第3話

 *

 丁寧に梱包した配信機材を荷解きしていく。隣の部屋で同じく荷解きしているNemeは、パーカーにジーンズという簡素な服装をしていた。

 あの時、あのバーではもう一つNemeが自分のことを明かした。

「私さ、Nemeは本名なんだよね。音愛って書くの」

 へえ、と都式は思った。案外同じくらいのネットリテラシーだったのかと笑う。

「俺も、本名は都式で……式は都式から貰ってるんですよ」

「似た感じだね」

 おかわりで頼んだ信州亀齢のすっきりした飲み口がガリバタチキンによく合っていたのを都式は覚えている。

「これで荷物は以上です」

 音愛の方の業者が引き上げていく。音愛の服の量が、都式の思っていた量の三倍ほどはあり、すぐクローゼットを逼迫し、廊下に溢れさせていた。

 都式と音愛が引っ越してきた部屋は、3DKの物件で7.5畳ほどの防音室が一つ、4.5畳の部屋が一つ、計二つの防音室に、ダイニングキッチン、五畳の洋室がついているというものだった。駅からも五分ほどと申し分ない。都式の前の部屋に比べれば格段に良くなった状況に、あの時断らなくて良かったと何度でも思った。家賃が折半ゆえに。

 都式はパソコンの入った段ボールの底を掌に載せて4.5畳の部屋に運ぶ。部屋の奥の方でがさごそと音が鳴っているのも、同棲の始まりを感じて悪い気はしなかった。

「夕飯は外食でいい?」

 最優先だった配信部屋の荷解きを都式が終えると音愛の方も落ち着いた頃合いで、彼女はそう声をかけた。ダークグリーンカラーに染めた髪色が、部屋の照明によく映えた。

 都式が音愛に連れられてどこかに行くのは二回目だった。音愛とのデートは新鮮さがあり、都式の心を踊らせた。付き合っているという感覚が、ゲーム三昧の都式にはいい気分転換になった。

 家に帰り、配信の準備をする。レイアウトの違う部屋に都式は初心にかえった気分になる。前の部屋と違って大声を出しても問題ないのが新鮮だった。

 パソコンにマイクを繋ぐ。スマホにキャプチャーボードを繋ぐ。モニターにスマホの画面が映される。音愛はガンヘの方で仕事があるということで、都式と夕食を食べた後、会社のスタジオへ向かった。もうそろそろユーチューブの生放送に出演する。新居一発目の配信は一人だった。

「あ、あー。声入ってますかー」

 アンクラでの現在のランクは二十位ほどだった。配信もゲームも、やればやるほど伸びるものではなかった。日常が義務になった瞬間、都式は嫌気が差すということがわかっていた。それだけが悩みの種だった。

 配信してから三時間過ぎたくらいに、音愛から仕事が終わったという連絡が入る。お風呂を沸かしておいてほしいと言われた。 コルタナ

「じゃあ、今日はここらへんで。スパチャありがとう! 今日答えきれなかった質問は後日動画で出すね」

 マイクを切り、配信画面を閉じる。適度に部屋を片付けていると、玄関で音愛がチャイムを鳴らした。

「やあ久しぶりー式くん」

「酔ってます?」

「帰りのタクシーでちょっと飲んだー!」

 配信してたのー? とお風呂場から音愛が訊く。手洗いをした後、そのまま服も脱いでいく。

「いつも通りね」

 都式は淡白に答えた。音愛と肉体的な関わりはまだ持っていなかった。音愛とそういう関係になること自体、都式にはうまく想像ができなかった。しかし、付き合いを念頭においた同棲だからそういうことも後々やるのだろう、とは考えていた。

「ねえ!」

 がばっと都式は振り向き、音愛の方を見た。音愛は脱衣所から身を隠すようにして顔を出していた。

「机のバスタオルとって! 忘れちゃった」

「わかりました」

 都式はそれとなくバスタオルを取り、渡した。両手を脱衣所のドアのへりに掴まっていた音愛は、タオルを取るにあたりへりを離した。そのせいで、都式は水色の下着を目にする。

「なっ」

「あ、ごめんごめん。気にしないで」

 そう言うと、音愛はタオルを持って都式に背を向けた。都式はブラのホックを凝視して動けない。何かに視線を奪われて体が動かなくなる、という経験は初めてだった。金具が背中の肉を少しつまんでいる。

「ちょっと、脱げないでしょ」

 困り果てたように音愛は言った。さっきから文句がずれているなと思いながら、都式は何にもなかったかのようにテレビを観始めた。

 段ボールの荷物も無くなり、物の置く位置、二人の生活習慣もわかりきった頃だった。アンクラの世界大会は対策していなかったマクロを突かれて、一回戦で負けてしまった。散々な結果に、音愛は優しく慰めてくれた。その時都式は初めて、音愛とはカップルでありパートナーなのだと実感した。

「ねえ、俺たちが付き合っていること、公表しなくていいの?」

 薄暗いベッドの上で、都式はその事を訊いた。付き合っている、という感覚が希薄だったせいで、配信者としてのそう言う問題は考えが至っていなかった。

「いいんじゃない? 普通しないものだよ」

 部屋の照明が薄く差す中、スマホをいじっている音愛の顔はディスプレイの光で正確に輪郭を描いている。

「そうなんだ」

「それより良かったよ、式くん」

 とろんとした表情に切り替えて、音愛は言う。それなら良かった、と都式はキスで返した。

 ──それから九ヶ月が経った。十月も終わり十一月に差し掛かった。都式のツイッターフォロワー数は二万人を超え、まさに今が頑張りどころ、といった感じだった。4.5畳の部屋で、今日も都式はパソコンのファンの音とともに配信をしている。今では認知している人も増えたために、今までしていなかったゲームを配信に取り入れて、視聴者の窓口を広げている。音愛はガンズヘイルの配信をしながら、アンクラの配信を始めた。理由はNemeのアカウントを消したことで身バレの心配がなくなったからだった。

「いいよいいよ行こう! 上はこっちで見てるから!」

 隣の防音室でボイチャを繋げたねむが興奮して叫ぶ。その叫びは、部屋越し(防音室越し)には聞こえないのにヘッドフォンを被れば明瞭に聞こえる。都式は「オーケー」とマイクに向かって言う。

 ゲーム音声がテンカウントを開始する。10、9、8、7……ゲームセット!

「いやあナイスゲーム。最後の捲り気持ち良かったぁ」

 ねむがエナドリを口に含み、かぁっーと唸りをあげて言う。

「まじでよく勝てましたね」

 ねむと式のコラボ配信は、コメント欄でも盛り上がっていた。

「じゃあここらへんで終わりにします?」

 式が訊いた。都式は、モニターの下に置いてある置き時計に目をやった。夜の十二時を過ぎて、配信はピークタイムを迎えていたが、夕飯を食べていないということもあって、お腹が空いていた。それに、最後の試合があまりにも気持ち良過ぎた。ドーパミンがどばどばと溢れているのがわかる。

「終わりにしますかっ!」

 ねむの一声で、配信を繋ぐボイチャが切れた。ディスコードのぽろん、という音が相手との接続を失ったことを知らせる。配信上ではこれで相手の声は入ってこない。あとはそれぞれで配信を終わらせればいいだけだ。

 終わったよ、と先に連絡したのは音愛の方だった。都式は送ってもらったスーパーチャットを読み返したり、質問に答えたりで、なかなか終わるに終われていない。ファンサがちゃんとしているのは、都式が人気になる理由ではあったが。

 こっちも終わった、と返信する。ファンのコメントを読み終わり、配信でさよならを言った。お互いが配信を終わらせるのが確認出来るまで接触しない、が二人の暗黙のルールだった。それで何も問題は起きなかった。正しいやり方だった。

「お疲れー。今日の配信まじで楽しかった」

 音愛は防音室をノックし、開けに来る。残っていたエナドリを飲みきると、都式の机に置いた。

「俺もあとで配信見返すわ」

「じゃ、一緒に見よ? お風呂沸いてるよ」

「お、ありがとう」

 日課の配信終わりのエゴサでもしようかとスマホを起動する。さっきまでゲームしていたということもあって、熱くなっていた。ラインが三通来ているのを、都式は何の気なしに確認する。

『おい』

『式、やばいって』

『配信まだついてるぞ』

 件の、都式をガンズヘイルに誘ったゲーム仲間からのラインだった。何を言っているのかわからないが、猛烈な焦りが汗を噴き出させて、配信画面を確認する──。

 ──見たことのないコメントの流れだった。一言一言が目を通したくないものばかりだった。コメントの多くは、ねむと式が同居している可能性を示唆するものだった。

「嘘だ」

 その声も、配信にのっている。

 説明? 弁明⁉︎ 嘘を言う? 終わり? 音愛に迷惑。終わり。配信を切る。炎上。炎上。炎上。

 ゲームで思考が加速された都式の脳内に、これからの行動の選択肢が浮かび上がる。

「ごめん……追って連絡する」

 それはラインをくれた友達に対しての返事か、配信を見ている視聴者に対しての言葉か、都式はそれだけを言って、配信を切った。


 防音室を出る。都式はリビングで、お風呂に入ろうと呑気に鼻歌を歌っている音愛に、人を殺したくらいの形相で対面した。

「何? なんて顔してるの? どうしたの?」

「……配信、切れてなかった…………」

 すぐさま音愛の顔つきが変わる。音愛は都式をねめつけた。美人の睨みが、どんなに怖いものか、都式は初めて知った。音愛はリビングのテーブルに置いてあったスマホを手に取るなり、音愛は全てのSNSアプリ開き、インターネットの動向を調べた。ただ、間違いなく手遅れだということがわかった。それがわかるなり、「事務所に連絡しなきゃ」と言って、部屋を出た。

 大丈夫か? 既読無視する形になった彼のラインには、心配そうに追伸が来ていた。


 *

 音愛が事務所との進退を確認したのち、二人は声明を発表した、事件から二日後のことだった。

『弊社所属タレントである「ねむ」は、十一月七日付で、無期限の活動休止を発表いたします。また、各SNSで噂されております配信活動者の「式」とはゲーム配信上で懇意にしているだけで、その他一切の関係を持っていないことを断言致します』

 炎上しないはずがなかった。音愛は、事務所にこの炎上が落ち着くまで表の仕事には出ないことを約束させられた。それはつまり、有名配信者に周知される恐れがあるため、配信者とフレンドになっているゲームのそのもののログインも禁じられたということだった。

 ゲーム中毒の人間が、ゲームを禁止されるというのは、これ以上にないストレスだった。

『私、式は、先日の配信でみなさまに多大なご迷惑をかけたことを……』

 両手の人差し指で、かたかたと文面を打っていく。W、A、S、Dを操作する三本指はいつも滑らかに動くのに、ただのタイピングならそもそも使われることもなかった。

 都式も、音愛の事務所の方針に従い、一定期間の活動休止を発表した。

 ねむの炎上によって、ファンとアンチはクソアマ、クソビッチと揶揄するようになった。

 都式は荒れる日々の中、隣で暮らしている恋人の突然怒る様子も突然ヒステリックになる様子も見ていた。しかし、それらの感情が直接都式に向けられることはなかった。それがたまらなく都式を罪悪感で辛くさせた。いっそのこと全てあたり散らかしてくれれば、楽なのに、と何度も思った。

 音愛のゲーム出来ないストレスが、性欲へ変貌した。都式は一度も断ることなく付き合った。都式と音愛の肉体関係まで書き込むファンやアンチの存在のせいで、音愛は確実におかしくなっていた。都式も終わることのない音愛の性欲に付き合うことで、だんだん精神をすり減らしていった。

「私にとってのゲームはね、人と繋がる手段だったの」

 ベッドの上で腰を振り乱した後の都式に、音愛はそう言った。音愛の髪はしっとりと濡れていた。空気も湿っぽくなった。都式は何も言わずに頷いた。

「私は人と繋がることが生き甲斐なの。世界と繋がっているっていう感覚が私を一番安心させる。昔は、お母さんのせいで、テレビもゲームをできなかったから。そういうのに厳しかった人なの。それが今、母親がいないはずなのに、昔に戻った。ゲームをすることも、SNSも出来ない今、こうやってセックスすることでしか満たされないの。でもね、式くんとはね、どうしても繋がった気にならない。満たされないの。ゲームでは一番のパートナーなのにね」

 都式は何も言えなかった。言う権利すら貰えていなかった。都式は手汗まみれで音愛と手を繋いだ。その間、自分がなぜゲーム中毒なのか考えた。なんでゲームをしているのか。

 なんでこんなにも、惚れた人である音愛との性行為が苦痛になってしまうのか。

 翌日、音愛の母親が家に訪れた。音愛の母親は、二人の事情をよく知らない。同業者である彼氏と住んでいる、ということだけを音愛は母親に報告していた。そのお陰で、都式は母親と会うのは二回目だったのもあり、母親が都式に対する接し方は優しいものだった。身近な人間が、交際と同棲に寛容なのは都式も精神をすり減らすことがなくてよかった。

「これで仕送りは以上かしらね」

 母親は、車で食料やら日用品やらを送ってくれた。どうやら、生活を心配しているらしく、これからも定期的に送ってくれると母親は言った。

「本当にすみません。お世話になってしまって」

 玄関で靴を履いた母親に、都式は頭を下げる。

「いやいやいいのよ、これくらい。それにしても、全くもう、あの子は何をしているんだか」

 おもむろに、母親は携帯を取り出した。母親が使っているのは、ガラケーだった。時代に取り残されている母親を見た時、都式はひどく嫌悪した。音愛の言っている意味がわかったからだった。見れば、音愛の母親は相応に老けていた。さっきまで若々しいと感じていたが、今となってはただのおばさんにしか見えない。

 音愛は、母親と会いたくないと言って、外でどこかをぶらついている。それを知っている都式は、ガラケーで音愛にメールを出した母親が訊いた「どこにいるか知らない?」を「知らない」で突き通した。

「朝からちょっとどこか出かけてるみたいで」

「そうなの。帰ってきたらあんまり無理しないでって音愛に言っておいて」

「わかりました。お母さんもお体大事になさってください」

 都式は母親が帰ったことを連絡する。すると十分くらいで音愛は帰宅した。

「ただいま。お母さんどうだった?」

「元気そうだったよ」

「これ、送るって言ってた荷物?」

「そう」

 玄関に置かれた、二箱の段ボールに音愛は視線を落とす。

「お母さんが、無理しないでって言ってたよ」

「……そう」

 音愛は屈んで段ボールを開ける。音愛の顔つきが自然と優しいものになったのを都式は見ていた。

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