本編 第6章 「忘れられなかった夢」
第39話 「始まりはここから」
次の日の授業中、僕は強烈な眠気に襲われていた。
抗おうと手の甲を指で抓っても、目薬を差しても紛れなくて、仕方がないから頬杖をついて目を閉じた。
次に目を開けた時、これは夢だと気が付いた。
夢といっても知らないものじゃない。きっと追憶とかに近いもの。
僕は中学校の青いジャージを着ていた。左足に痛々しい擦り傷があるが、不思議なことにヒリヒリもジンジンもしていない。
僕の足は、勝手に動く。二年前までは通っていた廊下を進んで行く。あるところで足が止まる。
そこは保健室だった。
トントン、と勝手に左手がドアをたたく。返事は返って来ない。
「失礼します。一年の浅葱です、先生は……?」
僕の右腕は、勝手にドアを開ける。
「先生なら今はいないよ」
そこには一人の女の子がいた。
僕はすぐにピンときた。昔の露草だ。
色素の薄い髪も、眠たげな眼も、今と全然変わらない。少し幼さが際立ってるくらい。
紺のジャンパースカートを丸襟のシャツを着ている。胸元のリボンが青色なことから、一つ上の先輩だと中学生である僕も気が付いた。
「そうですか、じゃあ」
扉を閉めようとする僕を
「待ちなよ。用があるから来たんでしょ」
と、呼び止める。
「でも先生がいないから」
「手当てくらいなら出来るから。ほら、おいで」
ベッドに座るように促され、露草の言う通りに従った。
傷口に消毒液をかけた綿玉をピンセットで掴み、ポンポンと当てられる。夢のお陰で痛みはない。
「ありがとうございます」
「お礼を言われるほどのことじゃないさ」
そう口では言いつつも、したり顔をしている。
「絆創膏、絆創膏」
と、棚をガサゴソと漁っていた。
「あの、先輩」
と、勝手に口が動く。
「露草」
露草は視線を棚の中に向けたまま、ぶっきらぼうに言った。
「露草先輩」
「別に先輩って呼ばなくてもいいけど」
「サボりですか?」
なんてことを口走ってるんだ、こいつは。自分のことながら驚いた。
今になって考えると、よく怒られなかったなとすら思う。
「くくく」
そこで初めて露草は笑い声をあげた。
「そう見えるか?」
「だって、今は授業中だから……」
保健室の窓からはグラウンドが見える。男女別れてサッカーをしていた。きっと僕もあの中に混ざっていたんだろう。
「そういう浅葱はどうなんだ?」
「名乗りましたっけ?」
「入って来る時に」
「僕はサボりじゃないです。ただ怪我をしたから」
「ボクだってサボりじゃないさ。ここが教室だ」
中学生の、この時の僕は知らなかったんだ。というか、あまり意味が出来ていなかった。だから、何も返事をしなかった。
「保健室登校ってやつだ」
「へー、なんでですか?」
「デリカシーの欠片もない質問だな」
「すみません」
「いや謝らなくていい。直球で良いじゃないか」
そう言ったところで「お、あった」と露草が絆創膏を持って近づいてくる。ぺたりと僕の傷口に貼った後、僕の隣に腰掛けた。
「浅葱よりもずっと長い時間眠りたくなるんだ」
「ナマケモノみたいですね」
「二十時間も眠らないさ」
「じゃあダラケもの?」
「それいいな」
「これはデリカシーないってならないんですか」
「ダラけてるのは事実だしな」
くくく、と露草は笑う。
やっぱり四年も前の記憶となると、同じ笑い方でも違って見えた。
「でもボクは頭が良いから許されるんだ」
「授業に出てないのに?」
「起きてる間にずっと勉強してれば良い点取れるんだよ」
露草はフフンと自慢げだった。でも露草の後ろ側にある窓から楽しそうにサッカーをする声が聞こえたとき、少しだけ表情が曇った気がした。
「寂しくないんですか?」
勝手に口が動いてた。
「なんでだ?」
「だって、ここで一人でいるんでしょ?」
「まぁ、そうだね」
露草は視線を泳がせる。
誤魔化すなんて器用なことを出来る年齢じゃなかった。十四歳の少女は寂しさを隠せるほど成長していなかった。
「ずっと一人で退屈してるよ」
「じゃあさ、ここに遊びに来てもいいですか?」
「同情ならいらないよ」
「そんなんじゃないです。僕も同じだから」
そう、僕も寂しかったから。
「一人ぼっちは寂しいから」
「友達いないのか?」
「いるけど、皆部活で忙しいんです」
「その口ぶりから、浅葱は入ってないんだな」
「母さんが仕事忙しくて、僕が家のことをやらないと」
「そうか、浅葱は偉いな」
僕が聞いてきた中で、一番穏やかな声だった。中学生の口から出ているとは思えない、大人びたものだった。
ポンと頭に手を乗せられ、そのままわしゃわしゃと撫でられた。
「褒めても何も出てきませんよ」
こっぱずかしくて目を背けた。でも、振り払うことはしなかった。確かにあの時嬉しかったから。髪越しに伝わる体温が心地よかったから。
「調子に乗った後輩が出てくる」
「まあ、悪い気はしません」
ああ、そうだ。
ようやく思い出した。
この日に僕らは出会ったんだ。
それから仲良くなって、勉強教えてもらって、年齢も性別も関係ない友人になったんだ。
露草は頭がよかったけど内申点が足りなくて、僕はそんな彼女がいる高校を目指していて……
何の接点もなかった僕と露草が混ざり合ったんだ。
ああ、そうだ。こんなにも似ていたのに、どうして僕は気が付かなかったんだ。
なんで先輩が夢を「寂しいもの」って言ったか今さら気が付いた。
―思い描いていた理想も、突飛な体験も、全部記憶の奥底にしまわれちゃうから―
なにが「そういうものですかね」だよ、僕。
忘れたじゃん、一番大事なことを。
記憶の奥底に沈み込んだままにしていたじゃないか、露草に会いにいく理由を。
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