第七話

 万松柏たちにあてがわれたのは来客を泊めるための宿泊房だった。「房」とはいっても仙府の一画を贅沢に使って建てられた大規模な四合院で、大家族がまるまる住める広さがあるばかりか、内装も生活の品も抜かりなく整えられている。そこの一室に通された万松柏はいきなり寝台に身を投げ出し、仙師の宿舎には存在しない柔らかい寝具を堪能した。


「ご不満な点がありましたら、何なりとお申し付けください。だい……万先生」

 二人を連れてきた童僕は呆れたような、懐かしいような面持ちで告げてぺこりと頭を下げた。万松柏は上半身を起こして軽快に礼を述べて童僕を見送り、再び毛布に体を預けた。


「比連、こっちにおいで。気持ち良いぞ」


 同じく万松柏をぽかんと見ている比連に声をかけると、比連は小さく頷いておずおずと寝台に歩み寄った。そもそも比連たち妖獣はその善悪にかかわらず野山で修行するものだし、比連は万松柏と会ってからは野宿のような暮らしを送ってきた。初めての高級な部屋に戸惑っているのだろうと万松柏は胸の内で結論づけると、布団をつつく比連を寝台に引き上げてやった。


「……ふわふわ」


 物珍しそうに呟く比連に、「そうだろう」と笑う万松柏。


「ここでこうやって寝転ぶんだ。ござの上より良いだろう?」


 言いながらごろんと寝転がると、比連も真似をして横になる。しばらく落ち着かない様子で体をもぞもぞさせていた比連だったが、やがて横向けに体を丸めると、すうすうと寝息を立て始めた。

 万松柏は比連にそっと毛布をかけてやり、戸口にちらりと目をやった。怪我のせいであまり動き回ることはできないが、だからといって廊下の童僕が中の様子をうかがっていることが分からない万松柏ではない。天蓋を見上げてじっとしていると、やがて童僕の気配は遠ざかっていった。

 万松柏は深くため息をつき、天蓋を睨んだまま両手を頭の下に入れた。手放しで歓迎されるわけがないとは思っていたが、やはり弟子たちの間には彼に対する疑いや不信感が残っているのだ。



 万松柏はそのまましばらくぼんやりしていたが、やがて街で遭遇した例の魔偶を思い出した――彼が何者であるにせよ、まずはどの仙府の出身で、いつ失踪したのかを突き止めなければならない。その上で必要な対策を講じ、最終的にはこの強敵を除くのだ。もしもあの男が魔偶でありながら「主人」の役割も兼ねているとなると、彼を除くことで間違いなく魔界に一矢報いることになる。部外者の協力があったとなると仙門内での聞こえは悪くなるかもしれないが、何百年と続いてきた戦乱の歴史にひとつの勝ち星が輝くことに変わりはないのだ。

 その一方で、彼を消してしまうことに抵抗を覚える自分がいた。ひとつには、屋根から落ちた万松柏を飛び出して抱きとめた、その真意を突き止めたかった。しかも、抱かれていた間の安心感は何だったのだろう――思い返すほどに、あのときの魔偶に敵意や悪意がないことが引っかかる。そしてそれに身を任せ、頼り切っていた自分自身も分からなかった。あの瞬間、二人ともが、万松柏を抱き、万松柏が抱かれている光景に違和感を覚えていなかったのだ。さらに不可解なことに、気分が落ち着いた状態で思い返しても、そうあることが自然だという感覚が胸の奥底に湧いている。まるで今まで求めていたものの全てがあの瞬間に詰まっていたかのような、そんな錯覚さえ覚えるのだ。


 万松柏は寝転んだまま襟元をぎゅっと握りしめた。考えれば考えるほどにあの魔偶の目が脳裏に貼りつき、胸がざわつくのだ。それは五歳で親元を離れて白凰仙府にやって来た日に感じた寂しさのようでいて、魔偶の討伐で生まれ故郷を通りがかったときに感じた懐かしさにも似ている。比連以外の魔偶とは何のかかわりもないはずなのに、なぜかあの魔偶を昔から知っているような気がしてならない。一番長い付き合いの沈萍よりも古く、もっとずっと昔から知っているような、そんな奇妙な感覚だ。


「……どうして」


 万松柏はぽつりと呟いた。

 どうして、初めて会った敵なのに、こんなに心乱されるのだろう。



 万松柏はそのままぼんやりと、沈黙の中に沈んでいた——すると廊下から足音が聞こえ、人の気配が再び現れた。

 慌てて飛び起き、襟元を正す間にも、「万先生」と呼ぶ声がする。万松柏が応えると、沈萍が扉を開けて部屋に入ってきた。


「掌門の暁晨子ぎょうしんしがお見えです。あなたが遭遇した魔偶について、是非詳しく聞きたいとのこと」


 沈萍が言い終わらないうちに、白くゆったりとした道袍をまとった人物が部屋に入ってくる。慌てて寝台から降りようとした万松柏をすっと手を上げて制すると、その男は部屋の真ん中の卓に着いて沈萍を呼んだ。


「沈萍。松柏を手伝ってやりなさい」


 沈萍はさっと頭を下げると、万松柏に駆け寄ってずいと手を差し伸べた。その手を支えに寝台を降り、包帯を巻いた足を庇うように移動する間、その男——白凰仙府の掌門、暁晨子は、嬉しそうに目を細めて万松柏が座るのを待っていた。


「久しいな、好徒兒我が弟子よ。元気そうで何よりだ」


 追放前と変わらないゆったりと深い声音に、万松柏はかえって頭を殴られたような気分になった。

 雪のように白い道袍と頭髪に、深い叡智を湛えた穏やかな目元。口の端を柔らかく持ち上げて笑う顔は仏像のように静かで、重ねてきた年月を一切感じさせない風貌はまさしく神仙のそれだ。

 そして、この老練の仙師は、良い行いをした弟子には決まって「好徒兒」と呼びかける——これは暁晨子が弟子を褒めるときの言葉なのだ。まさかまたこの言葉をもう一度聞くとは思っていなかった万松柏はぽかんと口を開けたまま、挨拶の言葉も忘れてしまった。その横では沈萍がありえないというように目を見開き、今にも暁晨子に噛みつきそうだ。


「……ご無沙汰しております、仙長せんちょう。此度の招待はまこと身に余る光栄、白凰仙府の皆様方には感謝の念に絶えません」


 万松柏はなんとか言葉を捻り出したが、胸の内では慚愧の念が今までにないほど膨れ上がっていた。万松柏は恩を仇で返したも同然なのだ——それなのに、この師はなおも彼を弟子として認めている。


「己の善と信じるところを実際に行動に移すこと、これこそが修仙において大切なのだ。お前が曇りない信念を持つ限り、事実上の縁は切れても我らの関係は変わらない」


「ですが、師尊!」


 沈萍がついに反論の声を上げたが、暁晨子は軽く視線をやって彼を制すると、そのまま幅広の袖に手を入れた。


「私とて思い出話にふけるために来たわけではない。話は沈萍から聞いているのだが……その件について、仙門としてはやはり遭遇した本人から詳しく聞かねばならないのでな」


 話しながら暁晨子は袖の中をまさぐり、やがて古くて太い竹簡を一巻き取り出した。


「これは魔界との戦いで命を落としたか、消息を絶った白凰仙府の仙師たちの名簿だ。名、齢、修為、そしてどのような最期だったかが全て記載されている」

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