箱庭の管理人

つきたておもち

プロローグ

第1話

 馬車での往来が、振動が少なく快適に走れるように、と、でこぼこ無く整然と敷き詰められた石畳造りのメイン通りから一本路地を外した奥にある、雑多な生活路をアシアは特にあてはなく散策していた。

 悪路、とまでは行かないが、それでも少し足元に気を付けて歩かないと躓いてしまいそうになる。

 見知らぬ者が立ち入れば怪しまれるかとも考え、昼を少し回った時間帯の陽の光のまぶしさもありフードを目深にかぶり薄汚れたコートをまとっていたが、この路地のすれ違う人々には活気はみられず誰もアシアをみとがめることはなかった。

 雑多な生活路は大人が3人、横並びになればすれ違うことが難しく、石造りで組まれている4階から5階建てのアパートと思しき建物が圧迫感を持って建ちそびえている。それらの下を通ると、時折怒号が飛び交い、子どもの泣き声が聞こえてくる。さらに、他の生活音と漂う悪臭混じりの生活臭。

 いくら表道路がキレイであっても生活路の環境を見れば、その国の経済力や質が分かってしまう。

 この国は、あまりよろしくない部類だ。

 そのそも、立ち寄るつもりのなかった国だった。

 アシアの師が主と仰いでいる者が統べる、この国から遥か東にある大国「オウカ国」と親交の深い、ここから遥か西にある大国「ライカ国」へ、アシアは師の使いで訪れ、1か月滞在し、師の命を果たしたその帰路に気まぐれに立ち寄っただけの国だった。

 この国に関してはオウカ国にいた時に、どこからともなくアシアの耳に入ってきていた風聞から、もともとあまり良い印象は抱いていなかった。

 だから、かもしれない。

 本来ならば立ち寄る予定などなかったこの国へ立ち寄ってしまったのは、正直に言えばアシアの師への旅の土産話のひとつでも得られれば、といった半分興味本位だったのだと言えなくもなかった。

 この場に立ってみるとお世辞にも市井の者に対して最低限の生活が保障されている様子はうかがえず、国に君臨しているわずか一握りの者たちが富を貪っている構図が推測できる。街並みから、国の運営はもう、立ち行かなくなるのがそこまで来ているのが見え隠れしだしている。

「長くはないな。」

 そう独りごちた時だった。

「旦那様、たった5ルークだ。」

 脇道の暗がりからぬっと、いつ洗ったかわからないボサついた髪、伸びるがままに放置しているのであろう無精髭をたくわえた、見るからに胡散臭い中年の男が手を差し出し、アシアのコートの端を掴んできた。

見知らぬ街、決して治安が良くないであろう路地裏を知らず緊張しながら散策していたアシアは、反射的にその手を払いのけると一歩足を引き、瞬時に身体中に緊張を走らせた。しかし、男の身なりと男の陰に隠れる形で、路地奥で佇んでいる子どもらしき人影を視認するとその緊張を解き、

「何か、用ですか?」

声色を普段より低くし、男をねめつけながらゆっくりとした口調で問うた。

 否、問わなくても解る。これは人身売買を持ちかけられている。

 国によっては奴隷制度があり、制度がある国は人身売買を公に認めているが、そのような制度がある国は今やまれだった。たいていの国は『表側』では禁止にしている。禁止ということはそれを実行した者には罰則が科せられるのは当然であり、このような取引に安易に答えるのは詳細を知らない国では危険なことだ。

 この国はどうだったか、とアシアはこの国の法にあまり明るくない記憶の中を必死に探ってみたが、出てこない。特に印象に残っていないということは、たぶん、『表側』では人身販売を禁止にしている国である可能性が高かった。

 しかし、男はアシアの低く硬い声色を気にもせず、

「ほかの子は50だった。でもこいつだけはだめだった。だから、5、だ。」

片手で5を示し、もう片方の手は手のひらを上に向け、いかにもこの売買が得なものなのだ、と代金をせびってくる。

 男の陰に生気なくうつむき佇んでいる子どもをアシアはちらり、と見遣る。

 襤褸を被っただけの粗末な服。もちろん裸足であり、その手足は枯れ木のように細い。それなのに下腹だけが少し出ているように見えているのはおそらく栄養失調によるものだろう。髪は生まれた時から切ったことがないのだろうか、と思うくらい腰くらいまで無造作に伸びており、その姿形から性別の判断はつかなかった。年齢は外見からは4、5歳くらいに見える。

 親から口減らしに売られたのだろうか。

 この国の金銭の価値では50あれば、贅沢しなければひと月は生活できる値だ。5だと一週間は暮らせる。ただし、酒代、賭博に消えてしまうのであれば、5なら一瞬で、50なら一晩と持たないだろう。

 どちらにしても、この国の事情に明るくないアシアがこの手の話にほいほい乗るのは危険だった。無視をして立ち去るのが賢明な判断だ。

 そう考えに至り、返事もせず踵を返そうとしたところ、

「この旦那までだめなら、もうお前はここで野垂れろ。」

 商売ではなく、捨て置く話をしてきた。

 その言葉に、踵を返そうとしたその足を止めたアシアを見て、

「だってそうだろ。ちっとも売れやしないコイツをいつまでも飼っておけるか。旦那も見てのとおり、こいつのこのナリだ。立っているのがやっとの体力で仕事もろくすっぽできない、かといって慰み者にもなりゃしない。こいつはタダだったとはいえ、損した商売だ。こっちだって、今日を食べていかなきゃなんないんだ。」

 最後の言葉は怒りを滲ませ、吐き捨てるようだった。

 人道的な配慮のない人身売買は決して許されるものではない。しかしながら、この男もこの国では人生の逆転劇があり得ることのない、売られ捨てられようとするこの子どもと同様の弱者であることにかわりはなかった。

 そう思うと、ざわり、と心がざわめく。

 かといって、一時的な感情で行動に移すのは、あまりよろしくないとも思う。特に、他人の人生が自分の身に委ねられるかもしれない、といった時は、だ。そうでなくとも自分は『箱庭』の流れから逸脱している導師のひとりであるのだから。

 そのような、アシアがこれから起こそうとする行動に対して戒めの言葉が瞬時に頭に浮かんだ。

 が、アシアは小さなため息をつくことで頭に浮かんだそれら自分への警告を振り払うと、

「5ルークでしたね。」

懐から小銭袋を取り出し、口に出した金銭より多く男の手に渡した。

「こりゃあ。」

 掌に乗せられた小銭を見て、少しの驚きと喜色の混ざったような表情を浮かべた男へ、

「この子は僕が養親として責任を持ってお預かりします。これは今までこの子を養ってくださった代金です。決してこの子をあなたから買うための金銭ではありません。」

 アシアがこの子どもの里親として申し出、男に渡す金銭は男がこの子を今まで養ってきた必要経費であり、人身売買ではないことを念押しした。

「わかっていますよ、旦那様。…ほら、これからはこの旦那様の言うことをちゃんと聞くんだぞ。」

 アシアの言葉の意図に気づいているのかいないのか、媚びるような笑みとなった男は自分の陰に隠れるようにして立っている子どもの細い手首を武骨な手でつかむと、乱暴にその陰から引っ張り出し、アシアの前に立たせた。

 陽の光の下に無理矢理さらされたその子どもは、視線を足元に落としたままアシアをちらりとも見ない。うつむいたままではあるが、そこから見える表情は悲哀でもなく、恐怖でもなく、それはあきらめでもなく。

 何の感情もない、無気だった。

 この様子から、この子どもがどのような経過をたどりこの場に立っているのか、想像に難くない。

 しかし、どれほど豊かな国であっても必ず存在する『貧困の子ども』の姿だ。

「名前は、なんていうんですか?」

 アシアは子どもの目線に合うように膝を折り、目深にかぶっていたフードを剥ぐ。フードの下からは白金色で少しくせ毛混じりの短髪と、琥珀色の瞳に柔らかな笑みを浮かべた、歳の頃は27、8とおぼしき青年の姿が現れた。

 青年は彼の左手を取ると自身の手でそっと包み込み、先ほどの男に対してとは違う柔らかな声音で名を問う。

 子どもは手を取られた瞬間、弾けるようにびくり、とするが、アシアの手を振りほどくことはなかった。そして、伏せ気味だった瞼をゆっくりと開けた。

 最初、瞳の色は黒だと思った。

 しかし、すぐにそれはとても濃い藍色なのだと気づく。黒とみまがう程の深い、深い藍色。

「ノィナ。」

 小さな声で返ってきたその名は、いわゆる『名無し』という意味だった。

 その名を聞いた後、アシアは半拍置き、

「・・・そうですか。では、僕が君の名付け親になってもいいですか?」

柔らかな笑みを浮かべたまま、静かに問う。彼がこくりとうなずくのを確認するとアシアは、

「『ディフ』、はどうですか?」

思案する間を置かず、即座にそう提案した。

 名付け親を、の申し出と同時にアシアに降りてきた彼の名、『ディフ』。その意は、困難に立ち向かう、だ。

 それは啓示。天啓。

 この子どもがいわゆる神といわれるべき存在から、生まれた時に賜ったものだ。

 平たく言えばこの子の『運命』。

「ディフ・・・。」

 小さくその名を子どもは呟くと、その藍色の瞳に淋しさの色を一瞬だけ過ぎらせた。が、すぐに「はい。」と答え、それに続き、

「これからよろしくおねがいします。だんなさま。」

たぶん、彼を売った男から躾けられたのであろう言葉を口にした。

 アシアはすかさず否定の意で軽く首を横に振ると、

「僕の名は、アシアです。アシア、と呼んでください。」

彼の手を包み込んだその手に少し力を入れ、握る。

「アシアさま。」

「違います。アシア、です。」

「・・・アシア?」

 困惑気味にアシアの名を呼んだ小さな子どもの声に、アシアは「はい。」と答えると、

「こちらこそ、これからよろしくお願いしますね、ディフ。」

この子どもの不安を払拭する、柔らかな春の陽光のような暖かな笑顔を浮かべた。

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