ララエ2

 その年の冬の寒波はとても厳しかった。


 領民は何人も飢えて亡くなっていたがララエはその現実を知らなかった。何故ならララエの食卓は変わらず豪華であったからだ。とても食べきれない量の食事。好きな物を好きなだけ食べていた。


 午後のお茶にはいつも数種類のお菓子が並ぶ。満足して皿を下げさせた時、侍女が余ったお菓子をポケットに忍ばすのを見た。その侍女は珍しくララエと同じ年頃の娘だった。そして同じように醜い。彼女の顔は長い前髪と布で覆われていた。素顔を見た事はなかったが幼い頃に火傷を負って爛れていると聞いた。


 ―――きっと私よりも醜い。


 憐憫の情がその行為を咎めるのを止めた。卑しいとは感じたが、たかだか菓子一つではないか。侍女の行為は時折行われるようになったが、それはお菓子に限ってのことであったので見て見ぬ振りをした。


 ある時庭にあの侍女の姿を見つけた。傍にはロウが立っていた。不快感に眉が寄る。侍女はロウに何かを手渡している。ララエは良く見ようと目を凝らした。ロウはあろう事かそれを口に入れた。


 あっと思った。あれは侍女が掠め取ったお菓子だった。それから同じような場面を何度も目撃した。侍女はロウにお菓子を渡している。


 ロウの傍に立つ侍女には腹立たしさを感じたがそれだけだった。何故なら彼女はララエよりも醜いからだ。ロウには相応しくない。ロウが相手をする筈がないと思い込んでいた。


 それよりもララエのお菓子がロウの口に入るのが嬉しかった。お茶の時間が楽しみになった。ロウの口に入るものが美味しいものであればいい。ララエは一番美味しそうで美しいお菓子を選んで毎回残すようになった。メイドがそれを選んでくれた時は顔が綻んだ。実際にロウがそのお菓子を口にすれば恍惚とした気分に襲われた。


 そうやって二人を見ていたら、ある時ロウが侍女の手を取ってララエが隠れている方へとやって来てしまった。ララエは見つからないように慌てて身を翻し、さらに奥に逃げ込んで二人の様子を伺う。


「………ロウ」


 侍女が甘ったるい声で囁く。ララエの心臓は嫌な予感に激しく高鳴った。ロウは後ろ姿しか見えない。侍女の頭が見えるだけだった。ロウの手が侍女の顔を覆う布を少しだけずらした。ロウが彼女の顔に被さる様に屈んだ。


「ん」


 小さなリップ音がララエの鼓膜を打つ。伸びあがった侍女の手がロウの首に回り抱き着いた彼女の顔がララエに晒される。


 火傷の後など微塵もない滑らかな頬を薔薇色に染めて、美しい翡翠の瞳は感極まって潤んでいた。


 爪が肌に食い込む程に手を握る。瞳からは止めどなく涙が溢れていた。二人が去ってもララエは立ち尽くしていた。ララエの瞳から光が消え失せていた。この時ララエの中で何かが確実に死んでいった。


『罰を与えようか?』


 昔、父親が囁いた言葉がララエの脳裏を掠めた。


『お前を悲しませた者達に罰を与えようか?』


 罰を与えればこの苦しみは慰められるだろうか。生きたまま焼かれているような苦しみが少しはマシになるのだろうか。


 この年になるとララエも自分の父親がどういった男であるのかを理解するようになっていた。具体的には知らなくても父親の非情な行いが領民に恨らまれている事もなんとなくわかっていた。そして美しい女を好んでいて、領民達がそれを恐れている事を。


 ララエは父に美しい娘の話をした。どうやって娘が自分の美しさを隠していたのかを面白可笑しく語って聞かせた。それだけで良かった。


 ある夜に若い女の悲鳴が聞こえたような気がした。ララエは笑いが止まらなかった。笑いながら泣いていた。


 ララエは醜かった。外見だけでなく心も醜かったのだ。二度とロウの目に晒せない程醜かった。


 翌日から顔を布で隠した侍女の姿を見る事はなかった。




 あの運命の日をララエはよく覚えている。春にはまだ遠い日だった。晴れ渡った空とは真逆に空気は冷えていて雪が世界を閉ざしていた。


 館は不自然に静まり返っている。ララエは真っ白なキャンバスの前に座っていた。


 以前なら奔流のように湧き上がってきた創作意欲はララエの中から消え失せて、ただ何時間もキャンパスを眺めて座っている。


 絵筆を握り締めてみる。だが、直に力が抜けて落としてしまう。転がっていく絵筆を目で追っていると遠くで争う気配を感じた。


 押し寄せる怒号と悲鳴がララエの耳にはっきりと届いた。乱暴に開け放たれた扉。


 片手の剣を持ち武装した男は殺気を纏ってララエを見据えた。


「・・・ロウ?」

 

 ララエは咄嗟に動いていた。逃げなければいけないと思ったのだ。ロウの前からこの醜い姿を隠さなければいけないと。


 ロウの動きは素早かった。愚鈍なララエなど問題にもならない。ロウの振り上げた剣がララエの右足を捉えた。切るための動きではない。叩きつけられた剣は骨を粉砕した。


「あああっ!!!」


 ララエの体はみっともなく床に転がる。あまりの痛みに一瞬意識が飛んだが直に痛みに呻いた。痛みに転げまわりたいが、少しでも体が動けばさらなる激痛が襲う。


「うわあっ!!」


 動けないララエをロウが掴んだ。恐ろしい力だった。そのままララエを引き摺って行く。自分を襲う激痛に思考など追いつかない。されるがままララエは屋敷の外にほおり出されていた。


 大量の脂汗がララエの全身から噴き出している。視界に入るララエの右足はあり得ない方に曲がり青く膨れ上がっていた。


 朦朧としたララエの目の前には沢山の人達がいた。皆何かしらの武器を持ち恐ろしい形相でララエを見下ろしている。


 誰かがララエに向かって石を投げた。頭を庇ったララエの視界に塊が飛び込んできた。


「うっあっ」


 ララエの喉が鳴る。言葉に出来ない悲鳴だ。父親が転がっている。両腕を切断されて、肩は焼かれて酷い匂いがする。大量の血の海の中でそれでも息をしていた。


 領民によって襲われたのだ。鈍いララエの頭がようやく事態を飲み込んだ。領民達の憎しみの籠った眼がララエ達が許されない事を物語っていた。


 ララエの前で父親がごぼりと黒い血を吐いた。ララエの手が父親に伸ばされる。伸ばした筈の手はがたがたと震えてなかなか届かない。


 ララエを嘲笑うように頭から泥水を掛けられた。無数の石がララエを襲った。柔いララエの肌は簡単に傷つけられた。


 領民達の行いを止めたのはロウだった。


 ロウが蹲ったララエの顔を上げさせる。ララエは恐怖で震え上がった。これ程までに憎しみの籠った凍えた目を知らない。ロウの美しい顔は悪魔のようだった。


「己の父親が何をしてきたか知っているか?お前が何をしてきたかを?」


 領主は残虐で強欲な男だった。


 領民に課せられる税はどこよりも高く、支払えなければ鉱山で強制労働を強いた。この鉱山には貴重な鉱石と毒が存在していた。強制労働を強いられるのはすべて犯罪者の烙印を押された者達だ。そんな者達の健康など一切考慮されず、ただ同然の労働力で手に入る鉱山の利益は全て領主のものに、その潤沢な資金で中央の権力者に取り入り後ろ盾を得て、領民達の訴えは全て握り潰し独裁政治を行っていた。


 領主の犯す犯罪はすべて揉み消される。領民達は搾取され続けていた。


 ララエはただ震えあがるばかりだった。


「お前の父は俺達から様々なものを奪い去っていった。物や金だけじゃない。父や母、妹や―――恋人を。俺達の怒りが理解できるか?お前達の薄汚い命だけでは足りない」


 ロウの剣が無造作に父親の脇腹に刺さった。呻きをあげる父親を無感動に見て剣を抜く。血糊がロウを穢してもロウは壮絶に美しかった。


「お前にも俺達の苦しみを教えてやろうとしたが………」


 そう言ってロウが再びがたがたと震えるララエを見た。ララエの顔は涙と鼻水と血に塗れて酷い有様だった。


「こんな醜い娘ではいくら金をつまれても誰も犯す気にはならないな。豚の娘にはお似合いだ。お前達親子は醜悪で見るに耐えない」


 朦朧とする意識の中で、どうして真っ先にこの耳を引きちぎってくれなかったのだろうララエは考えていた。ロウの声は誰よりも鮮明に届く。


 ララエの心が死んで行く。砕かれた心が無数の針となってララエの心臓をさしている。息さえ出来ない。


「奪われる気持ちくらいは教えてやろう。こんな醜い娘でもお前が本当に愛していたのなら」


 ロウの剣が自分の心臓を貫くのをララエは見詰めていた。ララエが一番好きだった空色の瞳は憎しみを湛えていてもなお美しく、醜いララエを最後まで映していた。




 千種が昏睡から目覚めた時、自分が誰か分からなかった。錯乱状態だった。千種という人格はララエに飲み込まれて現実を理解出来なかった。そんな娘に両親は根気強く付き合ってくれた。身体が回復に向かうのに合わせて徐々に現実を受け止める事が出来るようになっても、ただの夢だと思えなかった。


 千種の左胸には生まれた時から痣があった。丁度心臓の上、ロウに貫かれた位置だ。そしてロウに粉砕された右足を、切断までは免れたが、今世でも失ってしまった。鏡を覗けば灰色の髪の醜い少女が見える。


“千種”はどこまでもララエだった。

 

 それからの千種はただ静かに暮らす事だけを願った。無邪気な娘を失った両親は酷く心配してくれた。やがて中学も卒業する頃に両親の熱心な勧めで脚の手術を受ける事になった。千種は足を治したいとは思っていなかったが、千種の為に心を砕く両親が憐れだった。娘として生まれて来た事が申し訳なくて、これ以上苦しんで欲しくなかった。娘として出来る限りをしてあげたかったのだ。


 アメリカで治療とリハビリに費やして2年遅れて高校に進学した。千種はここで前世の業を深く知る事になる。



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