第7話 人格渦

 ドロロロロォ…と原動機エンジンの音がまるで生き物の鼓動の様に低く鳴り響く、薄暗い警邏車けいらしゃの車内にて、篠村刑事はルームミラー越しに後部座席に座る暮島へと視線を送りながら、

 「なぁ探偵の嬢ちゃん、そろそろ教えてくれよ…今、俺達は一体何処へ向かっているんだ?」

 と、問いかけました。この様に篠村刑事が問いかけるのも、無理もありませんでした。何故なら、N邸宅を後にしてからと言うもの、篠村刑事は唯々、「手前の分岐を左へ」、「突き当たりを右へ」…と言った具合の暮島から云われ、指示されるが侭に従い続け、警邏車けいらしゃを走らせていたため、自分が今何処にいてこれから先何処へと辿り着くのか全く持って、皆目見当がつかないのです。

 右前方の運転席に座る篠村刑事から問いかけられた暮島は、N邸宅にて怪人αの手下である山代刑事から手渡された、題のない小説が書きつづられた原稿用紙へと視線を向け、

 「決まっているではありませんか、篠村刑事。あの人の元ですよ…」

 と、霧中のその最中の様に輪郭がハッキリとしない答えを返すのでありました。当然、篠村刑事は未だ、心当たりが片鱗も思い浮かばない様子でありました。すると、そこへ、暮島は暗示を指し示すかの様に話を続けるのでありました。

 「あの人は今、入り乱れた人格の渦流かりゅう…言わば、人格渦に呑まれてしまっています。ですから、相棒である私が駆けつけなければ、手を差し伸ばさなければならないのです……」

 進むべき道を示す暮島の浮かべる表情や、溜め息の様に吐き捨てる声色から、暮島は何処か、底知れぬ心配に満ち溢れている様な、償いきれない程の大きな罪悪感に押しつぶされている様な…そんな風に、車を走らせる篠村刑事には感じ取れたのでありました。決して、それが正か負か、定かではありませんでした。しかし、篠村刑事がこれまでにつちかってきた、俗に言います所の『刑事の勘』がその様に語りかけてくるのでありました。




***




 憂助は一人、静寂に包まれた『黒い部屋』に閉じ籠もり、優雅でありながらも何処か異様な洋の装飾が施された木製の椅子へと深く腰掛けておりました。この椅子の特徴が記された文から疑問に思われた読者の方もおられることでしょう。そうです、この木製の椅子は先ほどまで七海 冬華が拘束されていた椅子なのです。では、この椅子に拘束されていた七海 冬華は一体何処へ行ってしまったのかと申しますと、数刻ほど前、七海 冬華にとある話を言い聞かせた後、怪人αが再び睡眠薬によって眠らせ、K街の一角にある公園に逃がして来てしまったのです。不思議で々々々々仕方がありません、一体怪人αは何のために危険を犯してまで七海 冬華を誘拐をしたと言うのでしょうか…全てを知るのは唯一人、怪人αその人だけであります。ですが、どうかご安心下さい、読者の皆様はもう少々先まで物語をお読み頂ければ、怪人αの真意をお分かり頂けることでありましょう。

 「ははっ、これで私の…恥の多い生涯も閉幕か……最後の最後まで、誰も…辿………」

 そう空元気な声色で告げる怪人αの瞳は何処か遠くへと向いており、カチンカチン…と白銀色のオイルライターの蓋を親指で弾き、淡いながらも輝かしいほのうを灯しては消し、灯しては消しを繰り返しておりました。すると、その時であります、怪人αの背後に位置する『黒い部屋』の扉がガチャン…と音を立てて開いたのです。その様なことはあり得ない…起こりえないはずでありました。何故かと申しますと、怪人αの隠れ家は仮令たとえ、長い付き合いの部下の者達であろうと一切の情報を教えておらず、『黒い部屋』は正に誰も知り得ない虚無の真っ只中の筈なのです。それだと言うのに、は辿り着いた。怪人αは少々驚きながらも腰掛けていた椅子を跳ね上がる様に立ち上がり、扉の方へと急いで視線を向けました。すると、そこに立っていた彼女の正体は、最早、必然と言えるかも知れませんね…そう、彼女は名探偵Aと呼ばれる賢助のたった一人の相棒、暮島でありました。

 「どっ…どうして、君が……?」

 怪人αからの問い掛けに、暮島は聡明であり、尚且つ、慈愛に満ちた瞳を浮かべ、答えるのでありました。

 「辿り着きましたよ。怪人α…いえ、憂助さん」




***




 『黒い部屋』へと辿り着いた暮島の右手には、新田の人格の内の一人、推理作家aと呼ばれる考助の書きつづったあの『題の無い原稿』が納められた茶色い封筒が抱え持たれておりました。

 「その封筒は考助の…そうですか、山代君は捕まってしまったのですね」

 暮島の手に持たれた、茶色い封筒を目にした途端、怪人α改め新田の第三の人格、憂助は部下の山代が警察のお縄についてしまったのだと言うことを悟るのでありました。残念であり、哀しい気持ちを溜め息に込めてはぁ…と吐き捨てた憂助は椅子に立て掛けていた一把の杖を手に持ち、杖の中に隠された鋭利な細身の剣を抜き、争う意志のない無防備な暮島へと鋭利な剣の切っ先を向けて次の様な忠告を告げました。

 「流石は名探偵A…いや、賢助と共に歩んできた探偵の少女だ。まさか、私の隠れ家へと辿り着いてしまうとは。ですが、今は少々機会が悪い…さぁ、早くここを立ち去るのです。私の気が変わらぬ内に…お嬢さんだって無闇に命を失いたくはないでしょう?」

 冷徹な殺気を飼い馴らした怪人αからの忠告に、暮島は一切揺らぐこと無く、

 「断ります、私は貴方を救いに来たのですから」

 と、真っすぐな声を放つと共に右手を己が背後の腰辺りに回しながら答えるのでありました。憂助にとって、この返答は全く持って期待外れの返答でありました。暮島からの返答を聞き受けた憂助は再び深く溜息を吐き捨て、とても残念そうに、頭上一面に広がる真っ暗な天井を拝みました。そして、「そうですか。残念です…」と呟きながら天井を拝んでいた顔を正面へと向けますと、憂助は剣の柄を力強く握り絞め、暮島へと勢いよく隠し杖の刃を振り下ろしました。しかし、憂助の振り下ろした刃はガン…と硬い鋼同士がぶつかりあった、耳を貫く様な音を立てただけに終わり、暮島には刃の斬撃が届きませんでした。何故なら、暮島が賢助から貰い受けた十手を使って憂助の斬撃を防いでいたのです。

 「それは、賢助の十手…っ!?」

 斬撃を初めて防がれ、己が身に雷が落ちたかの様な衝撃が流れた憂助は思わず目を丸く見開き、暮島の持つ十手から目が離せなくなってしまいました。すると、暮島は一言、

 「…もう、その様な…快楽殺人鬼を演じるのは辞めて下さい、憂助さん……」

 と、まるで、全てを見透かしているかの様に憂助へと告げました。すると、刹那の間に憂助は動揺に身体の自由を支配され、剣の柄を握る強張った手の力が僅かに弱まり、表情に揺らぎを見せました。しかし、あっと言う間も無く憂助は暮島の言葉を笑い捨て、表へと姿を見せた揺らぎを誤魔化すのでありました。

 「はっ、世まい言を…どうやらお嬢さんは人を見る目が乏しい様ですね。私は平気で人の命を奪う快楽殺人鬼の怪人、君の考えている様な優しい人間ではありませんよ……っ!」

 不敵な笑みを浮かべ、目にも留まらぬ早業の剣捌きで賢助の十手を遠方へと払い除けた憂助は、無防備となった暮島のか細い喉へと鋭利な剣先を突き出しました。しかしし、どういうことでありましょうか。唯一の武器である十手を失っても尚、暮島は一切表情を揺らがせることなく、憂助の攻撃を避けようと言った素振り一つ見せることはありませんでした。さながら、鋼の如き暮島の不動の覚悟に負け、憂助は剣先を喉の皮膚へと当たるすれすれでビタッ…と止めました。

「何故、何故なのです…どうして君は私の剣を避けようとしないのです……?」

 それはとてもとても、不思議で不可解そうに問いかけてくる憂助に、暮島は刃を向けられていながらも尚、優しく微笑みながら答えました。

「それは、全てを思い出したからですよ…」

「思い出したって、一体何を…?」

憂助からの問いかけに、暮島はどう言う訳か今まで思い出せずにいた…いえ、知らず知らずの内に自ら蓋をしてしまっていたのでありましょう。あの日、父親と母親が絶命する際の鮮明な記憶の断片を脳裏に呼び起こしました。

 当時、暮島邸の邸宅内は真っ暗な暗闇に支配されており、暮島は自分の身内である父親と母親の殺害される瞬間はハッキリとは目撃していませんでした。ですが、ほんの僅か…曇天の夜空が晴れ、空を覆っていた分厚い雲と雲の隙間から覗いた純白の月が淡い光を放ちました。そして、暮島邸の天井窓から僅かに差し込んだ月明かりに照らされ、ほんの僅かの間だけではありますが、殺害を終えた際の憂助の浮かべていた表情をつい先ほど見てきたかの様に鮮明に思い出しながら答えるのでありました。

「憂助さんが私の両親の命に手を掛けたあの時…」

「やっ、止めろ……」

「貴方は…」

「止めてくれっ!!!」

「笑ってなどいませんでした。むしろ…貴方は苦しんでいました」




***




 暮島の言葉を聞いた途端、憂助は一気に全身に纏っていた快楽殺人鬼の鍍金メッキが剥がれ、身体中から全ての力が消失してしまったかの様に膝から崩れ落ち、手に持っていた隠し杖の剣はカンカラン…と鋼特有の耳を容赦なく貫く様な音を立て、無造作に床へと転がりました。

 「憂助さん…貴方が過去に命を殺めてきた者達の名を覚えていますか?」

 「そっ、その様な者達の名…覚えている訳……」

 「いいえ、憂助さんは覚えているはずです。一人残らず全員…だって、無くなった方達の家は…古物商の滝沢家、宿屋の杉山家、駄菓子屋の桂野家、町工場の手島家、私の家…名医の暮島家、役者の黎元家。これらの家名…強いては名字を平仮名に書き換え、更にその頭文字のみを並べると……た、す、け、て、く、れ………。つまり、今までに亡くなった方達は皆、憂助さんの心から溢れ出た、助けの声だったのですよね」

 次から次へと、まるで心の内を隅から隅まで覗き込まれたかの様な暮島の披露する名推理に憂助は「あぁ…」と息を吐く様に返答を発し、鹿威しの様に頷いて答えるのでありました。

 「まさか私のメッセージを解く者が現れるとは…流石は賢助の相棒ですね、お嬢さん」

 「いえ、私はまだまだです。賢助さんはもっと早くから憂助さんの残していたメッセージに気がついていました。ですが、賢助さんでは憂助さんを助けることが出来ません。ですから、私が助けに来たのです。賢助さんの代わりに……」

 「助ける…私を?どうして、どうして、どうして…君の両親の命を奪った仇である私に手を差し伸べるのです?」

 とても理解できないと訴えかけてくる表情を浮かべた憂助からの問いかけに、暮島は苦しみと正面から向き合い、それでも尚、微笑みながら答えました。

 「確かに憂助さんは私にとってお父さんとお母さんを殺めた仇です…ですが、私は貴方を知ってしまった。何かに苦しみ、助けを求める貴方を…そして、貴方は私に教えてくれた。全てを失ったあの日、私は冷たい悲しみと化け物の様に恐ろしい殺意で胸が苦しくなって、寂しくて、薪に灯された風前の灯火の様に私も消えていなくなってしまいそうになりました。ですが、賢助さんはそんな私に手を差し伸べてくれました。名医の家系を継ぐため、ずっと家に引きこもって勉強ばかりしていた私に外の世界を教えてくれました。だから、今度は私が賢助さんと同体である憂助さんに恩を返したいのです」

 暮島の思いを聞き受けた途端、憂助は葛藤するかの様に両手で頭を抱え、強く押さえました。ですが、しばらくも経たない内にそれは収まりました。そして、憂助は一つの質問を暮島に問いかけました。

 「私の両親について、お嬢さんは知っていますか…?」

 「はい、過去に賢助さんから聞いたことがあります。確か…」

 暮島が過去に賢助から聞いたことをそっくりそのまま伝え、答えようとしたそのときです。憂助が先に紡いでいた口を開き

 「お父様はとっても賢い人で、お母様はとっても優しい人…彼はそう言っておりましたか?」

 と、問いかけてきました。暮島は不思議に思い首をかしげました。

 「はっ…はい、ですが…どうしてそれを憂助さんが?」

 「矢張り、そうですか……それは、賢助の…いえ、正しくは私の作り上げた偽りの記憶。理想の父と母の姿なのです」

 「理想…それじゃあ、本当の記憶は一体……」

 「知りたいですか、お嬢さんは…私の記憶を……」

 凍てつく程に深く、暗い絶望に満ち、どこか、鬱々とした眼差しを浮かべた憂助からの問いかけに、暮島は最初、恐れはしましたが迷うことなく力強く頷いて答えました。

 「そう…ですか。それでは、見事私のメッセージを解き明かした賞杯しょうはいも兼ねて、お教えしましょう…私の記憶、過去について……」




***




 「何故だ…何故お前はそうも出来損ないなのだ。理解に苦しむ……」

 この台詞はよく、憂助が父親から言われていた言葉でありました。

 「お前みたいな木偶でくは私の子じゃない…いっそのこと、産まなければ良かったんだわ……」

 この台詞はよく、憂助が母親から言われていた言葉でありました。憂助はさながら死人の様な瞳を己の足下へと向け、地獄へ帰って来てしまったかの様な表情を浮かべながら己が過去について暮島へと語り始めました。

 「私がまだ幼い頃…あの頃の毎日は一秒一刻、全てが正に生き地獄でした。屑箱に屑を投げつける様に私へと心無い台詞や暴言を浴びせ、少しでも苛立った際にはしつけと称し、私を拳で殴り、ベルトで叩きつけ、食事を与えずに監禁しました。

 それが私の日常でした。

 私は毎日読書をしていました。それが唯一の心の安らぎだったからです。読書をすれば忌まわしくも汚らわしい外界から離れ、己の世界へと引きもることが出来る。私一人でいられる…それがとても幸せでした。ですが、所詮しょせんは一時限りのしのぎ、現実から逃げることは出来ません…

 とある晩、満月が漂っていましたあの夜…私は食卓の横で拳を振るわれていました。あのひと曰く、唯の憂さ晴らしだそうです。しかし、その日はいつもと違いました。あのひとは酒に飲まれ、人間としての感情に歯止めが聞かなくなり、到頭、私へナイフを向けたのです。その細身で鋭利なナイフには輝かしい殺気が宿っていました」

 「もういい…お前みたいな目障りな奴はいらない。世のため、人様のために消えてしまえ……」

 そう告げた父親は憂助へと躊躇ちゅうちょすることなく、表情をビッタリと固め、まるで静止画の様な乏しい表情でナイフを振り下ろしました。一方、父親の行動から生まれて初めて感じた、自分でも何一つ分からない未知の感覚に、憂助は思わず反射的に後方へと尻を突く様に倒れ込みました。しかし、巧くかわし切れなかった憂助は己が顔の右頬にかすり傷を負ってしまいました。ツゥー…と痩せ細った頬の傷口から湧き出で、顎へと垂れて来た血液を右手のてのひらで拭い、両目でそれを見た憂助は心の奥底…魂に一番近い場所で凍てつく程に冷たい、死の恐怖が芽生える感覚を覚えました。その感覚は両足を動かさせない様に見えない恐怖の鎖で拘束し、血液に触れた右手をガクガク…と熊に狙われた子兎の様に震えさせました。一体どうすれば良いのか分からず、理性を恐怖に喰われてしまった憂助は左手で震える右手を必死に押さえながら、母親へと助けを求めるために視線を向けました。

 「たっ、た……たすけ………」

 憂助が助けを求めようとしたその時、母親は右手に持っていたフォークを力強く食卓上へと置き、まるでごみを見ているかの様な表情と眼差しを憂助へと向け、

 「早く死んでくれない、目障りなのよ……」

 と、一言吐き捨てました。この時、ようやく憂助は全てを悟り、理不尽な現実を理解しました。いえ、もしかしたら憂助は当の昔から既に理解しており、それでも尚、必死に目を逸らし、現実から逃げ続けていたのかも知れません。

 「私は…無価値だ……」

 己に一切の愛を受ける価値がないと悟った憂助は正気を取り戻し、見えない恐怖の鎖が破れ、硬直していた己の足が己の意思に従うようになりました。

 それからしばらくの間の記憶はありませんでした。まるで、意識を殺し続けてきた狂気に奪われ、気絶でもさせられていたかの様でありました。意識が戻ったその時、憂助の眼前に広がっていたのはドロドロとした血潮にまみれ、絶命した父親と母親の遺体が床に無造作に転がり、血液で汚れた部屋が倒れた燭台しょくだいより燃え移った焔によって次々と焼き払われてゆく光景でありました。私の知りうる限り、その光景は正にこの世のものでは無い…そう、言わば彼岸そのものでありました。

 「こ…これは……」

 呆然と燃え行く部屋の中にたたずんでいた憂助は己が右手に視線を向けると、両親の血液がしつこく纏わりついたナイフが握り締めてありました。

 憂助は涙を流さずに、笑わずにはいられませんでした。そう、憂助はこの瞬間、生まれて初めて殺しを犯し、生まれて初めて自由孤独を手にし、自分であって自分ではない異なる二つの人格、賢助と考助が生まれたのです。

 「ふっ、はぁはっ……はぁはははははははははっ…………………………………………」




***




 「これで分かったでしょう、私は無価値な人間なのです…」

 己が過去について洗いざらい全てを話し終えた憂助は床に膝を突いたまま、うつむいた顔を上げることが出来ませんでした。醜く、恥ばかりに満ちた己の過去を聞き、軽蔑けいべつの人相を浮かべているであろう暮島の顔を憂助は見ることができなかったのです。しかし、その時です、正面に立っていた暮島は床に膝を突きますと、必死なまでに力強く…それでいて何処か我が子を抱き抱える慈愛に満ちた母親の様に優しく、憂助へと抱擁ほうようしました。

 「お嬢さん…一体、何を……」

 あまりにも突然の暮島の行動に憂助が動揺しておりますと、暮島は憂助の右の耳元でささやく様に、優しい声色で答えました。

 「抱きしめているのですよ。私にとって大切で、価値ある人を…」

 「価値…私に……は…ははっ、何を…私は無価値な人間なのです。誰かに大切に思われる様な価値などどこにもありは…」

 酷く動揺し、震えた声で憂助がそう言いますと、暮島は、

 「この世に無価値な人なんていませよ、憂助さん」

 と、憂助の顔を誠実と優しさに照らし輝かされた瞳で見て、憂助の言い分を否定しました。

 「私は貴方賢助さんに沢山の価値をもらいました。探偵と言う素晴らしい仕事、様々な人達との関わり…そして、困っている人に手を差し伸べる優しい心、どれもこれも賢助さんと出会って…そして、知ることができた、今では私になくてはならない大切な価値です。仮令たとえ、今は見つからなくても、きっといつか憂助さんだけの大切な価値が見つかるはずです。だから、こんな所で死んじゃ駄目です。これからも生きて、生きて、生き抜いて…私と一緒に諦めずに探し続けましょう、貴方の…憂助さんだけの大切な価値を」

 「私だけの価値…お嬢さんは見つかると本気で思っているのですか……?」

 憂助からの問いかけに、暮島は、

 「えぇ、勿論です。何せ私は人の大切な価値を探す、探偵なのですから」

 と、胸を張り、優しく、暖かく微笑みながら答えました。今の暮島は空虚な夜空の様な憂助にとって太陽の様に眩しく、輝いて見えました。そして、そんな暮島を見た憂助は思いました「これが価値の光なのではないか…」と。それは近からずとも遠からずと言えるでしょう。そして、その光は次第に憂助にとって忌ま々々しきものから憧れ、恋い焦がれてしまうほどのものへと変わって行きました。

 「そうか、君は…君だけの価値を見つけることができたのですね……」

 暮島の輝かしい、自分には無い、陽光の様な希望に満ちた瞳を見た憂助は僅かにではありますが微笑みながら暮島の背に腕を回し、抱き締めようとしました。しかし、その時であります。二人の居る屋敷の何処かから、ドゴオォ…ゥンと心臓を直接握り締められるかの様な威圧を纏った爆発音が響き渡り、地震の如き強い振動が壁と床、天井を伝って襲い掛かってきたのです。




***




 「い…今の音、そして、地鳴りの様な揺れ……真逆まさかっ!?」

 押し寄せてきた爆音と振動に心当たりがあった憂助は顔を真っ青にし、脂汗を拭うと慌てて床に落ちていた隠し杖を拾い上げ、暮島を連れて黒い部屋を出て行きました。すると、案の定…悪しき出来事が起こっておりました。

 「こっ、これは…!?」

 目の前に広がる光景に暮島は口をぽかんと開き、一方憂助は歯をギシギシと食いしばりました。二人がこの様になってしまうのも無理なきことでありました。何故ならば、二人の眼前には罪人を焼く業火の如き紅蓮の焔が屋敷の隅積みまで燃え広がっていたのです。壮絶と一言で言い表すにはあまりにも殺伐とした、さながら地獄絵図の様な光景に憂助は溜め息を吐く様に呟きました。

 「どうやら、私が自殺するために用意しておいた爆薬、黒色火薬が爆発してしまったようだ…だが、一体どうして……」

 ここで一つ、読者の皆様には過去の記憶を思い出して頂きたい。憂助に誘拐され、黒い部屋に監禁されていた際、七海 冬華が部屋に充満したの匂いを嗅いで火山の麓に湧き出る温泉を連想したことを…そう、あの匂いの正体は火山帯で採掘される黒色火薬の原材料の一つ、硫黄の香りだったのです。

 話を戻しまして、バチバチと柱が爆ぜ、ガランガランと天井や壁が崩れ、今にも崩壊してしまいそうな屋敷内を憂助は暮島の手を掴み、暮島を守る様に迫り来る業火を避け、道なき道を進んで行きました。しかし、正に皮膚をあぶる様に熱い業火や優に2メートルを超える大きな瓦礫がれきは二人の行く手をはばもうと…いえ、地獄へいざなおうと、次から次へと残酷なまでに、容赦なく、猛威を振るい続けました。

 「ゴホッゴホッ…ヒュゥー、ヒュゥー……」

 脱出を試みる半ば、暮島は息苦しそうに咳を込み、ヒュゥーヒュゥー…と隙間風の様な音を呼吸と共に鳴らし始めました。どうやら、焔の撒き散らす煙を多く吸いすぎてしまったのでありましょう。吸い込んだ煙は暮島の肺をむしばんでゆき、足の動きもまるで老人の様に覚束なくなってゆきました。すると、その時です。今まで力強く手を握っていたはずの憂助が突如手を放し、背面からドン…と力強く突き飛ばして来たのです。体の構えを崩し、床へと倒れ込んだ暮島はゴホッゴホッ…と再び、酷く濁った音を帯びた咳を混みました。しかし、束の間の内に暮島の背後から…そう、丁度、憂助が居る方から何かが崩れてきたのでしょうか、大きな音が咆哮を挙げるかの様に鳴り響いてきした。突然の大音にビクッ…と体を震わせ、猫背から一変して鳩胸になるまで背筋を伸ばした暮島は右手で煙を吸わない様、口を塞ぎながらも背後へと視線を向けました。すると、そこには…

 「ゆっ、憂助さん…っ!!?」

 足を巧く動かせずにいた暮島をかばい、倒れてきた壁の下敷きへと成り果ててしまった憂助の姿がありました。

 「どっ、どうして…私を助けたのですか……っ!?」

 いつの間にか咳を込むことを忘れてしまう程に混乱し、慌てふためいていた暮島は何とか足を動かし、必死になって憂助の上にのさばる瓦礫がれきを退かそうとしました。しかし、たったの一人…強いては、未だ大人でもないか弱い少女である暮島にとってその瓦礫がれきは正に大岩の如き重さで、暮島の掌に火傷の痕ができるばかりで、のさばり続ける瓦礫がれきを微小たりとも動かすことは適いませんでした。

 「どうして、どうして、このままでは憂助さんが…憂助さんが……」

 二つの瞳からボロボロとすぐに蒸発し、消えてしまう繊細な涙の粒を溢す暮島の姿を目にした憂助は、

 「もういい…もういいのです。罪人である私のことは放っておいて、お嬢さんだけでもこの業火から逃げて下さい。私は元より自殺する魂胆だったのです。思い通り死ねて、私は心すっきりです…」

 と、何処か遠くへと視線を向け、上の空になりながらも言い放ちました。しかし、暮島の助け出そうとする手は一向に、動きを止める気配を見せません。

 「何を…しているのです。早くここから逃げて下さい。私はここで…」

 「…死なせません!言ったではありませんか、私は探偵です。憂助さんの大切な価値を見つけるその時まで、貴方は私の依頼人です」

 「で、ですが…私は罪人で……」

 「…確かに、憂助さんは私の家族を……多くの人達の命を奪った罪人です。でも、貴方は悪人ではありません!」

 必死に瓦礫がれきを退かそうと歯を食いしばり、言うことを聞かずに震える足を何とか抑えながらも抗う暮島の言葉を聞いた憂助は生まれて初めて、拳銃で打ち抜かれたかの様に激しく心を打たれてしまいました。そして、それを予想にもしていなかった故、驚きの余り表情がビタリと固まってしまいました。また、それだけに留まらず、驚きと共に何故か不思議とこそばゆい…嬉しい感情までもが沸々と湧き上がってくるのです。今までに経験したことの無い、この全く以て未知の心情に対応する術が見当たらず、翻弄されてしまっていた憂助は閉口し、ニタニタと微笑みながら次の様に話掛けました。

 「どうして私を助けたのか…確か君はそう言っていましたね。答は至って、至極単純…お嬢さんを失っては惜しいと思ったからです。君の良い所は底なしに優しい所です。そして、悪い所は…いや、これは最早、言うまでもありませんね…兎も角、それ程までに良くできた人をこの様な場所で死なせてしまっては非常に勿体ない」

 「憂助さん…」

 「さぁ、早く逃げて下さい…お嬢さん……」

 「でっ、でも…」

 「私のことならば心配御無用です。しばらくは…いえ、私の大切な価値をお嬢さんに見つけて頂くその時までは死ぬことを諦めるとします。それに、この程度の業火如きで易々と死ぬ私ではありませんよ。何せ、私は神出鬼没の怪人αその人なのですから」

 以前の様に…いえ、以前よりもより一層輝かしい希望の籠もった眼差しと、ニタニタとした相も変わらずの不敵な笑みを浮かべる憂助に、暮島は、

 「憂助さん…必ず、生きて帰ってきて下さいねっ!」 

 と、一言だけを言い残し、憂助の眼差しと、不敵な笑みと、言葉を信じてその場を一人で後にして行きました。

 「生きて…帰ってきて……ですかぁ、そんな言葉を掛けて貰える日が来ようとは。全く、人生と言うのは読めないものですね………」

 暮島から掛けられた、夢にまで見ていた、愛おしいとまで言えてきてしまう程に明々めいめいな言葉に憂助は唯一言、

 「お嬢さん、私を愛してくれて…ありがとう……」

 と、心の底から素直に、唯、感じるがままに微笑みながら、業火と業煙の狭間より覗き見える暮島の後ろ姿を見守るのでありました。




***




 あっという間に業火に喰い飲まれた屋敷の中を霞の様に薄れ行く意識の中、幾重にも試行錯誤を重ね、合戦の如き死闘の果てにこの屋敷を命辛々抜け出した暮島は表に待たせておいた篠村刑事と合流致しました。

 「探偵の嬢ちゃん、大丈夫か?これは一体、屋敷の中で何が起こっているんだ?」

 突然、眼前の屋敷で火災が起こったことに酷く動揺しているのでしょう。篠村刑事は業火に包まれた屋敷から這い出てきた暮島へ、次から次へと質問を投げ掛け続けました。新鮮な空気の元へとやってきた暮島は深く息を吸い、大きく息を吐き、焼き焦げ果ててしまいそうな己の肺を静めながら、何とか一言ずつ、ゆっくりと答えました。

 「彼の…屋敷…の……中に…怪人αが、憂助さんが………」

 「なっ…彼奴あいつがまだ、彼の屋敷の中に居るのか!?」

  暮島の細々とした声を何とか聞き取り、燃え行く屋敷の中に怪人αが未だ取り残されている事を知った篠村刑事は酷い脂汗をかきながらも枯茶色からちゃいろのトレンチコートを深く羽織り、屋敷の中に取り残されてしまった怪人αを助け出すため…強いては、生きた怪人αをこの手で御縄に掛け、罪を償わさせるため、この身を呈して飛び込んで行こうと硬く決心を固めましました。しかし、次の瞬間、屋敷の中に蓄えられていた、未だ引火せずにひっそりと潜んでいた大量の黒色火薬共が一斉に爆発し、ドグゥゴオオオォン…と鼓膜をなぶる様な大音の爆発音が屋敷を中心として夜のC森林の最奥に響き渡りました。再び起きた大規模な爆発に到頭とうとう耐えきれなくなった壁や床、柱などが次々と崩れ落ちてゆく様を見て、暮島は、

 「そんな、憂助さん…憂助……さん…………」

 と、唯々絶望に満ちた吐息を吐きながら呟きました。酷い動揺と父母かぞいろを失ったあの時以来のさながら地獄に墜ちたかの様な悲しみにさいなまれ、心身共に耐えきれなくなってしまった暮島は地べたへと吸い込まれるかの様に膝から崩れ落ちてしまいました。

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