横禍負うか桜花追うか逢花謳歌

十余一

一、横禍負うか桜花追うか

 館花屋たちばなや嘉兵衛かへえじいさんの話を知ってるかい。

 館花屋と言えば、安房国あわのくにで一等有名な料理茶屋だ。床机しょうぎに腰掛け、煮穴子と茹で蛸で軽く一杯やるもよし。二階座敷に上がって、鯛の刺身と天ぷらに舌鼓を打つも良し。風光明媚な内海に臨み、天気が良けりゃあ富士山も拝める。その上、見事な桜の大木まであるときた。まったく良い所に店を構えたもんだよ。


 嘉兵衛じいさんはこれを一代で築き上げたんだから大したもんだろう。でもね、若いころは相当な苦労をしたらしい。それこそ、首を括っちまおうと考えたこともあったんだとか。なに、退屈はさせねぇから、少しばかり聞いていきなよ。





 柔らかな日差しに春を感じる睦月のある日、嘉兵衛は荒縄を手に、覚悟を決めた顔をしていた。丘の上に立つ桜の木に縄を引っかけて、首を吊ろうというのだ。


「こんな麗らかな日に首を括ろうだなんて、穏やかじゃあないね」


 声を掛けてきたのは見知らぬ男。長春色の中着に桃色の小袖、どちらも市松模様に染め抜かれている。衿元から覗く幾重にも重なった市松模様は華やかだ。それらを纏め上げるのは黒地に朱の源氏車が描かれた帯。そして煌びやかな刺繍が施された薄緑の長羽織を着ていた。なんとも派手な装いだが、それが似合う美丈夫だった。


 嘉兵衛は、話しかけられるその瞬間まで男の存在に気付かなかった。いつの間に、あるいは最初からこの場に居たのか。そんなことに気付けないほど思い詰め、視野が狭くなっていたのだろうか。そう思案する嘉兵衛を余所に、男は続けて口を開く。


「見なよ、この美しい景色を。穏やかな内海にの光が反射して綺麗だろう。菜の花だってこんなに咲き誇ってる。この花でアンタの最期を飾ってやってもいいけどね、まあ、その前に、ちっとばかし話を聞かせてくんなよ」


 これから死のうというのに海だの花だのに目を向ける余裕なんて無かった。けれども、言われてみれば確かに眩しく美しい光景が広がっている。嘉兵衛はここに至るまでの経緯を、ぽつりぽつりと零し始めた。

 農家の次男として生まれたこと、田畑を継げない自分は丁稚奉公に出されたこと。奉公の末に独立したものの商売は思うようにいかず、更には番頭が金を持ち逃げし行方をくらましたこと。そうして最期の地を求めてここに辿り着いたこと。


「もうしまいだよ……」

「終い? そりゃあ良い!」


「良いもんか!」と声を荒げる嘉兵衛に、男は尚も飄々ひょうひょうと答える。


「終わっちまったってことは、また始められるってことさ。良かったなぁ、まだまだ人生を楽しめるぞ」


 楽しげにのたまう男に馬鹿々々しくなった嘉兵衛はゴロリと地面に寝転がる。そよぐ風と流れる白雲。悩みは一つも解決していない。だが、春のような陽気に、次第に瞼が重くなってくる。


じきに水仙の花が咲く。その次はいよいよ、この桜の番だ」


 と言う男に、嘉兵衛はうつらうつらとしながら「随分と早いね」と返す。


「早咲きなんだ。だから、せめて桜が咲くまで踏ん張ってみなよ。生きて、この桜を見に来な」


 薄ぼんやりとした意識の中で、嘉兵衛はそんな花見の誘いを聞いたような気がした。次に目を覚ましたときには、茜色の空に鴉の鳴き声が響く。嘉兵衛の隣に、男の姿は無かった。


 夢かうつつか。不思議な出会いを経た嘉兵衛は、男の言う通り再起を図り、我武者羅がむしゃらに働いた。人間死ぬ気で頑張れば、意外と死なぬもので、嘉兵衛の店はなんとか持ち直す。



 そうして丘の桜が咲く如月のある日、嘉兵衛と男は再会した。


染井吉野そめいよしのよりいくらか濃いが、寒緋桜かんひざくらより幾分淡い。良い塩梅だろ。あのとき首を括っていたら、アンタの血を吸い上げてこの桜はもっと紅く染まっていただろうね。な、あのとき死ななくて良かったろ」


 満開の桜の根元で、男は華やぐ笑顔を浮かべる。晴れ渡る青空に、透ける桃色の花弁。金の刺繍が施された長羽織をひるがえす美丈夫。なんと絵になることだろう。


「ああ、こんなに見事な桜を拝めたんだ。生きた甲斐があったね」

「そうだろう、そうだろう」


 穏やかな笑みを浮かべて応える嘉兵衛に、男の笑顔はより一層咲き誇る。まるで自分が褒められたかのような喜びようだ。


「あんたは俺の命の恩人だ。そういえば、まだ名前を聞いていなかったね。聞いてもいいかい」


 嘉兵衛の問いに男は「ううむ」と悩み、「じゃあ……、頼朝!」と答える。「頼朝?」と、そっくりそのまま聞き返してしまった嘉兵衛に、男は得意げに続けた。


「石橋山で敗れて、この房州ぼうしゅうを通って再起した将軍さまと同じ名だ。どんな苦境からでも返り咲ける、とても強くて良い名だろう」


 頼朝だなんて、そんな武家のような立派な名を持つ風貌には見えない。太刀をいていなければ、袴も履いていない。けれども嘉兵衛には、何故だかその名が相応しいように思えた。己を導き、立ち直らせてくれた恩人の名だ。さしずめ自分は、鎌倉に向かう頼朝の元にせ参じた武将だろうか。


「頼朝公、御助言を賜り恐悦至極きょうえつしごくに存じます」


 姿勢を正し堅い言葉で礼を言う嘉兵衛に、男は少したじろいでしまう。


「何だい、改まり過ぎじゃあないか。それに、礼を言うのはこっちのほうだ。どんなに綺麗に咲いたところで、見てくれる人がいなきゃ寂しいんだ。オレはね、こうしてアンタと花見が出来て嬉しいよ」


 桜の幹を撫でながら心底嬉しそうに言い放つ。嘉兵衛は空を埋め尽くすように咲いている桜を見上げた。この美しい桜が、人知れず咲いていることに口惜しさすら覚えた。この花を見ずに終える人生の、なんと勿体ないことか。そう思うと、自然と算段が口をいていた。


「ここに茶屋でも建てたら、きっと繁盛するだろうな。そうしたら、この見事な桜をもっと見てもらえる」

「いいなあ、それ。賑やかで楽しそうだ!」


 桜の根元に立つ美丈夫の顔に、再び笑顔が咲いた。





 そうして出来たのが、この桜に寄り添う館花屋よ。どうだい、花見の肴になっただろう。

 嘉兵衛じいさんはもう息子に店を譲って隠居したが、今でも頼朝公と交流があるらしい。でも聞いた話じゃな、その頼朝公とやら、じいさんとそう年は変わらないはずなのにちっとも老けてないらしいんだ。じいさん、あやかしにでも化かされてたりしてな。




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