第10話 ネズミなんていなければ


 夜中、アリスは声に気づいて目を開けた。目と鼻の先にウラノスの寝顔があって、アリスはあせる。


 ――えっと……この状況は……?


 かけられていたハンカチから抜け出て、きょろきょろと辺りを見回す。

 夕食を終えて宿泊している部屋に戻って来たのは覚えている。アリスを部屋のすみにあった机に載せ、彼はその机で書き物をしていたはずだ。


 ――途中で寝てしまったのかしら……?


 薄暗い室内。ランプはすでに消えている。机の上に開かれているのは雑記帳だ。こうして間近で見ると、アリスが長年愛用している雑記帳とよく似ている。月明かりに照らされて、かろうじてその文字や記された図形が読み取れた。


 ――この魔法式から考えると、自分以外の姿を変える方法かな。あたしのために調べてくれているの……?


 昨夜も彼は調べごとをしていた。この様子からすると、変身魔法について調べていたのだろう。


 ――エマペトラ先生、あたし、必ずあなたに恩を返しますから。


 アリスはウラノスの寝顔を見ながら心に誓う。仕方なくやっていることのように彼は言うが、真剣に取り組んでくれているのはわかる。ウラノスが生真面目な性格であるから手を抜かないのだとしても、困り果てていたアリスにはありがたいことだ。


 ――綺麗な顔よね……。


 眼鏡を外して月影に照らされている横顔は、とても心を惹きつけられる。


 ――眼鏡をかけていないのって新鮮だなぁ。


 寝ているときまで気が張っているはずはなく、無防備な姿は蠱惑こわく的だ。見れば見るほど、もっと近付いてみたくなる。

 小さな身体を少しだけ寄せて顔を覗き込む。すると、記憶の中にある影と重なって見えた。太陽の光と同じ色のサラサラの髪が逆光の中でもはっきりと感じられる。


『私の名前を覚えていてください――』


 ひだまりのように暖かで、あどけなさが残る声が記憶からぼんやりとよみがえる。あの幼き日、出逢った少年魔導師との思い出。


 ――あれ?


 ウラノスの顔を見ていて気がついた。彼の長い睫毛まつげの先がしっとりと濡れている。


 ――涙? でも、どうして?


 おろおろしていると、彼の唇が動いた。


「お母様……私を独りにしないで……」


 かすかに聞き取れる台詞。

 寝言だ。彼の寝言が聞こえたから目が覚めたのだとアリスは思い至る。


 ――どんな夢を見ているのかしら?


 もっと近付けばわかるだろうか。アリスはウラノスの顔にそっと頭を寄せる。

 再び、彼の口元が動いた。


「……ネズミなんていなければ……」


 ――ネズミなんて?


 聞き間違いだろうか。絶望さえ感じられる低い声は、しかし確かにそう呟いたように聞こえた。


 ――お母様とネズミに接点を感じないんだけど……。


 詳しく知りたいと興味が湧く。だが、彼の目蓋まぶたがぴくりと動いたのに気づいて、アリスはハンカチの中に素早く戻った。寝たふりをして様子を窺う。

 ウラノスは目を覚ましたらしかった。衣擦きぬずれの音がして、そのあと眼鏡に手が触れたらしい物音がした。


「アリス君がそばにいたせいかな……」


 憂鬱ゆううつそうな声が頭上でする。ハンカチの位置を直し、ウラノスは寝台へと移動した。寝ぼけているのか、足音が不規則だ。やがて倒れ込む音がして、寝息が聞こえはじめる。

 昼間の様子からは感じなかったが、どうも疲れているようだ。アリスが寝ていると信じて、気が緩んだに違いない。


 ――夕食のときまでいろいろ厄介ごとが続いたんだから、当然よね。エマペトラ先生だって人の子なんだし。


 だけど、とアリスはハンカチから抜け出て思う。


 ――彼は一体なんの夢を見ていたの?

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