あの日君が手を差し伸べてくれたから

 希空と付き合うことになった翌日。夕方になると、希空が家にやってきた。桜庭くんと翼も一緒だった。希空と付き合うことになったこと、そして声が出るようになったことは前日のうちに話した。わざわざ部活をサボって会いに来てくれたらしい。


「早く会いたくて、部活サボって来たのにこの二人までサボってさぁ……」


「私だって愛華の声聴きたかったもん」


「俺もー。あと、小森と小桜が二人きりになるのを阻止したくて」


「それもある」


「はぁ? なにそれ。恋人なんだからちょっとくらい二人きりにさせてよ」


「ムカつくからやだ」


「雰囲気出来上がってるところに後から行くの気まずいじゃん。マナ、こいつになんかされそうになったら私のところに逃げて来て良いからな」


「何もしないよ! もー!」


「ふふ。わざわざありがとうみんな」


 お礼を言うと、三人は黙り込んでしまった。どうしたのかと問うと、なぜか翼が泣き出す。釣られて桜庭くんまで。


「ええっ!? な、なに!? どうしたの!?」


「だって……あんたの声、久しぶりに聴いたらなんか……」


「良かったぁ……」


「心配かけてごめんね」


「いいよそんなの。私方がたくさん迷惑かけたし」


「主に元カレのことでな」


「希空うるさい」


「ボクも迷惑かけられたんですけどー!?」


「あー。もしかして、若気の至りとか言ってたやつ?」


「思い出さなくて良いし掘り下げなくて良い」


「坂本、恋愛運なさそうだもんな」


「うるさいなぁ! もー!」


 騒いでいると、玄関の方から物音が聞こえてきた。「ただいま」という母二人の声に「おかえり」と返事をする。


「おお。なんか靴がいっぱいあると思ったら。いらっしゃい」


「「「お邪魔してます」」」


「ふふ。いらっしゃい。生地、多めに作っておいて良かったわね」


「ねー」


 二人はそう言って買ってきたものを冷蔵庫に入れると、何かを取り出して台所で作業し始めた。クッキーを作るために朝から生地を寝かせておいたらしい。


「今日は母さん二人とも休みなのか?」


「うん。誕生日だから有給取ってくれてる」


「誕生日だから有給って。すげぇ愛されてんなおまえ……って、あっ」


「あっ! そうじゃん! マナ、今日誕生日じゃん!」


「なに二人とも。忘れてたの?」


「忘れてた。けど、プレゼントは用意してある。ちょっと一旦帰るね」


「俺も一旦帰るわ」


 そう言って翼と桜庭くんは帰って行った。希空はどうやら用意していたようで、カバンから白いチワワのぬいぐるみを取り出して私に渡す。


「わっ、可愛い。けどこれ、学校に行ってる間もずっと持ってたの?」


「少しでも長く君といたくて。取りに帰る時間が惜しいと思って。ボクだと思って大事にしてね」


「うん。ありがとう」


「どういたしまして」


「置いてきて良い?」


「うん」


 部屋には多くのぬいぐるみがあるが、その中でもお気に入りの三体がいる。海菜さんが作った狐のぬいぐるみひなた、百合香さんが作った猫のぬいぐるみリリカ、子犬のカナ。ひなたとリリカはそれぞれ海菜さんと百合香さんが自分をイメージして作り、お互いに送り合ったらしい。その二体に挟まれるようにして置かれているカナは、私をイメージして百合香さんが作ってくれた。

 カナをリリカとひなたより一歩手前に出して、その隣に希空がくれたぬいぐるみを並べる。


「……ふふ。カナにもついに恋人が出来たね。なんて名前にしようかな」


 カナとリリカはそれぞれ私と百合香さんの名前をもじっている。ひなたは海菜さんの誕生花であるひまわりをイメージしてつけたらしい。

 希空の誕生日は1月19日。誕生花をスマホで調べる。マツ、シュンラン、ユキヤナギの三つが出てきた。


「うーん……オマツちゃんとか? しっくりこないな……シュンラン……ランちゃん……ユキヤナギ……ユキ……雪か……」


 ぬいぐるみは真っ白だ。雪という名前はぴったりかもしれない。それに希空の名前から一文字もらって付け足し、ゆきのに決まった。リリカとカナがカタカナで、ひなたが平仮名だからそれに合わせてゆきのも平仮名。


「よろしくね。ゆきの」


 ゆきのの頭をカナの頭に擦り寄せる。そうやってしばらく二体のぬいぐるみをいちゃいちゃさせていると、キイ……と扉が開く音がして慌てて棚に戻す。


「マナ」


「な、なに? どうしたの?」


「いや、別にどうもしないけど、なかなか戻ってこないから様子見に来た。……ふふ」


「……もしかして、見てた?」


「いつもそんな風に遊んでるの?」


 どうやら、一人でぬいぐるみで遊んでいたところを希空に見られてしまったようだ。恥ずかしくて彼女の方を見れない。

 すると彼女は私に近づいてきて、後ろから私を抱きしめてきた。そして私の肩に頭を埋める。首筋を彼女の髪がくすぐる。


「愛華、可愛い」


 そう囁く声はなんだかやけに色っぽくて、心臓の鼓動が速くなる。息が詰まる。だけど、嫌な感じではない。


「あ、あの、希空」


「ん。なぁに? 愛華」


 彼女の声が甘い。前からこうだっただろうか。息苦しい。彼女の方を向き直して、彼女の肩に頭を埋める。彼女は私の頭を抱いて、優しく撫でてくれる。海菜さんや百合香さんのような優しい手つきで。愛してると、指先から伝わる。


「……苦しい」


 思わず呟いてしまうと、彼女の手が止まった。そして彼女は謝りながら、慌てて私を離す。私を傷つけたくないという思いが痛いほど伝わる。だけど私だって、彼女を傷つけたくない。自分から彼女に抱きつく。


「違うの。好き。大好き。……だから、苦しいの。ドキドキして苦しいの。嫌だから苦しいわけじゃないの」


「……マナ……」


「……もう、大丈夫だよ。大丈夫。まだ全部が大丈夫なわけじゃないけど……希空のことはもう、怖くない。だから、離さないで。いっぱい、ぎゅってして」


「うん……いくらでもしてあげる」


 そう言って彼女は私の頭を抱えて優しく抱き締め、甘い声で何度も私の名前を囁く。あの人が母の名前を呼ぶ時と同じ甘い声。トラウマがフラッシュバックして、思わず彼女を突き放しそうになる。しかし、なんとか耐えて、彼女の背中に腕を回す。


「愛華」


「っ……」


『美愛』


 彼女の私の名前を呼ぶ優しい声に、父が母の名前を呼ぶ不気味なほど優しい声が重なる。呼吸が乱れる。落ち着け。大丈夫だ。あの人はもうここには居ない。彼女はあの人じゃない。大丈夫。そう何度も自分に言い聞かせる。


「マナ、大丈夫? ボクの声聞こえる?」


「だ、だいじょう、ぶ、き、聞こえてる。でも、ごめん、嘘、ついた。やっぱり、ちょっと、怖いみたい」


「離れた方が良い?」


「だ、だめ、お、おね、お願い、はな、離さ、ないで……そのまま……」


「……うん。分かった」


 私を抱く彼女の腕に力がこもる。


「大丈夫だよ。ボクは君に酷いことしない。君の嫌なことは絶対にしない。大丈夫だから、ゆっくり呼吸して」


「う、うん」


 彼女は大丈夫大丈夫と、幼い子をあやすようにとんとんと私の背中を叩く。大丈夫。彼女はあの人じゃない。


「ちょっと呼吸も落ち着いてきたね。良かった」


「ごめんね……」


「良いよ。全然大丈夫。それより君は大丈夫? お水もらって来ようか?」


「ううん……大丈夫。翼達もそろそろ帰ってくるだろうし、リビングに戻ろう」


「戻れる?」


「うん。大丈夫」


 彼女は私を離すと、手を差し伸べた。その手を取って、手を引かれながら部屋を出る。いつの間にか戻ってきていた翼と桜庭くんがソファに座ってジュースを飲みながらテーブルに置かれたクッキーを摘んでいた。


「おう。お帰り。プレゼント置いといたからこれ食ったら帰るわ」


「うちらお邪魔っぽいしね。ちょっとプレゼント取りに行ってる間に部屋に引きこもっちゃってさぁ。どんだけいちゃつきたかったんだよ」


 嫌味っぽく翼が言う。しかし、本気で拗ねているわけではなく、どちらかと言えば揶揄っているように見えた。海菜さんからクッキーとマグカップをもらって希空を挟んで翼の隣に座る。ソファは三人掛けだが、私が小柄なため、四人で座っても少し余裕があるくらいだ。


「……なぁ、小桜。学校はこれそうか?」


「……それはまだちょっと難しいかも」


 学校に行けなくなってもうすぐ一年が経つ。私達はもう中学三年生。みんなきっと受験で頭がいっぱいで、私を気にかける余裕尚更なくなっていくだろう。行きたくないわけじゃない。むしろ行きたい。だけど、行かない方が良いのではないだろうか。


「……冷たいって思われるかもしれないけどさ、お前、もうこのまま学校来なくて良いんじゃない?」


 桜庭くんがそう言うと、希空と翼が「そんな言い方」と反発する。だけど、桜庭くんが決して意地悪で言っているわけではなく、優しさで言ってくれていることは分かる。行くのを諦めた方が楽になるだろう。文化祭や体育祭、修学旅行といった学校行事もきっと、今のままでは参加しても楽しめない。いつ発作が起きるかわからないから。いつかは大丈夫になるだろうけれど、学校行事の中で一番近いのは一学期にある修学旅行だ。一、二ヶ月ではきっと、時間が足りなさすぎる。幼少期のトラウマさえもいまだに乗り越えられていないのだから。


「……私は桜庭くんの意見に賛成だなぁ」


 そう言ったのは海菜さんだ。キッチンの方を振り返ると、百合香さんも頷いていた。


「確かに、学校でのみんなとの思い出はもう二度と作れなくなるけど……無理して行って、辛い思い出として残っちゃうくらいなら、みんなとの思い出はまた別のところで作れば良いんじゃないかな。ね。百合香」


「ええ。私も海菜と同じ意見よ。……私ね、小さい頃は兄と離れて暮らしてたの。私は母に、兄は父に引き取られて、高校生まで別居してたの。だから、私はずっと、兄と父との思い出がほとんどなかった。でも、高校生の頃に再会して、そこからまた少しずつ、家族としてやり直していって、今の私の中には兄と父との思い出はたくさんある。だから……時間は二度と戻らないけれど、思い出はいくつになっても作れるわ。時間と心の余裕さえあればどこでもね」


「思い出はいくつになっても作れる……」


「愛華はどう? 今から頑張って学校に行って、みんなと良い思い出は作れそう?」


「……ううん。多分、みんなに辛い思いさせるだけだと思う」


「そんなこと……」


 希空が私を庇おうとするが「最後まで話聞いてやれよ」と桜庭くんと翼が止める。


「ありがとう希空。桜庭くんも、ありがとう。学校は行きたい。修学旅行も行きたい。文化祭や体育祭も出たい。最後だから。けど……今の状態じゃ、行っても楽しめない。だから、ごめん。私、行けない。私の分まで楽しんできて」


「……分かった。お土産いっぱい買ってくるね」


「うん。あと、写真もお願いね。それでね、みんなの受験が終わって時間が出来たら、みんなが撮ってくれた写真の場所をみんなとめぐりたいなって思うんだけど、どうかな」


「いいじゃんそれ」


「みんなって、この四人でか?」


「あと、苺ちゃんも」


「苺ちゃん?」


「園芸部の春日苺ちゃん。背の高い女の子」


「あぁー春日か。他は?」


「先生達も一緒に行けたら良いなって思うけど……忙しいかな」


「そうだなぁ。一応聞いてはみるよ」


「どちらにせよ、私達だけでいくのはお姉ちゃんが許してくれないだろうから、大人に引率頼まないと」


「涼さんは?」


「うるさいからやだ。別の人が良い」


 そう言って翼は海菜さん達の方をチラッと見る。


「私達で良いなら休みとるよ。ね、百合香?」


「そうね。早めに日程決めてもらえれば調整するわ」


「「「ありがとうございます」」」


「なんか、家族旅行みたいだね」


「他に引率頼める人がいたらそっちで頼んでもいいよ」


「ううん。みんなが良いなら、お母さん達と一緒がいい」


「そっか」


「うん」


「あとさ、愛華。私、秋にある蒼明の文化祭行くつもりなんだけど、その時行けそうなら一緒に行こうよ。文化祭の代わりに」


「うん」


「体育祭の代わりはどうする? その辺の公園でリレーでもやるか?」


「ガキかよ。普通にスポーツ出来るレジャー施設行けばいいでしょ」


「その発想はなかった」


「逆になんでないんだよ」


「あははっ。……みんな、ありがとう。本当に、ありがとね」


 その後、翼と桜庭くんが帰ると入れ替わりで色々な人がやってきた。同級生を始めとして、高校に進学した先輩達や先生達まで。


「じゃあ愛華、ボクもいい加減帰るよ」


「うん。今日はありがとう、希空」


「うん。……君ってほんと、色々な人に愛されてるね。ちょっと、妬いちゃった」


「……そうなったのは、君のおかげだよ。君があの日、私と仲良くなりたいって言ってくれたから。君が私に手を差し伸べてくれたから、人と関わりを持つ勇気が出来たんだ。あの日から私は、君に救われてばかりだね。本当にありがとう。……大好きだよ」


「……うん。ボクも大好き。こちらこそありがとう」


 またねと手を振って別れる。遠ざかっていく彼女の背中が見えなくなるまで見送る。


『可哀想だと思ってるわけじゃない。先生から頼まれたわけでもない。ただボクが君と仲良くなりたいだけ』


 彼女にそう言われたあの日、彼女を信じると決めた私の決断は間違っていなかった。勇気を出して彼女の手をとって良かった。

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