女賊と名探偵

 その晩、ホテルの広々とした談話室は、夕食後のひとときを煙草や雑談にすごす人たちでにぎわっていた。部屋の一隅にそなえつけたラジオが夜のニュースをつぶやいていた。クッションに深々ともたれて、顔の前に夕刊を大きくひろげている紳士が、あちらにもこちらにも見えた。円卓をかこんだ外国人の一団の中からは、アメリカ人らしい婦人の声がかん高く聞こえていた。

 それらの客の中に、岩瀬庄兵衛氏とお嬢さんの早苗さんの姿を見わけることができた。黄色っぽい派手なしまお召の着物に、金糸の光る帯をしめ、オレンジ色の羽織をきた早苗さんの、年にしては大柄な姿は、和服の少ないこの広間では非常に眼立って見えた。服装ばかりではない。大阪風におっとりとした、抜けるほど色白な顔に、近眼らしく、ふちなし目がねをかけているのが、ひときわ人眼をひかないではおかなかった。

 お父さんの岩瀬氏は、半白の坊主頭に、あから顔にひげのない、大商人らしいかつぷくの人物だが、彼はまるで、お嬢さんの見張り番ででもあるように、彼女の一挙一動を見守りながら、そのあとをつけまわしていた。

 こんどの旅行は、商用のほかに、この都の或る名家と縁談がまとまりかけているので、引き合わせのために早苗さんを同伴したのだが、折も折、ちょうど出発の半月ほど前から、岩瀬氏は、ほとんど毎日のように配達される、執念ぶかい犯罪予告の手紙になやまされていたのだ。

「お嬢さんの身辺を警戒なさい。お嬢さんを誘拐しようとたくらんでいる、恐ろしい悪魔がいます」

 そういう意味が、一度一度ちがった文句、ちがったひつせきで、さも恐ろしく書きしるしてあった。手紙の数が増すにしたがって、誘拐の日が一日一日とせまってくるように感じられた。

 はじめのうちは、だれかのいたずらだろうと、気にもかけないでいたが、たびかさなるにつれて、だんだん気味がわるくなって、ついには警察にもとどけた。だが、いかな警察力も、このえたいの知れぬ通信文の発信者をつきとめることはできなかった。手紙にはむろん、差出人の名はしるされていなかったし、消印も或いは大阪市内、或いは京都、或いは東京と、その都度ちがっていた。

 そういう際ではあったけれど、婚家との約束を破るのもはばかられたし、いやな手紙の舞いこむ自宅を、しばらく離れてみるのも好ましく思われたので、岩瀬氏は意を決して旅に出ることにした。

 そのかわりには、用意周到にも、万々一のことがあってはと、かつて店の盗難事件を依頼してその手並みのほどを知っている、私立探偵の明智小五郎に、令嬢の保護をたのむことにした。探偵はあまり乗り気でもなかったけれど、岩瀬氏のたっての頼みをいなみかねて、彼らの滞在中、隣室に泊まりこんで、この奇妙な盗難予防の任務につくことになった。

 その明智小五郎は、細長いからだを黒の背広に包んで、同じ広間の別の一隅のソファに腰かけ、やっぱり黒ずくめの洋装の一人の美しい婦人と、何か低声に語り合っていた。

「奥さん、あなたはどうして、この事件に、そんな深い興味をお持ちなんですか」

 探偵が、じっと相手の眼をのぞきこんでたずねた。

「わたくし、探偵小説の愛読者ですの。岩瀬さんのお嬢さんにそのことを伺ってからというものは、まるで小説みたいな出来事に、すっかり引きつけられてしまいました。それに有名な明智さんにも御懇意になれて、わたくし、なんですか、自分まで小説の中の人物にでもなったような気がしていますのよ」

 黒衣の婦人が答えた。この黒衣婦人こそ、ほかならぬわれわれの主人公「黒トカゲ」であることを、読者はすでに察していられるにちがいない。

 宝石狂の彼女は、顧客として岩瀬氏と知り合いの間柄であったので、このホテルで落ちあってからは、一そう親しみを増し、彼女のおどろくべき社交術は、早くも早苗さんをとりこにして、うちわの秘密までも打ちあけられるほどの仲になっていたのだ。

「しかし、奥さん、この世の現実は、そんなに小説的なものじゃありませんよ。こんどのことも、僕は不良少年かなんかの、いたずらではないかと思っているほどです」

 探偵はいかにも気乗りうすに見えた。

「でも、あなたは大へん熱心に探偵の仕事をしていらっしゃるじゃありませんか。夜中に廊下をお歩きなすったり、ホテルのボーイたちにいろいろなことをおたずねなすったり、わたくしよく存じていますわ」

「あなたは、そんなことまで、注意していらっしゃるのですか、隅におけませんね」

 明智は皮肉に言ってジロジロと夫人の美しい顔を眺めた。

「わたくし、これはいたずらやなんかじゃ、決してないと思います。第六感とやらで、そんなふうに感じますの。あなたもよほど気をおつけなさらないといけませんわ」

 夫人も負けずに、探偵を見返しながら、意味ありげに応酬した。

「いや、ありがとう。しかし御安心ください。僕がついているからにはお嬢さんは安全です。どんなきようぞくでも、僕の眼をかすめることは全く不可能です」

「ええ、それは、あなたのお力はよく存じていますわ。でも、あの、こんどだけは、なんだか別なように思われてなりませんの。相手が飛びはなれた魔力を持っている、恐ろしいやつだというような……」

 ああ、なんという大胆不敵の女であろう。彼女は一代の名探偵を前にして、彼女自身をさんしているのだ。

「ハハハハハ、奥さんは、仮想の賊を大へんごひいきのようですね。一つけをしましょうか」

 明智は冗談らしく、奇妙な提案をした。

「まあ、賭けでございますって? すてきですわ、明智さんと賭けをするなんて。わたくし、この一ばん大切にしている首飾りを賭けましょうか」

「ハハハハハ、奥さんは本気のようですね。じゃあ、もし僕が失敗してお嬢さんが誘拐されるようなことがあれば、そうですね、僕は何を賭けましょうか」

「探偵という職業をお賭けになりませんこと? そうすれば、わたくし、持っているかぎりの宝石類を、全部賭けてもいいと思いますわ」

 それは有閑マダムにありがちな、突拍子もない気まぐれのようにも取れば取れる言い方であった。だがその裏に、名探偵に対する、女賊のもえるような闘志がかくされていたことを、明智はさとり得たであろうか。

「おもしろいですね。つまり、僕が負けたら廃業してしまえとおっしゃるのでしょう。女のあなたが、命から二番目の宝石をすっかり投げ出していらっしゃるのに、男の僕たるもの、職業ぐらいはなんでもないことですね」

 明智も負けていなかった。

「ホホホホホ、ではお約束しましてよ。わたくし、明智さんを廃業させてみとうございますわ」

「ええ、約束しました。僕もあなたのおびただしい宝石がころがり込んでくるのを楽しみにしていましょうよ。ハハハハハ」

 そして、冗談がいつのまにか真剣らしいものになってしまった。ちょうど、その途方もない相談が成り立ったところへ、それとも知らぬ当の早苗さんが近づいて、にこやかに声をかけた。

「まあ、お二人で、何をヒソヒソお話しなすってますの。あたしもお仲間に入れてくださらない」

 彼女はさも快活らしくよそおってはいたけれど、その顔色にどこかしら不安の影がただようのをかくすことはできなかった。

「あら、お嬢さん、さあ、ここへお掛けなさい。今ね、明智さんが退屈でしようがないって、こぼしていらっしゃいましたのよ。だって、あんなこと、だれかのいたずらにきまっているんですものね」

 緑川夫人は、早苗さんをいたわるように、心にもない気安めをいった。

 そこへ、岩瀬氏もやってきて、一座は四人になり、みんなが気をそろえて事件にはふれず、さしさわりのない世間話をはじめたが、自然の勢いとして、岩瀬氏は明智探偵、緑川夫人は早苗さん、男は男、女は女と、会話が二つにわかれて行った。

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