしゃる。そのほかにあの部屋の鍵をかけたり外したりできるのはどなたでしょう。同じ鍵を持ってる方は?」

「そうですね。三ツずつ同じ鍵をつくらせたのです。一つは皆さんにお渡ししてありますし、一つは、まとめて、隣の広間のデスクのヒキダシにほうりこんである筈です。もう一束は、たしか金庫にある筈です」

「そのヒキダシを。おい。八丁鼻、ひとつ、君、たしかめてきたまえ」

 一馬と八丁鼻はたしかめに去ったが、ヒキダシの鍵は一束全部、紛失していた。広間のデスクのヒキダシに歌川家のネーム入りの用箋や封筒原稿紙など入れてあり、来客一同、必要に応じて勝手にとりだす仕組になっていたのである。

「どなたか、ヒキダシの鍵束を見た記憶はありませんか」

「僕は見たよ」と、セムシの内海明がアッサリ言った。

「いつですか」

「そうだな。僕は原稿紙を持たずにきたから、原稿紙があるというから、ひっかき廻したんだけど、用箋と封筒ばかりで、原稿紙がなかなか見つからなくってね。来てまもなくだから、もう一ゕ月以上の昔の話さ。何月何日だか、分りゃしないよ」

「望月さんの部屋と隣室の間にドアがありますが、あのドアの鍵は?」

「部屋の間のドアは鍵をかけたままで、その鍵はお客様方にはお渡ししてありません。然し盗まれた鍵束の中にはその鍵ももちろんありました」

「あの隣室はどなたでしたか?」と、カングリ警部は各人の部屋の位置をしるしてもらった図面をひろげて、

「ああ、丹後弓彦さん。作品はかねて雑誌で拝読致しております。昨夜は何か隣室に変った物音をおききになりませんでしたか」

「毎晩変った物音ばかりきかされてますから、一々気にかけちゃいられませんさ。王仁が死んで、今晩から安眠できるだろうな。愛慾の音と殺人の音と、いったい、どこかに区別がありますか」

 食事が終ってドヤドヤ隣の広間へ流れて行く波の中で、八丁鼻がだしぬけに、あやかさんに呼びかけた。

「もしもし、奥さん。失礼ですが、そのスリッパは」

「はア、なんでしょう、このパントウッフル」

「パントウ、はア、なるほど、スリッパじゃアない、お靴ですな。そのお靴はいつもはいていらっしゃいますか」

「ずいぶん悪趣味だと仰言るのでしょう。皆さんにカラカワれるのよ。でも、こんなオモチャみたいな華やかなのが好きなんですもの。外に七足ほど似たような悪趣味な部屋靴があるわ。その日の気分で、あれをはいたり、これをはいたり」

「みんな鈴がついてるのですか」

「鈴のついてるのは、これだけ」

「昨日もそれをおはきでしたか」

「昨日。昨日ね。そう。昨日もはきました。でも、外のも、はきましたわ。なぜですの」

「鈴がひとつとれていますが、いつなくなったか、覚えていらっしゃいませんか」

「そう。この鈴がひとつね。今朝、はくときに気がついたのよ。とんだり、駈けたり、つまずいたり、私はチョコチョコしてるから、でも、このパントウッフルは、私は特別に好きなのよ。可愛いいのよ。ねえ、そうでしょう。そう思うでしょう」

「ハア、いや、まったく。我々はどうも、我々の町じゃア見かけたことがないもんで」

 警官たちが引きあげたあとで、我々は又、酒をのんだ。あまり酒好きでないモクベエが深酒をして、押しだまっていたが、宇津木秋子も飲めないビールを時々一息にのみほしていた。

「僕たちはここへ来る以前から、すでに夫婦ではなかったようなものだが」

 と、モクベエは低い声で言いだした。不馴れな深酒で、青ざめ、目が気違いじみている。然し弱気の彼は秋子さんを見ることができず、あべこべの方角に視線を向けて、

「然し、ともかく、同じ屋根の下で、ほかの男とたわむれる、これは品性の問題じゃないか。歌川と別れて僕と一緒になった。それを僕はひけめに覚えていなかったのに、今になって、それがはずかしくなった。あれにかかると、我々自身が犬になるんだ。犬の恥辱を感じるのだ。ところが御当人は全然人間のつもりだから、笑わせるよ」

 秋子さんは黙っていた。するとピカ一が口をだして、

「今どきハムレットもどきのセリフまわしは止そうじゃないか。ここで出来て、ここで別れりゃ、因果テキメン、首尾一貫してらア。おめでたい話じゃないか」

「だまれ、無頼漢。貴様は貴様の友達にだけ話しかけろ。ここには貴様の友達はおらん」

「何が無頼漢だ。昔の女房を犬呼ばわり、紳士面が呆れらア。元々オレは男友達は嫌いのたちだよ。宇津木さんはさすがだな。女を犬よばわりのハムレットはないからな。女を犬とよぶからにはライオンぐらいの精神力を持つがいいや。思想と生活のトンチンカンなこんな奴が外国文学の紹介なんかしているから、日本はいつまでも田舎なんだよ。ねえ、宇津木さん、そうでしょう。我々はお友達になりましょう。第一、こんな奴と一緒に暮してたんじゃ、いつまでたっても本当の男を描くことができませんよ。我々は本日をもって我々の記念日たらしめようではありませんか」

「あなたのお幾つ目の記念日?」

「それは、あなた、カトリックの暦をくってごらんなさい。記念日ならざる日はなし、ですよ。我々も亦天主教にならって三百六十五日、すべて記念日たらしめなければならぬ」ピカ一は遠慮なく立上って秋子さんの手をとったが、秋子さんは退いて、

「あなたもお人の悪い方。殺人事件の犯人容疑者をからかうなんて」

「アレ、古風なことを言うお方だなア。王仁ついとうに我々の接吻をささげるとは、神聖にして純粋なる志というものでさ。せいせいてんは人生の真相だから、恋人の殺された当日から生々流転。これでなくちゃア」

「私は今夜は頭痛がするわ」秋子さんは振向いて、立ち去ろうとする、ピカ一が後を追おうとすると、いくつかのゴルフボールがとんできて、頭へ一つ、つづいて一つ肩へ当った。ゴルフボールはさっきからあやか夫人がお手玉にして遊んでいたのだから、ピカ一がふりむくと、あやかさんは素知らぬふり、椅子にもたれてアラヌ方を見ている。

「この野郎」

 ピカ一はあやかさんに飛びかかり、首をしめて椅子ごと押し倒すところであったが、私が立ち上る、同時に人見小六がビールのあきびんを握って立上った。私がピカ一を突きとばす、人見小六の見幕が物凄い、彼は昔は左翼の闘士で喧嘩名人の噂の高い男だ。私は然し更にそれ以上に安心なのは巨勢博士がいるからで、彼は学生時代からヨタ者の十人ぐらいを相手にしてタッタ一人で血の雨をふらしてヒケをとらない裏街の顔役でもあったのである。博士は我々の喧嘩の方は目もくれずニヤニヤ酒をたのしんでいるが、イザとなれば加勢にくると思っているから、私も大いに気が強いのである。

「チェッ。ナイトぶりやがる。ヨーロッパなみに決闘を申込むなら、一人ずつ、相手になってやる。かたまらなきゃ、何も出来やしねえだろう。バカめ」ピカ一はテーブルの上のビールを二本栓をあけて、一本ずつ両手につかんで、ラッパのみしながら、庭の方へ出て行った。

「一度のす必要がありますな。ぐるりと囲んで鉄拳制裁は如何いかがですか」

 神山東洋が言った。彼等夫妻はたいがい使用人の溜りへ遊びに行ってそっちで喋りまくっているそうだが、我々の一座へまじると、殆ど口をだすことがなかった。

「君は腕ッ節が強そうだな。ギャングが商売じゃないの?」

 とセムシ詩人、遠慮のない直感をアッサリのべる。然し彼は常にニコニコ、悪意がないから、誰も腹を立てないのである。

「恐れ入りましたな。そんな風に見えますか。これで実は、気も弱く、腕ッ節も全然見かけ倒しなんですよ」

「僕みたいに御婦人のために鉄拳をふるう実力がなくちゃ、恋愛の資格もないのだろうな。時代は益々麗人のために、鉄拳の用意が必要らしいや。どうだい、モクベエ、フランスにもセムシの剣客というのは、ないかい?」

「内海さんは私のために、詩集を作って下さるのよ。心病める醜婦のために、という題なんですってさ。いいでしょう。うんと私を讃美するのよ。そうすれば鉄拳の必要はいらないのですもの。からかわれたことがないのですから。その代り、私も陽気なセムシを讃美礼讃してあげるわね」

 と千草さんが言った。私はどうもこの、醜いお嬢さんが好きになれない。心がひねくれているのである。率直正直のようで、実は言ってることがみんなアベコベで、自分のことを醜婦と言うが、内々はウヌボレがあり、自ら醜婦と称するだけ、卑屈にひねくれているのである。

「心病めるだけ余計だよ。僕のは、ただ、醜婦のために歌えるというのさ」

「あら、柄になくテレるわね。二人の時は色んなことを仰言るくせに」

「醜婦がおとこを口説いちゃだめだよ。醜婦は美男のために人知れず胸をこがし、醜男は美女のためにもんするところがネウチなんだよ。僕にくらべりゃ、シラノなんぞは醜男のうちじゃないのだからな。詩も僕よりは巧そうだ。僕には取柄がないな」

 内海は両手で頭をかかえた。彼の指は細く長く、節くれていた。両手で頭をかかえると、両手の中に顔全体がおさまるぐらい、彼の顔は小さかった。セムシ詩人は立上った。

「どれ、僕はひきあげて、今夜は詩でも作るかな。醜婦のために」

「待ちなさい。ちょっと散歩しましょうよ。いや? 厭じゃないでしょう」

「決して希望はしていないね」

「こっちの庭はダメ。ピカ一さんがどこかでビールをラッパのみにしている筈だから。こっちの方から、ブナのもりへでましょうよ」

 と、千草さんは戸棚のヒキダシから懐中電燈をとりだして、高飛車にセムシ詩人をうながして食堂の出入口から外へ消えた。

「イヤらしい」珠緒さんが吐きすてるようにつぶやいた。

「なかなか可憐じゃないですか」

 と、神山東洋。彼でなければ、不快な意味が目に見えているこんな時に、言葉をさしはさむ者はない。

「あれが可憐というの? 可憐とは、どういう意味のことなのよ。千草さんは美人なみに、男をあやつッてみたいのよ。セムシ詩人なら、あやつれるというツモリでしょう。あれで女王のつもりなのだから。なんてまア汚らしい。じやくの羽をつけた鳥だって、まだ、ましだわね」

 女という人種は意地の悪い観察にかけては天才なのである。美しいものよりも、汚らしいものの方がはるかにハッキリ目につくものらしい。珠緒さんは先刻から相当酒をのんでいる。それも今日は不機嫌に、押しだまってグイグイあおっていたから、相当目つきも変っていた。

「今日はウンと飲んでやるわ」

「もう止しなさいな、珠緒さん。あとで、吐いたり、苦しむから」

 と、あやかさんが言う。胡蝶さんも口を添えて、

「本当よ、珠緒さん。そんなに飲んじゃ、毒だわ。もうよしなさいね」

「ええ、でもよ。もう、ちょッとだけ、飲まして。だって、私ね。こうして、黙って飲んでいるとね、幻が見えてくるのよ。王仁さんが殺されている幻が。ハッキリとよ。一人の女の人が短刀をふり下すときの表情まで、実にありありと見えるのよ。たしかに鬼の顔よ。ヤキモチの鬼の顔」

「よしましょう、そんな話。今日はもう、やすみましょう」

「ええ、ごめんなさい」

 珠緒さんはあやかさんの手をとって、やがて、シクシク泣きだした。このアニヨメと珠緒さんは気持がシックリいくらしいが、秋子さんがアニヨメのころは事々に衝突、そのころから犬猿の仲であった。

 泣きだした珠緒さんを抱くようにして、あやかさんが連れ去る。十分ほどして戻ってくると、追っかけて女中がやってきて、

「奥様、お嬢さまはゲロはいて、苦しみなすっていますが、海老塚さまに」海老塚はムッと顔をあげて、

「バカな。ヨッパライの介抱に医学者が往診するなんて、女王様だってありゃせん。さがれ」凄い見幕だった。

「琴路さんに願いなさい」

「ハイ」

 琴路というのは看護婦の名だ。三十分程して再び女中がきて、お嬢さまはスヤスヤおやすみになりました、と報告した。そのとき、十時五分。そこへピカ一が戻ってきたから、それをキッカケに、さア、寝ようぜ、とみんな立ち上る。

「なんだい、俺が来たからって、逃げなくともよかろう。さア、行った、行った。オレは静かに一人で傾ける。あつらえ向きだな」

 それを聞きすてて私たちは各々の部屋へひきあげたが、するとセト物だか酒瓶だか荒々しく割れる音がする、扉をあけて下の気配をうかがうと、あやかさんが血相変えて逃げてきた。

「どうしたのですか?」

「ええ、アイツ私があと片づけしていたら、いきなり」

 立ちどまって、フラフラして、気をとり直して自分の部屋へスタスタ廊下を走って行った。そのとき、部屋靴の鈴の音が耳についた。私は八丁鼻刑事の言葉を思いだして、なんとなく不安になった。

 私は巨勢博士の部屋を叩いた。

「どうだい。目星はついたかい?」

「買いかぶっちゃいけませんよ。ホルムズ先生じゃあるまいし。全然五里霧中ですよ。ボクは第一ここのウチは、犯罪よりもエロチシズムのげきの方が強すぎますよ。こっちの刺戟と争う方が精一杯でして、東京のアノコの面影を思いだしては気絶をくいとめているようなものでさ」

「ところで、もしや、王仁の殺された現場に、あやか夫人のパントウッフルの鈴が一つ落ちてたんじゃないか」

「御察しの通り、ベッドの下に」

「やれやれ。何たることだ。あやかさんが第一の容疑者か」

「まさか。猫だって、鈴をぶらさげてねずみをとりに行きませんよ。ところで、この図面ですが、皆様方のお部屋の配置、これは誰の意志ですか。内海さんだけ、階下にいるのは?」

「さて、ネ。それは僕には分らない。一馬にきいてみようじゃないか」

 私たちは一馬の部屋へ行った。あやか夫人が着代えをしているというので、ちょっと外で待たされた。

「さア、どうぞ。あやかは昨夜から、僕のところへ泊りこみさ。土居光一が現れ、おぞをふるっているわけさ」

「だって普通じゃないのですもの。誰かが何か企らんでいるのがハッキリしているのですもの。今日の事件も企みの一部としたら、いったい、お母様の命日に、何が起るのでしょうか。誰かが鍵を持ってるなんて、ねえ、あなた、ドアをひもでゆわえて。いえ、ハリガネでなきゃ」

「それほど神経質になる事はないよ。巨勢君も来てくれたことだから、犯人の寿命も、長くはなかろうよ」

「巨勢博士が、客人の部屋の配置について、誰の意志が働いたか、知りたいそうだが。内海だけが階下にいるわけは?」

「内海の場合は内海の意志でね。階段の上下が疲れるから、というのだよ。それに便所もすぐ近いから。その外の方々は別に特にどうということもなく、僕が当てズッポウにきめたようなものだが、土居光一だけ、同じ二階に泊めるのはいやだとあやかが言うから、二階にまだ空室もあるけれども、下の日本間へ部屋をあてがったというわけさ」

「私たち、お客様のない時でしたら、この洋館は使わないのよ。母屋の裏屋敷、珠緒さんが寝室に使ってらっしゃるお部屋の二階に当る三間が私たちのお部屋なんです」

「神山東洋という方は、お宅と利害関係がありますか」

 一馬はしばらくためらっていたが、語りだした。

「神山は以前父の秘書だったが、その後、秘書をやめてからも、出入りをつづけているのだけれども、父が弱みを握られていて、たぶんユスラレてるのじゃないかと想像できるだけ、父にきいても、深い事情はきかせてくれないから知らないのです。昨年死んだ母が、神山を毛虫のように厭がっていました。嫌い方が尋常一様のものじゃないので、もしや母についての秘密じゃないかと思ったこともあったけれども、みんな僕の想像で、ともかく僕の親父は相当に策略的な政治生活をやっていたから、ユスリの種は相当あるのが当然で、子供の僕が、それをたって訊きただすわけにも行かないから、きいてみたこともなかったのです」

「時々やってくるのですか」

「年に四、五回はくるでしょう。昔父のあいしようだった今の細君、昔は新橋の芸者でしたがね。いつもそれをつれて堂々とやってきて、我家同然数日泊って行くのですよ。そういえば、昨年母がなくなる二、三日前にもやってきて、偶然臨終にぶつかったのですが、死ぬ前の日、病床の母と人を遠ざけて言い争っていたという事もきいております。だからユスリの種は父だけじゃなしに、母を通して父、そんな風な事もあるのじゃないかと想像した事もあるのですが、これも単に僕だけの想像なんです」

 私はあやか夫人のパジャマが、あんまり華麗なので呆気にとられていた。それは最も手のこんだ衣裳の一つで、支那服に酉洋風な加工をほどこしたような、そして色彩の組合せに微妙な技巧が施されていた。

「奥さんはネマキの方が晴着じゃありませんか」

 と、私がひとつひやかしてやると、一馬が苦笑して、

「こんな晴着みたいなネマキばかり十四、五着はあるだろう。来年の今ごろは何十着になることやら。同じネマキを二晩つづけて着るのが残念だというので、今もブツブツ土居光一を呪いながら着代えていたところなんだよ。この部屋には自分の着物が置いてないから。朝昼晩、きまって着物を着かえる。髪の形を変える。首飾りをつけかえる。根気のよいのに、驚くばかりだよ」

 あやかさんは幽かに笑っているばかりで、返事をしなかった。どのような表現によって話題にされても、要するに極愛せられていることを確信しているのだろう。この人の愛情はどんなに可愛いいだろうか。それは全く夜のために生れた女のようなものだ。あやかさんは殺人犯人を怖れているが、然し実際はそんなことはさしたることではない筈なのだ。ただ可愛く、美しく、先天的にそれだけしか思いめぐらす本能がないようなものだ。

 私が自室へ戻ると、京子がいくらかムッとした顔付で、

「今、旦那様の小間使がきて、あした朝食のあとで二人にきて下さいって。出向いて行きたいけれど、おからだが、いけないんですって」

 たのしい報せじゃない。歌川多門はカゼをひいたところへビールをのみすぎてオナカをこわして、ちょうど私達が来た日の朝から寝ていたのである。政界からも引退して、毎日ただ、村の碁打を迎えて碁を打っており、退屈しているから、洋館のばんさんには時々出席していたそうであるが、私たちはまだその顔を見ないので、多門の病気がいっそ我々の滞在中つづいてくれればいいが、などと内々願っていたほどであった。

「下枝さんて小間使の方はとても可愛いい娘よ。十八ですって。琴路さんとうまく行ってるのかしら」

「もう止してくれ。人間どものつながりの話は、もう、たくさんだ」

 私もいささか酒がすぎて疲れていた。そして、すぐ眠ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る