3-3
三上さんの夏休みが終わるまで、あと四日。
本日の天気、雨。
地表の熱を冷ますように、あるいは立ち昇っていた水分を落とすように注がれる。教会を取り囲む庭はもちろん、小高い丘に走るアスファルトさえも濡らし、同時に土の混ざったペトリコールを匂わせる。ここ最近の晴天続きを裏切るような空模様だ。
私は呆然と窓のそばに座っていた。背丈ほどの高さで、向こうは草木と住宅街、そして雨の軌跡に覆われていた。
なにもないことはわかっている。でも黙って考え事をしているだけで、思考は冷静に状況を整理していった。雨音がさらに深く自分を包み込み、過去に思いを馳せていく。そして今の状況へと繋がっていく。
状況。
そう、状況だ。ガラスの魔女と彼をめぐった、異質な状況。
ガラスの魔女はとても我が儘な存在だ。
絵本で描かれるような、ツボをかき混ぜながら不気味にほくそ笑む人物像とは程遠いが。それでも私からすれば、彼女はとても人間らしい意地汚さをしていた。
境遇を加味すれば何らおかしなことはない。かわいいものだ。そう口で言うのは簡単で、理解した気にもなれる。でも、あの身体ひとつにどれだけの業と執念が宿っているのかを知っているのは、きっと誰ひとりとして存在しない。
シスターとして、あるいは友人としてそれなりに素性を知っている自分でさえも、真実の底は霧に包まれている、
……まぁ、そのミステリアスさが三上さんを惹きつけ、木陰さんを
今日も、そのひとりが教会へ来訪した。
教会の正面玄関を締め切りたい気持ちを抑え、しかしいつものように礼拝堂で祈りを捧げているのも落ち着かなくて、結局奥の生活スペースに閉じこもっていた私。
三上さんがステンドグラスの破片を取り返しに数度か、そして木陰さんがお茶をしに何度かやってきた以外は、特に来訪者もいなかったこの場所に、今日は彼女が顔を見せた。
コンコン、というノックの音は、雨音のみの室内にはっきりとした響きを伝えた。
覗き窓からうかがうと、馴染み深い頭がみえる。
迷いなくカギを開け、顔を出す。トートバッグを抱えた三上さんの妹──由乃さんが私をみあげた。
「こんにちは」
「こん、にちは」
私は首を傾げて挨拶をする。
突然の来訪するだなんて。事前に携帯へ連絡を入れてくれればいいのに。それとも緊急を要する事情でもあるのだろうか。
妹さんはすこしだけ逡巡を挟み、答えた。
「お兄ぃ、じゃなくて、お兄ちゃんのことで相談、したくて……」
「三上さんのことで、ですか」
木目調の扉を手で押した。キィ、と音がして、教会のすこし高めな気温が入り込む。広いホールは雨音が反響し、明るさも心許ない。いつかの夜を思わせた。
私は妹さんの後方を眺め、身を乗り出して教会のなかを見渡す。
妹さんひとり……? いや、念のためだ。
「ミノリちゃん?」
外に出て、礼拝堂の正面玄関の方へずんずんと歩いていき、外を伺った。
それらしい人影はない。くもりの空がどんよりと広がっていて、夏休み終盤ということもあってか外出する人は少ないようだ。
「……」
「どうしたの?」
「……いえ。ひとりで来たんですね」
こくりと頷く彼女に、私は疑念を振り払った。三上さんが妹さんを利用して取り返させようとでもしてるのかもしれない、などと勘繰ったりしたが、度が過ぎれば失礼に当たるかもしれない。
「どうぞなかに。お茶を出しますね」
「ありがとう」
シスターとしてではなく、友人として私は悩みを聞こう。そして彼女のチカラになろう。三上さんをめぐる騒動は、いつだってヒトを悩ませる。経験しているだけに痛みを知っているから。
また金切り声をあげて閉まる扉。生温い風が途絶えたことで、再び室内はくぐもった空気に満たされた。
教会のホールとは異なり、真の意味で自宅でもある生活スペースは天井が低い。背伸びしてジャンプすれば容易に指が触れる高さだ。地下室を思わせる雰囲気を漂わせる一方で、窓から差し込む光は明るい。
良く言えば寂れたダンスホール。悪く言えば幾分かマシな倉庫。
ナチュラル風の家具とテレビ、そして整理整頓を欠かせないキッチンがあればこそ、この場所は住む場所として成り立っている。
住めば都とはこのことである。ちょっとだけ珍しそうな顔で見渡す妹さんにはピンとこないだろうけど、私にとっては歴とした『家』なのであった。
ガスコンロにやかんをかけ、私は振り返った。
「遠慮なく座ってください」
「あ、うん」
立ち尽くしていた彼女がクッションへ腰を下ろす。
ちょっとした菓子も差し出しながら、私も丸テーブルの反対側に正座。
彼女が唯一肩にかけたカバンを傍らに置いたところで、優しく切り出した。
「三上さんについて、でしたね」
こくりと頷き、妹さんは視線をテーブルに落とす。
妹さんのショックは測れない。
過去を知らない部外者がわかったような口ぶりで話すのは逆効果。それゆえ、どう引き出したものかと思案した。
しかし驚くことに、対面の彼女はあっさりと線引きをしたようだ。
顔を上げ、真っ直ぐこちらを見据える彼女が。すぐに柔和な苦笑で取り繕う彼女が。今までとは別人に映る。
「河川敷では驚いた」
……その違和感の正体を、私は悟れない。ただ同意を示すことしかできなかった。
何かの決意であることは間違いない。だけど、それより先が見通せない。
みんな、変わっていく。成長とはちがう。これらはもともと彼ら彼女らが持ち合わせていたものだから。であるのなら、眩しさで目を細めたくなるソレをなんと表現すればいいのだろう。
やはり、決意が一番しっくりくる。
腹を括っただとか、吹っ切れただとか、そういう感情。
個人的に、妹さんは最も意外な人物だった。こんな風に変わるとは思ってもみなかった。木陰さんとは異なる。三上さんとも異なる。魔女は言わずもがな。彼女にその変化は似合わなかった。
「ミノリちゃん?」
「い、いえ……コホン。本当に肝を冷やしましたね。勘弁してほしいものです」
「そうだね。お兄ちゃんには危険なことをしてほしくないし、自己犠牲に走ってまで求めてほしくない。できるなら、全部止めたい」
「その気持ちは、分かるつもりです。私自身もショッキングな光景でしたから」
やかんが沸騰を告げた。
キッチンに立ち、紅茶を淹れる私の背中で、彼女は続ける。
「みつけたとき、すごく怖かった」
「……」
『怖かった』。
恐怖を抱いたのは、いったいどちらの三上さんについてなのだろう。
倒れたまま目を覚さない彼だろうか。それとも、透明な幽霊な囚われたような、ひたむきすぎる彼だろうか。
自分はどちらの方が怖いのだろう? そう自問したとき、一瞬だけ、お湯を注ぐ手が止まった。きっと気のせいだ。そうに違いない。
そんな私の心中など露知らず、彼女は言った。
「でもいいの。あたしの答えはもう出たから」
思わず振り返る。
「え──」
やかんを片手に唖然としてしまう。
彼女が言わんとしていること。ここを訪れた理由──もしかしたら、という予感が、嫌な可能性へと集約していく。
妹さんはどこか申し訳なさそうに微笑みを浮かべて、ゆっくりと告げた。
「ミノリちゃん。ステンドグラスの破片、返してほしいの」
◇◇◇
耳の奥に、風鈴が鳴っていた。
とても些細で微かな音色。羽根を動かすほどのチカラも感じられないほど遠くから届いている。
その場で空を見上げたまま、俺はじっとみつめていた。灰色一色でもなく、降りそそぐ雨粒でもなく、どこかから流れる風鈴の先をみつめていた。
ガチャン、と音が思考を遮った。
振り返って、俺は「やあ」と挨拶をする。
「待たせたわねッ!」
シオンこと片勿月しおりは、曇天をものともしない態度で返した。俺は今までで最も穏やかに微笑む。
ここは見知らぬ家。片勿月家。
玄関でシオンを待って、雨降る外へと踏み出していく。
数秒濡れることなど構わず、バサリと黒い傘を広げ。ポロシャツを腕まくりし、腕時計で午後二時を確認し。背後でもうひとつ傘のひらく音を聴いた。
ちらりと視線を投げれば、こちらの傘とは異なり、曇り空の色を透過するビニールが揺れていた。
流れる水滴のカーテン越しに、茶色い前髪がうかがえた。近ごろ散髪にでも行ったのだろうか、この前よりすこしさっぱりしているように思えた。
だが表情は変わらず。いつもと変わらず、どこか自信を覗かせた表情で、雨色の世界を眺めている。
俺たちは鐘之宮中学校を目指していた。
シオンの母校ではなく、移動には数駅分電車に揺られる必要がある。
そこまでして迎えにあがったのは、他の人に立つ瀬がないからでもあったが、本命は別。彼女との情報交換だ。
パシャリ、パシャリ。
ポツポツ響く傘の内側、自身の足音ともうひとつの足音が交じる。
無人の街路、側溝が溢れるほどどしゃ降りではないが、残り数日の夏休みは外出を控える家庭が増えそうだ。
俺はこれまでの記憶で得た過去を説明した。
不可避の『死』を明かした屋上での一幕。由乃の記憶を消した病院での一幕。どちらも鋭利な破片みたいな痛ましさを秘めている。提供した風鈴の魔法を、彼女はウンウンと噛み砕くようにして整理する。
それから、今度は私の番とばかりに口を開く。
「結果だけど、率直に言って……不審ねッ!」
一瞥し、また前を向く。互いに進行方向へ視線を固定して歩く。
何が? そう問う必要もない。
もともと、彼女に頼んでいた調査の結果についてだろう。
「魔法使いの死因は、そんなに変だったかい?」
「ええ、ええ! 立つ鳥跡を濁さずと言わんばかりの死に方じゃない! 存在は綺麗さっぱり、忘れ去られたみたくクリーンに! あなたたちの言う魔女って、凄腕の清掃業者だったりする?」
「清掃業者ほど勤勉に生きてはいなかったよ。というか、跡形もなく消してしまっては清掃業者とは言えないじゃないか。料金を受け取ってこその業者だ」
「一理ある! まぁたしかに、記憶までデリートしちゃうのはやり過ぎね」
記憶。
その単語を聞くと、どうしても今の自分と重ねてしまう。
風鈴が映し出す過去の情景は、どれも魔法使いが封印していた数々。タンスの奥に詰め、カギをかけた記憶だった。
「詳細を訊いても?」
「もちろん!」
街路を抜け、十字路に出た。
しかし、軽自動車が二台通っただけで、閑静な空気が舞い戻る。
俺とシオンは赤になったばかりの信号を見上げ、その場に止まる。
「まずは魔女の家庭環境。これから行く鐘之宮中学に在籍していた時代の教員から両親を調べたけど、辿り着けなかったわ!」
「たどり着けなかった? いない、ってこと?」
「代わりに挙がったのは保護者代理としての立場にいた叔母さん。この人とは血が繋がっていなかった。ちなみに本人に確認済み!」
「保護者、代理……」
「まぁ、事情は人それぞれということね! 死別か金銭的理由かはさておき、『魔女』がその人と生活していたことは確かよ! もしかしたら孤児院出身なのかもっ」
歩行者用の信号が青に変わった。ふたりで横断歩道へ踏み出す。
血のつながっていない叔母さんとの生活、か。
俺は眉をひそめ、考え込んだ。魔法使いは家庭事情を一切漏らすことはなかった。「生まれたときから一人暮らししてます」と言われても納得できる佇まいだった。
しかし、生きているのなら親が存在するはず。
その両親の事情はこの際構わない。それより、彼女が世話になっていたその叔母さんと話してみたかった。
しかし、先読みしてシオンが首を横に振る。
「残念だけど、会っても無駄ね」
「……無駄?」
「その叔母さん、大半の記憶がないわ! 引き出せたのは三つの事項だけよ!」
横断歩道を渡りきったところで、シオンが指を三本立てた。
「一つ、魔女と暮らしていた。二つ、両親については覚えていない。三つ、魔女はある日忽然と姿を消した!」
「
歩きながら更に考え込む自分に対し、シオンはつらつらと続けた。
「正確な日時は不明。季節は秋。帰ってこなくなって、気付いたら居ないことに気づいたそうよ。あなたみたいに忘れさせられてることを考慮すると……あんまり使えないヒトだったわね!」
「使えないって……はっきり言うなぁ」
「事実だもの!」
ドライでなくては情報屋の片腕は務まらない、ということなのかもしれない。俺はそうやって納得し、押さえておくべき点を確認した。
「じゃあ、魔法使いの死体が見つかっている訳ではないんだね?」
「そうね。なんなら胡散臭いくらいに姿を眩ましてるわね。もしかしてどっかで生きてんじゃない?」
「それはない。ガラスの魔女はどう足掻こうと運命に殺される。中学を卒業するまでにね」
ほんの些細な推測だが、おそらく俺は、彼女の『死』を知っている。
無論、覚えてはいない。魔法使いの仕業かもしれないし、ショックで飛んでしまったのかもしれない。
原因はともかく、よくよく自身の過去を思い返すと、知らないはずがないのだ。二年前──魔法使いの死期が近づくにつれ、三上春間は気を張ったに違いない。彼女をどうにか生かすために帆走したに決まってる。いつだって彼女を想い、いつだって彼女のこれからを考えていた。そいつが魔女の死を追いかけないなど、考えられなかった。
駅に着き、電車に揺られながらも情報共有は続いた。
「もうほんっと大変だったんだから!」
ここまで来ると半ば愚痴のようになっているが……まぁそこは気にしないでおこう。調査してくれたのはとてもありがたい。
「素直に君はすごいと思うよ。魔女の特徴を聞いただけでそこまで暴くんだから。叔母さんの居場所までよく突き止めたな」
「その叔母さんなんだけどね? こっちが名前を出すまで首を捻ってばかりなんだから! 私が幾ら『魔女の帽子かぶってて…』とか『炭酸好きの暗い髪色で…』とか言っても、『だれぇ?』『あなたどこから来たのぉ?』『パァドゥウン?』──何がパードゥンよッ!」
「はは──、?」
そこで、違和感に気づく。
俺はとなりに座るシオンへ詰め寄った。
「ちょっと待て。今なんて言った?」
「パードゥン?」
「違う。そこじゃない。真面目な話だ」
「そうは言っても、ええと、どこの部分?」
そうだ。
重要なことを忘れていた。なぜ今までソレを気に留めなかったのだろう。
ガラスの魔女。魔法使い。彼女のことが知りたいのなら、まず何より知るべきモノがあった。
「お前、名前、わかったのか?」
「……は?」
何を言っているんだという顔をされた。
俺は我にかえり、姿勢を正す。幸い、車内は乗客が少なかった。
「……いや。俺も知ってたはずなんだ。中学校で、別のクラスに魔法使いが在籍していることを確認した際に知ったはず。覚えたはず。覚えた上で、俺は『魔法使い』と呼んでいた」
なのに、忘れていた。忘れていることさえ忘れていた。個人を構成する重要なファクターを。
難しい顔をする俺に対して、シオンはふふんと不敵な笑みを浮かべた。これに応えられなければ情報屋の名が無く、なんて息巻いた。
しかし。
「教えてあげるわ! 彼女の名前はね──名前、は──あれ、」
誇らしげな顔が曇っていく。軽やかだった口調も勢いを失っていき、歯切れが悪くなった。ついには眉を寄せて黙り込んでしまった。
「……なんだったっけ。いや、ちゃんと確認したはずで、あれ……?」
そこまで熟考しているところで、車両は慣性を生みながら停車した。
『鐘之宮ー、鐘之宮ー』
扉がひらき、ホームの音声案内が聞こえた。
中学校の職員玄関で手続きを済ませ、俺はシオンと共に校内を歩いた。
彼女は何度かこの中学校に赴き、魔法使いについて調査をしてもらっていた。強面の事務員と中良さげに話していたのは、情報屋として潜り込んだ証拠だろう。
本当に、彼女には頭が上がらない。当の本人は俺の傍らを何食わぬ顔で歩いており、こちらの内心など知らずにいるようだが。
まぁいいか、と俺は窓へと目を向けた。
歩いている廊下は中庭の東側に面していた。こちら側はとくに緑が多く、青い広葉樹が立ち並んでいる。花壇とちょっとした畑がその向こうに広がり、さらに向こう──中庭の中央──には四角い池。幹の隙間からみえる池には雨の生み出す波紋がいくつも浮かんでは、消えていく。
ぽつぽつと雨が降る中庭を窓越しに眺めながら、懐かしさと寂しさが滲む。同時、ずっと燻っていた透き通る呪いが、胸の内側から湧き出した。
今更ながら感慨深くなり、そっと足を止める。
気づいたシオンが横に並び、改めてこの学校の雰囲気に注目する。
……あらゆる雑音は、雨が吸ってくれていた。
世間一般の夏休みが終わるまで残すところ数日。由乃と訪れたときよりも、すこしだけ教員をみかけることが多かった。ただ、それでも校内は静けさに包まれていて、シオンの言葉は鮮明に聞き取れる。
「名前については再調査しとく。それと調査のお題、ここで貰ってもいいかしら」
「いいけど、手持ちはそんなに多くないぞ。学生のひもじさは知ってるだろ」
「大丈夫、お題はカネではなく、モノでもなく、情報だから」
そうか、と短く納得する。
どこぞのヨーグルト好きなミュージシャンと同じことを口にする。やはり彼女は情報屋、取り扱うソレは命らしい。
俺は肩をすくめて、どうぞと促した。すると。
「魔女のこと、好きなんでしょ?」
とシオンは訊ねた。
「? まぁね」
首を傾げてそう答える俺に、立て続けに質問が飛ぶ。
「……恋愛って、楽しい?」
「――、」
ぽつぽつ、窓の向こうに雨が降る。数秒の無言のなか、俺は驚いていた。
シオンが口にした質問は、利益のためというより、答えを探し求めているかのような響きをしている。
……記憶が正しければ、みどり先生に『他人を好きになれない感覚』について相談したのは、去年の冬のことだった。俺は恋愛感情を持たない友人について、先生に見解を求めた。
結論を言うと、木陰はちゃんと恋愛感情を持ち合わせていた。それをシスターに指摘され、木陰は魔女復活のための自己犠牲を諦めた。夢を手放した。つまり人並みに見えないような独特の雰囲気をしている彼も、根っこのところでは俺たちと何ら変わらない一人だったという訳だ。
しかしまさか、こんな身近にいたとは。驚きつつも腑に落ちる自分がいて、思わず苦笑がこぼれてしまった。
「ようやく、合点がいったよ。だから、『情報屋』はふたりなんだな」
「……」
見知らぬ人間関係に近づき、仲を深め、情報を得る存在。そも、売れないミュージシャンとシオンが営む『情報屋』は、他人の恋愛事情に絡むことがほとんどだ。彼女はさまざまな関係性を目の当たりにしたことだろう。その度に、男女の関係をドライに捉えてしまう感覚が、もしかしたらあるのかもしれない。
『理由はないが、原因はある』──みどり先生の言葉の意味が、ようやくはっきりと理解できた気がした。
シオンの立場はひとつの原因として、彼女の思想を創りあげた。こうした何の利益にもならない質問をするあたり、彼女自身も迷いがあるに違いない。きっと普段の態度からは想像できないほど凝縮された、悩みのタネだ。
そりゃあ恋愛相談の窓口でもある『情報屋』が二人三脚になるわけだ。片や情報集めとその考察、片や情報に基づくアドバイス。片想いが理解できない人間と、理解できる人間――合理的な体制といえる。考えてみれば状況は当然の帰結だった。
恋愛は楽しいのか。
彼女の問いを反芻し、胸に苦みが漂う。けれど、やっぱり返す答えは決まっている。
俺は視線を向けず、
「楽しいよ。だれかを好きになるのは楽しい。でも、それだけじゃない。苦しいことは多いし、痛みでどうにかなりそうだ」
「……はは、それは、説得力のある……」
窓に反射するシオンの顔に、翳りが落ちていた。どこか諦めを混ぜ込んだような、参ったような苦笑を浮かべている。
「失望したかしら、恋多き者たちの味方たる『情報屋』の正体が、好意の本質を見失った存在で」
力のない抑揚の裏を、読んでしまう。いわゆる羨望の眼差しが、虚空をみつめる瞳の奥にわだかまっていた。
俺は静かに否定する。
「失望しない。君みたいに他人を好きになれない感覚の持ち主はそれなりに居るよ。他でもない魔女がそういうヤツなんだから。きっとそれも普通の価値観さ」
「……いいえ、私ひとりだけよ。恋愛感情を理解できないのは」
そう言い切るシオンの横顔は、真剣そのものだった。何か根拠があることは明確で、俺はただ一言「そうか」と返した。
雨音は途切れず。
校内はなおさら静寂を深めていく。
シオンと俺は数分間、ずっとそこへ佇んでいた。時おり遠くから足音が反響するけれど、すぐに沈黙に飲まれた。
「恋なんて、望んでいるときには来ないものだと思うよ、俺は」
「至言ね。魔女との邂逅も突然だったのかしら」
「ああ。なんてことない、ただ憂鬱な日に彼女は踏み込んできた」
「……なるほど」
「シオンのことは信頼している。情報屋として、とても。でも、もしその立場にいる限り迷いが濃くなっていくのなら、一旦離れてみてもいいんじゃない?」
窓の反射越しにこちらを一瞥し、しかし彼女は首を振った。
「いいえ。やめない。たしかに、色々な恋愛に触れる度悩ましくなる。本気でだれかを想う彼ら彼女らが羨ましくなる。だけど私は情報屋として、これからも恋多き者たちの味方であり続けるわ。だってそれが──」
シオンが顔をあげる。腰に手を当てる。
そこには、元気で満ち溢れた、騒々しい彼女がいた。
「この私、片勿月シオンらしい人生なのだからッ!」
彼女の佇まいは、とても強かった。
恋愛感情が分からない。他者の片想いを目にする度に自身の感情が朧げになっていく。
それでも、と。シオンは自分らしさを貫く。
魔法使いとはまた異なる点で、彼女は真っ直ぐに生きていた。
「応援しているよ、情報屋」
いつか、彼女にも人生を変える邂逅がありますように。俺はそう願って、振り返った。
りん、と音が聞こえた。
招くような微かな音は、数メートル先にある階段の上から響いていた。俺の視線をなぞり、シオンが歩き出す。
「行きましょう!」
付き添い、階段を登りきる。そこからは俺が先導し、廊下を歩いた。
風鈴は校舎の端っこの方、より人気の少ない場所から流れてきているようだった。
一歩一歩進む度、風鈴は鮮明になり、存在感が増していった。
ある一歩を踏み出したところで、俺は止まった。腕で遮り、シオンも止める。
ちりん、ちりん──
みえないけれど、たしかにそこで鳴っている。今か今かと待ち受けている。
かつての情景、誘うガラスの柔らかな音色。透き通り、軽く流れる風物詩がそこにある。
ここまでだ、と俺は振り返った。
この先はまた、過去に身を投じることとなる。先んじて伝えていた事象が起こるのだと、彼女は悟った顔をしていた。
そんなシオンへ、俺は伝える。
「シオン。君がいつか、信頼するに足るだれかと出逢うことを、俺は祈ってる」
「──、」
「もしみつけたのなら、俺は協力を惜しまない。本当に、調べてくれて感謝してる」
「……言うじゃない。ありがとう、でも大丈夫。恋人とまではいかないけど、『信頼できる人たち』はマーク済みよ」
シオンはふぅ、と一息を挟み、ニッと笑い。
「魔女の本質を見極めなさい!」
と言った。
「魔女の、本質」
「そう。彼女が死の間際に残した傍迷惑な魔法の数々。そして、彼女自身を突き動かすモノを知る必要がある。それがあなたに与えられたオーダーよ!」
彼女なりに背中を押してくれたのだと、遅れて理解する。
シオンと知り合って、そこまで長い期間があったかと言うと怪しい。時おり会話して、魔法使いを調査してもらうためにメールでもやりとりして、今は見送る役を買ってくれている。
……やはり以前の俺からすれば信じがたい。こう、だれかを頼り、応援してもらうということは。
だけど存外、悪くないものだ。
シスター、木陰に留まらず、こうして新たな縁も許容できるくらいには、俺はヒトとして成熟できたということだろう。
俺は目閉じ、薄く微笑んでから、見送り役に向き合った。
「木陰によろしく」
「承った!」
すべて、『魔法使い』というひとりの女の子を求めた結果だ。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい! 忘れ物するんじゃないわよ!」
踵を返す。
かけられた言葉を残響のように再生しながら、俺は一歩を踏み出した。
ちりん。
ちりん。
りん、ちりん――
雨の音も。
自分の鼓動も。
シオンの薄い影さえも。
すべてが、瞬時に途絶えた。
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