第2話 競馬学校

 2週間前。12月中旬。場所は、千葉県白井市にある競馬学校の馬場。元々、正式名称は「日本中央競馬会競馬学校」という、そこは、全国から志願してきた、ジョッキーの卵たちが集う場所であり、同時に、競馬界の入口に当たる、厳しい場所として知られていた。


「石屋! 馬にナメられてるぞ! バカ野郎が!」

 拡声器から怒声が響き渡る馬場。


 怒鳴っているのは、競馬学校の教官で、50代の木嶋という男だった。この男、このご時世なのに、容赦のないスパルタ教育で有名な「鬼教官」だった。まさにブラック企業も真っ青な、過酷な場所が「そこ」だったのだ。


 対して、練習用の馬に騎乗し、馬場を走っていたのが私、石屋優だったが。

「はっ。はっ」

 必死に息をついて、整えようとするものの。実際、怒鳴られようが、何をされようが、制御ができないのは事実だった。

 競馬は、間違いなくスポーツだ。想像以上に騎手は、体力を使う。まだ体力不足の面が私にはあったのは、否めない。


 馬は、もちろん馬銜はみをつけた状態で、騎手は手綱を握るが、よく「れ込む」と言うように、馬が興奮した状態だと、騎手はなかなか制御ができない。ましてや、素人に毛が生えた程度の、競馬学校の生徒には「酷」なことなのだが、デビューを間近に控えた状態で、そんなことは言っていられない。


 必死に、手綱を取って、私は制御しようと試みた。この馬は、牡の8歳の馬で、元・競走馬だが、扱いにくいことでも知られていた。

 だが、


「馬をしっかり抑えろ! 頭を上げすぎだ! もっと下げろ!」

 またもスタンドから拡声器を通して、罵声が飛んでくるが、私は結局、最後までこの馬を扱いきれずに終わるのだった。


 ホームスタンドに戻り、馬を降りて、教官がいる部屋まで行く時の、気の重さは尋常ではなかった。


 そして、もちろん、木嶋教官にこってりと絞られた。教官曰く。「中央競馬の騎手になるには、競馬学校の卒業試験だけでなく、騎手免許試験にも合格しないといけない。そんな騎乗では、将来的に危ういぞ」と。それはもちろんわかっていたが。


 その後のことだった。

「お疲れ様です」

 ホームスタンド内。すでに次の生徒が馬場を走る姿が見える、大きなガラス窓に面した場所に立ち、馬場を見下ろしていたら、声をかけてきたのは、ショートボブの髪の小柄な女子。少し釣り目がちな細い目に、身長が150センチしかない、私よりも小柄な女の子。

 同期の川本うみ。この時、18歳だった。


 競馬学校は16歳から入学できるため、中学卒業と同時にこの世界に飛び込む者が多い。つまり、私のように高卒で飛び込む人間より、3年早い同期だ。

 だが、一見、気が強そうにも見える彼女を私は、嫌いではなかった。それは彼女がいつも「私を」気遣ってくれたからだったが。


「海ちゃん」

「相変わらずあの人、鬼ですね」


「そりゃ、そうだよ。誰だって、怒られるって。あの『鬼教官』には」

「そうですね」

 笑い合う私たちに、鋭く、重い声が背後から響いてきた。


「お前らは呑気でええな」

 特徴的な関西弁のトーンに振り返ると、短髪の筋肉質な男が立っていた。身長160センチ程度、体重は48キロくらいだろう。

 私はこの男が少し苦手だった。同期の山ノ内昇太という男で、私と同じく21歳の高卒組だった。関西の有名なスポーツが盛んな高校の出身らしい。


「何、山ノ内くん」

「馬なんてもんはな。所詮は、『経済動物』や。お前、一年に何頭の競争馬が『殺処分』されとるか知っとるか?」

 知りたくもない情報だった。根本的に、この男と私は考え方が違う。私は黙って首を横に振る。


「7000頭やで、7000頭! ひでえ話やろ」

「マジですか? それは、ひどいですね」

 海ちゃんが、驚いたように、大袈裟に声を上げるが、山ノ内昇太は、さらに得意気に続けるのだった。


「せやから、競走馬なんちゅうもんはな。『使い潰し』なんや。乗る馬にいちいち愛情なんていらへん。潰れるまで使ってでも、勝てばええんや」

 勝負史上主義とでもいうのか。彼はいつもこんな調子で、容赦がなかった。実際、同じ馬を扱っても、彼の場合は、「道具」を使うように、乱暴に振り回すように使っていた。もちろん、そのことを注意したことはあったが、彼は一向に聞かない。その上、教官たちまでその行為を半ば容認していたのが、私は気に入らなかった。


「それはあなたの考え。私は違う」

 そう言って、私は頭に、ある人物を思い描いていた。


 それは、私の憧れの騎手で、女性ながら活躍していた、中央競馬界の「ニューヒロイン」と呼ばれていた、長坂ながさか琴音ことねさんという女性騎手だった。

 長く綺麗な黒髪、そして、印象的な柔らかい笑顔。その姿を競馬中継の勝利者インタビューで見た時から、私は彼女に憧れの気持ちを抱いていた。

 彼女は、この時、24歳で、すでに重賞をいくつも勝っていたのだ。


「きっと、長坂さんなら、そんなこと言わない」

 私が満を持して、そう言い放ったのが、おかしかったのか。山ノ内昇太は、くつくつとしゃくさわるような、含み笑いをしてみせた。


「また長坂さんか。お前、単純やな」

「何よ?」

 私がいつも長坂さんの話をするからだろう。彼は呆れたような笑みを浮かべる。


「だってそうやろ? 勝負の世界はそないに甘ないって」

 そんなことを言い放って、彼は、私たちを置いて、さっさと厩舎に戻ってしまった。

 そして、この時の言葉が、後に私を散々苦しめることになるのだった。


 この時は、まだ私たち自体が「青い」のだった。

 若さとは、時として信じられないほどの勢いを持たせるが、同時に「何も知らない」ことを世間に露呈する。

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