待ち合わせは〈アントルメ世田谷〉の最寄り駅、月業にした。

 この日は泉さんも同行する予定だったが、朝六時に電話があって、また唯香が失踪してしまったのだという。結局待ち合わせの十時半の少し前には連絡が入って、見つかったということだが、聞き込みは泉さんがいなくてもできることだから、「今日は大丈夫ですよ」と言った。泉さんは桃子のことを心底愛しているのだろう。私だったらいくら知った仲とはいえ、その子供に面倒をかけられるのなんて迷惑極まりないと思うし、御免蒙る。幼い頃の恋をあの年まで継続させるとは恐ろしい。いや、泉さんは、相手がどんな人間でも、同じようにするかもしれないけれど。

 そんなことを考えていると、後ろから肩を叩かれる。

 瞳が光を受けてきらきらと輝いている。

「今日はマスクをしているんですね」

 黒いマスクが大きく見えるのは、敏彦の顔が小さすぎるからだ。

「まあ色々考えた結果──佐々木さんは俺がいれば色々な話が聞けるって言ったけど、俺がいると話せなくなっちゃう人も結構いるから。だから、一部隠してみた」

 マスクのラインは形のいい鼻をちょうどなぞっているし、敏彦は目だけでも十分に常人離れしているのが分かる。その証拠に、先程からちらちらと視線を感じる。しかし彼なりに気を遣ってくれているのだから、と、あまり意味がないと思いますよ、という言葉を吞み込んだ。

 一か所に留まっているとますます注目を集めてしまう恐れもある。敏彦が素晴らしく美しい上に、私は素晴らしく醜いのだから。

 私は速足で商店街を進む。

「待って、速いよ」

「長い付き合いなんですから、いい加減慣れてください」

 敏彦も私に合わせて速足になっている。

「それにしてもさ、なんだか賑やかだね。この辺はあんまり来たことがなかったけど、こういう小さい駅の商店街ってもっと寂れてるもんかと」

「確かにそうですね……でも、先日来たときは、こんな感じではなかったですよ」

 ふと視線を上に向けると、街灯に小さな旗がかかっているのが見える。

「月……祭り?」

「へえ、パンフレットもあるんだ」

 敏彦は不動産屋の前の「ご自由にお取りください」と書かれた箱から、冊子を一部抜き出した。表紙は幸せそうな家族が笑顔でお月見をしているイラストだ。月の中に、『月業商店街月祭り』という赤い文字がある。

「佐々木さんはお祭りとかそういうの、詳しいんじゃないの」

「あまりにもローカルなものは分かりませんよ。どうせ地名とかけただけのネーミングでしょう」

「確かに。でも、それなら、地名の由来は?」

「さあ……必要なら、調べます。でも、この時期は昔から中秋の名月なんて言葉もあるくらい、普遍的に月見の文化がありますし、別に由来を気にするほどのことでは」

「いやいや、これは伝統的なものだよ」

 突然私と敏彦の間に割り込んでくる者があった。小柄で頭頂部の薄い中年男性だ。

「へえ、そうなんですか?」

 敏彦がわざとらしく声を弾ませると、男性の顔が一瞬にしてだらしない笑顔になる。

 男性はにやにやと笑いながら、敏彦の背中に手を回して言った。

「昔この辺りに信心の厚いお侍さんが住んでいた。ある日、どうしても観音様を見たい、と願ったら、月から観音様が降りてきた。お侍さんは家族にも見せたいと思ったが、家族を連れてきた頃にはもう観音様はいなくなっていた、ということだ」

「すごい、お詳しいんですね」

 敏彦がまた、例の角度で顔を傾けて言うと、男性はますますでれでれする。お前はキャバ嬢か、と心の中で思うが、これでこそ彼を連れてきた甲斐があるというものだ。

「いや、褒めてもらってありがたいけど、全部パンフレットに書いてあることなんだ」

「そうなんですか。後でちゃんと読みますね」

「でも、そういう昔話があったとしても伝統とは言えないのでは」

 私はスマートフォンの検索画面を見て言った。「月祭り」が開催されているのは、なんと今年からだ。ホームページのデザインが非常に凝っている。

 男性は私の顔を見るとあからさまに態度を変えて、

「ああ、このお祭り自体は若い人が、商店街を盛り上げようとして始めたみたいだわ」

 と短く言い捨てた。

 すかさず敏彦が、「若い人?」と鸚鵡返しをする。

 するとまた男性は笑顔になって、

「そうそう。それまでは商店街を抜けたところにある、月業寺で細々とやってたらしい。月祭り。本来の名前はここのかナンタラっていうらしいけど、ごめんな、覚えてないわ。まあ、月見みたいなもんだったらしいけどな。もし、もっと興味があるなら」

 敏彦は指でマスクをずらし、輝くばかりの美貌を惜しげもなく利用した。

「色々教えてくださってありがとうございます!」

 男性が熱に浮かされたようにぼうっとしている間に、私の手を引いて、素早く人ごみを抜けた。

「速く動けるではないですか」

「聞きたいことは聞けたし、どうでもいい話が長くなる予感しかしないから」

 敏彦はそう言いながら、一ミリも動いていない口角にマスクを被せる。

「ありがとうございます。私だけだったら確実に話しかけて来ないと思うので。片山さんのおかげで良い情報が手に入りました。何人かアポを取った相手に話を聞いた後、月業寺にも行ってみましょう。なんだか、引っかかりますから」

「『月』だよね」

 私は頷いた。

「なんでも繫げて答えを出してしまってはいけませんが、病院で粘土細工をするはずだったお嬢さんの話に出てくる月のミニチュア……あと、男の子が歌っていた『てるつき』という言葉が気になります。月祭りとやらが単なるお月見とかだったらよかったのですが……」

「言ってることは分かるよ。事件があって、急に開催された祭りがあって、どうも歴史があるもので──とか、やっぱり、何かありそうだよね。面白い。聞く話に『月』がないか俺も神経とがらせとく」

 住所を確認しながら総菜屋の横の通路を抜け、しばらく歩いていく。一本裏に入ってしまえば静かなものだ。

「ここかな?」

「そうですね」

 一階部分に看板がかかっているが、恐らく潰れてしまったのだろう。ぎりぎり「うどん」という文字だけが見える。


 二階はカーテンが閉まっているものの、植木鉢がいくつか並んでいて、なんとなく生活感があった。

 目でどこから入ればいいのか探っていると、

「あの……」

 声をかけられて振り向く。やつれた印象の女性がふらふらと立っていた。幽霊かと思った、という失礼な言葉を吞み込んで、

「増田久子さんですか」

 女性はこくりと頷いた。頷いただけでも頭が捥げてしまいそうな印象を受ける。視線も泳いでいて、体はふらふらと揺れていた。

 敏彦がさっと手を伸ばし、久子の肩を支えた。

「大丈夫ですか? お辛そうだ」

 久子は全く動じなかった。かと言って、敏彦の手を振り払う様子はない。絶世の美青年に肩を抱かれている状況を喜んでいるとはとても思えず、ただ、振り払う気力さえないだけに見える。

「大丈夫では……」

 何と言っているかも聞き取れない。

 私が名刺を差し出すと、久子はしばらくじっと見た後、かなり間が空いて、思い出したかのように受け取った。

「……では……」

 よろよろとした足取りで、久子は潰れたうどん屋の中に入っていく。私たちも慌てて続いた。

 中は外観と違って、意外にも整頓されている。埃っぽくもないし、日常的に人が出入りしているのだろう。恐らく客席として使っていた机や椅子はそのままで、大きめの段ボールや、掃除機などが置いてあった。

「物置……」

 久子が譫言のように言う。

「ごめんなさい、じろじろ見てしまって」

「いえ……取り壊すのにも、お金が……いるから」

 彼女は話が通じないわけではない。思考力がきちんとあるし、受け答えも正常だ。

 使われていないキッチンの奥に進むと、階段が見えた。

「この上……」

 久子はそう言って二階を指さしたまま止まってしまった。しばらく待ってみても動く様子はない。

「この上に、いるのですか?」

 久子の頭ががくんと落ちた。虚ろな目のまま、久子はがくがくと頭を揺らし続ける。頷いているのだろう。

「ええと、私たちは……」

「私、もう、見たく……行くので」

 久子は突然腕を下ろし、信じられないような速さで走り去っていく。姿が見えなくなってすぐ、ドアが閉まる音がした。止める間もなかった。

「……どうしようか」

 ややあって敏彦が言った。

「あの方の前であれこれ話すのは失礼かと思ったのですが、出て行ってしまいましたね。事態は思ったより深刻そう、桃子さんの場合よりひどそうですが、いなくなってくれたのは好都合です。どうやってお母さん抜きで話を聞いていくかここで相談しましょう。小声でね」

 私が階段に腰掛けると、敏彦がじっと私を見てくる。

「なんですか? いくら私でもそんなに見つめられたら勘違いしてしまいますよ?」

「いや、別に勘違いしてくれてもいいんだけど」

 敏彦は私の隣に腰掛けた。同じ場所に腰掛けたのに、すらりと長い足が私の足のはるか先まで折りたたまれている。

「佐々木さん、本当に変わったなあと思って」

「どこが」

「いや、前だったら、あの女の人がいようといまいと、自分の推測とか、べらべら捲し立ててたでしょ」

「不快にさせてすみませんでしたね」

「ううん、俺、佐々木さんのそういうとこ好きだったからいいんだ。それに、そういうとこ俺にもあるし」

 敏彦はマスクをずらして、何回か呼吸を繰り返す。お手本のような形の唇が上下する。私と敏彦が同じ種族であるということが不思議で仕方ない。

「やっぱり青山ママは偉大だな」

「はぁ!?」

 思わず大声を出す。止められなかった。

「マ……ママってなんですか」

「だってなんか、そういう感じだから……そんな変なこと言った?」

 ほほほ、と高い声がした。

 ぎょっとして背後を見上げる。

 階段の上には襖があって、緑色の粘着テープで隙間なく張り付けられている。確かに、そこから声が聞こえたのだ。

「いま……」

 ほほほ、とまた声がする。これは、女の声だ。

「上にいるのって、男の子だよね?」

 私は頷いた。

 増田礼音。十一歳。健康体だが、ある日突然学校に行けなくなってしまう。クラスにいじめ等はなく、両親は二人とも会社勤めで忙しいが、家庭環境も悪くない。尤も家庭環境に関しては母親本人が言っていることなので定かではないが、母親が礼音を心配し、忙しい中で小児精神科に通わせていたのは事実だ。礼音は病院のスタッフや子供たちとは楽しそうに話し、通うのも嫌がらなかったという。

 礼音もまた、例のイベントに参加した子供の一人だ。唯香たちと大きく違うのは、礼音はおかしくなっていないという。妙な歌も歌わないし、邪魔をするなとも言わない。きちんと受け答えができるのだ。ただ、極端に人と接するのを恐れ、病院どころか部屋から出ることさえしなくなったそうだ。そして、久子も「部屋から出られないのは分かる」と言った。理由を尋ねても答えてくれなかった。見れば分かる、と。そうして礼音は、使っていない部屋に引きこもっている、という話だった。

 私と敏彦が上を見上げながら固まっている間にも、ほほほ、ほほほ、と声が聞こえる。笑っている。しかし、楽しくて笑っているのとは違うだろう。

 恐ろしかった。何より恐ろしいのが、何も感じないことだった。何もない。恐ろしい女も、異形の怪物も、何も見えない。霊場にいるときのような嫌な感じすらもない。

「礼音君」

 敏彦がそう言うと、ラジオのように流れ続けていた笑い声が止まった。

「礼音君……大じょ」

「来ないで下さい!」

 ふり絞るような声が襖の奥から聞こえる。

 階段を一段上ると、木が軋む音がした。礼音はそれに気付いて、怒鳴りつける。

「ダメです、来ないで!」

 私は努めて平静を装って、

「大丈夫です、私は、礼音君を」

「いいです! 僕は大丈夫です! 帰ってください!」

 敏彦が礼音の声を無視して階段を駆け上がり、べりべりとテープを剝がす。

 声にならない悲鳴が聞こえた。

「ダメって……」

「君のことを心配してるわけじゃない。俺が知りたいんだ」

 大きな音を立てて敏彦は襖を開け放った。そして、咳き込む。

 埃が舞って、きらきらと輝いている。

 もう一度名前を呼ぼうとしたが、何も言えなくなる。敏彦も同じようだった。

 下着だけ身に着けた少年が、積み重なった布の上に尻もちをついていた。髪は肩にかかるほど長く、少し臭うが、体にはきちんと年相応の脂肪がついている。

 しかし、そんなものより異様なことがある。不健康なほど白い肌にびっしりと、赤い文字が書き入れられていた。さらに目を引くのは目を覆って貼り付けられた札だ。

「降魔札、ですね……」

 一見すると恐ろしい魔物のようなものが描かれた札だが、それは平安時代に鬼の姿となって疫病神を退治した元三大師の姿であり、江戸時代では最もポピュラーな魔除けの札だったという。

 魔除けの札なわけだから、本来は玄関の外、あるいは入ってすぐの扉の内側に貼るのが普通だ。

 礼音の目の部分に貼り付けられた札は、接着剤を使ったのかもしれない。端の部分に細かな皺が寄っていて、それでも剝がれないようにするためか、透明なテープで頑強に固定してあった。

「礼音君、それ、お母さんが、やったの」

 礼音は頷いた。唇を嚙みしめ、震えている。

「お外に出てごめんなさい。隠してもらっているけど、僕を見ちゃったから、もうだめかもしれないです」

「佐々木さん、何か感じる?」

 敏彦は礼音の様子など気にも留めず、暗く、埃っぽい和室を眺めて言った。

「いえ……それが、何も」

「感じないってさ。礼音君、この人、霊能者なんだ。霊能者って分かる?」

「分かり……ます。今まで、何人か。でも、誰も、何もできなかった」

「この人は他の人とは違うよ」

 ちょっと片山さん、と言っても、敏彦は話し続けた。

「他の霊能者は、『女に取りつかれてる』とか『家の穢れが』とか言ったんじゃない?」

 礼音が息を吞む。

「どうして、分かるの?」

「インチキ野郎は大体そういうこと言うから」

 敏彦は礼音の手を握った。

「この人は何も感じないって言った。ないものはない、ってきちんと言う人。解決するまで時間はかかるかもしれないけど、信じてほしい」

 うう、と礼音の喉から声が漏れる。敏彦が礼音の頭を撫でると、礼音は身を捩って手から逃れた。

「泣いちゃいけないんです。泣いたら、お札がダメになるから」

「その下、どうなってるの」

 礼音は口を開いては閉じ、それを何回か繰り返した後、意を決したように顔を上げた。

「僕の話、聞いてください」

 礼音からは見えないだろうが、私も敏彦も、大きく頷いた。


        *


 僕、布団をかぶって話しますけど、気にしないでください。怖いだけです。

 学校に行けなくなったのは知ってますか? 病院に行ってたのも?

 そうです。

 お母さんもお父さんも優しいです。友達もみんないいやつです。でも、ある日、校門に入れなくなっちゃって。頑張って靴箱まで進んだら、吐いちゃいました。前の日、お腹が痛くて、早く寝たから、風邪かもしれないね、って言われて、家で寝てました。でも、次の日も、また次の日も、どうしても校門に入れなかったんです。

 二人とも優しいから、学校に行かなくても勉強できる方法とか、頑張って探してくれて。でも、そういうこと考えると、またお腹が痛くなって、学校に行けなくなるんです。それで、お父さんが病院を探してきてくれて。

 不思議なんですけど、病院には行けました。先生も、みんなも優しくて。

 イベントは、僕より小さい子が対象だろうなっていうのが多かったんですけど、病院行く日にやってたら絶対参加するようにしてます。僕、ちょっと、寂しいのかもしれません。

 あの日のことです。

 紙粘土でミニチュアを作るお姉さんが来るって聞いてました。女みたいって言われるかもしれないから隠してたけど、僕もそういうの好きで。だから、楽しみにしてました。

 でも、その日、部屋に入ってきたのは、黒い服を着た男の人でした。

「お兄さん、なにじん?」

 って小さい子が聞いたら、

「日本人だよ」

 って笑顔で答えてた。ハーフとか、帰化人?っていうんでしたっけ、そういう人なのかなと思いました。髪の毛が金髪に近い色で、目の色も薄いから、アメリカとか、ヨーロッパの人かなって。

 でも、すごく日本語は上手かった、っていうか、普通に、僕たちと同じような感じでした。

 唯香ちゃんっていうフランス人とのハーフの女の子がいるんですけど、唯香ちゃんも顔はそういう感じで、日本語話すんですけど──その男の人は、唯香ちゃんを見て、にっこりと微笑んでいました。

「紙粘土は?」

 子供たちのうち、誰かが言いました。確かに、その人は手ぶらでした。

「今日はお休みだよ。お姉さん、具合が悪いんだって」

 みんな、口々に「可哀想」「早く良くなるといいね」と言いました。こういう、いい子たちなんです。

「だから今日は、僕がお話をしに来たよ」

「何のお話?」

「まずこれを観ようか」

 そう言って、その男の人はスクリーンを引っ張り出して、パソコンで再生した映画を見せてくれました。アメコミヒーローですよ。キャプテン・アメリカとか、アイアンマンとかの、活躍シーンの切り抜き動画みたいな。絶妙にかっこいいところを取ってきてたので、多分、全然知らない子でも楽しめたと思います。

 実際、けっこう盛り上がって、でも五分か十分くらいで男の人は動画を止めました。

「この人たちのこと、どう思う?」

 そう聞かれて、かっこいいとか、もっと見たいとか、そんな言葉がぽつぽつ聞こえました。

「どうしてかっこいいと思う?」

 強いから、とか、スーツがかっこいいから、とか、そんな言葉を聞いてその人は、

「違うよ。誰にも頼らないからだよ」

 そう言いました。

「この人たちはヒーローだから、誰にも頼らない。弱音も吐かないし、いつも頑張っていて、かっこいい。君たちと同じだ」

 男の人は目をきらきらと輝かせて、僕たちを見ました。

 いかにも漫画っぽい、わざとらしい感じの言葉なんですけど、やっぱりなんだか、そう言われると、じーんときちゃって。僕だけじゃなくて、みんなも感動? そういう感じでした。

「ここにいるみんなは、苦しいことがあるんじゃないのかな」

 心が少し痛くなりました。見ると、みんな同じような顔をしていました。

「ないよ」「僕もない」「私も」

 そう答える子たちを見て、男の人は、悲しそうな顔をします。

「君たちはそうやって、本当の気持ちを隠してしまうね。本当は、辛いことがあるのに。どうしてかな。お父さんやお母さんを困らせたくないから? 周りの人が優しいから?」

 静まり返りました。多分、本当に小さい子でも、言葉の意味を理解して、共感してしまったからだと思います。

「言っていいんだよ。頑張っているのは君たちだよ。苦しんでいるのも、君たちだ」

 やっぱり、その人の言うことは、なんとなくわざとらしいけど、嬉しかったです。

「極楽の話をしよう」

 突然、何を言われたのか分かりませんでした。子供たちの中にはまず『ごくらく』って言葉自体分からない子もいました。

「極楽って何?」

 男の人は子供たちに自分の周りに集まるように言って、大きく手を広げました。両手に革の黒い手袋をしていました。

「天国って言ったら分かるかな。素晴らしい所だよ。ヒーローの、君たちが本来いるべき場所だ」

 はい、今考えれば、意味不明だし、不気味なんですけど、そのときはそうなんだ、って思って。やっぱり感動しちゃうんです。すごく笑顔が優しいんですよ。話を聞きたくなるというか。誰が見てもいい人だと思うんじゃないかな。

 男の人は手袋を取りました。

 掌に、大きな穴が開いていました。

「怖がらないで」

 優しい声でそう言って、穴が開いた手を僕たちの前に広げました。

「それ、なんですか」

「これはね、鍵穴だよ」

 穴から僕たちのことを見ていました。

「極楽が見えるんだ」

 そしたら、本当に急に、ぱああって明るくなって。もう本当に良く分からないんですけど、幸せな気持ちになったんです。

 どんどん体の中から幸せが溢れてきて、もうどうでもいい、と思った瞬間に、僕、ころんでしまいました。多分、後ろの子に押されたんだと思います。

 すごく腹が立ちました。ゲームを途中で邪魔されたみたいな気分で、だから、振り返ったんですけど。

 うじゃうじゃいました。

 茶色い人です。表面がつるつるしていて、人形みたいでした。

 腕がたくさん生えてるんです。何本も。

 それで、目のあたりがぶよぶよしてて、そういうのが、みんなにくっついてるんです。

 叫びました。耐えられませんでした。こんなもの見たくないって、目を塞ごうとしたんですけど、その、茶色いやつらが、うじゃうじゃって、それで、左は平気だったんですけど、右に入られてしまいました。

 入られてからはすぐです。ずっと頭の中が幸せで、食べられているような気分でした。

 目が覚めました。


 部屋にはもう、あの男の人はいなくて、みんなもぼうっとしていて、一言も話しませんでした。みんなのお母さんたちが迎えに来て、みんな、そのまま帰って行ったんですけど、僕はずっと、右だけ幸せでした。

 あの男の人は何も言ってなかったんですけど、「おさらさま」って言葉が頭から離れなくて。というか、おさらさまがどういう姿なのか分かるので。今も。でも、僕の左が、死ぬほど嫌だって思うんです。

 お母さんがおかしくなったのは僕のせいです。

 次の日、いつもみたいに七時に起きて、お母さんにおはよう、って言ったら、倒れてしまいました。僕は理解してます。おさらさまが来たんだと分かっています。

 だから右を見たら駄目なんです。

 他の子がどうなったのか気になります。だって、他の子は、両側だと思います。僕は右だけですけど、それでも。

 一緒に居たら駄目だって分かってるのに、お母さんは僕の世話を沢山してくれて、だからおかしくなりました。分かるんです。僕の右を見ると、おさらさまが入っちゃうんです。それは、僕にはどうしようもないことです。

 お父さんもすぐに気付きました。

 でも、お父さんはそういうものを信じないタイプだったので。

 じいちゃんが──去年、死んじゃったんですけど、じいちゃんがお父さんに何か手を打った方がいいって言ったみたいです。それから、お守りとか、霊能者とか。でも、全部効きませんでした。

 例えば、霊能者って言って来た、一人の女の人なんて、すごかったです。

 ぬいぐるみを持ってきて、そこに閉じ込めるんだって言って。一週間ぬいぐるみと一緒に寝てって言われたんです。くまのぬいぐるみでしたけど。

 それで、一週間後、昼頃その女の人が家に来て、ぬいぐるみを回収して行ったんですけど、にこにこしてありがとうって言われたんですけど。

 その夜、その女の人がまた来て、今度はすごく怒った──ううん、焦った?顔で、ぬいぐるみどうしたの? って聞いてくるんです。お母さんが、「昼頃取りに来たじゃないですか」って言ったらひっくり返って、泣き出してしまいました。それで、ごめんなさいって言って、その人とはもう連絡がつきません。なんだったのかなあ。

 一人だけ、おさらさまが見えてるかも? っておじさんがいて、その人が、「目からなんや出とるわ」って言って。でも、謝ってました。「なんもできん」って。色々考えてくれて、とりあえず目を見ないようにしようと言って。お札をくれました。

 それで、目に貼りました。

 でも、入ってしまったものが抜けることはないので、お母さんも僕も、このままです。


        *


「『おさらさま』がどんな見た目なのか分かるって言ったよね」

 礼音が話し終えると、間髪を容れずに敏彦が聞いた。

「つるつるしてて、茶色で、沢山いるけど一つです。あと、目がすごく大きい。ぶよぶよしてるんです。どこから見ても、目が合うと思う」

「分からないなあ……」

 敏彦はメモに特徴を踏まえた絵をさらさらと描いている。そのバケモノが、桃子と一緒に見た裕の絵と似ていて、私は目を逸らした。

「礼音君、教えてくれてありがとね」

 礼音はふるふると首を横に振った。

「ごめんなさい、言っちゃって」

「俺が知りたいだけって言ったじゃん」

「違うんです。おさらさまはもうあなたたちを見ているってことです」

 ほほほ、と声が聞こえた。

「僕が見なければああああ大丈夫だとおおおおお思ったんですけどおおおおおおおお」

 礼音は笑っている。降魔札が滲んでいる。

「だめだ、だめだ、開いちゃう」

 ほほほ、ほほほ。

「ごめええんあさああ」

 敏彦が襖を閉じた。ばんばんと内側から叩いているのが聞こえる。

 無言で階段を駆け下り、物置のような店内を抜けた。

 ずっとほほほ、と聞こえていた。

 商店街の喧騒に救われる。

「どう、何か、見えた?」

「いいえ、やっぱり、何も」

「俺は一瞬、見えたかも」

 ぎょっとして敏彦を見る。

「どういうことですか?」

「ああ、オバケが見えたわけじゃない。吐息? っていうとなんかあれだな、口の動き。ほほほ、って言ってたの、礼音君だよ」

 敏彦は溜息を吐いた。

「口がちょっとだけ動いてた。男の子と言ってもまだ小さい子だし、ああいう女の人みたいな声を出すこともできるんじゃないかな。説明がつかない不気味なことが起こっているのは確かだし、あの様子も普通じゃないけどさ、いろんな視点で考えるのも大事かもよ」

「それは、もっと現実的なアプローチということですか?」

 敏彦は頷いた。

「医師じゃないから分からないけど、集団ヒステリーかもしれない。病院に金髪の男が来てなんだか謎の話をして帰って行ったのは確かっぽいけど……」

「とにもかくにも、月業寺に向かいたいと思いますが、どうですか?」

「いいよ。言っとくけど、俺は興味本位でついてきただけだから、本当に気にする必要ないんだ。俺のことはいないものとして扱って。さっきの集団ヒステリーだって気にしなくていい。したいようにして」

「そう言われても、あなたの存在を無視するのは不可能と言いますか」

 ははは、と笑って、敏彦は両手の指で自分の顔を指さした。

「俺、自分の顔大好き。使える。佐々木さんも、じゃんじゃん利用して」

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