第28話 「染まるスカートと変わる心」

「服濡れましたよ」

「良いんだよ。夢が覚めたら関係ないんだから」


 先輩は、顔を上げずに言った。これ以上ないってくらい、素っ気ない声で。

 僕の言葉を全く聞き入れることなく、水面を蹴り続ける。躍起になっているみたいに、何回も何回も。


 パシャン、パシャン、パシャン、パシャン、パシャン……


 海を蹴るたびにスカートの裾が濡れていって、それが先輩の心の変わりざまを表しているように感じた。

 見たことない行動が、やけに恐ろしかった。

 外見は知っている深瀬藍なのに、中身が全く別のナニカに作り替えられているみたいで。全く知らない女の子になっているみたいで。


「深瀬先輩?」


 心配で、口が勝手に動いていた。


「何?」

「大丈夫ですか?」

「……ちょっと、はしゃぎすぎちゃったみたい」


 そう言うと先輩は僕の横を横切って、海から上がっていった。

流し場で足を洗って、サンダルを履く。何気ないはずの動作の一つ一つが深瀬藍らしくなく見えた。

 今、僕は誰と出かけているんだっけ? と思ってしまうくらい。

 でもそれを口にしたら全部が壊れてしまうくらい分かっていたから、黙って彼女についていった。


 僕が足を洗って靴を履き終えるまで、先輩はずっと黙っていた。ここだけの話、泣きそうになった。

 校門で消えた時とは違う苦しみが僕を襲った。

 じくじくと海水に浸かっていた部分からナニカが這い上がってくるような気持ちの悪さ。目を逸らすことが出来ない強烈な違和感。

 悪夢なんて単純なものじゃない。

 良いことも悪いことも、好きも嫌いも複雑に混じりあった清々しいくらいの現実だ。

 覚めることが許されない残酷な世界だ。


 スタスタと黒髪をなびかせながら目の前を歩く女の子は他人のようにすら思えた。

 だって何もかもが違うんだから。彼女が身に纏っている赤いワンピースが不吉なものに見えてしまうくらい。

 クリスタルビューもカフェも通り過ぎた時だった。


「ここって水族園もあるんだよ。知ってた?」


 先輩は振り返って、いつもの笑顔を見せた。


「え?」

「知らなかったかぁ。まぁ初めて来たって言ってたもんね」

「あ、まぁ……はい」

「どうしたの? 疲れちゃった?」


 まるで何事もなかったかのように、いつもの調子で話す。まるで僕がおかしいかのように、心配そうに顔を覗いてきた。

 足に纏わりついていた違和感が、僕の胸の辺りまで侵食してくる。

 先輩こそ、どうしたんですか?

 そんな言葉が喉まで出かかる。でも必死に飲み込んだ。口に出したら、また消えてしまう気がしたから。


「海とか久々だったので」


 僕は平常心を装って答えた。

 ただの会話にこんなに動揺したことなんて無かったと思う。


「そっかぁ。じゃあ魚でも見て落ち着こうか」


 先輩が指差した方向には水族園があるのだろう。しかし、門は固く閉じられている。


「ありゃ、閉まってる」

「入場が十六時まで……結構早いんですね」

「う~ん、完全に予想外」


 深瀬先輩は唸りながら首を左右に揺らした。黒い髪が一緒になって動く。

 やっぱり海浜公園での先輩ははしゃぎすぎて、テンションが一周回っておかしくなっただけなのかもしれない。

 きっとそうだろう。いや、そうであってくれなければ、僕の心が持たない。

 さっきの先輩は全部僕が見た夢ってことにして、記憶の奥底にしまい込んだ。絶対に出てこないように、現実から目を背けた。


「また今度、来ましょうね」

「……うん、そうだね」


 深瀬先輩は寂しそうに頷いた。

 そんなに魚が見たかったのか、だからこんな表情をしてるんだ。と自分に言い聞かせた。そうじゃないと違和感に飲み込まれてしまうから。

 マグロの回遊が見れたらしいし、深瀬先輩なら「生きてる回転ずし」とか言ってはしゃいだんだろうな~とか思ったり。いや、僕の知らない知識を披露してくれた可能性もあったか?

 どちらにせよ、先輩がどんな反応をするのか見たかったなぁ。閉まっているのなら仕方がないけれど。


 ……なんて、僕は呑気な考えを捨てきれていなかった。

 違和感から目を背けてしまったツケは数十分後の僕にまわってくることになる。

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