3-4

 ナギとナグモの両親は周囲から羨ましがれる程、仲睦まじい夫婦だった。そんな愛し合う二人がつくる家庭は日だまりのように暖かかった。

 しかし各地に《命樹》と呼ばれる大樹が発生し、桜色の塵が降り始め、雨宮咲羅という存在が世に君臨し始めた。程なくして、二人の両親は心中した。笑顔で二人、集合住宅の一室から抱き合いながら落ちたのだと――ナグモは人づてに聞いた。偶然その日家にいなかった事が、不幸中の幸いだろう。

 ――いや、不幸の始まりかもしれぬな。

 ナグモは思う。あの日あの時、姉妹であるナギも含め一家心中という形で死んでいればまだましだったのかもしれないと。けれど何度も過去へと思いを馳せても時間は元には戻らない。多くの大人達が死んでゆき、世界が壊れ行く中でいつの間にかそんなくだらない夢想に耽るのは止めていた。

 ナギとナグモは一卵性双生児だ。だが似ているのは容姿だけで、性格のほうはまるで違っていた。ナギは姉らしくしっかり者で堂々としており、勇気もある。人を魅了するという点においては天賦の才能があり、常に人の輪の中にいた。一方で妹のナグモは人見知りが激しく、常に姉の後ろに隠れているようなタイプだった。性格も明るいとはいえず、一人で読書やお絵かきに勤しむほうがずっと気楽だった。

 世界が崩壊してしまった後、ナギとナグモは二人三脚でどうにか生き延びていた。崩壊直後は混乱していて、誰もが不安で怯えていたから妙な真似に走る者も少なかったというのもある。だが何より運良く心優しい青年に出会えたというのが矢張り大きかった。

 青年の名は、皆瀬朝日。

 彼を慕う子供達は皆、アサヒ先生と呼んでいた。

 朝日はまだ未成年くらいの歳だったが、子供達を集め、自分が守ろうと躍起になってくれた人だった。馬鹿がつくほどのお人好しと言っても良いだろう。兎角、困っている人を見つければ後先考えず助けてしまうような甘さを持った青年だった。常に皆を不安にさせないようにこにことしている、太陽のような人だった。そんな彼の人柄に惹かれて手を貸す人々も多く居た。

 幼いナグモにとって、そんな彼は絶対的に信頼を置ける人物であり、また尊敬もしていた。淡い恋心のようなものも密かに抱いてはいたものの、そんな事を告げれば優しい彼は困ってしまうだろうなんて――子供なりに必死に考えた末に、ナグモはその思いを胸にしまっておく事にした。


『ナグモちゃん。ちゃんとごはん食べてるか? そんなひょろっちい身体じゃ、お兄さんみたいに強くなれないぞー』


 けれど名を呼ばれる度に、気にかけてもらう度に、ナグモの胸は甘く高鳴った。それにいち早く気付いたのは双子の姉ナギだった。当然といえば当然かもしれない。生まれる前からずっとナグモの傍にいた人なのだから。

 ナギは応援してくれた。ナグモはそんな姉の応援を素直に喜べた。この頃までは、まだ姉はナグモの知る大好きな姉だった。

 しかし、皮肉にもそんな姉が変わってしまったのは、自分が慕う青年が連れて来た「友人」との出会いだった。


『はーい、みんな集合! 今日はお客さんがふたり。ふたりとも俺の大事な友達だから、失礼な事するなよー』


 アサヒ先生の「友達」だという二人は、皆瀬朝日という人物とはそれぞれ全く異なるタイプの人だった。

 一人は呼吸を忘れてしまうほど美しい女性。ダークグレイの長い髪と、雪よりも白く滑らかな肌。そして見ていると魂さえ奪われてしまいそうな、印象的な黒真珠の双眸。感情の無い、美しい人形みたいだ。それが後にナグモが「クビキリ」と呼び、雨宮咲羅を打ち倒すために手を取り合う事になる女性、首切朔に対する印象だった。

 そしてもう一人は優男風の美青年。こちらは無表情の朔とは対照的に微笑みを浮かべているが、アサヒ先生のものとは違う酷薄な笑みは子供心に恐怖さえ抱いた。その「由楽木」と名乗った男は、静かな水面の下に暗く重たげな泥を隠しているようだった。

 けれど不思議な事にアサヒ先生は由楽木によく懐いた。何故かは未だに分からない。由楽木のほうも鬱陶しそうにしながらも、朝日と朔を前にした時だけは、人間らしい表情を垣間見せた。朔が運命の人、愛すべき寵児を前にしているのだとしたら、アサヒ先生を前にした由楽木はまるで――出来の悪い兄弟を持ったような、そんな感じだった。

 今では考えられない程、あの頃は穏やかな時間が流れていたとナグモは振り返る。けれどそんなささやかな幸せは、他でも無い実の姉によって壊された。

 姉のナギは恋の病に落ちたのだ。

 そしてその相手は由楽木だった。

 ナギの凶行は唐突だった。おそらく進行が驚異的に早かったのだろう。故に妹のナグモにとっては、姉のナギが恋愛に少々浮かれ過ぎているとしか思わなかったのだ。その危機意識の低さには今でも後悔している。もしもあの時もっと自分がしっかりしていれば、姉を止められたかもしれなかったのだ。

 結果的に姉であるナギは異常な独占欲故に――クビキリを殺そうとし、朝日を殺した。

 大好きだったナグモの思い人、アサヒ先生を殺したのである。そして彼を慕っていた子供たちも、皆。より正確に言うならば由楽木に関わった者を全て殺し始めたのである。

 子供とは思えぬ狡猾さで、笑いながら実に楽しそうに。その姿に自分の恋路を応援してくれた姉の面影は無かった。由楽木という青年を愛するあまりに独占欲に駆られて、全ての命を喰い尽くそうとする醜い姉が其処にいた。

 今でもナグモはその時の姉と、冷たくなったアサヒ先生の死体を夢に見る事がある。

 その夢を見て起きる度にナグモは繰り返し亡き彼へと誓うのだ。

 必ず、ナギはこの手で責任を持って殺す――と。

 それこそが肉親であるナギへの情けであり、殺された者たちへの手向けの花だと信じていた。だが今やその信念が揺らぎつつあった。

 ――クビキリは大丈夫だろうか。それに、セツも。

 ナグモは沈鬱とした気持ちをかき消そうとするも、脳裏からは怪我を負ったセツの姿が離れずにいた。珍しく一人で館内を歩き回っていたが、どうにも落ち着かない。廃墟の女王として情けないと思いつつ、どうしても思考は先日の記憶へと引き込まれてしまうのだ。

 セツが運び込まれてきた時は、らしくもなく心臓が止まる思いだった。項垂れた金髪の頭、血の気の失せた頬、閉じられた瞳。死を連想したがそれが悪い夢であって本当に良かったとナグモは思った。きっと当人であるセツは、ナグモがそんな心境だったと知ったら大声を上げて馬鹿みたいに驚くか、人の気も知らないで大笑いするかのどちらかだろう。

 けれどそれでも良いと思った。ナグモは今回の事ではっきりと気付いてしまった。

 自分はセツの明るさに救われている。同年代、しかも形だけ見れば主従関係という事もあって衝突する事も多かったが、ナグモは何だかんだ言ってセツとの口喧嘩が殺伐とした生活の張り合いになっていたのだ。そういう時だけ己が年相応の少女であるように、実感できたのだ。

 勿論、皆を率いる者として毅然と振る舞わねばならない事は分かっているし、ナグモ自身で虚勢を張ってでも強い「廃墟の女王」像を自らに強いてきた。そんなナグモを支えるのは、ナギへの復讐心が基盤にあったものの、憎しみだけでは心の方がもたない事を知っている。強くあれと思いながらも、ナグモはそれほど己が強くはない事を知っていた。

 ――情けない事よ。

 ナグモは自嘲気味に小さく笑う。誰かを好ましく思ってはいけないと思いつつ、結局はナグモは皆を好いてしまっていた。リトルキャッスルに住まう人々も、クビキリもセツも。距離を取ろうと努力していた筈なのにいつの間にか心に入り込んでしまっていた。

 喪失の痛みに己が揺らがないよう人を愛する心を閉ざしたが、それを開いてくれたのはセツだろう。

 何となく「アサヒ先生」とセツは似ている。脱色した金髪も、太陽を彷彿とさせる笑顔も。二人の共通点を結んで、無意識に重ねてしまうナグモがいた。あの脳が空っぽそうな少年はナグモの気持ちになど気付かないだろう。そういうところまで彼に似ていると思った。

 しかし――そうして二人の末路まで重なる姿だけは、避けたかった。

 ナグモは沈痛な面持ちで人気の無い屋外、丁度ポーチのような場所に出た。宙を舞う桜色の塵について、人々は忌々しいと思うだろう。勿論、ナグモもこの塵が及ぼす作用について快くは思わない。ただもしも何の効果も無い塵であったとしたら、淡いこの桜色の塵は、桜の雪のようで幻想的で綺麗だ。口に出したりはしないがナグモは考え事をしたい時、一人で外に出て静かに舞う塵を見詰める事が多かった。病に罹るんじゃないかという不安はあったが、耐性を持つ免疫者以外は屋内にいようと屋外にいようと皆等しく愛の病に陥るのだ。


「おい、あんたこんなところで何してるんだ? 一人なんて珍しいじゃん」


 ふいに背後から声をかけられる。こんな風に話しかける者などナグモは一人しか知らない。振り返れば頭に浮かんだ通りの人物――セツがいた。


「セツ……もう、動いても大丈夫なのか?」


 珍しく素直に心配の言葉が出たナグモに、セツはおかしそうに笑う。


「へーきだよ。というか、あんたがそんなに優しいと不気味なんだけど」


 けらけらと頭が悪そうに笑うセツは、ナグモの知るいつもの彼だった。青ざめていた顔色も良くなっているが、首には傷跡を隠す為の包帯が巻かれていた。塞がったとはいえ確かに彼を死に至らしめかけた傷の痕跡がそこにはあるのだろう。

 ――またナギに奪われるところだった。

 そう思うと常に心の底に堪っていたどす黒い憎悪がふつふつと煮え滾ってくる。どろりと溶け出したそれは地獄の業火のように熱いのに、機械のように情け容赦無く冷たくもあった。


「……――なぁおい!」


 だが突然、大声を出されナグモはびくりと身体を震わせて我に返る。気付けば両肩を強くセツに握られ、普段では有り得ないほど近くにいた。その近さにナグモは動転し「離れろ!」と思い切り押しのけた。心臓がどくどくと激しく鼓動していた。

 やってしまったとナグモが後悔したのも束の間、セツはよろめきながらも踏みとどまると、きっと顔を上げて声を張り上げた。


「ッってーな! さっきからなっさけない顔しやがって! あんたらしくなくって、見ているこっちが気味悪くて仕方ねえっての!」


 その暴言についナグモもかちんとして、いつものように言い返す。


「情けないだと? 誰に向かって言っている!? クビキリには阿呆の一つ覚えのように尻尾振って忠犬気取っている癖に、飼い主がいなければ馬鹿犬か貴様は!?」

「あんたに言っているに決まってるだろ! っていうかあんた以外いないのにいちいち聞くなんてその無駄におっきな目は節穴か!? でもって俺は犬じゃない! セツだ!」


 静まり返った世界で二人のぎゃんぎゃん鳴く声が響く。完全にナグモは喧嘩腰になってセツへと詰め寄り、彼の鼻頭を指差す。


「私の目が節穴ならば貴様の頭の中身は真空だな! 馬鹿は死んでも治らんと聞いた事があるがそれは貴様の事か!?」


 更に燃え上がる要因となるだろう激しいナグモの恫喝に対し、


「うん、そーかもなー」


 へら、とセツは先程までの剣幕が嘘のように気の抜けた笑い方をした。その差にナグモは呆気に取られる。状況についていけず置いてけぼり状態になるナグモにセツは神妙な顔をして「うんうん、あんたはやっぱ偉そうにふんぞり返ってないと」などと言って何度も頷く。

 そこまで来て漸く、わざとセツが自分を煽った事にナグモは気付く。暗い感情の渦へ堕ちそうになったナグモに気付いた故に、彼なりに引っ張り上げてくれたのだろう。元気づけ方としては随分粗雑ではあるが、セツらしいと言えばセツらしかった。

 ――全く、こいつは気持ちの良い位の馬鹿だ。

 なんだかナグモはおかしくなって、つい噴き出してしまう。今度はセツの方が呆気に取られる。けれど笑うナグモを前にして、うつったのかセツも笑う。二人きりで話していて喧嘩別れにならないのがこれが初めてだった。


「それで、私に何か用か? まさか喧嘩をふっかけに来た訳ではあるまい」


 問えばセツは笑みを消し、ばつが悪そうに目を逸らす。


「いや……なんつーかさ、あんたに頼み事なんて本当はしたくないんだけど」


 珍しく歯切れの悪いセツにナグモは首を傾げる。


「? 何だ、男の癖にもじもじとしおって。言ってみろ」


 そう言って小突いてみるもセツは反撃もせずに俯き、思い詰めたような表情でいる。けれど少しの沈黙の後、決意したようにセツは顔を上げると、とんでもない事を言い出す。


「朔さん無しで皆を引き連れて、雨宮咲羅を倒すためについて来てくれないか?」


 あまりの事にナグモは言葉を失い、立ち尽くす。本気で言っているのかと疑ったがナグモを見詰めるセツの目は至って真剣で、何より覚悟に満ちたものだった。


「……クビキリ無しでか? 私達だけで戦おうと?」


 漸く出て来た問いにセツは頷く。


「馬鹿か……っ!? 無駄死にするに決まっている、あまりにも無謀過ぎるぞ!」


 声を荒げてナグモはセツを止めようとする。近付く事も恐れずにその肩を強く掴み、どうかしていると告げる。実際、朔の存在無しで雨宮咲羅に挑むなど愚の骨頂だ。確かに免疫者達も大分集まって来て、戦いを挑んでも問題ない力を既に持っている。しかし少しでも勝利の確率を上げるならば朔と共に動くべきだろう。


「セツ、悪い事は言わない。クビキリと一緒に――」

「嫌なんだッ!」


 聞きたく無いと言わんばかりにセツは否定の声を上げ、ナグモへと詰め寄る。


「俺、どうしても朔さんを戦わせたく無いんだ……! 分かってる。これは俺のどうしようもない我が儘だって。他の人を巻き込むのも間違っているって。でも、朔さんきっと死ぬつもりだ……それを止めるには俺たちだけで先に雨宮咲羅を叩くしかない。あれの壊し方は、朔さんから聞いてる」


 だから、とセツが言う前にナグモは首を振る。


「……駄目だ、無茶だ」


 ぐっと私的な感情を堪えてナグモは切り捨てる。しかし去ろうとするナグモの腕を掴み、セツは必死の表情で説き伏せようとした。


「俺たちが無力だって事か? 何の為に耐性がありそうな免疫者の人間たちを集めて来た? 戦って未来を切り開くためだろ? 俺は――覚悟はできているんだ」


 お前は違うのか?、と。

 その手の強さと、瞳にナグモの心が揺らぐ。そして悟った。セツはクビキリが好きなのだと。心が痛んだ。けれど今のナグモにとって大切なセツが、頭を下げて自分のプライドも何もかもを捨てて頼み込んでいる。そしてナグモにとってはクビキリも大切な人だ。

 廃墟の女王という地位がナグモ個人の望みを邪魔する。何を今一番優先すべきかナグモは分からなくなり困惑する。距離を取っていれば良かった。そうしたら今目の前にいるセツの願いだってこんな苦しい思いをせずに切り捨てる事ができただろう。

 全ては己の甘さが招いた結果だ。ナグモはぐっと心を殺して、掴まれた腕を振りほどこうする。けれどより一層強くセツに掴まれて、あの焦茶色の瞳で見詰められて、乞われる。


「ナグモ、頼む。一緒に戦ってくれ」


 そうやってナグモが好いた声で呼ばれれば、何故か、もう何も考える事ができなくなった。


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