東風八百万事務所報告書

@Lianmiso

黒糸・第1話

黒糸・1話

奇妙な浮遊感を覚え、少年は目を開けた。 見渡す限りの青、青、あお。

現実から切り離され、ただ浮かび揺られる。心地の良い波に安らぎを覚え、瞼を閉じた。

 どのくらいそうしていただろう。ふとこれまで何をしていただろうと考え始めた瞬間、肺が焼かれるように痛みはじめた。思わず瞳を開ける。

 光差す水面に手を伸ばすが、届かないのは明白であった。

 少年は手を戻すと、今度は薄暗い海底に恐る恐る手を伸ばした。

 殺人的な太陽の光が射す。

 真夏の気温は地球温暖化のためか年々上がり、今年も最高気温を更新した。気温は40度。コンクリートジャングルから離れていても、照り返す陽で気温は人の体温すら上回る。

 釣り竿を持つ男の眉間の皺が深くなる。

 色褪せたパラソルが無ければこの状況で釣りなどできないだろう。太陽光に熱され、コンクリートや海から上がる肌にまとわりつくような熱気からは逃れられない。表情こそ変わらないが、じっとりと汗が額に、シャツに滲み、色を変える。不快指数は最大だ。髪型なんてとうに崩れ、顔に張り付いている。汗が目に入りそうで、眼鏡をあげて、袖で拭った。

 釣れない。

 新規事務所開設のため、上司の要望を集めた物件を探し、環境調査をしていた。

 悲鳴が聞こえない場所。

 爆破しても問題ない場所。

 トラックを停車できる場所があること。

 海辺であること。

 都内であること。

 無理難題である温泉はなんとか出来たが、誰だ。1時間程度の釣りでどのくらいの魚が釣れるか調べ、魚拓を取ってこいといったのは。しかも、ちゃんとした釣りをして来いとのご達しだ。

 太陽を憎々しく見上げた。

 抜けるように青い空には呑気に飛ぶ鴎や獲物を探し、弧を描くトンビ、数多に飛ぶ鴉。

 煌めく海に真っ赤な浮きが踊る。

 もう何も掛からないだろう。

 浮きを上げようとした時だった。

 釣竿に重量が掛かり、赤色が水面下に沈む。

 ーーー来た!

 太陽の光を浴びて輝く鱗。

 ではなく、釣れたのは陽に焼けた少年である。力無く目を閉じていた。あるべき下半身はなく、半端に千切れた内臓がぶら下がる。

 どう魚拓を取ったものですかねぇ。

 男は顎に手を当てた。

 ガバリ、と身を起こす。

 少年は思わず喉を押さえる。

「こ、こは。」

「気がつきましたか?東響の新町区。怖がらなくていいですよ。」

 パソコンを打つ手を止めて、眼鏡の男が微笑む。向けられた側は布団の上で縮こまり、カタカタと震えていた。

 男は席を立つと、奥の部屋からおぼんを持ってきた。

 少年の耳に口を近づける。

「君の能力は超回復力。だから、どこにいても必ず帰ってきたのですか、湊くん。」

 氷の入ったグラスと茶色の液体の入ったピッチャーを乗せたおぼんを少年、いや、湊の横のローテーブルに置く。

 千切れた下半身は、失った肉体は元に戻らない。それが道理。世の常。

 しかし、彼の体は理に反し、布団の中の体に欠落はない。

「なんで、ぼくの、名前。いや、あなたは。」

「そこのお茶を飲んで、体調が良くなったら、早く帰りなさい。その方がお互いのためでしょう。」

 にこりと笑った男はまたパソコンに向き直った。軽やかに指が動く。

「水分はとった方がいいですよ。それしかなくて申し訳ないですねぇ。」

 甘香ばしい香りは麦茶だ。鼻だけではなく、記憶の底まで擽る。

「毒は入っていませんよぉ。あなたは救世主ですからね。」

 はぁ、と湊は曖昧な返事を返した。

 グラスに注いだ麦茶をちろりと舐めて、首を傾げた。

「どうかしました?朝に入れたと言っていたので、変な味はしないと思いーーー」

 男の言葉を遮るようにけたたましく電話が鳴った。

「出なくて、いいんですか?」

「今は君とお話をしていますから。」

 電話は鳴り続けるが、しばらくしてガチャという音が鳴った。男が声を張り上げる。

「今、取り込み中です。また後にしてくだ」

『私の子が穢されたの。』

 弾けるような明るい声だった。

 駅前のファーストフード店で話す高校生たちを思い浮かべた湊はどうしたらいいか分からず、視線は電話と男を行ったり来たりだ。

「今、来客中で」

『あの子の一部にならなくて、廃棄しようとしていたのに、みんなに他の人の助けになるからちょうだいって言われてあげたのに、好き勝手するの許さない。絶対株式会社ソラアミよ!こっちに採用されないで、一般に採用されたからだわ。止めてちょうだい。お願いね、私の子。』

 ガチャン。

 男の抗議を聞かずに、一方的に電話が切れた。頭を抱え、机に肘を突き、項垂れる。体の空気を抜く深い深いため息だ。

「全く。人の話を一向に聞きやしない。見苦しいものを見せましたね。早くそれ飲んで帰りなさい。」

「あ、の。」

 男の笑顔は弱々しくなった。湊が胸元をギュッと掴み、そろそろと手を上げる。

「なんですか?」

 しかし、なかなか湊は言い出さない。2人の空白を空調の音とパソコンの唸る音が間を埋める。

 カランとグラスに入った氷が音を立てた。

「大丈夫。ゆっくりでいいんですよ。」

 胸元を掴む手に力が籠る。

 俯き、一度深呼吸すると、少年は男と目を合わせた。

「株式会社ソラアミ、さっきまで僕、いたはずなんです。」

「なんですって?」

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