第9話

 呆然と立ち尽くすジュリアンを後目にコリンヌは静かに部屋のドアを閉じた。満足この上ない表情を浮かべたコリンヌが前を向くと、目の前にジュリアンと似た顔立ちをした少年が立っていた。その少年は頭の後ろに両手を回しながら意地の悪そうな笑顔でコリンヌを見つめていた。コリンヌの顔が一瞬で曇った。


「シルヴァン。いつからそこにいたの?」


 彼の名はシルヴァン・アポリネール。アポリネール家の次男で年齢はコリンヌとジュリアンの1つ下だ。顔立ちはジュリアンの面影があるものの、黒目がちの鋭い眼光や不遜な態度はジュリアンとはまるで正反対の雰囲気を醸し出している。彼はとびきり生意気で、コリンヌと同じくとびきり優秀な子供だった。


「馬鹿兄貴の大声が俺の部屋まで聞こえたからさ。あいつ、あんなに大きな声を出せたんだな」

「じゃあ何十分もずっとそこに立ちっぱなしだったの?」

「まさか!トイレから戻るところでたまたま姉さんがあいつの部屋から出て来たんだよ。随分嬉しそうな顔をしてたじゃないか、コリンヌ」


 アポリネール家始まって以来の神童とまで誉めそやされるこの少年は、9歳とは思えない嗜虐的な笑顔をコリンヌに向けた。


「あんたには関係ないでしょ」


 コリンヌはつっけんどんにそう言って自分の部屋に向かって歩き始めたが、シルヴァンはその様子に構わず後ろから付いてきて話しかけてくる。


「ジュリアンの奴、随分明るい顔をして帰ってきたじゃん。まさか明日の下らないしきたりに張り切ってんのかな。本当にガキだなあいつ」


「口を慎みなさい、シルヴァン」


 コリンヌはちらりと後ろを向いて彼を一喝した。コリンヌの冷たい視線に気分を害したシルヴァンは、彼女を挑発してきた。


「はっ!あんな奴、兄弟じゃなかったら俺が率先して虐めてたぜ」


 コリンヌの眉がピクリと動き、背中を見せたまま無言で立ち止まった。コリンヌが何に一番腹を立てるかをよく知っているシルヴァンは、ジュリアンに対する聞くに堪えない罵詈雑言を後ろから彼女に浴びせかけた。


「見てるだけでぶん殴りたくなるんだよな。グズで間抜けで泣き虫で、アポリネール家の一員って以外にいいところなんて一つもない落ちこぼれさ。姉貴は俺と同じ選ばれし人間だろ?なんでいつもあんな駄目な野郎に構うんだよ」


 バチン!頭の中が一瞬で沸騰したコリンヌは後ろを振り返り、そのままシルヴァンに強烈な平手打ちを喰らわせた。シルヴァンは一瞬何が起きたのかを理解できないといった表情を浮かべるも、みるみる憎悪の表情を浮かべてコリンヌを睨みつけた。


「何しやがる!」


 コリンヌはシルヴァンの激高にも動じずに氷のような視線を向けた。


「あんたの言う”選ばれし人間”ってなに?」


「このクソ姉貴……決まってんだろ?スポーツ、勉強、芸術的センス、家柄と金、容姿、すべてを持ち合わせた者のことさ。当たり前のように尊敬され、相手を意のままに支配できる人間だ」


「それがあんたの価値観なの?そんな薄っぺらい人間にはどういう連中が集まると思う?」


 コリンヌとシルヴァンは"同じ種類"の友達に囲まれていた。由緒ある大富豪の家に生まれ、見栄えが良く、体育の時間はいつもスターとなり、支配者としての天性の素質を備えている二人を崇拝する信者のような友達に。彼らはこの二人に金魚の糞のように引っ付くことで、自分まで心地よい優越感に浸れることができた。


「薄っぺらい?甘ったれた優しさや道徳観を持てとでも?あのバカみたいに?そんなにあいつがご立派なら何でいつも影で馬鹿にされているんだ?答えてみろよ」


 シルヴァンはコリンヌを威嚇しようと一歩前に出たが、彼女は顔色一つ変えなかった。


「どれだけ安っぽい台詞を吐いているか自覚はあるの?」

「黙れ偽善者、皆が俳優やモデルに憧れるのはなぜだ?見た目がいいからだ。金持ちにはなぜ増々金や人が集まる?慈善事業をする金はどこから出る?富める者はますます富むって聖書にも書いてあるじゃねえか」


 コリンヌはぎりぎりと歯ぎしりをした。一発引っぱたいただけではまるで飽き足らない。どうしてもぎゃふんと言わせてやりたかった。


「あんたがどれだけ間違った考えを持っているのか、いつかきっとジュリアンが気付かせてくれるわ。あんたが心底馬鹿にするお兄さんがね」

「ジュリアンが?何一つまともに出来やしないあの落ちこぼれが?どうせ明日の試練だって泣きっ面で帰ってくるだろうよ」

「それはどうかしらね?明日の試練、私も一緒に行くことになったの。落ちこぼれなんかじゃないってことをこの目で確かめてあげる」

「はあ?コリンヌが一緒に行くならいくらあいつでも成功するだろうよ。とことん情けない野郎だな、ママやコリンヌがいないと何にもできないのかよ」

「じゃああんたから条件を出しなさいよ。ジュリアンはどんな無理難題でもきっと解決してみせるわ」

「はっ!面白いじゃないか!」


 シルヴァンは腕組みをしながらしばらく考え込んでいた。


「そうだな……すべてを見渡すと言われる魔女の水晶を持ち帰ってみせろ。数百年の試練の歴史でまだ誰も見つけたことがないという伝説の宝をな」

「持ち帰ったらあんたは何をしてくれるの?」

「はっ!そしたらパンツ一丁で校庭を走りながら大声でお前に謝ってやるよ」


 コリンヌはシルヴァンの鼻先に人差し指を突き立た。


「約束よ、本当にパンツ一丁になってもらうからね。あんたを絶対に後悔させてあげる。ジュリアンにその下らない価値観を丸ごと否定してもらいなさい」


 シルヴァンは蠅を追い払うようにその手を払いのけて余裕の笑みを浮かべた。


「せいぜい頑張りな。しかしマチアスも可哀そうだよな、あんな出来損ないのお守りばかりさせられてさ。仕事とはいえ内心うんざりしてるだろうぜ」


(こいつ、マチアスの気持ちに気付いてないんだ)


 コリンヌの怒りは嘘のように引いていき、代わりに少しだけシルヴァンが可哀そうになった。


(シルヴァンがマチアスの本心を知ったらきっと傷付くわね……)


 シルヴァンがマチアスの本心に気付かないのは無理からぬことだった。常に感じの良い笑みを崩さないマチアスは、一見誰に対しても平等に接しているように見えるからだ。彼は使用人同士の喧嘩の仲裁に入っても一方をひいきすることは一度もなかったし、三兄弟にも最大限の敬意と愛情を持って分け隔てなく接していた。少なくとも第三者からはそう見えた。しかしジョゼットと同じく勘の鋭いコリンヌは昔からとっくに彼の気持ちに気付いていた。マチアスはジュリアンのことが心から好きなのだという気持ちに。それもおそらくコリンヌと同じ理由で。


 急にシルヴァンの部屋のドアが開き、ショートカットの可愛らしい女の子があたりをキョロキョロと見回した。彼女はシルヴァンが目に入るや甘えた声で彼を手招きした。


「シルくーん、トイレ長すぎ~。みんな待ちくたびれちゃったよ」

「悪い悪い、姉貴と話し込んでてさ。みんな、お待たせ」


 シルヴァンが颯爽と足を踏み入れた部屋には、絵画、ピアノ、水泳など、様々なコンテストで勝ち取ったトロフィーや額縁に収められた賞状が壁や暖炉の上などそこかしこに飾られていた。シルヴァンが部屋の中に入っていくと、数名の女の子が黄色い声で彼を出迎えた。女の子の中には中学生もいるようだが揃いもそろって美少女揃いだった。

 シルヴァンはドアを閉じる前にコリンヌに捨て台詞を吐いた。


「残念だよ、コリンヌは"こっち側"の人間かと思っていたのにさ」


◇◇◇

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