ポーリン・イフェの場合

「行け」


 一歩を踏み出した私の背中を、看守が勢いよく手で押してきた。そのせいで道の段差につまずき、私の体は前につんのめった。幸い転ぶことはなかったが、後ろを振り返ると、看守は私を気に留めることなく、無言で分厚い鉄の扉をガシャンと閉めた。


「眩しい......」


 こんなに空は広いものだったのだろうか。それとも、今の私の気持ちがそう見させているのだろうか。見上げた頭上は雲一つない真っ青な空。そこにはひたすら自由しか見当たらない。鉄格子の間から見えた空は、なんて小さかったことか。そこには絶望ばかりが見えていたというのに。でも今、この広い空は私を迎えてくれている。まるで神の微笑みに包まれているかのようだ。


 私は深呼吸をしてから歩き始めた。周りは雑草だらけで人っ子一人いない。頭の奥から十年前の記憶を探り起こす。道端の看板に「アーチュレイグの村 この先」と書かれていた。行く道はこっちで合っている。砂利道を黙々と歩き進んだ。この辺りは野原が広がるばかりで建物らしいものは何も建っていない。側に刑務所があるのじゃそれも当然だろう。しばらく開けた景色を眺めながら私は進み続けた。


 何も見当たらない道を二時間くらい歩いたところで、ようやく前方に建物が見え始めた。あの屋根の形、昔見た記憶がある。もう少し進むと、雑草の中で今にも倒れそうな木の看板に、かすれたペンキで「アーチュレイグへようこそ」と書かれているのが見えた。私は再び戻ってきたのだ。故郷に......。


 緊張と不安から、思わず村の入り口で立ち止まった。しかし、まだ午前中だというのに、外には誰の姿も見えない。思い返せば十年前もこの村は住人が少なかった。若者は都会へ出て行き、そのまま家庭を築いてここへは戻ってこない。当時から過疎化は進んでいたが、それでも人の姿はまばらにあった。今は出歩く人間すらいなくなってしまったのだろうか。私は記憶をたどり、村の中へ入った。


 民家に挟まれた細い道を抜けると、左右に伸びるこの村では一番大きい通りに出た。確かここには、それぞれ手作りの屋台が並び、畑の野菜やら工芸品などを多く売っていたはずだが、通りのどこを見ても、屋台も商品も見当たらない。そこにはただ、伸びきった雑草が風に揺られている光景しかなかった。


 私は通りを右に進んだ。この先に母の住む家があるはずだ。私が生まれ、育った家――そこで私は両親と一歳上の姉の四人で暮らしていた。私が十五の時、父は持病で亡くなり、私が二十の時、姉は村を出てそのまま結婚した。何事もなければ、母は今一人で家に住んでいるはずだ。確か今年で五十一歳だったか。無事に生活できているといいが......。


 通りを抜けると、左の民家の列が途切れた。その先には広い畑が広がっている。と、その中央に初めての人影があった。背中の曲がったおじいさんが鍬を振って土を耕している。そろそろ春も終わる。夏に向けての準備だろうか。声をかけようか考えたが、かなり遠くにいたので何もせず離れた。


 記憶では、ここを右に曲がった正面に私の家があるはずだ。特徴的な緑に塗った扉は変わらずあるだろうか。高鳴る胸を抑えながら私はゆっくり右へと曲がった。


「......え」


 思わず声が漏れた。そこに見えたのは、記憶の中にある思い出の家ではなく、今にも崩れそうなひどい有様の廃屋だった。


 私はかつて入り口だったと思われるところに駆け寄った。ひし形に歪んだ入り口の下には、半分に折れた緑色の板が転がっていた。見覚えのある色。ここはやっぱり私の家......。


 壁は正面のほとんどがはがれ落ち、柱は全部丸見えになっている。その柱が支える屋根はいたるところに穴が開き、残骸は家の中に重なって落ちている。よく見ると、その中にはタンスや椅子、土に汚れた服らしきものがあった。引っ越したのならこれらのものは持っていくと思うのだが、なぜか瓦礫に埋まっている。いらないものだったのだろうか。仮にそうだったとしても、私は家の有様に疑問を感じた。人が住まなくなってから、長年風雨にさらされたとしても、ここまでぼろぼろに崩れるものだろうか。地面に散らばる残骸を見ると、明らかに故意にはがされ、壊されたものがある。釘の刺さったままの板や、途中で折られた細い柱など、人の手が加えられた跡がある。


 その理由を想像しながら、私はまさか、と思った。


「......ああ、神様」


 これはきっと私のせいなのだ。そう確信したところで、次に見えない母の安否が心配になった。この家を壊され、母はどこに行ってしまったのだろうか。もしかしてもう村にはいないんじゃ――


「あんた、何してんの、そんなとこで」


 声をかけられ振り向くと、そこには痩せたおばあさんが、かごに入った洗濯物を抱えて立っていた。その目は私を明らかに怪しんでいる。


「......誰だい、あんた」


 おばあさんは私の頭からつま先まで、まじまじと見てくる。


「この家に住んでいた人を知りませんか」


 そう聞くと、おばあさんは急に眉をしかめた。


「知るわけないね。人殺しの親なんて。あんた、知り合いなのかい?」


 私がその子供だと、おばあさんはまだ気づいていないらしい。十年前のことだ。私の見た目も変わった。


「......まだここに、いるんですか?」


「いるわけないだろ。とっくの昔に村人全員で追い出してやったよ。このぼろ家もいつまで放っておくか......さっさと片付けてほしいんだけどね」


 崩れた家を、おばあさんは嫌悪感いっぱいの目で睨んでいる。やっぱり、私のせいで母は......。


「追い出された後、どこに行ったのか知っていますか」


「知らないね。でも......前に息子達が、村のすぐ外にまだいるって話してたね。また村に来ないように見張るとか言って――」


 私はすぐに駆け出した。近くの雑木林を抜けて村の外に出る。このすぐ近くに母がまだいるかもしれない。私は何もない、荒涼とした風景を横目に、村の外周を見て回った。


 そろそろ半周というところで、でこぼことした岩壁の脇に人一人が通れるほどの小道を見つけた。どこにつながっているのだろうと、私はそこを進んでみた。


 あまり高くない岩壁に手をつきながらゆっくり歩く。すると目の前が開けた。そこには岩に囲まれた小さな空間があった。砂の地面には砕けた木の破片が散らばっており、その横にはどこからか流れ込んでくる水の筋と水たまりがあった。灰色に濁り、きれいとは言い難い水だ。


 そこから奥に目を移すと、大きな岩の陰に隠れるように、小さな小屋が建っているのが見えた。もしかしてと思いながら、私はその小屋に近づいた。まるで納屋のような小ささで、作りは荒い。壁の木板は不ぞろいの大きさで、どこも隙間だらけだ。片手で押したら全部倒れてしまいそうなほど頼りない印象の小屋だ。


 入り口の扉も小さい。少しかがまなければ入れない大きさだ。私はひびの入った扉を軽く叩いた。


「誰かいますか......」


 わずかな沈黙の後、小屋の中で何かが動く音がした。そして扉が開く――と思ったら、扉は引き戸のように横に滑り開いた。どうやらこの扉は入り口にただ立てかけてあるだけのようだ。半分開いた入り口には、扉に隠れながら私をうかがう顔があった。


「......誰」


 女性だった。でも、母より若かった。長い茶の髪は乱れ、顔に無造作にかかっている。そこからのぞく顔を見つめて、私ははっとした。


「姉......さん?」


 一瞬わからなかった。でも、その顔は確かに見覚えがあった。呼ばれた女性は、最初覇気のない眼差しをじっと向けていたが、次第に目を大きく見開いていった。


「......ポーリン!」


「やっぱり、姉さんなのね! また会えてよかった。でもどうしてこんなところにいるの? 結婚して町にいるんじゃ――」


 話しかけているのに、姉はなぜか私ではなく、小屋の外ばかりを見渡していた。その様子は何かに怯えているように見えた。


「......姉さん、何してるの?」


 私は姉に近づこうと思い、扉をどけようと手をかけた。


「やめて!」


 いきなりの怒声に、私は瞬時に手を引いた。


「ど、どうしたの?」


「どっか行って! ここには来ないで!」


 姉は慌てて扉を閉めようとしたので、私はすぐにその扉にしがみついて止めた。


「待って! 話を――」


「ポーリン」


 その時、姉の背後に人影が現れた。ゆっくりした足取りで入り口に立つ。


「......母さん!」


 随分痩せてはいたが、紛れもなく母だった。髪には白いものが目立ち、しわも増え、十年という歳月が長かったことを実感させる姿だった。右手には木の枝で作ったのか、杖を持って立っていた。


「その杖......母さん、足を悪くしたの?」


「あんたのせいよ」


 姉が私を睨みながら、唸るように言った。


「あんたがあんなことしたから、母さんは村のやつらから殴る蹴るの暴力を受けたのよ。家を壊されて、足に大怪我負わされて、やっとここで落ち着いてたのに......なんであんたがここに来るのよ!」


 姉が私の胸を力一杯押してきた。不意のことに私はよろめき、地面に尻もちをついた。


「あんたさえいなければ、私は今も町で幸せに暮らせてたのに!」


 憎悪の目が私を見下ろしていた。


「姉さんも、町を......?」


「旦那の両親が、お前のことを知って、この子は無理やり離婚させられたの。しばらく町で暮らしていたけど、嫌がらせが止まなくて、こっちに戻ってきたのよ」


 母の淡々とした説明に、姉の顔は歪み、そして大声を上げて泣き伏してしまった。私は地面に座り込みながら、その姿を呆然と見つめるしかなかった。


「あの日から私達はひどい苦労をさせられたの。家を失ってここに移ってきた後も、しつこく追い回されていろいろな妨害を受け続けた。十年経った今でも、まだ受けているの。それでもやっと落ち着いてきて、自給自足で親子二人、どうにか暮らせるようにはなってきたのよ」


 母の目はひたすら悲しく、泣き伏す姉だけを見ていた。知らなかった。私がいない間、二人がこんなに苦しめられていたなんて......。私は立ち上がり、母を真っすぐ見た。


「もうこんなところ、離れようよ。私達のことを誰も知らない町まで行こうよ」


「......無理よ。見てわからない? 一番近い町だって、丸一日以上歩かなきゃいけないのよ。誰も知らない町なんて言ったら、一体どれくらい歩かなきゃいけないのか......」


「それなら、馬車を呼べば――」


「パンを買うお金もないのよ。馬車なんて高いもの、呼べるわけがないでしょ」


 母と姉は何もかも失ってしまったのだ。私は何も言えなくなってしまった。


「......お前はもう、どこかへ行きなさい」


 その言葉に、私は思わず聞き返した。


「ど、どこかって......私もここで暮らすわ」


「.........」


 母の表情は険しかった。


「だって、どこにも行く場所がないし、どこに行けばいいのか......」


「.........」


 母の視線が一瞬だけ私を見た。そこには迷惑と言いたげな感情が明らかにあった。


「......私が邪魔、なの? どうして? 私、なんでもするよ。母さんが信じてくれていたから、十年間辛くても耐えてこられたんだもの。母さんの言葉がなかったら、私、どうしていたか――」


「お前を、ここには置けない」


 母はゆっくり首を振った。


「なんでなの? 私は母さんと一緒にいたい。昔みたいに家族みんなで――」


「もういい加減にして!」


 声を荒らげた母は、私をいちべつすると、泣き伏す姉を抱きかかえ立たせた。


「私はただ、一緒にいたいの......」


 拒否されている――そうとしか感じられず、私の目には自然と涙があふれてきた。それでも私はここにいたかった。十年間の心の支えであった母のもとに。


「お前は......人を殺してしまった。世間からはそうとしか見えないのよ」


 母は姉を抱えて小屋の中へ戻って行く。


「待って! 母さんは今も信じてくれているんでしょ? 私が人なんて殺してないって、無実だってことを」


 姉を座らせた母は、背中越しに呟いた。


「本当のことなんて......もうわかりようがない」


 母は私の顔も見ずに、扉を閉めた。私はしばらくその場を動けなかった。


 十年前、私は無実の罪を着せられた。八歳の男の子を殺したという罪だった。その子は私の家の隣に住む、いわゆる悪ガキと呼ばれるような子で、仲間を率いては村中でいたずらを繰り返す毎日だった。そのほとんどはたわいのないいたずらで、住人も軽く叱る程度で済ませていたのだが、時々度の過ぎたいたずらをすることがあった。その一つがボヤ騒ぎだった。


 火の扱いを知ったらしい男の子はある日、民家に火をつけてしまったのだ。その時は発見が早く、ボヤで終わったが、男の子とその両親は村中から叱られ、男の子は反省するまで外出禁止となった。が、それもほんの数日で、反省を終えた男の子はすぐに村中を駆け回り、いつものいたずらにいそしんだ。


 その子の家の隣だったということで、私の家はよくいたずらの標的になっていた。洗濯物が泥で汚されることはしょっちゅうで、玄関の前に大きな水たまりを作られたり、屋根に家畜の糞を乗せられたりと、数えればきりがないほどのいたずらを受けていた。でも、男の子に注意すると、そのいたずらの後始末を一緒にするなど素直な面もあり、決して悪質なものではないのだと私も母もわかっていた。だからたまに、おやつをあげたりして、その男の子とは仲良く付き合っているつもりだった。


 ところが、男の子はまた火を使ってしまった。しかも標的は私の家だった。その日は村で祭りがあり、住人は全員広場に集まっていた。そのせいで発見が遅れ、私の家は台所を失う火事となってしまった。このことはさすがに深刻に受け止められた。男の子は無期限の外出禁止となり、その両親には非難が浴びせられた。一家はまるで無人になったような静けさを保ち、家から姿を見せることはなかった。


 それから二週間と経たない日だった。暗くなりかけた夕方時、家にいた私は遠くのほうで悲鳴のような声があがるのを確かに聞いた。その時母は外出していて、私は一人で確かめに行こうと家を出た。悲鳴は村の端にある材木置き場のほうから聞こえた。もう辺りは暗く、誰も歩いていない道を私は進んだ。


 到着し、周りを確認した。木々に囲まれた真ん中に材木が積まれているだけで誰もいなかった。私は一応誰かいないかと声をかけてみた。その瞬間だった。材木の裏から人影が飛び出て、そのまま木々の中へ消えて行ってしまった。ほんの一瞬のことで、顔も服も、男性か女性かも確認することはできなかった。不審に感じながら、私は人影が飛び出た材木の裏側へ回ってみた。するとそこには、外出禁止のはずの男の子が横たわっていた。なんでこんなところにいるのだろうと思いながら男の子に近づいた時、足元がぴちゃりと鳴った。何を踏んだのかと、暗い中をよくよく見てみると、草の生える地面は一面どす黒い血だまりとなっていた。私は慌てふためきながらその場を飛び退くと、仰向けに倒れている男の子をよく見た。男の子の服は血で赤黒く染まっていた。特に腹部がひどく、お腹から出血しているのだとわかった。でも、私はこんな大量な血を見たのは初めてのことで、恐怖と混乱で何をしていいのかわからず、とりあえず男の子の様子を確かめようと思い、脇にしゃがみ、男の子の肩を軽く揺さぶってみた。血が染みていたのか、私の手にはぬめっとした生温かい感触が伝わってきた。それを我慢しながら男の子を呼んでみたが、少しも反応はなく、閉じられた目も開くことはなかった。そして私は早くも途方に暮れた。すでにこの状況に混乱していた私は、するべき行動すら考え付かず、目を開けない男の子を見ながら、その横を意味もなく往復し続けた。本当に何をしていいのかわからなかったのだ。


 その時、遠くから数人の話し声が聞こえてきた。徐々に見えてきた人影は私の存在に気づき、近寄ってきた。その影は村の大工である五人の男性達だった。置いてある材木は大工である男性達が管理しているもので、ここに来たのはごく自然のことだった。何をしているのかと聞かれても、混乱していた私は上手く答えることができなかった。そして男性達は男の子に気づいた。全員驚きながらも、一人は医者を呼びに、一人は男の子の脈をはかり、冷静に行動していく。注目する同僚に、脈をはかった男性はだめだと言って首を振った。次に心臓の音を確かめるが、これもまた首を振った。諦めた男性達は、一斉に私を見た。その眼差しが言いたいことは、ただ一つだった。


 その夜、村は大騒ぎとなった。村長の前に連れ出された私は、村中の大人達に囲まれながら、疑いを晴らそうと一晩中話し続けた。悲鳴のこと、逃げる人影のこと、私は事実をそのまま話した。しかし、住人の大多数は私が犯人だと信じて疑わなかった。男の子の周りには私の痕跡しかなく、家も隣で日頃から頻繁にいたずらを受けており、それが動機だと決めつけられた。挙句の果てに、私の話はすべて作り話で、第一発見者を装い、罪から逃れようとしているとまで言われた。何もかも私に不利だった。悲鳴を聞いていた人間がいなければ、私と一緒にいた人間もいない。私の手は血で汚れ、地面には私の靴で踏んだ血の跡しかなかった。その全部が状況証拠でしかない。でも、住人達にとってはそれで十分なのだ。決定的な証拠がなくても、犯人さえ捕まればそれで済んでしまうのだ。


 翌日、隣町から呼んだ警察に私は連れて行かれることになった。そこで私は正式に逮捕されることとなる。その直前、最後まで無実を訴える私に母は、信じて待っていると涙ながらに言ってくれた。この一言がどれほど私の心を支えてくれたか。町での尋問は過酷を極めた。無実を言い続ける私に業を煮やした警察は、力でねじ伏せてきたのだ。いわゆる拷問だ。髪を引っ張られ、平手ではたかれ、棍棒で殴りつけられる。それでもだめだと見ると、食事を取り上げ、腕や足に火を当てて焼こうとした。耐えきれず声を上げる私に、警察は自白を迫ってきた。極限状態におちいっていた私は、不本意にも警察の言う通りにうなずいてしまった。


 それから刑務所に行くまではあっという間だった。罪を認めているということで、裁判所は私に、殺人罪では軽い十年の刑期を言い渡した。証拠を精査することもなく、流れ作業丸出しの、まるで大雑把な裁判だった。これが本当に心ある人間のする仕事なのか、そんな人間が権力を握っている現状に、私は失望しか感じられなかった。


 刑務所内の環境は悪く、夏は室内がかまどの中にいるような暑さになり、冬は凍傷を負いそうなほどの極寒だった。そんな環境だから、病弱な囚人は命を落とすこともままあった。私も頻繁に体調を崩し、その苦しみの中で早く楽になりたいと、幾度となく自分で命を絶つことを考えた。でもその都度、私の頭には母の言葉が響いて、どん底の衝動を抑えてくれた。


 命を絶つ衝動は抑えられたものの、ここまでのひどい仕打ちで私は完全に人間不信になっていた。それは刑務所を出た今も変わらない。この先の自分の人生は、一体どこへ向かえばいいのか、そもそも私の人生に何か意味があるのか。石の天井を眺めながら、私は何もかもわからなくなっていた。


 そんな時、ある団体が刑務所にやってきた。ボランティアだというその団体は、どこかの町の教会から来た修道士と名乗り、囚人に一冊ずつ本を渡していった。それは宗教の経典だった。学のない人間でも読めるように、比較的簡単な言葉で書かれており、時間の有り余っている私は短期間で読み終えてしまった。これまで宗教というものには何の関心もなかったが、何度も読み返すうちに、まるで私の心に小さな明かりがともったような気持ちにさせてくれた。経典の内容は、子供に聞かせるような道徳の話から、私達を創った神という存在まで多岐にわたる。その中で、私の心に響いた言葉がある。


「神は、公平に、分け隔てなく、我々に寄り添ってくれる。我々が祈りをささげれば、その奇跡の力で、善と悪、共に導いてくれるだろう」


 まるで今の私に言ってくれているような言葉だった。私に罪をなすりつけても、神様は真犯人を見逃しはしない。その人間が悪とわかっているのだ。神様は何も見逃したりしない。すべてを公平にしてくれる――そうわかると、私の気持ちは以前より前向きになれた。環境は辛いが、ここを出た時、無実だと胸を張って母に会おうと、私は強く決めた。


「私は......無実なの......」


 崩れそうな私の体を支える扉は、もう二度と開かなかった。あふれて止まらない涙を地面に残しながら、私はその場を去った。


 唯一信じていた母にも見捨てられた私は、当てもなくふらふらと歩き続けた。何もない荒野を風に吹かれるまま進んでいた。いつしか日が沈み、お腹が空いた、喉が渇いたと感じたが、足は止まろうとしてくれなかった。もう何も考えられなかった。ただひたすら歩き続けようと、それだけだった。涙も枯れて、夜空を見上げた時、足元の石につまずいて私はうつ伏せに転んだ。膝がじんと痛かった。でももう起き上がる気力もなかった。私は疲れてしまった。このままでいい、と思い、目をつぶった。


 次に目を開けた時、私は日の光の眩しさに思わず顔をそむけた。


「起きましたか?」


 女性の声に私の意識は一瞬で目覚めた。上半身を起こし、状況を理解しようとした。私はなぜかきれいなベッドに乗っている。左の大きな窓から日が差し込み、部屋の中を明るく照らしていた。一人部屋なのか、広さはあまりない。机とタンスが壁際に置かれているだけの質素な部屋だった。窓の反対側にある扉の前に、声の主である女性が立っていた。五十代くらいで、黄色い刺繍の入った真っ白なローブを着ている。手にはグラスの載ったお盆を持っている。


「よく眠れましたか?」


 女性はベッドの脇まで来ると、お盆のグラスを私にくれた。


「お水ですけど、よかったらどうぞ」


 受け取ったグラスを少し眺めて、私は一口飲んだ。乾いた喉に水が染み込んでいくのを感じた。


 女性は椅子を引き寄せると、ベッドの横に座って私に笑顔を見せた。


「無事に目を覚ましてくれて、安心したわ」


 優しい笑みに、何が起きたのかわからない私は質問した。


「あの、私は一体どうしたんでしょうか?」


「憶えていないの? あなたは野原の真ん中で寝ていたのよ」


 女性はくすりと笑う。


「私はご覧の通りの修道女で、モーリアと申します。あなたのお名前は?」


「......ポーリンです」


「そう、かわいらしいお名前ね。私は一年前に巡礼の旅に出て、今はその帰り道の途中なのよ。馬車に乗って走っていたら、驚いたことにあなたが倒れていたの。その時は正直、もう亡くなっている方だと思ったのだけど、近寄ってみたらあなたは静かに寝息をたてていて、本当に不思議だったわ。どうして何もないこんなところで寝ているのかしらって」


 転んだ記憶はある。でもその後の記憶は何もない。疲れていた私はそのまま眠ってしまったらしい。そう言えば、転んだ時に膝に痛みを感じた。どんな具合か見なかったが、今はどうなっているのか気になって、私は毛布をめくり上げてみた。すると、右膝には白い包帯が巻かれていた。


「擦り傷を負っていたから、消毒しておきました。包帯は念のための処置だから、いつでも取って構わないわ」


 モーリアさんは私に優しく微笑みかけてくれた。赤の他人の、何の関係もない私に、どうしてこんなによくしてくれるのだろう。心がこんなにも温かくなったのは、本当に久しぶりのことだった。


「......あら? 傷、まだ痛む?」


「違うんです......なんか、勝手に......」


 私は自然と泣いていた。枯れたと思っていた涙は、モーリアさんの優しさで再び湧き出てきた。


「ありがとうございます......私、本当に......」


 涙で声が詰まって、なかなか言葉にならなかった。


「私は当然のことをしただけです。感謝をするなら、私達の神にしましょう。本来なら会うことのなかったあなたと私を、こうして引き合わせてくださったのだから」


 その通りだ。もし私があの時転んでいなかったら、そのまま眠りこけることもなく、モーリアさんとも会うことはなかったかもしれない。神様は希望を失った私に、モーリアさんの慈愛の心を感じてほしかったに違いない。人は孤独ではない。希望はいつでも見えるものだと。


 モーリアさんは私のことについては、何一つ聞こうとはしなかった。しかも、町へ行きたいと言った私を、快く馬車で運んでくれた。別れ際、またいつか会えるといいですねと言ったモーリアさんの笑顔は、私に決心させてくれた。同じ修道女になることを。


 私の希望は神様なのだと知った。その神様の側に一番いられる存在は修道女だと思った。初めてやってきた町は大きく、民家も店も、その数は村とは比べ物にならない。そんな町並みを横目に、私は教会を目指して一直線に進んだ。そして見つけた立派な教会に入り、司祭との短い話を終えると、その日から修道女として修業することになった。


 それからの日々は心身ともに充実していった。様々なことを学ぶごとに、神様の奥深い精神や私達へ向けられる愛を感じることができた。こうして生きて、祈りをささげるだけで、こんなにも幸せだということがとても嬉しかった。過去の辛さも、母の心変わりも、今となっては些細な出来事だったのだと考えられるようになっていた。


 でも、私はベッドに横になりながらふと思った。今の自分は幸せすぎるんじゃないかと。神様は私達の祈りと教えを伝えていくことを望まれているが、その二つだけでは私は物足りない気がした。この幸せの恩返しに、まだ何か私にできることがあるはずだと思った。しかし、毎日考えてみても、私なりの恩返しの方法を思いつくことはできなかった。


 そんな考え事をしながら、私はある日、使いで町に出た。昼下がりの町は喧騒に包まれ、人通りも多い。その中を縫うように私は目的の屋敷へ向かった。そこは教会からかなり距離があり、私は近道をしようと路地を一本中に入った。道を変えただけで町の喧騒は意外なほど小さくなった。ここは都会と言える町のはずだが、まるで田舎に戻ったような静かさだった。狭い路地に入れば入るほど喧騒は消え、人影もなくなる。そんな中を歩いていると、田舎育ちの私は心が落ち着く思いがした。


「ぐだぐだ言ってんじゃねえ! 早く出せよ」


 突然、どこからか怒声が聞こえてきた。歩く速さを緩め、声のしたほうへ慎重に行ってみる。路地の角を曲がろうとしたところで、また声が聞こえてきた。


「てめえら、これで刺してもらいてえの?」


 声は近い。私は角からそっと顔をのぞかせてみた。その視線の先、少し離れた路地に、三人の人影が立っていた。一人は体格のいい無精ひげの男性。右手には鋭い刃物を握っている。聞こえていたのはこの男性の声だ。


 その向かいに二人がいる。どちらも真っ白なローブにフードをかぶっているので、男性か女性か判断ができない。すると、その一人が顔をひげの男性に向けた。フードに隠れた横顔がわずかに見えた。白い肌に切れ長の目――女性のような美しさだが、その顔は男性のものだ。


「あなたは......して......のですか?」


 落ち着き払った切れ長の男性の声は、距離があるせいでよく聞き取れなかった。


「俺に説教ってか。余裕見せんじゃねえかよ」


 ひげの男性の声は大きくて、ここでもよく聞こえる。どうやら白いローブの二人は、ひげの男性に脅されているらしい。ここは助けに行くべきなのはわかっているが、あの体格の男性に敵うはずもない。引き返して助けを呼んでくるしかなさそうだ。


「......ないと、あなた......ことに......」


「そうかい。なら、こっちから先にやってやるよ!」


 引き返そうと思った時、ひげの男性が刃物を振り上げた。私は息を呑んだ。硬直した目線は、その光景を見続けるしかなかった。刺さる――確実にそうなるはずだった。だが、地面に赤い血が流れることはなく、それ以上に衝撃的なことが起きた。そこにいたはずのひげの男性が突如消えたのだ。私は自分の目を疑った。幻を見ていたのかとも思ったが、そんなわけはなかった。白いローブの二人はちゃんとその場にいるのだ。どういうわけかひげの男性


だけが見えなくなってしまった。どこに行ってしまったのか、私は周りを見渡したが、声も人影も何もない。確かにいたはずの男性を、私はずっと視界にとらえていた。その姿が瞬間的に消えるところもはっきりと見ていた。まばたきをしていたら見逃すほどの一瞬の出来事だった。目では確かにそう見えた。でも、頭では理解できなかった。人間が一秒足らずで消えるなんてことは到底不可能としか思えない。思えないが、私はそんな光景を目の当たりにしてしまった。だから理解ができなかった。


 唖然としながら、私は残っている二人に目を向けた。表情は見えなかったが、特に驚いたり慌てたりする様子は感じられなかった。脅されている時の落ち着いた様子と何も変わっていない。おかしい。ひげの男性は二人の至近距離で消えたのだ。気づかないわけがないのに、なぜ何も反応しないのだろう......。


 その時、切れ長の男性が不意に私のほうへ顔を向けた。はっとした私は思わず路地の角の壁に身を隠した。なぜ隠れるのか自分でもわからなかった。ただ何となくおそろしく思えて、見てはいけないような気がしたのだ。もしかしたら私の存在に気づいて、こちらに来るんじゃないかとどきどきしたが、歩いてくる足音は聞こえてこなかった。私は勇気を出して、もう一度角から顔をのぞかせた。


「......あれ?」


 思わず声を出していた。視界には誰の姿もなかった。私は路地の角から出て、二人がいた辺りまで行ってみる。四方に細い路地が続いていたが、そのどこにも人影はない。私が隠れていたのは、ほんの十数秒だ。その間に去ってしまったのだろうか。それなら足音が聞こえるはずだが、それも聞こえなかった。これは一体どういうことなのだろう。ひげの男性に続き、あの二人も消えてしまった? でも状況としてはそうとしか思えない。足音も立てず、姿も見せず、この場から十秒ほどで立ち去るのは難しい気がする。路地は一直線で見通しが良く、周囲の壁も簡単に乗り越えられるほど低くはない。空へ飛んでいったというのなら、私も気づかなかったと思うが、そんな人間はまずこの世に――


 そこまで考えて、私はある可能性を思いついた。では、あの二人が人間でなかったら? 突拍子もない考えだと我ながら感じたが、そう考えるとすべてが理解できた。宗教画に描かれる神は、例外なくすべてが完璧と言える美しさを備えている。ローブからわずかにのぞいた横顔は、まさにその美しさに匹敵するものだった。そして神は神出鬼没でもある。時間や空間という概念すら超越する力を備えている。それは私達を救い、平和を保つために使われるのだ。「――その奇跡の力で、善と悪、共に導いてくれるだろう」この経典の言葉通り、神はひげの男の行いを悪として導いたのだ。存在を消すという行動で。


 そう確信した瞬間、私の全身は震えだした。そうだったのか、あの時感じたおそろしさは、本能的に感じた神への畏怖だったのだ。そう理解できた途端、体中を興奮が駆け巡った。無邪気だった子供時代のように飛び跳ねたかった。私は神を見てしまった。その奇跡の力を、この目で見てしまった。この喜びは、私の頭の中に、まるで花火のような衝撃と彩りを与えた。あまりの興奮に、危うく使いに来たことを忘れてしまうところだった。用事を済ませている最中も、私は上の空だった。話の途中で何度も呼ばれ、相手に怪訝な顔をさせてしまったが、そんな失敗は今の私にはどうでもよかった。


 急ぎ足で教会に戻り、使いの報告を終えると、私はここで共に暮らす修道女達に早速見たことを話した。誰もがすごいと驚き、喜んでくれると思った。が、反応はその逆で、全員が私の話を疑ってきた。そんなことあるわけない、神が人間の世界に現れるわけがない――信じられない言葉だった。神に仕える身でありながら、神の力と存在を否定するような言い方に、私は怒りを覚えた。その後も、あれは神だったと力説しても、みんな鼻で笑い、まとも


に聞いてくれず、私のことを心配する人まで出てきた。そんな人間に囲まれていることに、私は嫌気が差した。こんな環境では、神からどんどん遠ざかってしまう。そんな気がした。


 私は荷物をまとめ、夜中に教会を飛び出した。衝動的に飛び出したから、行く当ても何もなかった。それでも、教会から一日も早く離れたかった。再び神の側へ行くために。


 町をさまよいながら、私は考えた。神はあの時、悪を導いていた。この世界にはあらゆる悪がはびこっている。私にもその手助けができないだろうか。悪を導く手助け――あのひげの男のような人間を相手にするとなると、どう考えても私一人では太刀打ちできない。力になる仲間が必要だと思った。


 そこで私は同じ志の仲間を募ることにした。昼間の広場で、神の教えと共に悪を憎む仲間を大声で呼びかけた。一日目は当然誰も聞いてくれなかった。かつての私のように、神を信じていない者は大勢いる。そんな人達のために、私はわかりやすく話すことを心がけ、呼びかけを続けた。場所を変え、時間を変え、根気強く呼びかけた。そんな日が何十日と続いていたある日だった。


「あなたのお話に、とても共感しました」


 夕方、今日の呼びかけを切り上げようとしていた時、一人の若い女性が私にそう話しかけてきた。名前はルッタ。十九歳で、家の仕事を手伝っているという。詳しい説明をするため、いつも野宿している空き地に向かおうとすると、それならとルッタは自分の家に私を招いてくれた。着いた家は、大きな敷地に建つ三階建ての屋敷だった。話を聞くと、彼女はこの町では有名な装飾品会社の令嬢だった。そんな裕福な人がなぜ私の話に共感したのかと聞くと、家が大会社ということで、彼女の周りには常に人が群がってくるらしく、付き合う男性も結局は金目当ての人間ばかり。そんな別れを繰り返すうち、次第に人間不信におちいり、信じるものを失った彼女は神にすがった。その教えを学び、心が救われた今、今度は神のために尽くしたいと考えたらしい。境遇は違えど、それは私と同じ気持ちだった。彼女ならきっと同じ志を貫けると感じた。


 ルッタが仲間になってからは、仲間の増える早さが二倍、三倍にもなった。大会社の人脈を使い、ルッタがいろいろなところへ声をかけてくれたのだ。おかげで一カ月のうちに、仲間は四十二人にも増えていた。これだけいれば神の手助けができると判断し、私は悪を導くための行動に移った。


 この町で一番治安の悪い地域を、私達は重点的に見回った。ここが悪の溜まり場と睨んだ通り、どこからか喧嘩の怒声が聞こえてきた。手分けをして探していると、袋小路の奥で男が倒れた女性を蹴っている姿が飛び込んできた。明らかに一方的な暴力だ。


「あの男を捕まえましょう」


 私の言葉に、仲間の男性達が一斉に走り出した。男を羽交い絞めにし、女性から引き離す。


「なっ......なんだ、てめえら!」


 暴れる男を仲間四人で抑え込む。その間に、私は女性に近寄った。


「もう大丈夫ですよ。立ちあがれますか?」


「......あ、ありがとうございます」


 砂まみれの女性は、痛みをこらえた表情でゆっくり立ちあがった。


「離せ! そいつに用があんだよ!」


 男はだいぶ激昂している。私は女性に尋ねた。


「何があったのですか?」


「誤解なんです......彼が、私が浮気したって......」


「ふざけたことぬかすなっ! くだらねえ男と一緒にいただろうが!」


「違う! あの人は幼なじみで――」


「だから、そいつと隠れていちゃついてたんだろ!」


 女性は今にも泣き出しそうにうつむいた。


「......もう、無理だよ」


「ああ? 聞こえねえよ」


「もう無理! 何にも信じてくれない人なんて!」


「別れる気か? そんなこと許さねえぞ。浮気の代償はきっちり果たしてもらうからな」


 男の目に睨まれ、女性は委縮して何も言うことができなくなってしまった。暴力で女性を支配する――完全に悪だ。


「ここは私達がなんとかします。あなたは安全な場所へ逃げてください」


「でも、関係もないのに......」


「気にしないで。私達はあなたを助けたいのです」


 少し迷う素振りを見せたが、女性は私達に礼を言うと、走って袋小路を抜けて行った。


「てめえっ......逃げんな! 絶対逃がさねえぞ!」


「黙りなさい」


 私は男の前に立った。


「てめえら何なんだよ! 俺らのことだ、部外者は入ってくんな!」


「彼女は浮気をしていないと言いました。なぜそれを信じないのですか」


「これで三度目なんだよ。信じろってほうが無理だろ」


「だから、暴力を振るうのですか」


「そうしなきゃ、あいつは理解できねえんだよ」


「あなたは理解しているのですか。自分の間違いを」


「はあ? 俺が何を間違えたんだよ。正しいことしかしてねえし」


 男はヒヒっと下品に笑った。


「......ひとまず、連れて行きましょう」


「お、おい、なんだよ。どこ連れて行くんだよ」


 私達は男を、郊外の使われていない工場に連れて行った。ここはルッタの会社の下請けの工場だったが、老朽化で別の場所に引っ越し、使われなくなったこの土地は会社が買い上げて、今は放置されているという。ここなら誰も来ないということで、神の手助けのために使わせてもらうことにした。


 暴れる男をロープできつく締め、柱にくくりつけてから、私達は「導く」方法を話し合った。


「悪には神の教えが必要なのでは」


「素直に聞くとは思えませんが」


「では、懲罰を与えてみるのはどうです」


「それでは刑務所と何ら変わりませんよ」


「神の手助けをするのですから、やはり神の行う方法に近いものがいいのでは」


「おお、それなら、神を見たというポーリン様にお話しをうかがいたい」


 仲間の視線が私に注がれる。


「......確かに、私は神を見ました。悪を導くその瞬間も。ですが、それは人間には不可能な奇跡の力を使ったもの。一瞬のうちに人間を消してしまうなんてことは、私達にはどう考えてもできない方法です。ですが、神はなぜその力を選び、用いたのか、それを考えれば、自然と「導き」の方法が見えてくると思うのです」


「なるほど。神の意思を理解することが大事なのですね」


「つまり、神は悪を......殺した、と考えることもできる」


「そうだろうか。消したことと殺すことは違うような気がするが」


「神は悪を消した。悪を持った人間、そのものを消してしまった。血の一滴すら流させず、何も残させず。殺すこととは明らかに違う」


「......そうです。それです」


 今の言葉で、私は神の意思を理解した。


「神は悪を一片たりとも残すことを許さない。だから、消したのです。存在自体を」


 きょとんとしていた仲間の目が、見る見るうちに見開かれていった。


「残してはならないから、存在を、消す......」


「そうか。だから殺すのではなく、消すという方法で」


「では、私達ができる、一番近い方法とは何でしょう」


 全員が考え込んだ。人間を消すことは絶対にできない。血も何も残さず、体をなくならせるには――


「......燃やす」


 ほんのわずか、工場内に静寂が流れた。


「炎ならすべてを焼いて消してくれます。ただ、灰が残ってしまいますが、それを除けば神の導きに極めて近い方法だと思えます」


「その通りだ。近いのはそれしかない」


「さすが、神を見たポーリン様だ」


 仲間の顔に納得と笑顔が浮かんだのを見て、私は指示を出した。


「方法はわかりました。では、これから隣の部屋の悪を導きましょう。どなたか油を用意してください。できるだけ多い量でお願いします。焼け残ってしまっては神の手助けとはなりません。それと、火の用意も」


 仲間がてきぱきと準備を始める。指示を終えた私は、ロープに縛られた男のもとに行った。部屋に入ると、男は柱に寄りかかり、退屈そうに窓の外を眺めていた。


「もうすぐ、退屈な時間も終わります」


「おい、大人数集まってるみたいだけど、パーティーでも始める気か? 早くこれ、ほどけよ」


「パーティーではありません。これから、あなたを導きます」


「......どこへだよ」


「それは、神のみが知り得ることです」


「あんた、イっちゃってんの?」


 男は鼻で笑う。


 その三十分後、私達は初めての神の手助けを終えた。言い表せない達成感に、私の中の興奮はしばらく治まらなかった。


 それから神の手助けは順調に行われていった。あちらに悪があると聞けば、仲間達が偵察をし、その悪を連れてくる。大体は一人だったが、時には一度に三人もの悪を同時に導くこともあった。その時の気持ちは格別なものだった。こうして神のために働くことができている――そう感じる時間が至福の時だった。


 でもある時、仲間の数人がこの方法に異を唱えてきた。しかも、私達の行動は神の助けになどなっていないとのたまった。私は許せなかった。神への感謝、信仰を忘れ、ただ働きたくないがために私達を否定する愚かな心が。それはまさしく、悪が取り付いたとしか思えなかった。


 ここを抜けると言い出した仲間達を、私は導くよう指示を出した。その途端、強気だった態度を崩し、ある者は泣き叫び、ある者は言い訳をし、ある者は命乞いを始めた。その姿は何とも醜く、見るに堪えない悪そのものだった。


 神の手助けを始めてから、町の治安は少しずつ改善されてきていた。公には知られていなかったが、どこからか出た噂で、私達の存在は一部で知られるようになった。そのおかげで仲間の数も飛躍的に増え、それを管理、把握するため、私は結社を作ることにした。名は「神の右腕」。私はそこで最高顧問に選ばれた。


 悪の存在の報告はひっきりなしに飛び込んできた。けれど私はもう指示をする必要はなかった。優秀な仲間達は何をすべきか、もう十分に心得ている。私のすることは、毎日神へ祈りをささげ、入ってきた新人に神の教えを伝えること。それは穏やかで、幸せな毎日だった。ただ、一つだけ悩みがあった。それは仲間から「悪」が生じてしまうこと。その報告を聞かされるたびに、まだまだ力不足なのだと実感させられた。


「ポーリン様」


 部屋に入ってきたルッタが、私の机の前に立つ。


「様はつけなくていいと言ったじゃない。あなたとは長年の付き合いで、随分と助けてくれたのだから」


「いいえ。私だけ特別扱いでは、下の者に示しがつきませんので」


「本当にあなたは真面目ね」


 これにルッタは微笑む。


「......では報告いたします。今週は三十九の導きを終了いたしました。内訳は、男三十一、女八。そのうち十五歳未満は五です」


「子供の数が少し増えていますね」


「今は町全体が不況となっています。導かれた子供達は全員が窃盗を犯しています」


「神の教えは、子供の頃から教えなければいけませんね。今度、子供だけを集めた宗教教育をしましょう」


「いいお考えですね。早速準備を整えさせます」


「頼みます。ご苦労さま」


 ルッタは一礼して部屋を出て行った。私は椅子の背もたれに体を預け、カップの紅茶を飲んだ。窓から差し込む西日が私の頬をじりじりと焦がす。その眩しさに目を細めながら、窓のカーテンを閉めようと思い、カップを机に置いた時だった。


「なかなかいいご身分だな」


 聞き覚えのない声に、私は入り口のほうを見た。するとそこには、白いローブをまとった二人の男性が立っていた。手前の男性は初めて見る顔だった。だが、その奥に立つ男性の顔を見た瞬間、まるで稲妻に打たれたような衝撃が全身に流れた。忘れるはずがない。あの神々しい顔立ち、この世に二つとない美しさ――あの日に見た神が、また私の前に現れたのだ!


 私は椅子を押しのけ、急いで机の前に出て床にひれ伏した。


「......何してるんだ?」


 神と共にいるということは、この男性もきっと神に近い存在のはず。軽々しく口をきいていいものか......。


「なんか、固まっちゃったよ」


「ここは私が」


 神の声......なんて柔らかく優しい声......。


「立ってはくれませんか。私達はあなたに聞きたいことがあるのです」


 神が私に、話しかけてくれている! ――感動で震える体を懸命に抑えながら、私は言われた通り立ちあがった。顔を上げると、すぐ目の前に絵画の中からそのまま出てきたような、見目麗しい姿が光り輝くように立っていた。あまりにかけ離れた存在に、私は一瞬意識を失いかけた。


「単刀直入にお聞きしますが、あなたは――」


「そんな、私などに丁寧なお言葉は無用です!」


「......しかし、私はこういう言葉しか使えないもので――」


「いけません。神なのですから」


「神?」


 神のどこまでも澄んだ瞳が私を見つめる。


「神は唯一の存在。人間にお気を使っていただく必要はございません」


「......あの、神とは、どういうことでしょうか」


 まさか当人にそんなことを聞かれるとは思っていなかった。驚きと共に何か試されているのだろうかと思いながら、私は答えた。


「神とは、まさしくあなたのことです。我々人間を救い、導いてくださる存在」


「俺達がその神っていうのなら、人間を救った覚えはないけどな」


「人間は宗教というものを作っています。神とはそこに君臨する絶対的な存在だと認識しています。それがどういうわけか、何の関係もない私達が神だと、彼女は思い込んでいるようですが......」


 思い込んでいる? 神は何をおっしゃられるのか。


「まあいい。神についてはわかった。問題は行いだ。ポーリン・イフェ」


 名乗ってもいないのに私の名前を知っている......やはりこの方達は神なのだ!


「あんたは大量の人間を焼き殺したな。なぜ殺すんだ?」


 神は何もかもご覧になられている......。


「殺したのではなく、導いたのです。あの者らは全員悪でした。悪は残してはなりません。神であるあなたも、そうしていたではありませんか」


「......私が、人間を焼き殺したというのですか」


「昔、私は神のお力を見てしまいました。刃物を持った男を、神はまばたきする間に消してしまわれた。それがきっかけとなり、私は神のご意思を知ることができたのです。常々神の助けになりたいと考えていた私は、自ら悪を導くことで多少の助けになると思い、今日まで導いてまいりました」


「......導いた、だってさ」


 男性が肩をすくめ、神のほうを見る。神の表情はなぜか暗い。


「では、あなたは私達の助けになると考え、私達のしたことを真似していた、ということですか」


「おっしゃる通りです。すべては神のために」


 私は手を握り合わせ、美しい神に祈りをささげた。神と会い、話までできるなんて、これは本当に現実なのか疑ってしまいそうだ。


「結構気をつけてたつもりだったのに、まさか俺達の姿、見られてたとはね」


「彼女の行いの原因が、私達だったとは......」


「半分は俺達の責任、とでも思ってるのか? それは違うだろ。俺達はやることやってるだけだ。それを見て人殺しと解釈したほうが悪いんだ」


「しかし――」


「俺はこのままにしておく気はない。一体何人殺したと思ってるんだ?」


「それは確かにそうですが......彼女の下には大勢の仲間がいます」


「それがなんだ。その仲間ごと一気にやればいい」


「そうすると、大規模なことになりますが」


「望むところだ」


「あの......」


 祈りを終えると、何かお二人が言い合っていて、心配になった私は思わず口を挟んでしまった。


「差し出がましいのですが、何か、問題でもおありでしょうか。私にできることならば、なんでもおっしゃってください。神のためならば、いつ何時でもこの身をささげる覚悟はできております」


「......彼女もこう言ってる」


「意味が違います」


 男性が私に近づいてきた。


「あんた、自分が人殺しだって、自覚してる?」


「私は人を殺した覚えはありません。以前、そんな罪を着せられたことはありましたが、私は神に誓って、そのようなことはしておりません」


 私は神の手助けをしていただけ。悪を導いていただけ。人殺しだなんて、神に背くような真似、できるわけがない。


「これが、彼女の考え方だ」


 男性が振り返り、神にそう言うと、神は憂いに満ちた目をゆっくり伏せた。なぜそんな悲しい目をなさるのだろう。私は神にお会いできて、こんなにも幸せだというのに......。


「あんたのことを、不憫に思ってるんだよ」


 神が、私のことを? その瞬間、神のお姿は真っ黒な闇にかき消された。


          *


「文句は受け付けないよ」


「......わかっています」


「大量に命を奪っておきながら、その罪を認めなかったんだ。......いや、認めなかったって言うより、理解してなかったのか? とにかく、彼女を残すことなんてできない」


「確かに、あなたの言うとおりです。ですが、彼女に影響を与えてしまったことも事実。本来、この地にいない私達を見てしまったことで、人間には程度の差こそありますが、悪い影響も与えてしまうことに、今さらながら気づきました」


「戻るとか言い出す気じゃないだろうな。まだまだ半分も回ってないんだぞ」


「安心してください。その気はありませんので。ただ、これからの行動を考え直す必要はあると思います」


「つまり、見られなきゃいいんだろ? 隠密行動ってやつだ。簡単だよ」


「そうですね。見られないだけならば......」

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