ヤミル・トレシードの場合

 俺は高い壁をよじ登り、そこから飛び降りた。敷地内には簡単に忍び込めた。ここから先は数人の守衛がいるらしいが、こんなに暗くていい夜だ。闇が俺に味方してくれるだろう。


 壁に沿って移動すると、広い庭の奥に二階建ての立派な建物が見えてきた。正面一階に入口の扉が見える。その脇に人影があった。守衛だろう。俺は姿勢を低くし、建物の横へ進んだ。この辺りは樹木が多くて闇も濃いから、まず見つからないだろう。俺は姿勢を戻し、建物に近づいた。


 レンガ造りの壁を見上げた先に、小さな窓があった。大人一人がようやく通れる幅の窓だ。俺はレンガの隙間に指をかけ、よじ登った。窓枠に手がかかり、中をそっとのぞいてみると、そこはトイレだった。丸い便器と洗面台が見えたが、人の気配はない。俺はゆっくり窓を押し開け、忍び込んだ。この家の主は、なぜかこの窓の鍵だけはかけていないと下調べでわかり、最初は何か罠でも仕掛けているんじゃないかと疑ったが、こうも簡単に入り込めるところを見ると、ただ単にこの窓の存在を忘れてしまっているらしい。おかげでだいぶ時間を短縮できる。


 トイレから顔を出し、廊下をうかがう。左右に長く伸びる細い廊下はしんと静まり返っている。廊下に面して窓が横並びにあったが、今日は雲が多いおかげで月明かりは差し込んでこない。ほぼ暗闇と言っていい。俺には好都合だ。そんな廊下を俺は右に進んだ。この家の間取りはすべて頭に入っている。目的の部屋は二階にあるから、まずは玄関近くにある階段に向かわねばならない。ここからはより慎重になる必要がある。二階に窓はいくつもあるが、その全部が小さく、俺の体では通れない幅に作られている。万が一、二階で見つかった場合、逃げるには一階に戻るしかない。しかもこの家の廊下は狭い。守衛に廊下をふさがれたら、最悪の事態も覚悟しなければならないだろう。そうならないためには、絶対に見つからないことを心がけなくてはいけない。


 姿勢を低く保ちながら玄関のほうへと進む。細長い廊下を抜けると、目の前に玄関の大きな扉が見えた。そして広間のような入り口を挟んだ向かいに、二階へと続く階段があった。この階段は廊下と違って、三人横に並んで通れるくらい幅が広い。緩やかに左に曲がりながら二階へつながっていて、結構段数がある。上るなら一気に行かなければいけないだろう。


 まずは壁伝いに階段に近づいた。階段の横に来て、玄関広間を見渡し、廊下に人の気配がないか確認した。すると、左の廊下から靴音と共に、ぼんやりとした光が近付いてきた。俺は急いで階段の陰に身をひそめた。徐々に靴音と光が大きくなっていく。しかし階段の側まで来た音はそこで方向を変え、玄関の扉のほうへ向かった。俺は注意しつつ、階段の手すりの隙間からその様子をうかがった。小さなランプを持った守衛は扉を細く開けると、外にいる守衛に何やら短く声をかけて扉を閉めた。すぐに踵を返したところで、俺はまた陰に隠れた。ランプの光が俺の前をぎりぎりに照らしていく。守衛は小さく鼻歌を歌いながら右の廊下へ消えていった。


 立ち上がり、周囲の人影と音を確認する。気配も何もない。行くなら今だ。俺は音を立てないよう慎重に、そして素早く階段を上った。だが二階に着いた時、右の廊下に光が見えた。俺はすぐに身を隠せる場所を探したが、周りには廊下しか見当たらない。とりあえず俺は目の前に続く廊下の壁に張り付いた。ここなら右からは死角になる。しかし、守衛がこちらへ曲がってきた場合にはどうしようもない。その時はその時で対処するしかないだろう。


 靴音が近づいてくる。俺は後ろの腰に右手を回し、ベルトに挟んだ短剣をつかんだ。ひんやりとした柄の感触が伝わってくる。暗かった足元がだんだんと明るくなっていく。守衛はもうすぐそこにいる。どうせ見つかるなら先手を取るべきだ。右手と足に力を入れた時だった。明るかった足元がなぜか暗くなった。俺は短剣に手をかけたまま、ゆっくり顔を出してみた。見ると、守衛は階段を下って行っている。その姿に思わず安堵の息が出た。早まらないでよかった。


 俺は再び周囲に目をやる。守衛は見当たらない。早く目的の部屋に行かなければ。いつ守衛が戻ってくるかわからない。覚えた間取りでは、その部屋は玄関から見て二階の一番左奥にある。そこにつながる廊下も左側にある。俺は一階から見えないよう身をかがめながら、その廊下へ進んだ。


 この廊下には二つの扉がある。一つは右側にある目的の部屋につながる扉。もう一つは突き当たりにある納戸の扉。この扉には頑丈そうな鍵がかかっていて、もしここで見つかっても、隠れるために入ることはできそうにない。俺は小走りに右の扉に近づいた。まずは扉に耳を当てて中の様子をうかがう。特に音も声も聞こえてこない。次にノブをつかみ、ゆっくり回す。ここに鍵が付いていないことは調べ済みだ。開いた扉の隙間から部屋をのぞいた。広々とした中央に長方形の低いテーブルとソファ、椅子が二脚置かれている。おそらくここに客人を招くのだろう。左にある小さな窓の側には丸い花瓶にたくさんの花が活けられていて、その横には天井に付くほどの高い本棚が四つも並んでいる。そのどれもが無数の本で埋められている。右に目を移すと、飾り棚が一つあり、そこにも花が活けられている。壁には高価らしい絵画がいくつも飾られていたが、暗くてどういう絵なのかまでは見えない。この部屋には人はいないようだ。俺は音を立てないよう扉を開けて入った。


 飾り棚と絵画の間に隣の部屋へ行く扉がある。こここそが目的の部屋だ。俺は一直線にその前に行った。ノブの下にある鍵穴に顔を近づけ、中をのぞく。部屋は明るい。正面奥にある机の上のランプの明かりだ。その机に突っ伏している男は、片手に書類らしき紙を握ったまま、豪快ないびきをかいて眠っていた。これなら簡単に済みそうだ。


 一応ノブを回してみる。すると意外にも扉は開いてしまった。ここには鍵がかかっていると思い、そのための道具を持ってきていたのだが、無駄になってしまった。嬉しい誤算だ。予定よりだいぶ早く片付きそうだ。俺は腰の短剣を握った。


「何をするつもりですか」


 背後からの声に、俺は振り向きざま反射的に短剣を振り上げてしまった。しかし、人影はその一撃をすれすれによけた。


「おっと......袖が少し切れてしまいましたね」


「いきなり何する! 危ねえだろ」


 俺は短剣を構えたまま、突然現れた人間を睨み、観察した。一人は背の高い若い男。もう一人は小柄な白髪の老人。二人とも白っぽいローブを着ている。一見したところ、腰に武器などを下げている様子はない。ローブの内側に隠し持っているのかもしれない。


「......誰だ」


 俺は声を抑えて聞いた。今眠りこけている男を起こすわけにはいかない。


「あなたがしようとしていたことが目に留まったので、お話をうかがいに来ました」


 若い男の声に緊張はまったくない。俺が短剣を持っているというのに、まるで普通の会話だ。余裕なのか、俺の手元が見えていないのか......。


「いつからつけてきた」


 それが不思議だった。暗闇とは言え、俺は隅々まで目を凝らして確認し、人の気配には敏感に反応してきたつもりだった。それがまさか背後を取られるとは。最後の最後に気が緩んでいたのだろうか。


「いつって、今さっきだな」


 白髪の老人がはきはきと言う。この部屋に入るところを見られていたのだろうか。それにしても、この老人の声はやせた姿とはまるで印象が違って力強い。只者ではないような気がしてくる。


「俺を、捕まえるか」


 おそらく、守衛にはもう伝わってしまっただろう。部屋の外で待ち伏せをされているかもしれない。やつらが突入してくる前に、少しでも数を減らして逃げ道を広げておきたい。俺は心を落ち着けつつ、短剣を握り直した。


「捕まえるのではなく、お話をうかがいたいのです」


「それは、捕まえるってことだろ」


「いえ、私達はあなたを捕まえる気はありません」


 若い男は抑揚のない話し方で繰り返す。どうも本心が探りづらい。


「応援を呼んだんだろ」


「応援? 何のですか?」


 これは演技と思っていいのだろうか。


「お前達の、仲間だ」


 すると二人はお互いの顔を見合った。


「私達は、私達の他に仲間と呼べるような知り合いはいませんが」


 きょとんとする二人を見て、俺も同じ顔になった。


「お前達はここの守衛だろ。下手な嘘は言うな」


 そう言うと、老人が納得したようにうなずいた。


「そういうことか。こいつ、俺達を守衛だと思ってたんだ。どうりで変なことを聞いてくると思った」


 その言葉に、俺は驚いた。


「守衛じゃ、ないのか?」


「違います」


 若い男は言い切った。


「じゃあ、一体何者だ」


 正体がわからないと、逆に怖く感じる。ただのコソ泥ならいいが、まさか敵対組織の人間なんじゃ――


「ですから、私達はあなたにお話しをうかがいたいだけです。よろしいでしょうか」


「その前に、お前達の正体を明かせ」


 それを知らなければ、話も何もできるわけがない。


「正体、と言われましても......」


 若い男は隣の老人に助けを求めるように視線を送る。老人は腕を組んでしばらく考えた後、俺を見て言った。


「そうだな......じゃあ俺達は、あんたを知ってる者ってことで、どうだ」


「俺を、知ってる?」


 目の前の二人の顔をまじまじと見た。記憶をたどっても二人が出てくることはない。絶対に初対面のはずだ。それとも、俺が知らないだけなのだろうか。


「たとえば、あんたの名前はヤミル・トレシードで、現在二十七歳」


 俺は口を開けて驚いた。組織の人間以外に本名を知っているやつがいるとは思わなかった。この世界で知られる名前は全部通り名なのが常識だからだ。


「小さい頃、今の組織に入って、暗殺技術を教えられ――」


「もういい」


 俺は老人の話をさえぎった。自分の思い出話を他人から聞かされるほど暇じゃない。


「どこから仕入れた情報だ」


「これは独自の情報だよ」


 老人は、にっと笑って見せた。本当にも冗談にも取れる笑顔だ。


「......わかった。少しだけ付き合ってやる」


 この二人に敵意はなさそうだ。だが、正体は依然不明で、警戒を解くことはできない。さらに探るためにも、俺は言うことを聞いて様子を見ようと思った。奥の部屋の扉から中をちらとのぞいた。机に突っ伏した男は相変わらずいびきをかいて熟睡している。もうしばらく大丈夫そうだ。


「そちらの男性が気になるようですね」


 俺の仕草に気づいた若い男が言った。


「なぜ気になってるのか、もう知ってるんじゃないのか」


 俺は苦笑混じりに言った。


「はい。実はそのことについて、お話をうかがいたいのです」


「知ってるんだろ? 俺が話す必要はないと思うが」


「あなたの、心を知りたいのです」


 おかしなことを言うやつだ。でも、若い男の表情は至って真剣だった。


「なぜ、奥の男性を殺そうとするのですか?」


 単純な質問だった。


「それが俺の仕事だからだよ」


「罪悪感はないのか? この世界じゃ、人間を殺すことは罪だ」


 険しい顔の老人が俺を見る。


「罪だろうが関係ない。昔からこれが俺の仕事なんだ」


 正直、仕事を気持ちよく終えたことは一度もない。いつも胸にもやもやとしたものが溜まっていた。それが罪悪感だと言われたらそうなのかもしれない。でも、俺はすべて仕事だと割り切ってやってきた。罪を犯しているなんてこれっぽっちも意識したことはない。


「抵抗もないのですか?」


「ないね」


 俺を見つめる老人の顔が、ますます険しくなった。


「......やっぱり、俺のことを捕まえるか?」


 二人は無言で俺を見る。やがて若い男が口を開いた。


「この仕事を選んだのは、なぜですか?」


 それも知っているんだろ、と言いかけたが、俺は説明してやることにした。


「ごみをあさって生活してたガキの頃、今のボスが俺を拾ってくれた。そこで武器の扱い方を教わって、この仕事を与えられた。ボスには感謝しきれないほど恩がある。仕事を選べる立場じゃない」


 今の俺があるのは、すべてボスのおかげだ。あの時ボスが俺を見つけてくれなければ、とっくに野垂れ死んでいたはずだ。だから俺は何も言わず、ボスの指示に従って仕事をしてきた。それが今できる恩返しだからだ。


「でも、人殺しの仕事は今日で終わりにするんだろ?」


 老人の言葉に、そんなことまで知っているのかと内心驚いたが、俺は冷静にうなずいた。


「ああ......そうだ」


「あんたのボスは相当怒っただろ」


「......まあな」


 怒ったなんてものじゃなかった。側近達に一週間近くにわたって殴る蹴るの暴行をされ、組織から抜けることを許そうとしなかった。でも、俺の意志が固いのを知ると、ボスは今回の仕事を最後に抜けることを許してくれた。暴行されたことを恨む気はない。何せ抜ける理由が怪我や病気じゃなく、惚れた女のためなのだから、ボスの怒りは当然だと思う。


「ところで、あなたは仕事として殺さなければいけない相手のことを、よく知っているのですか?」


「ボスからは居場所と名前、容姿くらいしか教えられない。それで十分だからな」


 事細かな情報は必要ない。下手に感情移入したら手際が鈍ってしまうからだ。だから俺と同じ仕事をする者は、殺すための情報しか聞かされていない。


「そうすると、その奥の部屋の男性のことも知らないのですね」


「ああ」


 扉の向こうからかすかにいびきが聞こえてくる。もうすぐこの世から消える男のことなんか知る必要もないし、興味もない。


「では、私がお教えいたしましょう。彼は――」


「おいっ......!」


 大声が出そうになるのを抑えて俺は止めた。若い男は何でしょうかと言いたげな目を向けてくる。


「......素性を話して、俺が心変わりすることを期待してるなら、無駄なことだぞ」


 俺が睨みつけても、若い男に動じる様子はなかった。


「無駄ですか。それなら話しても構いませんね」


「なっ......」


 この男は、度胸が据わっているのか、単なる阿呆なのか、よくわからない。


「彼の名はジャレイ・ウォーデン、四十一歳。妻と二人の子供がいます」


「いい加減にしろ」


 俺の声を無視して、若い男は話し続ける。


「彼は薬品製造の仕事を始め、そこで社長となりました。会社をさらに大きくさせるため、製造工場を次から次へと建てた彼ですが、地元の住民から様々な苦情が寄せられるようになり、彼は気づきました。利益ばかり追うあまり、周りの自然、住民、その環境をないがしろにしてきたことを。それから彼は、過程で出る煙を少なくする製法を考え、付近の水質を守るため工場排水のろ過装置を作り、現在は工場建設の際に切り過ぎた木を増やすため、植林に力を注いでいます」


「......もう終わったか?」


「はい。できれば、感想などお聞きしたいのですが」


 ため息が出た。


「俺は道徳の授業を受けに来たんじゃない。仕事をしに来た。それだけだ」


「何も、感じられませんでしたか?」


 しつこいと怒鳴って追っ払ってやりたかった。


「お前達は、やつの支援者か何かか? 善人だと主張したところで、俺は何も変わらない」


「善人だなんて言ってない」


 老人が肩をすくめて言った。


「こいつは妻子があるのに浮気もしたし、町の権力者にわいろも渡した。他にも言えば切りがないが、善だけじゃなく、確実に悪の面も持ってるよ」


 男を持ち上げたかと思えば、今度は悪と落とす。一体どういうつもりなのか。


「俺に殺しをやめてもらいたいんじゃないのか?」


「もちろん。その通りです」


「でも、お前達が言うには、やつは悪人でもあるようだ。なら殺したって構わないだろう」


「悪人だから殺してもいいということにはなりません。私達があなたに気づいてもらいたかったのは、彼の考え方です」


「また授業か? もうたくさんだ」


 長く話し込んでしまっている。さっさと最後の仕事を終わらせたい。


「どうか聞いてください。彼は自身の利益だけでなく、周りに及ぼす影響も見るようになりました。それはつまり、独りよがりから抜け、あらゆる命の幸せを考え始めたということです」


「それが何だ。俺と大して変わらない」


 俺は彼女の幸せのために組織を抜ける。考え方は同じだ。


「大違いだな。あんたは無益な犠牲を生んで幸せになろうとしてる。独りよがりもはなはだしい。ましな人生送れないぞ」


 老人の冷めた視線が俺を刺す。どうとでも言えばいい。俺は男を殺す。そして、彼女の横に座り、その頬に触れるんだ。


「俺に聞きたいことはもうないな。じゃあ仕事に戻らせてもらう」


「同じ人間を、なんで殺す必要が――」


 俺はしゃべり続ける老人の胸に短剣を突き出した。老人の口はすぐに止まった。


「やつの前に、お前達を殺したっていい。どうする」


 二人はお互いを見合うと、若い男は無表情に、老人は不満そうに俺を見つめた。結局何者なのかわからなかったが、命を張ってまでやつを守る義理はないようだ。俺は短剣を引き、背後の扉のノブに手をかけた。


「これを知っても、仕事をするか?」


 老人が言った。俺は手を止めて首だけ振り向いた。


「あんたのボスのことだ。聞いておいたほうがいいと思うが」


 俺は迷った。ボスという言葉と、老人のどこか得意げな口調が気になったが、どうせ無駄な時間稼ぎなんだろうと思い、俺は無視してノブをひねった。


「ボスのあんたへの怒りは、未だに治まってないらしい」


 手を動かそうとしたが、言葉の意味が気になって動かなかった。俺は思わず聞き返していた。


「どういう、ことだ」


「あんたが仕事の報告に戻る道中に、仲間を潜ませてるよ」


 俺は振り向いた。老人の顔は真剣だった。


「その目的、わかるだろ?」


 俺の出迎えじゃないことくらい、当然わかっている。愕然とした気持ちの反面、それが事実なのか疑う気持ちもあった。俺の意志を揺さぶろうとする嘘なんじゃないか......。


「言っとくが、嘘じゃない。あんたの行動は嘘なんかじゃ止められそうにないからな」


 まるで俺の心を読んだかのように老人は言った。


「......証拠は」


「あるわけないだろ。確認したいなら、今すぐここから出てみろ。林を突っ切るところできっと襲ってくるぞ」


 その林に道と呼べるようなものは通っていない。だから俺はそこを通ってきた。人目を避けるには打ってつけの場所だからだ。あそこに仲間が潜んでいるというのなら至極当然だろう。


「何人いる」


 そこまではさすがにわからないだろうと思いつつ聞いてみたが、老人はあっさり答えた。


「五人だ」


 その人数には違和感があった。


「俺一人を始末するのに五人は多すぎる。仲間は全員腕のあるやつらだ。多くても二人で十分足りるはずだ」


 これに若い男が言った。


「あなたはご自分の力を過小評価しているようですね。ボスは部下を五人送らなければ殺せないと判断した。それはつまり、あなたの力を買っているということです」


 ボスが俺を認めていた? そんなまさか。普段から俺の仕事ぶりに関しては、のろまだとか危なっかしいとか小言ばかり言われてきた。俺を評価してくれたことは一度もない。


「それが本当なら、ボスはなぜ俺を殺す」


「頼れるあなたを、他の組織に取られたくないからです。もしあなたが心変わりして、敵対する組織に入ってしまったら、あなたの力は大きな障害になってしまいます」


「まあ、それだけが大きな理由じゃないみたいだが」


 老人は腕を組み、少し首を傾けて言った。


「他は何だ」


「ボスはあんたを信頼しきってた。子供の頃から育て、一緒に生活してきた仲だ。あんたには他の仲間とは違う特別な感情を持って接してたようだ。たとえるなら、親子みたいなものだ」


 信頼、特別な感情、親子――いつも俺には厳しかったボスからは想像もできない言葉ばかりだった。でも、その厳しさが俺への信頼であり、特別な感情の表れだったのか......?


「だが、あんたが突然組織を抜けると言い出して、信頼の気持ちが丸々怒りに変わった。裏切られたと感じたんだろ。すべての面倒を見て、立派に育て上げたっていうのに、あんたはボスより恋を選んだ。普通なら喜んでやるものなんだろうが、ボスのあんたへの信頼は相当なものだったらしい。このまま許すことができなかったんだろうな。にしてもだ、大切な人間だったのに裏切られた途端、殺そうだなんてどうして思えるのか、ちょっと理解に苦しむな」


 俺は決して裏切ったつもりはない。しかしボスは、そう受け取っているのだろうか。最後に組織を抜けることを、仏頂面で許してくれた時も、俺を裏切り者と心で思っていたのだろうか。


「......結果、その奥の男性を殺しても、あなたには何の得もありません。潜んでいる五人から運よく逃れられたとしても、あなたは彼女と共に組織から追われる身になるでしょう。どうしますか」


 若い男が淡々と聞いてきた。俺には、ボスが信頼してくれていたことも、今日殺そうとしていることも、全部信じられなかった。扉の向こうの男を殺し終えたら、単純に新しい生活が待っていると思っていた。でも、考えれば組織がそう簡単に抜けることを許すはずはない。内部の規律は軍隊並みに厳しい。俺を裏切り者だと思っていればなおさらだ。考えれば考えるほど真実が見えない。得体の知れない二人の話は本当のように聞こえる。でも、得体が知れないだけに信用もできない。ボスは本当に俺を殺すのか? それとも心から許してくれているのか? どっちだ、どっちが真実だ......。


「迷う余地はないと思うがな。あんたの命が懸かってるんだ。命が助かる行動をすればいいだけだ」


 そんなことはできないと思った。ここで俺が仕事を放棄して逃げ出したら、本当の裏切り者になってしまう。俺はそんなんじゃない。命の恩人であるボスに報いたい――そうだ、俺はボスを疑いたくない。信じ続けたい。最後まで信じることこそ、最上の恩返しになるはずだ。俺は知らず知らず、ボスに親のような感覚を抱いていたのかもしれない。子は親を信じるものだ。疑うなんて考えもしない。今も信じられる。それこそ俺の今の気持ちなんだ。


 俺は再び扉のノブをつかんだ。


「おい、出口はそこじゃないぞ」


 止める老人に背を向けたまま言った。


「仕事を終わらせる。邪魔するな」


「......正気で言ってんのか?」


「ここを出れば、あなたは命を狙われます。男性を殺して何になるのですか」


 この二人には俺の気持ちは理解できないだろう。


「これでいいんだ」


 この仕事を終えることが、ボスへの最後の言葉になる。たとえ命を狙われても、俺は簡単に死ぬ気はない。彼女と共に逃げて、逃げて、逃げ回って、いつかボスに許してもらえる日を待ち続ける。


「今からここを出て、彼女と一緒にこの地を離れれば、誰も死ぬことはない。どうだ? そうしてみないか?」


 後ろから何か言われたが、俺の耳には何も入ってこなかった。いびきの聞こえる奥の部屋に意識を集中し、扉を静かに開けた。


「あんたの行動も、理解できないな」


 老人の声と共に明かりに照らされた男が見えた瞬間、俺の意識は途絶えた。


          *


「人間の考えってのは、よくわからないな」


「はい。わかろうとするには、少々時間が必要ですね」


「少々の時間で本当にわかるか? 同じ人間同士で殺し合うような思考回路なんだぞ」


「それに関しては、私も理解のしようがありません。そこに個人的な利益があるとしても、人間という種族として見れば、それは繁栄への痛手となります。人間とは、そういうことを考えないのでしょうか......」


「集団より、個って感じを受ける。人間にとっては、繁栄より自分の利益のほうがずっと大事なのかもしれないな」


「そうなると人間の先行きは見えてきてしまいますが......」


「あくまで俺の印象だ。まだ何の確認もしてない」


「では、これからは利益のために同族を殺す人間の考え、それを確認していきますか?」


「うーん......難しそうで気が引けるな......」


「人間という生き物は初めから難しいのです。今さらですよ」


「簡単な人間も見つかるといいが......」

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