第三話

 固まっていた群衆が弾かれたように慌てだし、街はたちまちのうちに混沌の中へと放り出された。誰かが「魔偶だ!」と叫び、蜂の巣をつついたような騒ぎにさらに拍車がかかる。万松柏は立てかけていた剣を引ったくって背中に渡すと、逃げ惑う人々の波に飛び込んだ。


「比連! 比連どこだ!」


 人波を掻き分けて万松柏は叫んだ。小さな巻き毛を探して通りの端や路地の中、屋台の影にくまなく目を凝らす。が、人波の中で目に入るのは知らない人々ばかりだ。

 焦りが募る中、ついに近くの屋根が爆ぜた。

 煙が晴れるとそこに立っていたのは、黒い長袍に身を包み、腰まである黒髪を結わずに風に遊ばせている偉丈夫だった。整った顔付きは一切の感情を持たず、全身にはどす黒い邪気をまとい、切れ長の双眸は不吉な金色の光を放っている。


 男が冷たい目で周囲を見回す間にも、そこかしこで邪気が漂い始める。今や街が魔偶に襲われていることは明らかだった。万松柏は小さく舌打ちすると背中の剣を抜き放ち、反対の手に作った剣指を急に黒くなった天に向かって高く突き上げた。


 内功が青白い光となって放たれ、花火のように空中で爆ぜる。各地に散らばる仙師たちが共通で使う救援信号だ——これを打てば近くの仙府から援軍が来る。あとはそれまで持ち堪えるだけだ。


「皆早く逃げろ!」


 万松柏は腹の底から大声を出すと、一人魔偶の群れへと突進した。長剣がヒュッと鳴り、青白い筋を残して次から次へと魔偶を切り裂いていく。万松柏はあっという間に五体を倒してしまった——救世主の正体に驚いたように振り向いた者が何人かいたが、万千秋は彼らをも急き立てて逃げさせる。

 今の万松柏は浮浪者紛いの胡散臭い伏魔師だが、「正当な修行を積み」、由緒正しい仙府である「白凰山のお墨付きを得て」いた仙師の過去は本物だ。魔界との戦いで常に前線に立ってきた実力もある。それを嘘だと笑われても、いざというときに必要な誰かを助けることができればそれで良い——たとえ後ろ指を指されても、またそれが倒すべき敵であっても、その誰かを守るためなら万松柏は何も厭わなかった。


「おじさん!」


 最後の数人を逃したとき、万松柏は急に背中に衝撃を覚えた。振り向くと、比連が万松柏の腰にぎゅっと抱きついている。


「比連!」


 万松柏は安堵の声とともに比連を抱きしめた。


「無事だったか。怪我はないか?」


「けが、もうしてる」


 小首を傾げる比連は落ち着きのない表情をしているものの、いつものように言い返してくるあたり平静を保ててはいるようだ。万松柏は比連の頭を撫でると、鳥の姿になるよう言った。


「少し荒れるが、ここにいてくれ」


 万松柏の手の中で黒い小鳥が頷き、大人しく懐に潜り込む。万松柏は剣を一振りして背中で構えると、胸の前で剣指を作った。


 目の前にいるのは金色の目をぎらつかせる黒い人型の群れだ。大きいのも小さいのも、太いのも細いのも、皆眼前に一人残った標的——万松柏に狙いを定めている。その数十は下らず、しかもこれから増えるだろう。

 万松柏は大きく深呼吸すると、魔偶の一群に向かって静かに告げた。


「来い」


 一瞬の静寂——そしてそれを切り裂く咆哮。


 黒い影が大挙して万松柏に襲いかかり、その間を閃光が舞い踊る。脇目も振らずに襲い来る魔偶を万松柏は全て一太刀で斬り伏せた。魔偶との戦いは消耗戦だ。そのため少ない手数で一体を倒し、功力を温存しなければならないのだ。

 突き、刺し、薙ぎ払い、剣が通ったあとには尾を引く閃光と黒い塊だけが残されている。万松柏は一切の駆け引きをせずに目の前の魔偶の急所を狙い続けた。魔偶は目の前の敵をがむしゃらに襲うため、隠し手や搦め手が通用しないのだ。


 前後左右から降り注ぐ黒い爪を避け、間合いに入った影を切り裂き、その延長で別の影に剣を突き立てる。息つく間もなく襲い来る魔偶を俊敏にいなしつつ、万松柏はちらちらとあたりに視線を送っていた。魔偶は魔偶たちだけで人間界に攻め込むのではなく、必ず彼らを操る「主人」が近くにいる。それは絶対と言っていいほど方術師で、魔界との境界を開く役目も担っている。この「主人」を失えば、魔偶は従うべき命令が分からず途端に力を失うのだ。しかし、黒い影の隙間から見た限りではそれらしき人影は見当たらなかった。一人だけ、屋根の上で成り行きを静観している例の男はいるものの、後方で手を回す魔術師というよりも前線で戦う戦士の風格を漂わせている。それに地面からでも分かる禍々しい雰囲気も、魔偶のそれにかなり近い——しかし、魔偶が魔偶の指揮を取るなどという話は聞いたことがない。


 思考にふける間にも、黒く凶暴な爪が万松柏を引き裂こうとする。伸びてきた腕を切り落とし、さらに胴体を一刀両断にした万松柏は、急にハッと目を見開いた。


 いや、いる――魔界には「魔鋒まほう」と呼ばれる魔偶が一体いて、かなりの信任を受けているという話を聞いたことがある。魔鋒は腕が立つだけでなく、意識や思考が他の魔偶よりはっきりしている。そのため操られる身でありながらも裁量を任されているのだと。


 仙師時代に遭遇したことはないが、まさかそれがこの街を襲っている魔偶たちの頭なのだろうか。恐るべき可能性に気付いた刹那、万松柏の耳元を魔偶の爪が掠った。ぎょっとして身を捩り、片手に印を結ぶと、万松柏は内力を魔偶に向けて放った。黒い影が仲間を巻き添えにしながら吹っ飛び、壁に激突して穴を開ける。万松柏はその隙に手首をひねって呪符を取り出すと、声高に叫んで地面に叩きつけた。


聖焔滅魔せいえんめつま!」


 ゴウッと唸りを上げて青白い炎が巻き起こる。炎は咆哮を上げる魔偶たちをたちどころに飲み込み、勢いをつけて広がっていく。

 万松柏はさっと地面を蹴って飛び上がり、手近な屋根に着地した。素早くあたりを見回すと、ちょうど数軒先に例の黒衣の男が立っている。万松柏は額に流れる汗を拭い、わずかに重くなっている手足にもう一度力を込めて男に突進した。

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