恋に事件はいりません
羊ヶ丘鈴音
回想:あの日を今でも夢に見る
私の『好き』は人と違う。
それに気付いたのは中学二年生、好きだった女の子から告白された時だった。
長い髪をくしゅっと丸めて、笑う時はいつだって控えめ、澄んだ声はとても綺麗なのに今にも消え入りそうなくらい小声で喋る。
その声を少しでも聞きたくて、ちょっとでも大袈裟に笑ってほしくて、暇を見つけては話しかけていた。
といっても、みんながいる教室で話しかけても遠慮がちにしか応えてくれない。
それで移動教室の合間とか、一人で帰ることになった放課後とか、周りの目がない時を選んだ。
思い返せばストーカーのそれなんだけど、当時の私はそれが気遣いだと思っていたし、幸いにして相手も憎からず思ってくれていたらしい。
中二の冬。
そうだ、あれはバレンタインの日だった。
毎年決まって作るチョコレートを仲の良いクラスメイトに渡して、女子力高いよなと笑われる。何食わぬ顔で受け取り、一緒になって笑っている幼馴染の
ともかく、そんな特別ではあれ日常の一部だった日に、それは起きた。
幼稚園からの付き合いで、家も近い幼馴染の涼。
いつも一緒に帰る彼が珍しく何も言わずにふらりと消えたから、そういうことかと思った。涼はモテる。私には隠しているつもりで、これっぽっちも隠せていない。私も鼻が高かった。
どうだ、すごいだろう、うちの涼は。
誰にともなく自慢げに思いながら、同時に微かな寂しさも自覚はしていた。
涼が誰かの彼氏になることが寂しいのではない。今日の帰り道は一人なのか、それとも恋路の行方を昇降口で一人待たなければいけないのか、そう考える時間が堪らなく寂しかった。
そうこうしていたら、彼女が現れたのだ。
どこか気を落としたような顔で下駄箱の前まで来て、私を見てはっと目を見張る。
「えっ、あれっ、帰ったんじゃ……」
ぱくぱくと言葉以上に口を動かしながら声を上げる彼女に、なんと答えるか少し悩んだ。ほんの少しだ。隠すようなことでもない。
「涼が来なくてね。ほら、今日アレじゃん?」
「あ……えっと、そうなんだ。それで、
「どうしようかなって。待ってても暇だし。それに、もし涼が女の子連れてきたら、僕は邪魔なわけじゃん?」
微笑とともに吐き出した言葉を思い返す度、胸がチクリと痛む。
あの頃の『僕』は弱かった。
嘘をつくのは悪いことだと、教えられるがままに信じていたのだ。
「そっ」
そんな『僕』の、その時の心中はよく覚えていない。
彼女の、あの緊張で真っ白になってしまった顔だけを覚えている。
「それならっ! 私と、えと、一緒に帰りませんか!」
珍しく張り上げた声。
それに彼女自身が誰より驚いて、耳まで真っ赤にしていて、あぁ可愛いなぁと微笑んでしまったのを覚えている。
その微笑がどう受け取られるのか、『僕』にはまるで想像もできなかったのだ。
「いいね、一人は寂しいと思ってたんだよ」
「あっ、うん、……うんっ!」
そうして二人、冬の寒い放課後を歩いた。
雪でも舞っていれば風情があったんだろうけど、そんなに降る地域ではない。寒さ以外の何一つ冬らしさがないまま、私たちの放課後は進んでいく。
彼女は何か言いたげだった。
何度か口を開こうと力む気配を覗かせては、また萎むように歩幅まで狭くなる。いつものことだ。見慣れた光景に微笑ましく思う。
だけど、その日は少し違った。
いつもなら私から話を切り出していたのに、その時だけは彼女が一度萎んでしまった勇気を再び振り絞り、足を止めて声を上げたのだ。
「あ、あのっ!」
いきなりのことに驚いた。
なんだろう、初めて見る顔だ。そんな風に考えていたから返す言葉を見つけられず、その後に何が待っているのかなんて想像する暇もなかった。
「ちょっと、ちょっとだけでいいから、寄り道しませんかっ」
帰路も残り半分ほど。
私と彼女の家は離れていて、そろそろ別々の道に分かれることになる。
「寄り道なんて初めてだね」
「……ダメ、かな」
「そんなわけないじゃん。ほら、暇だしね」
笑って付近の地図を脳内から引っ張り出、そうとして失敗。
涼なら地図なんて一回見たら覚えられるんだろうけど、なんなら地図を見なくても一度歩けば頭に入るんだろうけど、私には無理だ。昔からそうだった。私は勉強ができない。物覚えが悪い。
代わりに、涼がいた。
「でも、この辺りって寄り道するところなんてあったっけ?」
ひどい話もあったものだ。
彼女を前にして、私はその時、涼のことを考えていたのだから。
「え、えっと、近くに! すぐ近くに公園? みたいなのがあって……」
「へぇ。初めて知った。ずっと住んでるのに」
「あ、暗いし、狭いから、私が小学生の時は行っちゃダメって言われてて」
「そうなんだ。じゃあ涼が教えなかったんだな」
「そうなのかな? 小学校も一緒だったんだっけ?」
「幼稚園から。家も近いし」
「幼馴染なんだね」
「そうだね」
なんでもない会話には花が咲いた。
沈黙を嫌うように喋りながら、いつもは遅れがちな彼女の足取りを、その時ばかりは私が追って歩く。公園はすぐ近くにあった。閑静というより、物寂しい公園。
冬を、より強く感じる。
「静かだね」
呟いた声はどこまでも漂っていくようだった。
声は返されない。
異変を察し、彼女を見やった。きゅっと結んだ唇、必死に見つめてくる瞳。その時になっても私は、やっぱり好きだなぁ、なんて呑気に思っていた。
「じっ実は!」
ただの相槌でも、間に挟めば萎んでしまうと感じ取る。
「今日、学校で、本当は、渡そうと」
切れ切れの言葉。
順番も少しおかしい。
彼女もそれに気付いて、顔を真っ赤に染め上げた。
「うん」
助け舟のつもりで声を返す。
それが引導になるとも知らずに。
「ゔぁっ!」
「……?」
「う……。バレンタイン、じゃないですか、今日は」
「あー、そうだね。そうだ。うん」
ヴァレンタイン。
なんともネイティブっぽい発音になりかけたのか。彼女は涙目だ。ううぅ、と今にも泣き出しそうな顔は可愛くて、愛おしくて、ずっと見ていたかった。
「それでチョコ、作ってきたの」
「え、すごい」
「あっ、でも志雪君ほど上手くはなくて、だから」
「あぁアレ、ほとんど涼が作ってるから。僕は料理できないんだよね」
笑いながら言うと、彼女は鳩が豆鉄砲を食ったように目を見開く。
「えっ、そうなの?」
「どうして嬉しそうなの?」
「あ、いや、そんなことないですよ! ほんとですよ!」
「図星かぁ」
私が笑う。
彼女も笑う。
雰囲気は良かった。
笑ったお陰か、冬の寒さも遠のいて。
幸せな一日だと、その瞬間までは信じていた。
「私のチョコ、……あの、受け取ってくれますか?」
どういう意味だろう。知らない日本語だった。受け取ってくれますか? 贈り物を突っぱねるなんて、それこそ――。
そこまで考えてようやく、私は気付いたのだった。
既に、手遅れになってしまった後で。
「好きです、志雪君のこと。私と、お付き合いしてください!」
ぎゅっと強く握り締めたせいで、チョコのラッピングはくしゃくしゃになってしまっている。
そんなことにも気付かず、彼女は『僕』にチョコを差し向けていた。
受け取るか、微笑で返すか。
そんなことさえ、考えられなかった。
だって『僕』は彼女のことが好きだった。
くしゅっと丸められた長い髪。
控えめに笑った時の表情。
無自覚に澄んだ声。
どれも大好きで、だから『僕』もそうなりたかった。それだけ、だったのだ。
意識が、曖昧に溶けていく。
涙に歪んだ表情を思い出したくない。
折角の可愛い顔が台無しだと、そんな風に思った自分を忘れたい。
あの時、私は知った。
私の『好き』は人と違う。
否。
私が『好き』だと思っていた感情は、それとは別物だった。
じゃあ、私の『好き』はどこ?
巡る思いが気付かせる。
その日の夜、初恋をした。
胸に抱いてから十年以上が過ぎていたけれど、ずっと消えることなく燃え続けていた恋心を自覚した。
夢から覚める。
そう、これは夢。
月に一度か二度、この夢を見る。
そして朝、目が覚めてから笑うべきか泣くべきか困るのだ。
一人の少女の、ありったけの勇気を踏み台にして、私は嘘つきになれた。
それが私の唯一の道なのだから、いつかどこかで、誰かを踏みにじって笑うしかなかったのだ。彼女には申し訳なく思う。
けれど、それ以上に。
『ありがとう』
思い出したくない、私自身のいつかの言葉。
『けど、ごめん。僕は女の子を好きにはなれない』
精一杯の嘘だった。
私は女の子が好きだ。
人前でスカートを穿いて、伸ばした髪を結んで、からからと高い声で笑う彼女たちが好きだ。とても可愛らしくて、だから羨ましくなる。
私も女の子に生まれたかった。
女の子なら誰しも全員が可愛くなれるだなんて、そんな幻想は抱かない。
それでも可能性はあったのに、と妬ましく思ってしまう。
少女の涙を、忘れはしない。
その誓いがきっと、私に何度も夢を見せる。
さぁ、朝だ。
泡と消えるいつかの『僕』を置き去りにして、私はまた浮上する。
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