正義の勇者

トミー

プロローグ

 その光景を、少女は生涯忘れないだろう。

「こっちだ!」

「逃げて!」

「きゃあああ」

 生まれ育った里で、怒号と悲鳴が飛び交う。

 見慣れた景色は炎に彩られ、穏やかな日常と共に外郭から崩れていく。悪い夢でも見ているのではないかと思いたいが、肌を焼く熱の感覚が、今自分が目にしているものが現実のものだと冷酷に突きつけてくる。

 呼吸が荒くなる。うまく息が吸えない。

 その時、パニックになりかけて立ち尽くす少女の肩を掴む手があった。

「イリア! こんなところで何をしているんだ。早く逃げなさい」

 振り向くと、白髪が混じり始めた髪を、短く刈り上げた男がいた。無精髭を生やした男の顔は煤で汚れ、一見しただけでそれが父だとはわからなかった。真っ赤な瞳が、夜を照らす炎を反射する。

「父さん、これは……」

「『真実』の勇者が来た。ここはもうダメだ。お前は早く逃げなさい」

 ゆっくりと言葉を並べる父の姿は、努めて平静を装おうとしているようだった。右手には剣が握られていて、その剣身には赤黒い液体が付着していた。炎に照らされる液体は、本来の色よりもずっと不気味さを増していた。

 状況が刻一刻と進んでいることを嫌でもわからせてくる光景に、少女は唾を飲み込んだ。

「母さんは? 母さんも一緒に……」

 イリアが尋ねると、男は苦悶の表情を浮かべ、ぐっと競り上がってくる感情を飲み込むように息を吸い込んだ。

「母さんは一緒に行けないんだ。お前だけで行きなさい」

 頭は状況に追いつけていないのに、本能は瞬時にその言葉を理解し、気づくと少女の目から涙が溢れてきた。

 ついさっきまで、一緒に夕飯の準備をしていたはずなのに。いつもと同じ今日が過ぎ、今日と同じ明日が来ると疑わないもう一人の自分が、まるで他人事のようにこっちを見てくる。

「父さんは?」

「父さんはここに残って戦う。ここで、少しでも時間を稼ぐ」

「ダメだよ。相手は『勇者』だよ。勝てるわけないよ……」

 勇者の剣を手にした、およそ人の埒外にある戦士。話でしか聞いたことがない御伽噺の住人が実在することを、少女は最悪な形で知る。話の通りなら、相手は常識など通じない化け物だ。たった一人で敵うわけもない。

 父は困ったような顔をした。これまでずっと自分を見守り続けてくれた父親に見つめられ、少女は胸を締め付けられるようだった。時に厳しく、時に優しく寄り添ってくれた人が、自分から離れていこうとしている。

「そんな……置いていかないで」

 弱音が溢れると、炎の熱で揺れる大気を貫いて、聞き覚えのある声が飛んできた。

「イリア、どこ?」

 崩れていく家屋の陰から出てきたその女性は、二人を見つけると駆け寄ってきた。

「マルギット!」

 少女は彼女の名を呼んで抱きついた。姉のように慕う彼女を、この混乱の中で見つけられたことに、少女は心から安堵した。

「ここにいたのね。大丈夫? 怪我ない?」

「大丈夫」

「良かった。なら早く逃げるわよ」

「わかった。ほら、父さんも早く」

 イリアは父に呼びかけた。さっきとは違う答えを期待した少女の思いを、父はゆっくりと首を振って払いのけた。

「マルギット、すまないがイリアを頼む」

 父はマルギットに頭を下げた。マルギットはその一言と、父の手に握られた剣を見て全てを察したのか、唇を真一文字に結んで苦い表情を浮かべた。彼女も自分と同じように、父を置いていくことを望んでいないのはすぐにわかった。

「……わかりました」

 しかし、マルギットは父を説得するでもなく、苦渋の末に頷いた。どうして説得してくれないのだと怒鳴ってやりたいのに、うまく言葉が出てこない。

 父がここに残るのは自分のせいだと、わかっていた。

 非力な自分の足では、奴らからは逃げきれない。だから、父がここで足止めのために残るのだと、幼いなりに理解できてしまっていた。

 自分で自分の身を守ることもできない。少女は自分の非力を呪い、唇をぎゅっと噛んだ。

 そしてそれを見透かすように、父は申し訳なさそうに笑った。

「すまないな」

 父は微笑むと、子供をあやすようにおでこをくっつけた。

「私たちのせいで、お前に大変な思いをさせてしまう。本当にすまない」

「そんなこと言わないでよ。父さんたちは何も悪くないよ」

 別れの言葉にしか聞こえない台詞を拒む時間すら、少女には与えられない。

 爆発音が響いたかと思うと、里の一角で一際大きな火の手と煙が上がる。家屋が音を立てて崩れていく。

 そして父は背負っていた鞄と、細長い布袋をイリアに寄越した。

「お金と必要最低限なものは鞄に詰めてある。それとこれを持っていくんだ。母さんからの贈り物だ。中身が何かはわかるね?」

 細長い袋はずっしりと重く、その形状、重さから、何が入っているかはすぐにわかった。

「母さんがいつも言っていたこと、覚えているね?」

 袋を抱きしめて、少女は何度も頷いた。父は微笑すると、すぐに険しい顔に戻ってマルギットに向き直った。

「マルギット、西のマルドレイク帝国に入って、ハインツという街を目指せ。そこに私の友人がいる。街にさえ行けば、向こうが見つけてくれる」

「わかりました」

「間違いなく追手が行く。誰か頼れる相手はいるか?」

 マルギットは一瞬考える風をして、すぐに答えた。

「……はい。アレンを頼ります」

 アレン。その名前を、少女は何度も聞いたことがあった。父は「なるほど」と頷いた。

「彼か。確かに、彼なら力になってくれるかもしれない」

 父はそして片膝をつくと、少女の目をまっすぐ見つめた。真紅の瞳に映る弱々しい自分の姿に、少女は俯いた。

「マルギットの言うことをよく聞くんだよ」

 少女は早鐘のようになり響く心音を抑えながら、父に言うべき言葉を必死に探したが、うまく口から出てこない。

「いたぞ、こっちだ!」

 声がした方を振り返ると、銀の鎧を着込んだ男がこちらを指差している。近くの仲間に位置を伝えている。崩落した家の陰から、二人、三人と同じ鎧を身につけた兵士たちが姿を現す。

「さあ、早く」

 少女を突き放すと、父は背中を向けて、こちらに一直線に向かってくる兵士たちに相対した。

「いいかい、イリア。どれだけ辛いことがあっても、生き抜くんだ。父さんとの約束だ」

 右手の剣を肩口まで掲げて構えを取る父の背中に、少女は手を伸ばした。

 少女と父の間には明確に境界線が引かれ、向こう側にいる男の背中は、父から戦士のそれへと変わっていた。

「『猛き炎よ、我が意志を汲み、汝が猛りを我が敵に示せ』」

 戦士は左手を高々と掲げて祝詞を唱える。周囲の家を燃やし尽くそうとする炎が、まるで意思でも持ったように男を目掛けて集まっていく。掲げた左手の真上で炎は収束し、巨大な球体を形作る。

「『烈火の怒り(メギド・フレア)』」

 咆哮とともに、戦士は掲げたそれを投げつけた。

 炎の球体は巨体を地面に打ち付けると、兵士たちを業火の中に巻き込んだ。兵士たちの悲鳴は燃え盛る炎にかき消される。

「こっちだ!」

 里の奥から、別の兵士が姿を現す。戦闘の火蓋は切られ、この場にいる兵士たちが一斉にこちらに向かってくる。

 その中に一人、明らかに他の兵士たちと異なった出立ちの女がいた。

 ローブを身に纏い、艶めいた金色の髪を靡かせる女は、深い青色の瞳をこちらに向けた。感情の機微を感じられない冷たい視線に、寒気が走った。鎧を着込んだ体格のいい男たちの中で、線の細い女は目についたが、その女はこの場において最も凶悪な存在だった。

「『真実』の勇者……」

 少女の口から呟きが漏れる。絶望を象徴する存在に、足がすくんだ。

 魔族の天敵、文字通りの死神が姿を現した。

「行きなさい!」

 鋭い一声に少女は我に返る。止まることを許さない声は、父からの最後の言葉だった。

 マルギットが少女の手を引っ張って、思い切り駆け出した。

「走るわよ!」

マルギットの声に促され、父とは逆の方へ走っていく。

 背後で父の咆哮と、ガツンと鉄がぶつかり合う音が響く。

 振り返りそうになる自分を振り切るように、少女は足に力を込めた。周囲の景色が流れていき、背後で繰り広げられる戦いを置き去りにしていく。

 少女は目に涙をいっぱいに溜めながら走り続けた。村を飛び出し、火の中に沈む故郷の姿も見ることなく、前だけ向いて走った。

 その光景を見たが最後、足が止まってしまう。そんな予感があった。

 気づくと、舗装もされていない山道をかき分けるようにして少女たちは走っていた。心臓はどくんどくんと激しく鼓動を刻み、肺は随分と前から限界だと訴えるように、縮こまって痛みを発している。

 それでも少女は、体の悲鳴を無視して走り続けた。

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