昼中に墜つ白烏-12-

 一体何のために治療するというのか。先ほどまで痛め付けた傷の理由を知らぬ僕にとって、彼の行動は理解不能だった。全ては監視官とやらのご命令らしいが、それも未だに眉唾物だ。


「訳分かんねえって顔してるが、俺自身もよく分かってねえんだ。殺す手前まで痛め付けて、情報を吐かせようとしてた俺からしちゃ、今こうして何故かお前の手当てをしてる。意味が分からなくて笑っちゃう話だぜ」


 笑えない。僕からしたら笑えない話だ。右肩に空いた風穴を、太腿を抉る痕跡を、笑い話で済ませられるものか。彼の心ない言い草に、強かにむっとした。


 男は手際良く応急処置を進めて行く。それはまるで、戦地に赴いた兵士が自分の傷を治すかの如く、手早く手馴れている。軍人である以上、彼がそういう知識に富んでいるのだろうとの予測は容易いことだった。少なくとも、本棚にあった軍事と医療の専門書を思い返せば、彼の行動は当然日常的なことなのだろうと。

 傷口の止血をするために包帯でがっしりと締め付けられた時、痛みで少し唸る僕に対して、男は「この程度で喚くな」と顔をしかめる。喚いたのではなく唸っただけだ。僕はそれに「拳銃で撃たれたことなんて生まれてこの方なかったんですからね!? 痛がって当然でしょ!!」と反発するが、「黙ってろ」という言葉と共に更に包帯を締め上げられて、押し黙る以外の術を失くす。

 急に拳銃で打ち抜かれ、相手の都合で治療され、「痛い」と抜かせば「黙れ」と口を塞がれる。何と身勝手なことだろうと、一時の激情に駆られる思いをした。


「話は変わるが、お前。他人ひとより自分が優れていると感じたことはあるか?」


 急展開した会話に毒気を抜かれ、僕はやや不可解な面持ちで首を横に振る。

 瞋恚しんいの炎が徐々に鎮火される中、そういえば自分は他人より勝っているとも劣っているとも考えたことがなかったなと、はたと思い出す。他者と比較せずに生きられる世界とは何と幸せな奴だ、と思われそうだが、僕の場合それは違うのだ。記憶上殆ど残っていないけれど、過去の僕と他人様よそさまを比較するには、周囲との間に距離感があり過ぎたように感じる。白子アルビノの彼のように特別に隔離されていた訳ではないが、周囲が近寄ろうとしなかったような、そんな気がするのだ。だから、比較できない。他人と能力の差を比べることができることの方が幸せなのではないか、と思うほどに。


「……何で急にそんなことを?」


「いや、個人的な質問だ。気にするな」


 男はその後、何も発することなくこちらの治療に徹した。特に追及もできぬまま、時が流れて行く。が、その会話自体にそこまで重大性がない気がして、僕自身あまり気に留めなかった。


 僕は少し荒っぽい、けれどどこか繊細な処置を受けながら、部屋を一望していた。そして唐突に気付いたのである。この禁足地に迷い込んでしまった時に生じた疑問の一つである、部屋一面に広がる砂埃の違和感に。


「あの、貴方がこの部屋を空けて僕と出会うまでに、何日が経過しましたか……?」


「……確か、一カ月ほど遠征任務で部屋を空けてたと記憶してるが。何で今になってそんなことを聞く?」


「その、僕がここで目覚めた時、フローリング一面に満遍なく埃が積もってました」


「そりゃ部屋を空けてる期間が長えんだ。塵や埃だって積もるだろうがよ」


 違う。僕が言いたいのはそういうことではない。そんな常識的なことではなくて、もっと根本的なことだ。

 神妙な顔付きをした男の前で、滔々と違和感の正体について発露した。


「貴方がここに入って来て、埃の積もった部屋に足跡が付いたことに気付いたんですけど。ここで目覚めた時点で、僕の、僕の足跡が一つもないって、可笑しくないですか……?」


 そう。部屋の中に、起床直後室内を歩き回った痕跡と、彼との間に生じた一悶着の名残があったとはいえ、今もなお入室時に生成されたであろう足跡は一つも残っていない。となると、だ。僕は一カ月近く前からここに入り込んでいた、という計算になる。

 可笑しな点が多過ぎる。記憶喪失と重ねて、長期間植物状態にあったというのか。しかも点滴で栄養や水分を補給した形跡もない。どうやって今まで平然と生きて来られたのかが謎である。本棚を観覧する時も、長期の植物状態で筋力が低下して容易に立つことなどできなかったはずだ。一体何が起きているのか、それが問題だった。


「記憶喪失・植物状態・不法侵入の三拍子持ちなんてどんな厄介者だ。お前」


 男が指折り、皺ばんだ顔でこちらを見る。僕だって、そんな厄介事に巻き込まれてお手上げだというのに、他人にそう言われちゃお仕舞いだ。


「まあいい。とりあえず、お前を監視官の総括役に会わせなくちゃならなくなった。治療が終わったらさっさと準備してここを出るぞ」


ざわざわと潮騒が響く頭の中で、言い知れない予感がしていた。自分自身が、何か重大な問題に巻き込まれてしまったのではないかと。そう、予感していた。

 本当に、訳が分からない出来事とは、存外唐突に訪れるものだ。そう溜め息を吐きながら、僕は今後起きることに胸を衝かれる思いでいた。

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