後輩の秘密

「い、今なんて?」

「せっかくだし今日泊っていきませんかって言ったんです」


 亜衣さんが蠱惑的な笑みを浮かべると、しとっと耳にかけていた髪が落ちた。何とも言えない沈黙が流れる。


 心臓は明らかに異常な鼓動を刻んでいた。何故か俺の目は亜衣さんの唇や真っ黒で真っすぐな瞳に引き寄せられてしまう。


 柔らかで、プルンと艶やかな唇が何にも負けないほどに魅力的に見えたし、真っ黒な目は、まるでブラックホールのようにさえ見えた。自分の体がここにはないような、そんな不思議な感覚にとらわれた。


「先輩? どうしたんですか?」

「え……、どっちかというと、それは俺のセリフなんだですけど……」

「……だって、そっちの方がよくないですか? あのシズってい人と一緒に居るよりも、私と一緒に居た方が幸せですよ?」


 亜衣さんがどうしてこんな行動に出たのか、何が目論見なのか、正直俺には分からなかった。普通なら、このまま流れに乗ってあんなことやこんなことをする展開に持っていくのだろうが、俺はその点慎重だ。


 理由はもろもろある。もしかしたら上司から俺の弱みを取るように言われたかもしれないとかだ。副業とやらも、なんとなく怪しさがある……。それを抜きにしても、シズさんをほおっておいてそんなことはしてはいけない。そんな気がした。


「こ、今回の件は、どっちとくらせば幸せだとか、そういうことではないです。単純に自分が犯した過失の清算をしたいだけなので……」

「……堅いですねぇ~。まぁ、そこが先輩のいいところでもありますが……。まぁ、いいです」


 亜衣さんはやれやれと言った感じで俺の体からどいた。押し倒された時は気づかなかったが、わずかに玄関の扉が開いたままだった。亜衣さんがいかに衝動的に動いたのか……。


「でも、もしつらいと思ったら言ってくださいね? 先輩、結構ため込んでると思いますし……」

「……そんなことは」

「ありますよ。まぁ、確かにこの会社は、思いっきり黒かと言えばそうでもない何とも中途半端な会社ですが、だからこそ自分よりもつらい人がいるって呑み込んで、いつの間にか毒をその体に蓄えているんです」


 耳が痛い。俺もシズさんに対して似たようなことを言ったために、言い返すことが見当たらない。


「先輩、これからはもっと私に愚痴を言ってください。それで、いやになったら一緒に会社辞めて、少しでもいいところに転職しましょう!」

「…………気持ちはありがたいけど」


 ちらりと中途半端に開かれたドアの方に目を向ける。月明かりが入り込んできていて、俺たちを優しく覗き込んでいるように感じた。


 そんな月明かりはちょうど亜衣さんの左半身を照らしていた。


「…………もう遅いし帰ります」

「あ、待ってください」

「ん?」

「私はシズさんって人とは違って、先輩を信じていますよ」

「…………」


 そういわれた途端、うれしいのか気まずいのか、奇妙な気持ちが闇鍋のように混ざり合った。


「あ、ありがとう……」

「はい! 困ったら私を頼ってくださいね!」


 そうして軽く言葉を交わした後、俺はマンションを後にした。


 改めて遠くから見てみると、大きくて新しいと実感できる。亜衣さん、副業って言ってたけど何してるんだろうか?


 …………あんまり知らないほうがいいのだろうか? いや、亜衣さんがそんなこと……。


 自分の中で、亜衣さんの副業がなんなのか、なんとなくわかるような、分かりたくないような……。まぁ、俺の思ってるものとは全然違うかもだし……。


 まぁ、考えないようにしておくか……。


 家に帰ると、綺麗な姿勢を保ったまま、ぽつんとテーブルの前に座すシズさん。


「ただいまです」

「む。長かったな」

「まぁ、そこそこ遠いので、亜衣さんの家」


 別にさっきのことは言わなくていいか。


「それじゃ、晩御飯の準備しますね。すいません、遅くなってしまって」

「うむ。確かに、あのような小さな箱の中に転移するには、それなりに時間がかかるだろう」

「…………は?」


 小さな箱? 転移? なにを言ってるんだこの人は……。


「シズさん。急にどうしたんですか? おなか減りすぎて頭おかしくなったんですか?」

「なんか、急に口悪くなってないか?」

「あまりにおかしな話だったので……。というか、それ以外に言葉が見つからなかったんですよ……」

「まぁいい。これだ」


 シズさんが俺に見せてきたのは、俺のパソコンだった。小さな箱というのはなるほどパソコンのことだったわけだ。


「パソコンがどうかしたんですか? あ、もしかして写真ですか? あれ違いますよ? あれは会社のみんなで行かされた社員旅行という名の上司のうっぷん晴らしの時に撮った写真で……」

「写真? よくわからんが……。これ、どうすればこの前みたいにできるんだ?」

「え、さっき使ってたんじゃないんですか?」

「てきとうにつけててきとうに使ったからな……」

「あ、そうですか……」


 俺は気にせず晩飯の作業に取り掛かろうとしたが、シズさんが背後でぴょんぴょんと体を撥ねさせて注意を向けようとしていたので、点滅する電源ボタンを軽く指で押して、パソコンの電源を入れた。すると――。


「みんなー! こんばんはー! 今日ちょっと配信遅れてもうs……」


 パタン!


 パソコンを開くと、見覚えのある見た目の、聞きなじみのあるかわいらしい声が聞こえてきた。


「…………亜衣さん」

「ん?」

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