ロウ2

 それはロウがとても幼く両親が揃っていたころ、ここは楽園のようだと母親が言った。


 決して裕福な恵まれた暮らしではなかった。家は借家で父親は人に雇われて、母親は村の子供達相手に教師の真似事をしていた。


 二人は遠い異国の出身だ。外国人で移住者である両親は大変な苦労があった。排他的な地域が多いこの国で二人がようやく辿りついたのがこの土地だった。


 お金がなくても笑い声と笑顔に満ちた今の穏やかな暮らしは十分過ぎる幸せだと母親は笑った。


 ロウは幸せが何かわからなかった。町一番の美しく飛び切り優しい母親と強くて格好いい父親が自慢だった。二人はお互いを愛し、二人に愛されて守られる日常がロウには当たり前過ぎて何もわかっていなかった。


 今では思い出すことの出来ない日常。母親の温もりも父親の温もりもロウはもう覚えていない。それでも一つだけ残る思い出がある。


 円やかな母親の声で母が語る寝物語に耳を傾ける至福。何度も強請って聞いたあのお話はいつでも幸せな結末だった。


 お姫様と魔法使いが恋に落ち、二人の間に生まれた可愛い王子の話。ロウ達家族になぞらえた母親が作った物語。


 あれはただの夢物語だ。『めでたし、めでたし』で終わる事のない現実を嫌と言うほど知っている。


 狭くて寒い薄汚れた部屋がロウの現実だった。空気は淀み陽の光は遥か遠く一条の救いさえない。


 母親に頭を撫でられながら眠りについたその同じベッドに投げ出された幼い体は動く気配はない。


 薄い壁で仕切られた隣の部屋から引き出しを漁る音や机を倒す音が聞こえて来る。


 その音を聞きながらもロウが慌てる事はない。良くある事だった。ロウが必死に稼いだ微々たるお金だけでは満足出来ずに、父親がなけなしの金を探しているのだ。


 ガラスが派手に割れる音がする。腹を立ててガラスを壁に投げつけたのだろう。それは唯一残っていたグラスだろうかとぼんやり考える。新しいものを買うお金はないから、人から恵んでもらわなければならない。これ以上被害が広がらない事を祈っていると、諦めたのだろう父親の聞くに耐えない罵声と腹立ちまみれに乱暴に扉を閉める音がして、静かになった。

 

 ロウは止めていた息を吐き出した。

 今夜はもう父親はロウのもとには来ないだろう。いつもそうするように酒場にでも行くのだろう。鉱山の毒に冒された体で、毒と左程変わらない酒を煽って正気を無くし、好きなだけ暴れまわるのだろう。


 染みのある天井を虚ろに見つめ、浅い呼吸を繰り返す。容赦なく滅茶苦茶に殴られた体は何処が痛むかさえわからない。


 今日はマシな方だった。ロウにはまだ考える力が残っている。酷い時は意識を無くすまで暴行が続く。父親の酒量が足りなかったのだろう、あの耐えがたい暴力を今日は受けずに済んだ。


 不意に笑いが浮かんでくる。

 こんな事が喜ばしいのだ、ここが楽園の筈がない。楽園は永遠に失われた。美しい母親の喪失がここを地獄に変えた。


 始まりは領主が母親の美貌に目を止めた事だ。領主は無類の女好きで、もっともらしい理由をつけて母親を浚った。


 最初父親は酷く憤っていて、何度も抗議をして母親の行方を捜していた。そのうち無気力になり少しずつ狂っていった。酒と女と賭博に溺れ法を犯し、鉱山の強制労働に収監されるのを繰り返すようになり、家に戻ってくる度に呪詛を吐きながら、満足するまでロウに酷い暴力を振るうようになった。


 初めの頃はロウは信じていた。暴力とは無縁だった父親が後悔して正気に返って、ロウに酷いことをしたと謝ってくれると信じていた。だが、父親はロウを殴る度に正気をなくして行くようだった。


 かつて優しく撫でて抱きしめてくれた同じ手で与えられる苦痛。狂気に飲み込まれた男は父親でなく獣だった。


 ロウの父親は亡くなったのだ。アレは人の皮を被った獣であり、もっとも悍ましい化け物に成り果てたのだ。


 ロウの体中が痛んだ。心はそれ以上に悲鳴を上げている。血とすえた臭いが鼻をつく。込み上げる嘔吐感に体を折り曲げた。


「ぐっ………う、ぇっ」


 何日も碌な物を食べていない胃の中は空っぽで胃液しか吐き出せない。肩で大きく息をして落ち着くまでただ耐えた。


 涙は出なかった。泣く事の無意味さを悟ってからは一度も泣いたことがない。嘆いても現実は一つも良くはならない―――だが、それもようやく終わる。


 痛む体を無理やり動かしてベッドの下に隠していた鞄をひっぱり出した。胸に抱いて固い感触を確かめてようやく安堵の息をつく。


 鞄の中から取り出したのは短剣だ。平民が持つには相応しくない意匠をこらした優美な短剣は母親の物だ。唯一母親が実家から持ち出した物だと聞いていた。これだけは取り上げようとする父親から守り抜いた。


 短剣といえども子供の手には大き過ぎる。初めてこの短剣を手にしたのがいつだったのかを思い出そうとして思い出せなかった。途方もなく時間が流れたような気がしている。


 鞘から抜いた刀身は鋭く研磨されて、揺らぐことのないロウの水色の瞳を映しだしていた。


 世界が壊された時彼はあまりに幼く無力で何も理解出来なかった。母親を奪い父親を変えた元凶も知らず、この地獄を終わらせる力もなかった。


 ロウは手の中の短剣の感触を何度も確かめた。大人とは比べるべくもない子供の手だ。だが、落とさぬように握って振るうには不足はない。


 もう十分だろうと思う。十分過ぎる程耐えた。

 無力な子供でなどいてやるものか、何でも出来る―――男を一人殺す事も。


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