4-3

 白地に、黒い文字を引いていく。



 魔法使いがいない日々は、眩しく苦しい日々だった。

 青空は幾度も目にしたけれど、どれも印象に残ってはいない。思わず目を細めてしまうような陽の下、かつては鬱陶しい現実の逃げ場所として、黒いシルエットがそこにいた。

 あるときは屋上、あるときは中庭のベンチ、あるときは何でもない通学路。 

 だけど、ガラスの魔女は復活できていない。人間らしい足跡ものこさず、消えたまま。どうしようもなく、青空はかつてみた色と異なっていた。

 振り向きざま、爽やかな笑みを浮かべる彼女。瞼を閉じて、炭酸の味とともに思い出されるソレの不可欠性を、思い知らされる毎日だ。

 とても素晴らしい日々だったとはいえ、やはり自分は認められない。こうして最後の一ページを埋めている今も、俺は君のことだけを考えていた。

 ――世界を犠牲にして、魔法使いが生き返るなら、俺は躊躇なく君を選ぶ。

 そうやって、俺は自身に呪いをかけた。

 遠慮なく告げる。躊躇なく否定する。際限なく君を求める。心に刻んだ約束を果たすために。互いを隔てるガラスを割るために。

 他のだれにもできやしない。俺自身がそれを許さない。魔法使いを復活させる役割は譲れない。色彩そのものである君が生きていけるのなら、と、友の夢をも押しのけたのだ。もはや後戻りは許されない。


「──、はぁ、」


 『なにが言いたいのかというと』。そこまで書いて、手が止まった。

 魔法使いに伝えるのは、これが最後になる。感傷に浸ってしまい、何とはなしに窓の外を眺めた。

 今日は天気が良い。絶好の復活日和だった。

 風鈴に知らされた魔女の本音は、痛いほど胸に刺さっている。神さまってヤツがいるのなら、どうして寄り添うことも許さなかったのだ、と詰め寄っていたことだろう。それほどまでに、真実は後悔を際立てる。

 ありふれた言葉を口にするくらい、余地があってもいいじゃないか。

 けれど、魔法使いはそんな現実すらも敵にして、抗ってきたんだ。俺はそれに応えたい。暗い底から伸ばされた腕を引き上げたい。

 だから。

 一度深呼吸をして、再度指に力を込めた。


 別れの言葉を最後に付け足して、ペンを置く。


 途端、ヴー、と音が響いた。

 ちょうどいいタイミングでベッドの携帯が震えた。

 用件はみなくてもわかる。おそらく木陰からの定期連絡だろう。壁の時計に目を向けると、時刻はもうすぐ午前十時というところを指していた。まだ鐘の音はきこえない。

 魔法使いから贈られたノートを閉じ、トートバッグに必要なモノを詰め、肩にかける。最後にデスクの写真をポケットにしまう。

 そして、慣れ親しんだ自室を一瞥し、俺はゆっくり扉をとじた。




 飽きるほど通った路地の端を歩く。

 スニーカーの靴底はいつもより薄く、手脚の軽さは拍子抜けだ。肩の荷がおりた、とまではいかないけれど。魔法使いが復活できるという確信は心を軽くしていた。

 蒼矢サイダーのキャップをひねる。

 酸の抜ける音に驚き、電線の小鳥が飛び立った。

 微かな葛藤を清々しい舌触りで流し込む。幾度となく歩いた道を辿れば、脳裏によぎる友人の声。

 ああ、本当に、俺は恵まれている。幸福そのものだ。けれど申し訳ないことに、俺はそんなありふれた日常でさえ、享受することができないらしい。


 ……携帯の着信履歴を確認し、俺は電源をきった。


 せることのない刺激を飲み干して、携帯とともにバッグへ仕舞う。未練という名の葛藤がまたひとつ減って、身体が軽くなった気がする。

 持ち上げた視線のさき、青空に入道雲がのぼり立っていた。

 無言の俺とすれ違うように、自転車に乗った学生や散歩中のおじさんが後方へ流れる。そのだれもが自分を気にすることはない。ただ平凡でありきたりな、ちょっと明日が憂鬱なだけの時間に生きていた。

 こうして眺める日常は、平和そのものだ。

 常日頃から、透明な使命感が背中を押していた。何もしていないときでも、頭の中はひとりの女の子で満たされていて、他の思考が入る余地はほとんどなかった。やりたいこと、やるべきこと。すべからくして、発端には魔女がいた。

 夏の音、虫の声が彼方から響き、遠ざかる繰り返し。半袖を微風が揺らして、そのたびに記憶が浮かび上がる。さながら湧き立つ泡のように。ゆっくり向かっているつもりでも、腕時計を確認すると体感の半分も経ってはいなかった。


 やがて、さほど時間を使わず教会についてしまう。

 名残惜しいが、それゆえに時の流れははやくなる。楽しいときほど。喪いたくないときほど。大切なほど儚いことを、俺はだれよりも知っているつもりだ。ふたりで隙間を色付けるあの日々が、瞬く間に過ぎ去った感覚が、今でも思い出せる。

 教会はいつにも増して静かだった。

 塀に挟まれた柵のまえで見あげながら、俺は短く息を吸い、吐いた。

 周囲をかこむ低木。その向こうに佇む小さな建物は、その辺の住宅よりも角張っている。洋風の雰囲気で包まれ、木製の両扉が入り口を閉じていた。常ならば解放されているそこが締め切られているのは、家主たるシスターが不在である証拠だ。

 今ならばひとりで向き合えると、俺ははじめからわかっていてここへ来た。

 準備は滞りなく。

 覚悟も十分。

 やるべきことはできるだけ済ませたつもりだ。

 さあ、はじめよう。

 コレからすることは、『美』への冒涜だ。『生』をけがす行為だ。それでも俺は、迷わない。

 すべては待ち望んだ瞬間を描くためなのだから。

 数時間後の自分はどこでなにをしているのだろう。幸福に満ちた余韻に浸っているだろうか? それとも、眠るようにすべての感覚を失っているだろうか? どちらにせよ、後の祭りか。三上春間は間違いなく、やるべきことを成し遂げたあとだ。

 なら、贅沢は言わない。

 現実の神ってヤツは卑怯者だ。ひとりの女の子に大きな爆弾を背負わせたときから、俺は見限っている。

 キイ、と柵を押して踏み入る。

 扉へと続く道を渡りきり、閉じられた――ようにみえる玄関を押し開ける。

 驚くほど潔く、道がひらく。

 徐々に控えめになっていく夏の気温。それでもまだまだ現役な気温を、ひんやりとした風が和らげる。屋根に守られ、ひっそりと待っていたホールの空気に、影に、俺は身を沈ませていった。


 ――……。


 ――、――……。


 踏み込むこと数歩。囁く音を聴いて、俺は顔をあげた。

 やはりそうか、と苦笑する。


 くぐもった足音が、ちいさく空気を揺らした。

 喧噪から隔絶された教会、カーペッドの脇に並ぶ長椅子は無人。

 無機質な壁、燭台しょくだいに炎はともっていない。高い天井に埃の積もる気配はなく、すべては雑音を吸って地面に落ちている。


 風鈴とは別の魔法――懐のガラス片は、最初から俺を導いてくれていた。過去をみせる風鈴と、強く共鳴しあうほどに。

 だから直感で理解できる。

 これは消された記憶ではなく、ただだけの光景だ。


 フッとロウソクの炎が消されたように、世界がすこしだけズレていた。

 一歩。

 一歩。

 また一歩。

 進むほどに気配は増していき、ついにカーペッドの終わりへとたどり着く。


 長椅子の最前列。礼拝堂の中央を貫く、通路の終点。俺はその場で立ち止まった。

 視界一面に、鮮やかなステンドグラスが三枚、輝いている。斜光を透過し、同時に色彩をのせて交わっていた。その光景が妙に眩しくて、そっと瞼をおろす。

 そして。

 俺は首からさげていたガラス片を握り込み、再度、世界に目を向けた。



「なんでッ――どうしてよッ!!」



 かたわらにうずくまる女の子がいた。

 静かな空間、現実との境を曖昧にして、かつての出来事が再現される。


「……魔法使い」


 未来いま過去むかしも、教会はヒトの気配がなかった。異なることといえば、のステンドグラスはすでに割られていることくらい。

 しかしそれでも、そこは現実にぽっかり空いた無人の隙間。俺たちは互いに黄昏たそがれていた。どちらも現実と相対していた。

 彼女にしては大きめな、黒いカーディガン。まえのボタンは外され、白いワイシャツが覗いていた。その着こなし方は、疑いようもなく彼女のものだ。だが、いつもかぶっていたはずの魔女帽子は床に転がり、今は色素の薄い髪を晒していた。

 表情はみえないけれど。泣いていることだけはすぐにわかった。

 生前、一度もみせることのなかった姿だ。嗚咽を漏らして、「いやだ、いやだッ」と吐き捨てる。俺はすぐに納得する。理解する。

 魔法使いは腕の下に白い紙――破りとられたページ――を敷き、一心不乱に何かを書いていた。

 鼻をすすりながら、ぽたぽたと紙面に涙を落としながら、ガリガリとペンを走らせて。


「そんなことできるわけ――やれるわけないでしょッ! そんなのってない……誰かを犠牲にしてまで生きたくない!」


 少しだけ顔を傾け、紙面を覗きこむ。

 『もうおしまい』と文字が流れる。

 手元に握られたソレは、見覚えのある輝きを放っていた。誕生日にあげたガラスペン――夜空を模した、とある職人の一品。持ち手の部分は紺色で、星々を散りばめたよう。ラピスラズリを想起させる透明感はインクを吸い、螺旋の形状に染みこんだ黒は、魔法使いの感情を文字として紡いでいく。ちゃぷんとインクボトルにペン先が浸され、再び指にチカラが込められる。そうして言葉が刻まれるごとに、彼女の涙がにじんでいく。応えるように、白地の隙間に返事の言葉が浮かび上がる。


「ウソだ、そんなのおまえの妄想だ!」


 それらは、とても非情な返答だ。


「信じないッ、認めないッ!」


 容赦の無い事実だけを述べていた。


「ぅう、あ……、」


 きっと、避けられない結末を突きつけていた。


「ぁ、ぁあああああああぁ――ッ!!!! ふざけるな!! なんで私が、私、が……、ッ、」


 たたき付けようとしたのか、ガラスペンが振り上げられる。

 しかし、感情任せになることはできない。魔法使いは動作を押しとどめ、ただ腕を震わせた。どうしようもなく、受け入れるしかない運命に打ちひしがれた。

 力なく腕を下ろす彼女に、俺は息を呑んで――微笑んだ。

 君は、優しい。

 俺が贈った綺麗で残酷なガラスペンが、苦しい選択をさせていることは言うまでもない。短い命、目がくらむような未来を望んだっていいのに、君は頑なに受け入れず、悩み続けた。そう、コレは俺が魔法使いに選ばせた結果だ。俺が君を泣かせているんだ。すべて、悪いのは俺なんだ。


「だから、いいんだよ、魔法使い」


 届いたわけではない。

 だけど、魔法使いは声を聴いたかのように崩れ落ちた。ノートの上で、泣き声をこぼした。


「――やだ、ハルマを殺すのだけは、イヤぁ……!」

「ごめんな」


 無意味な謝罪。

 俺は魔法使いの前に進み出る。トートバックから、インクをいくつも取り出した。

 ガラスペイント――大人買いした、ガラスに塗る用の絵の具だ。

 道中で飲み干した蒼矢サイダーのボトルに、黒のガラス絵の具を流し入れていく。

 ガラス絵の具はひとつひとつの容量が小さい。だから、ステンドグラスにぶっかけるにはそれなりの量がいる。幸いなのは、この絵の具は想像より流動性があったことだ。新凪さんにおすすめを訊いた甲斐があった。彼女の分も合わせて買ったため出費は大きいが、もはやそんなものはどうでもいい。

 俺にとって大切なことはひとつだけ。すべてが終わったあと、君が生きているか、いないかだ。


「ごめん、本当にごめん――魔法使い」

「死にたくない、死なせたくない……!」


 泣き声が突き刺さる。その声を聴くたび、決意が揺らぎそうになる。

 だけど止まれない。もう止めない。そういう迷いは十分だ。俺は十分に時間をもらった。幸福を与えられた。

 だから、次は君の番だ。

 父さんが大切なものを護ったように、俺はすべてを捧げよう。

 魔法使いは震える両手で、ガラスペンに祈った。しかし祈りは届かず、瓶がぶつかるみたく深い音色が、響き渡る。さながら鐘のように。


 紙面に浮かんでは消える文字、ステンドグラスの瞬き、辺りに漂う非日常の気配。

 彼女の時間軸。

 俺の時間軸。

 その両方から、魔法ガラスが共鳴し、交差する。

 

 魔法使いの泣く声に耐えながら、俺は黒い絵の具を一杯に詰めたペットボトルを大きく振りかぶった。

 


「割らないで、ハルマ――、だめよ、やめて――」


 


 ――バシャリ――。

 

 フタをあけたボトルから、綺麗に弧を描き、ステンドグラスに降りかかる。

 白い肌の貴婦人、青色のバラ、緑の葉。

 優雅でおごそかなが、黒いインクで汚された。天井付近まで届いたソレは、色ガラスの縁を伝うように、隅々まで行き渡る。



「……、ルマの……ハルマの、バカぁぁぁああああああああああああ――ッッ!!」



 大丈夫。君は生きる。

 命を糧に、君は生きる。

 理不尽な現実に閉ざされた未来から、俺は君を救い出す。

 魔法は綺麗だけど、残酷だ。

 ガラスのように綺麗で、ガラスのように秘めた危うさ。


 再度、ペットボトルにガラスペイントを詰め込み、インクをぶちまける。

 さらに黒が降りかかる。


 再三だが告げよう。俺は魔法使いにはなれない。

 だから、いつだって君の遺した魔法を借りるだけ。

 そしてこれが、自分にできる最後の一手――過去と現在の入れ替えだった。

 俺はノイズがかったガラス片をひとつ拾うと、ポケットに突っ込んだ。代わりに、胸元――クリスマスに贈られた偶然の産物、ブルーローズの葉であるガラス片を首から外し、前へ掲げた。


「犯人は現場にもどる。あの日のステンドグラスを割ったのは――『三上春間』だ」


 ゆっくりと、手を離す。

 ガラス片は硬い床にカツン――! と一際甲高い音を響かせ、落ちた。そこは、魔法使いがいた数年前の床だった。


 次の瞬間――世界は叫び声を響かせ、盛大に崩れ去った。




 耳をつんざくほどの破裂音が、教会を包む。




 ヒビ割れの気配は一瞬。

 風船を割ったようにも、爆風に見舞われたようにも聴こえる現実の変化。

 床を照らしていた鮮やかさは、もうない。

 破片の雨は斜めに差した光を受け、きらきらと視界を埋め尽くす。散らばり、軽く。床に広がって残骸と化していく。ブルーローズの葉と混ざり合う。細かな破片が頭上から降り注いで、俺は輝きに埋もれていく。

 カシャンという音が折り重なって、透明な海にふたりだけ。波紋はなく、耳に届くは空気を震わす感情の前触れのみ。

 綺麗な雨だ。

 鋭利な雨だ。

 そんななか、傘もささず、ただ呆然と立つ君をみた。頬に泣き跡を残し、ただ俯き、無言で佇んでいた。

 落ちては跳ねる、粒のひとつひとつ。

 魔法の残滓か、淡い光を纏っていたそれらが宙に色を舞いあげては消えていく。

 非現実の足音は現実に落とされた。

 束の間の奇跡は水のない魚と同義。あってはならないモノは余すことなく、瞬く間に消え去るだろう。


「……、」


 数歩、足を運ぶ。

 靴が破片を鳴らす。


 転がっていた魔女帽子をひろった。

 ああ、初めて触った。案外重いんだな、この帽子って。だが、やっぱり君にはこれが似合うよ。ずっとそのままでいてほしい。

 三上春間にとっての呪いそのもの。三上春間にとっての命そのもの。

 替えの効かない、世界でただひとつの、大切な存在だ。


 動かない彼女のまえに立つ。彼女は視線を伏せたまま、両手を固く握り込んでいた。右手はしっかりとあの日の贈り物を掴んでくれていた。

 すでに風鈴の過去からは抜け出している。ここは元いた現在だ。それでも、現実感は薄い。喜ばしいことは、現実感のない存在が、ことだった。

 用意した言葉は、とっくに霧散していた。胸の奥にこもった熱が、あと数分の人生を報せていた。

 どう声をかけたものか、と悩んだが、以外にも、言葉はすんなりと落ち着いた。


 そっと、帽子をかぶせる。



「好きだよ。魔法使い」



 弾かれたように、魔法使いが顔をあげた。

 目尻から涙が伝う。くしゃりと表情を歪ませていた。

 夜色の瞳が懐かしい。くすんだ髪色も、整った顔立ちも。

 だけど、その痛々しい表情は初めてだ。『三上春間』が喪われる事実が、そこまで感情を露わにさせたのなら、身体を張った甲斐がある。


「ハ、ルマ、」


 震えた声音。大切な宝物が引き裂かれたような顔をする。

 自分の身体が薄れていることには気づいていた。

 もう永くない。

 それでも、報酬としては十分だ。

 これまでの年月も、崩れゆく命運も、対価としては申し分ない。


「約束どおり、ガラスを割った。これで君は自由だ」

「――、」


 いつか、魔法使いは俺の日記を読んでくれるだろうか。すこし気恥ずかしいけれど、嬉しくもある。

 だがまぁ、構いやしない。きっとそこに俺はいない。それに、こうして面と向かって言えたのなら大満足だった。


「ごめ、ん。私が、あなたを、」


 伸ばされる左手。

 震える指に、黒いインクが付着している。必死にもがいた結果であることを、俺は知っている。触れようとする彼女を、目をとじて受け入れる。

 最後の瞬間まで、魔法使いを感じていたかった。

 文字どおり、割れ物を扱う指さき。懐かしい魔法使いの存在に、自然と笑みがこぼれてしまう。君の人生は、これから再開されるだろう。


 嗚呼ああ、きこえる。


 ぱきん、

 ぱきん、と。

 別れの足音が。


 もう、どうだっていいか。



 ――俺は刹那の体温を感じながら、亀裂を聴いていた。



 こうして。

 『三上春間』の世界は、割れてくなった。

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