【短編】潮流

風雅ありす

第1話

「これ以上のものは世界のどこにもないであろう」

  地理学者フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェンの『支那旅行日記』より


 潮の匂いがする。

 不規則に揺れる新幹線の窓に頭を預け、私は目を閉じた。

 東京から目的地の広島まで新幹線で約四時間。駅弁を買って乗り込んでからまだ1時間半ほどしか経っていない。大学進学で東京へ出て以来、実家へ帰るのは、年にお盆と正月の二回だけ。それが三年目ともなれば、今どのあたりを走っているのか、窓の外を見なくても体の感覚で大体は判る。山とトンネルの応酬、延々と続く田園風景。それらを見る度、自分がとても遠い場所へ行ってしまったのだということを痛感する。


『おばあちゃん、もう危ないんよ』


 大学三年生の夏は、バイトと就活で忙しく、今年の盆の帰省は見送ろうかと考えていた矢先のことだった。母は電話口でいつもより声の調子を落とし、申し訳なさげにそう告げた。

 母も私の事情を気遣い、それまであまり祖母の容態について話さないようにしてくれていたのだろう。春先に体調を崩して入院したことは聞いていたが、それほど深刻な様子でもなさそうだったので、すっかり忘れてしまっていた。

 帰ってきなさい、とは言われなかった。ただ、どうする、とだけ聞かれたので、私は一瞬迷った末に、今週末に帰ると答えた。バイト先に事情を話すと、快くすぐに代わりの人を手配してくれたので、私はとりあえず一週間ほど休みをもらうことにした。

 帰ってきた。

 そう強く感じるのは、駅のホームに降り立った時に肌で感じる瀬戸内海特有の湿気を含んだ空気でも、駅中のお土産屋さんで売っているもみじ饅頭でも、お好み焼きの匂いでもない。

 閉じた瞼の裏にじわりと熱を持って浮かび上がる黒い塊。静かだが、その存在を確かに主張する耳障りな音。ねっとりと肌に纏わりつき、ざらりと舌の上で砂が転がるような匂い。それらは、私が実家のことを考えたり思い出す時、必ず私の身に再現される。訳もなく感じる静かな苛立ちとともに。

 私の実家は、山を切り崩して作った高台にあり、海は見えないが、家の裏手にある坂道を下った先に入江になった小さな湾が現れる。普段は潮の匂いなどしないのに、時折海から吹く風に乗ってやってくるその香りが私は嫌いだ。どこかの釣り人が捨てていった魚の死骸を見つけた時のような気分になる。

 私は、ペットボトルに入ったお茶と共にその感覚を飲み下すと、座席に深く身を沈めた。新幹線の揺れは不規則だが穏やかで優しく、いつしか私は眠りに落ちていた。


「おかえり」


 新幹線の改札を出たところで母の笑顔が私を迎えてくれた。半年ぶりに娘に会えた嬉しさと、それを素直に喜んでいいのか複雑な面持ちでいる。それでも、不安げな表情の中にどこかほっとした顔を見つけると、ここへ帰ってくることを一瞬でも迷ったことに少し胸が痛んだ。


 病院を訪れると、祖母の意識はなく、ただ静かに病室のベッドで仰向けに横たわっていた。身体から延びる幾本もの管やコードがなければ、ただ眠っているだけにしか見えない。

穏やかな寝顔だった。今にでも起きて、よく帰ってきたね、といつもの優しい笑顔で私を迎えてくれそうな気さえする。

 ただ、久しぶりに見た祖母の顔は、記憶のものより白く痩せ細っていた。


 祖母の容態は一旦落ち着いてはいるが、いつどうなるかわからない状態らしい。

 だからと言って、このままずっと病院にいるわけにもいかない。

 そこで、何かあったらすぐに連絡をもらえるよう家で待機することになっている、そう母から説明を聞かされた私は、後ろ髪を引かれながら再び家へと戻った。


「就職活動はどう? 順調に進んどる?」


 少し早めの夕食に、母が作ってくれたお好み焼きを味わっていると、母が唐突にそう切り出した。

 父は仕事で帰りが遅くなると連絡があったため、今は母と二人きりだ。他に話題もないので致し方ない。

 私は、急に味のしなくなったお好み焼きのそばを飲み込むと、うん、まあぼちぼちね、と箸を動かしながら答えた。


「今はどこも就職難じゃろう。

 やっぱり母さんは、公務員の試験を受けるのが一番良いと思うんよね。

 幸乃は、昔から勉強がよう出来とったし、父さんに似て責任感も強いマメな子じぇけえ、きちんと勉強すればきっと受かるんじゃないかねぇ」


 リビングのテレビからは、最近人気が出てきた芸人がつまらないギャクで笑いを取っている。反応のない私に何かを察したのか、それか、と母は続けた。


「もし、そっちでうまくいかんようなら、いつでも帰ってきてええんよ」


 私はテレビの音で聞こえないフリをした。


 夜の九時を過ぎた頃、妹の舞が制服姿で帰って来た。今年中学三年生になる舞は、夏休み中も高校受験のために塾へ通っているらしい。

 こんな時でも、周りの人の時間はいつも通りに進んでいくことに私は軽い空虚感を覚えた。


 おばあちゃんは、と舞が訊くと、母は眉尻を下げて首を振った。

 今のところ家の電話は沈黙を守っている。


 舞は、夕飯に塾で食べたらしい空のお弁当箱を出すと、台所で洗い物をしている母に聞こえないよう私のすぐ耳元まで来て言った。


「お姉、ちょっと話があるんじゃけど」


 そのただならぬ様子に私が目で頷くと、舞は二階にある自分の部屋へと上がっていった。

続いて私も、二階にある自分の部屋へ行くフリをして、舞の部屋をノックする。

 中からどうぞ、と声がするのを待って中へ入ると、舞は制服姿のまま勉強机に向かって腰かけていた。





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