敏彦が場所はいつも静かだ。

 彼を見ると皆、一瞬言葉を失う。

 その後の行動は様々で、どうにか関心を惹きたくて話しかける者、ただただ圧倒されたままの者などもいる。しかし、最初の反応は一様に沈黙だ。三好も初めて視界に入れた時は何一つ言葉が出てこなかった。

 国が変われどそれは変わらない。あらゆる人種、性別、年齢の人間がただ敏彦のことを目で追っていた。

「久しぶり」

 全人類の理想を集めたような笑顔で敏彦は言う。

 よくもまあ、何年も、隠せていたものだと思う。自分は学術に置いて天才だが、演技においても天才かもしれない、と。

 少なくとも半年前まで、三好は敏彦を騙せていたのだ。単に面倒見の良い先輩として接していると思わせていられた。

 あの日——敏彦が今にも倒れそうな様子で家に上がってきたとき、演技ができなくなった。自らの技能を餌にして、強引に体の関係を持った。三時間、ほんの一瞬だった。何より辛かったのは、そんなことをしても、彼が全く翳らなかったことだ。

 思い返すと惨めで情けなくて、しかし死にたくはならない。ほんの一瞬でも手の中にあの美しい宝石があったという記憶が、暗い感情を塗り潰す。

「うん、久しぶりだな」

 そう言って手を振る。

 敏彦はゆっくり近付いてきて、三好の手を取った。

 そしてそれを下に降ろし、ぷらぷらと揺する。

「なに……を……」

「いや、大きいなと思っただけ。アメリカに来て、さらに大きくなったんじゃないの」

 食べるものってそんなに急激に影響を与えるんだろうか、でもメジャーリーガーの日本人も急に大きくなるしな、そんなことをブツブツと敏彦は呟いている。三好はとても冷静ではいられず、手を振りほどく。

「とりあえず、食事だな」

「あ、俺、個室じゃないと、外で食事できない」

「知ってる。いつも個室だったろ」

 東京にいた頃、何回か一緒に食事をした。いつも個室を予約したのは三好だ。そうでもしないと、客は全員敏彦のことを見つめるのに夢中になり、食事どころではなくなってしまうからだ。誇張でも何でもない。異常な美しさとはそういうものだ。

「外部に聞かれたくない話もある。大体の人間は日本語なんて分からないだろうけど……まあ、だから、家に」

「うん、分かった。どんなとこに住んでるか楽しみだ」

 なんの警戒心も見せずに敏彦は呟く。ああ、本当に、何も残せていないのだ、と三好は思う。

 敏彦のリクエストである『思いっきりアメリカっぽい食べ物』を受けて、肉厚のチーズバーガーとこぼれんばかりに身が盛られたロブスターサンドを買う。三好は体を資本だと思っているし、この国の人間はアジア人を下に観る傾向がある。舐められないために、筋肉質な体を維持しなければいけなかったから、普段このようなものは絶対に買わないし口にしない。

 しかし、買ってよかった、と思う。

 敏彦はソースを口の周りにつけて、ぱくぱくと食べている。小さな顎が限界まで使われている様子は、

「かわいい」

 思わず口に出してしまう。

 敏彦は一瞬咀嚼するのをやめて、顔を絶妙な角度に傾けた。

「よく言われる……と言いたいところだけど、最近はあんまりないな。綺麗はよく言われる。小さい頃、かわいいかわいいってずっと言われるから、自分の本当の名前が『かわいい』で、家で呼ばれる用の名前が『敏彦』で、二つあるんだと思ってた」

 三好はしばし敏彦を見つめる。何を言っているのかよく分からなかった。敏彦は三好の様子など気にもしないで、

「食べないの?」

「俺はそういうの、食べないようにしてるから」

「そうか。確かに。当然食べ物にも気を遣ってるよね。腹筋とか大胸筋とかすごかったもんなあ」

 俺も鍛えた方がいいかも、と言いながら、敏彦はまた咀嚼に戻る。

 気が狂う。

 敏彦を呼び寄せたのは間違いだったかもしれないと思う。

 何も気にしていないような、何も覚えていないような素振りでいて、そうではない。

 三好にはやはり敏彦のことは何も分からない。分からないことは恐ろしいことだった。

 ゆうに三人前以上あった——三好はてっきり、数回に分けて食べるものだと思っていた食料をすっかり食べきって、敏彦は満足げに口の周りを拭いている。お手本のような形の唇からトマトソースが拭い去られるのをじっと見てしまう。

「で、そろそろ、話が聞きたい」

「あ、ああ……」

 敏彦といると、敏彦以外のことが考えられなくなる。敏彦に無理矢理関係を迫った日。まったく歯牙にもかけられなかったあの日、三好は縋るように、『アメリカで一緒に暮らしてくれ』と懇願した。勿論すげなく断られたのだが、万が一にも一緒に暮らすなどということがあれば、三好のキャリアは台無しになっていただろう。

 三好は意識的に敏彦から視線を外して話した。

 三好の開発した技術というのは分かりやすく言えば強烈に精度の高い個人特定システムだ。唾液、毛髪など、わずかな痕跡から、ほぼ完璧に個人の姿を再現できる。この技術を買われて、連邦捜査局にスカウトされ、渡米したのだ。

 新しく持ち込まれた依頼は、東海岸で州を跨いで起こった殺人事件だ。

 いつものように加害者を特定するのかと思った三好に送られてきたのは、バージニア州で見つかった被害者の指だった。

「ああ、被害者の身元も不明っていう」

「そうだな。それで、依頼通り、特定した」

「何かおかしい? 俺の好きそうな話って、グロ方面? 俺オカルトは好きだけどグロはそんなに」

「違う」

 三好はモニターを立ち上げ、敏彦に向けた。

「ジル・セント・ヘンダーソン。二十五歳。犯罪歴なし。夫とは三年前に離婚。子供は一人。母親と暮らしている。大手スーパーマーケットの販売員をしている」

「今……?」

 三好は頷いた。

「生きてたんだよ」

 敏彦は一瞬息を呑んだ後、大きな目をくるくると動かして、

「でも……例えば、その、指だけを切り取られて……」

「俺のところに来たのは左の拇指だ。ちなみに後日、舌と右足が少し離れてノースカロライナで見つかった。他の州の研究室にもいくつか、パーツが回されていたようだから、全部集めてもらった。時間はかかったけど……それで分かったことは、全て、一人の人間のものだ。ジル・セント・ヘンダーソンの体だ」

「そんな……」

「自信を持って言える。俺は間違えない。だけど……」

 三好は次にいう言葉を探したが、結局そのまま口を閉じる。これ以上何か言ったら、「困っている」と言ってしまいそうだったからだ。直接言わないまでも、気付かれてしまうだろう、そう思った。

 三好は優秀さと比例して、プライドの高い男だった。

「一番手っ取り早い解決方法はさ」

「えっ」

 敏彦の顔を思わず正面から見て、すぐに逸らす。攻撃的な美貌が爛々と輝いていた。

「ジル……さんに、話を聞くことだね」

「いや……」

「できないの? 場所は分かるんでしょ?」

「分かるけど、犯罪歴のない一般人だぞ。だからこそ、通常の捜査では特定できなかったわけで……それに、色々な法律が」

「俺、昴君ほどではないけど記憶力は良いよ。言われたこと覚えてる」

 敏彦は両手の人差し指で、自分の顔を指した。

「『片山、お前さ、自分が持っているものの価値も分からないわけ』……そうだよ。そうだよね。これは、俺の価値で、財産だ。誰も持っていないものだよ」

 三好は頷いた。跪くような気分だった。確かに、敏彦の美貌は、どこの世界でも。

「俺、自分の顔、大好き」

 敏彦はあまりにも無邪気に笑っていた。

 玩具を見付けた子供の顔だった。



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