第4話 ほろ苦いデビュー戦

 私、石屋優は2035年3月に、無事に競馬学校を卒業し、中央競馬界にデビューを果たすことになったが。


 一般的には知られていないが、新人騎手がデビューするにあたり、まずは所属する厩舎きゅうしゃを決める。

 日本の競馬界では、東の美浦みほ(茨城県)、西の栗東りっとう(滋賀県)の二大拠点があり、それぞれに所属する厩舎というのがある。


 では、どうやって所属を決めるか。

 パターン① 優秀な推薦対象

 これは、レアなケースだが、調教師の中から、「この子を任せて欲しい」と手を挙げてくることがある。あるいは、騎手の親が競馬関係者だと、その繋がりでどこそこの厩舎に預けて欲しいと頼むこともある。


 パターン② 競馬学校から話を持っていく

 恐らく、ほとんどのパターンがこちら。競馬学校の関係者は毎年のように東西の厩舎を回り、頼み込むのだ。

 まず生徒に、東西の雰囲気や違いを説明し、どっちに行くかの希望を聞く。この際、出身や実家が近いとかは一切関係がない。それで色々と相談した上で決める。

 なので、「実家が近いから」という理由で近くや、逆に「親から離れたいから」という理由でわざと遠いところを選ぶ生徒もいる。


 そして、私の場合は、単純だった。前者だ。

「北海道に帰る時、便利だから美浦でいいです」

 茨城県なら、成田や羽田に行きやすいし、便数は少ないが最悪、茨城空港もある。それに北海道の新千歳空港までなら、東京から飛行機で1時間半で行ける。


 そして、相談の上で、決まったのが、美浦所属の熊倉くまくら厩舎というところだったのだが。


 最初に、私が挨拶に行った時から、どこか怪しい雰囲気が漂っていた。

 その男、熊倉弥五郎という50がらみの細身の男は、一応は元・騎手なのだそうだが。私は聞いたこともなかった。

 調べてみたが、リーディング順位のランキングにもほとんど引っ掛からないような男だったようだ。


 そして、その50過ぎの男が、めちゃくちゃ「適当」だった。

「は、はじめまして。今日からお世話になります。石屋優です」

 わざわざ緊張しながら、挨拶をして、頭を下げた私に対し、そいつは、まるで興味がない物を見る、いやそれよりももっと酷い「厄介者を背負い込んだ」ような、面倒くさそう表情で、


「あ、そう」

 とだけ言って、さっさと厩舎に行ってしまうのだった。


 50がらみの、細身で、頭髪が後退した、白髪頭の、そして貧相にも見える容貌の男がいる厩舎であり、同時に貧乏臭い雰囲気が漂う厩舎でもあった。


 最初から前途多難な騎手人生の始まりだった。


 しかも、最初に私がデビューに際して、騎乗することになった馬が、非常に厄介だった。


 名前は、シンドウ。恐らく「神童」という意味合いを込めて名付けられたと思われたが、これがとんでもない「じゃじゃ馬」だった。鮮やかな芦毛あしげの馬体の、500キロ近い大柄な馬だった。


「ヒヒーンッ!」

 私が挨拶がてら厩舎に向かうと、いきなり吠える、後ろ脚で蹴る、近づいただけでも噛まれそうになる。


 いわゆる「暴れ馬」タイプの牡の2歳。

 競馬用語では、「れ込む」というが、実際に調教などで「馬なり」つまり、鞭を使ったり、手綱をしごいたりしないで、馬の気に任せること、が難しいと思われる気性難な馬だったのだ。

 これは、初心者には相当酷な試練と言える。


 しかも、美浦トレーニングセンター(以下美浦トレセン)で調教の時から、早くも問題が発生した。


 折り合いがつかない(=人馬の呼吸が合わない)のはもちろん、それ以上に、「ささる」、つまりコースの内側に斜行するのだ。それだけでなく、翌日の調教では、逆に「ふくれる」、つまりコースの外側に斜行した。


 おまけに言うことを聞かないから「かかって」しまう、つまりコントロールが効かない。

 扱いにくいことこの上ないのだった。


 いくら馬が好きとは言っても、競走馬と違い、観光用の馬ばかりを扱ってきた私にとって、これは想像以上だったし、競馬学校にも気性の荒い馬はいたが、ここまでひどい馬はいなかった。


「シンドウ!」

 何とか抑えようとするも、彼はちっとも言うことを聞かない。


 熊倉調教師によると、この仔の父は、アメリカの有名な種牡馬で、母は日本の繁殖牝馬だったが、アメリカの方はともかく、日本の母の方は名前も聞いたこともなかった。


 しかし、学校を卒業したばかりとはいえ、騎手免許を持っている一人前と見なされるから、もちろん「扱えません」なんて弱音は吐けない。


 まだデビューすらしていない新馬で、この馬のデビュー戦、つまり新馬戦は6月になるとのことだった。

 それまでに、彼と少しでも心を通わせなければならない。いや、それと同時に、騎乗依頼が来たら、乗らなければならないし、そうすると別の馬の特性も見極める必要がある。


 騎手とは、想像以上に多忙な仕事だった。


 その間に、私は大した調教をしている余裕もないままに、ある1頭の牝馬のレースを任された。


 3歳牝。名前はピリカライラック。綺麗な栃栗毛とちくりげの馬で、ピリカとはアイヌ語で「可愛い」「美しい」を意味する。ライラックは、札幌市の木でもあり、道民には馴染みが深い。


 これはある意味での「運命」だと、北海道出身の私は勝手に結論づけており、しかもその彼女が、シンドウとは違い、大人しくて言うことを聞く馬だったから、半ば安心して、競馬場へ向かった。


 2035年3月11日(日)、中山競馬場、3Rレース、ダート1800メートル、未勝利戦。

 その日の中山競馬場の天候は曇り。馬場状態は「稍重ややおも」。


 初騎乗のことを「テン乗り」と言うらしいが、この仔自体は、これがデビュー戦ではなく、今まで何度も「負けていて」、まだ未勝利だから、私が「テン乗り」なだけで、彼女は「初めて」ではない。


 しかも、少し調教した時や、返し馬の時は、割とまともで「折り合いがつく」状態だったにも関わらず。


 15頭立てのレース開始前。

 私の人生初の相棒になる彼女のために、私が緊張していたのが、馬に伝わってしまったのか。どうにも落ち着きがない状態になっていた。


 そんな状態だったからか、ゲート入りを嫌って、完全に入れ込んでしまう。

「落ち着いて」

 必死に声をかける私の声の方が震えていた。


 何よりも私自身が未熟だったのが、彼女に伝わったのかもしれない。馬というのは、人間が思っている以上に「繊細な」生き物で、ちょっとしたことで、機嫌を損ねたり、嫌がったりするものだ。


 結果的に、この馬自体は、2番人気で、馬番も7枠14番と、このコースでは有利な位置だったにも関わらず、最初から失敗した。


 何とかゲート入りを済ませ、ゲートが開いた瞬間、馬の前肢まえあしが上がって発走した。これを「あおる」と言うのだが、最初のスタートから躓いていた。


 おまけに、このピリカライラックは、元々「逃げ馬」の脚質を持っていたのに、最初から躓いて、後方からのスタートになっていた。


 中山1800メートルのスタート地点は、スタンド前の直線入口付近。最初のコーナーまでおよそ375メートル。つまり、序盤のポジション取りから厳しい。スタート直後に急坂まである。


 おまけに中山の4つのコーナーは、いずれも自然と減速する。


 仕方がないから、最初から「息を入れる」、つまり道中ペースを落として、ラストスパートに賭ける戦術を取ろうとするものの、すでに彼女は完全に制御を失って「かかって」しまっていた。


 1コーナーから2コーナーを回る頃には、先頭から5、6番手を進んでおり、最初に躓いた割には悪くなかった。


 ところが、3コーナーを回り、最終の4コーナーを回った頃。

 彼女は完全に「一杯に」なっていた。手っ取り早く言うと、「バテて」しまったのだ。


 これは、彼女が悪いのではなく、逃げ馬の特性を生かせなかった、私の責任でもあり、経験不足の未熟さゆえの失敗だった。


 中山の最後の直線は308メートルしかない。かなり短いが、その分、逃げ馬や先行馬が有利になる。

 おまけに、最後にまた坂道がある。


 結局、最後の坂道で失速して、ずるずると最後尾に沈み、15着でゴールイン。


 私のデビュー戦は、最悪の出来だった。


 もっとも、熊倉調教師は、最初から私には期待していなかったのか、それとも呆れてしまったのか。

 無言で、無表情のまま、つまらなさそうにあくびをして、私の結果報告を聞いているのだった。


 最初から勝てるほど、甘い世界ではないことはわかっていたけれど、これが私の中央競馬のデビュー戦となった。

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