1-2

 なぜもっとはやく意識を向けなかったのか、不思議でならない。思えば、俺の歩んできた現実には所々に違和感があった。

 魔法が横行している時点で不自然だらけだろう、と言われればそれまでなのだけど。それとは別の、もっと内面的な違和感だ。

 普段はちっとも気にならない、当たり前な状況──たとえば明確な理由がないのに魔女の在り方に確信をもっていたり、逆に俺自身を構成する記憶の欠落を見落としたり──ひとつひとつはとても些細なモノに感じられる。思い返せば、俺はこんなにも不確かな思考を抱えたまま、その存在にすら気づかないまま過ごしていたことになる。

 今なら自覚できる。魔法使いがいなくなってから……否、彼女が生きていたあの頃から、俺はどこかおかしかったのだと思う。今こうして疑念を抱くことができているのは、昨年末、教会で指摘した木陰と、こうして過去の見つめ方に別の角度を与えてくれたシオンのお陰に他ならない。その点、俺は助けられてばかりだった。

 バーベキューの翌日、昼下がり。俺は書き留めていた日記をさかのぼりながら、あの日のやりとりを反芻していた。


「宿命とか運命とかそういう抽象的な死因じゃなくて、もっと具体的な要因を知りたい」

「具体、的」

「決められた死。それは理解できた。でも、何によって死んだのかが不明瞭かしら。事故死、病死、それとも第三者を介して? そも、それは死んだと判断されて良いのか? 兎にも角にも、まずはそこからじゃないの? 魔女を復活させたいのなら、存在が途絶えた地点からだと思うけど」


 俺からすれば些細な、他人からすれば重大な事実。シオンは「率直な疑問をぶつけただけでしょ」とでも言いたげな表情をしていた。

 その顔も当然といえよう。

 我ながら目が節穴以下だ。

 霧のなかに光の道が差すと同時に、今まで迷っていた自分が恥ずかしくなった。考えてみれば彼女の言う通り。普通は死者を生き返らせようなどと考えはしないが、仮にそういう企みを抱くヤツがいたとしたら、まず視点を置くべきは生死が分かたれた分岐点に違いない。

 フランケンシュタインの怪物は墓所から死体が掘り起こされ創造された。不老不死のヴァンパイアだろうと、死に至る弱点が有名だ。魔法使いは怪物ではないけれど、生きていた存在である限り、命を左右する直接的な要因を見逃してはならない。『死』を覆すのであれば、『死』のはじまりを理解する必要がある。

 ……だというのに、俺はちっとも気にならなかった。

 ああ、異常だ。異常だろうさ、木陰のいうとおり。だから、俺は行くよ。きっとこうすることが、魔法使いと再会するための第一歩なのだから。

 日記を閉じて、机の引き出しにしまう。その拍子、ころ、と光る物体に目が止まった。

 不安定なカタチの破片。緑色の透き通ったステンドグラス。魂をもたない人形からのクリスマスプレゼントだった。指を切らないよう、尖った部分は削ってある。

 俺は何の気なしにそれを懐へしまい、部屋を出た。

 改めて状況を見なおすと、魔女が未来の俺宛に日記を送った意図も、僅かながら察せられる。自分を通し、過去を通し、魔女を知る。日記に刻まれた足跡は、過去も未来も鮮明に写し出してくれる。それと同様、ステンドグラスの破片すらも、魔法使いにとっては垣間見た未来の結末で、彼女の残した遺産なのかもしれない。ガラスというだけで、俺の思考は彼女の記憶と結びつけてしまうのだから。

 もちろん考えればキリがない。でもどうしてか、魔法使いの「私に気づいて」という訴えである気がした。



 階段を降りると、居間から顔を覗かせた妹が声をかけた。

 まるで、俺の行き先を見透かした様子で。


「お兄ぃ、どこ行くの?」

「……思い出の場所。高三の夏休みは短いし、一日だって無駄にはしたくない」


 靴紐を結びながら言うと、おそるおそるといった声音がかけられた。


「私もいく」


 ぴたりと手を止め、振り返る。そこにいる妹は、いつぞやの夜を思わせる顔つきだ。反射的に拒否しようとして、思いとどまった。

 同じにみえて、同じではない。妹は俺の目的も、俺の立場も把握している。把握したうえでついていくと口にしている。

 本来であれば、魔法使いが関わるであろう場所に妹を連れていくのは真っ向から否定していただろう。顔見知りとはいえ、魔法使いの事情に巻き込むのは気が引けたから。だけど今は、これ以上おざなりにしてまで心配させるのも心苦しく思えた。


「わかった」


 すんなりと、そうこぼす自分。

 ぱっと表情を軽くする妹。


「すぐ準備してくる!」


 言うやいなや、階段を軽やかに上っていった。忙しい妹にすこしだけ嬉しくなって、俺は微笑みをこぼしていた。

 今日は、久しぶりに兄妹の時間となりそうだ。




 揃って家を出た俺たちは、駅とは真逆の方向へ足先をむけた。

 道すがら、さっそく妹が問いかける。


「で、具体的な目的地は?」

「母校」


 魔法使いとの数少ない繋がりの場。すべてのはじまり、輝かしくも儚い三年間の跡地。妹の母校でもある鐘之宮東中学校に連絡をとってみたところ、夏休み中ということもあり快く見学を引き受けてくれた。

 細い糸をたぐるつもりで探し、ぱっと浮かんだ手がかりといえばそれくらいだった。思い出のほとんどはかつての学校から始まっている。

 それだけに、今まで意識を向けてこなかった自分が怖かった。意識できない、気づくこともままならない。木陰の言う「俺にかけられた魔法」というのは、おそらくこういうことなのだろう。

 今の自分は、多くのことを忘れている。そういう風に考えると、どうしてかしっくりきてしまう。見逃し、見落とし、俺は数多くの思い出を取りこぼして生きているのだ。

 逆に言えば。こうやって不可解な点に目がいくようになったのは、適切なタイミングがやってきたという気がする。透明な手で招かれているかのような、不思議な感覚だった。


 妹を引き連れて、かつての通学路を歩いた。

 こじんまりとした神社を抜け、小川にかかる橋を渡る。今なおマラソンコースとしてひと気がある道を進んでいくと、やがて懐かしい校舎がみえてきた。

 校門のまえまでやってくる。

 ジャージ姿の男子生徒が駐輪場から駆けていく姿を眺めてから、俺と妹は建物を見渡した。正門付近の緑は青々と整えられていて、松や杉のカタチが思い出の情景と重なる。黒を薄めたみたいな地面は熱気を放ち、中庭の方からはセミの声。学校が醸しだす夏の気配は、独特の暑さだ。こうして足を止めて観察するだけでも体力を奪いにくる。だが、部活動に励む生徒たちはものともせず、明るく活発に動くに違いない。かつての俺が辟易していたくらいだ、きっと今も同じ。

 となりを見やると、連れがそわそわしていた。俺もちょっとだけ気恥ずかしい。門柱の傍ら、妹がいなかったら俺は不審者扱いされていたかもしれない。ひそかに身内の同伴に感謝する。


「ひ、久しぶりにみるとなんか小さいね。成長したってことなんかなー」

「おまえはまだそんなに経ってないだろ」

「お兄ぃだって一年まえは私と同じだったじゃん」


 たしかに。

 そう考えると、時の流れは残酷なのだと思い知らされる。もうすこし、この懐かしさは薄いものだと思っていたんだが。どうしてか再度訪れると、魔法使いとの記憶はセピア色を増してしまう。

 俺は振り払うように首を振り、妹を先導した。


「こっち。職員玄関から行こう」

「はぁい」


 校舎を回り込むように移動し、生垣や庭木が増えた。より丁寧に整えられた通路を進むと、生徒玄関よりもこじんまりとした教員用の玄関がみえてくる。

 自動ドアであることに若干の緊張感を覚えながらくぐる。そして、設けられた小さい窓口をノックした。

 本当ならインターホンとか合図するものが欲しいのだが、学校の歴史ゆえかそういった類のものはない。ここも中学生のときから変わらずである。

 気づいた事務員が窓をあけて、


「こんにちは、どのようなご用件でしょう?」


 と言った。

 彫りの深い男性だった。年齢は四十後半といったところか。妹や俺が在籍していた頃にはいなかった事務員ということもあり、妹が半歩、俺の背後にかくれる。


「先ほどお電話した三上です。見学にきました」

「ああ三上さん。お待ちしておりました。お二人ともこちらの卒業生で?」

「そうです」

「ではこちらに卒業年度とお名前、電話番号をご記入ください。そちらも」

「あ、はい」


 妹にも紙とペンが渡される。俺たちは狭いカウンターで肩をぶつけながら指を動かした。思ったよりも優しそうな喋り方で安心した。

 「記入し終わったらまた声をかけてください」そう言って、またぴしゃりと窓をしめる事務員のおじさん。窓ガラスの向こうはエアコンがきいて快適そうだ。

 俺は電話番号欄にさしかかったところで、周囲を見渡す。

 職員玄関は、来客用にも使われる。それゆえ、生徒用とは異なる下駄箱が備え付けられている。左側は教員むけだろう。何足かサイズ大きめのスニーカーが入れられている。残り右半分には小豆あずき色のスリッパが入れられていて、二足はすでに外へ出されている。おじさんがあらかじめ準備をしてくれたらしい。

 ご丁寧に並べられたそのスリッパから、視線をあげる。ヒトの気配を感じない校内は、閑静な空気に満ちていた。肌を焼くような外気から守られていることで、すこし暑さが和らいだ気がする。それでも夏であることには変わりないのだが、セミの声がくぐもって聞こえるだけで大違いだと息をつく。

 木目の廊下は記憶と寸分違わず伸びていた。数メートル先には生徒用の下駄箱。登校を出迎えるべく設けられた、小さい掲示板がみえる。


「お兄ぃ、書けたの?」

「ん? あー、あと電話番号だけ」

「いいよ、私の方に書いてあるから、一緒に出せばいける」

「テキトーだなぁ」

「これくらいはいいんじゃない?」


 なんて話しているところに、パタパタと足音が近づいてきた。

 そういえば、すぐそこの角を曲がると職員室だったな、なんて思い至ったと同時、顔を覗かせた長身が驚きの声をあげた。


「おや。きみたち、どこかで……そっちの女の子はヨシノちゃんかい?」


 メガネをかけた白衣の男性。名前は忘れたが、化学を担当する先生にこんな人がいたことを思い出す。

 こんにちは、と会釈する俺に被せるように、ヨシノ──妹が声をあげた。


「えっ、ミワタリ先生じゃん。うわ、懐かしい……お久しぶりですっ!」

「久しぶりだね。といってもそんなに経ってないけど。吹奏楽部の打ち上げ以来だね」

「本当ですよ! まだ吹部の顧問続けてるんですか?」

「ああー、はは……まぁね」


 なんだ、部活つながりか。

 かつての先生の元へ駆け寄りながら顔を綻ばせる妹を見やって、俺は書き置かれた紙を寄せる。


「今日はどうしたの?」

「母校を懐かしみにきた。お兄ぃの付き添いで」

「ほぉ、そりゃあ良い。よかったら案内しようか? 改装が終わって新しくなってるところもあるんだ」

「まじですかっ、お兄ぃも──」


 ちら、と視線がこちらに投げられたところで、手をひらひらと振る。さながら犬を追い払うように。


「パス。俺は俺で行きたいところがある。すみません先生、任せてもいいですか」

「もちろん。後輩も数人練習にきてることだし、まずはそこから案内でもしてあげよう」

「やたっ」


 楽しそうだ。

 ならそれに越したことはない。かつての師たる顧問であれば、心配もないだろう。

 そう考えながらふたりを見送り、俺は紙を提出した。

 結局ひとりきりになってしまったが、これはこれで好都合だ。もとよりさほど気にしていなかったし、問題ない。

 スリッパに履き替え、廊下を歩く。あのころとは異なり、軽く叩くような足音が響いた。生徒玄関からではなく職員用玄関から歩くのはなんだか新鮮でむず痒い。かつての名残と変化を探しながら、俺は最初の目的地へむかった。



 鍵がかかっているかと危惧していたが、案外すんなりと空いてしまう。ガラガラと音を立て、嫌というほど世話になった教室が空気を混ぜた。一学年の、俺が当時過ごしていたクラス。立ち並ぶ机は相変わらずキズがついていて、記憶の光景をそのまま放置されていたかのようにみえる。まるで俺たちが卒業したのち、時間が停止したみたいに。

 まぁしかし、よくよく目を凝らせばそんなことはない。

 担任のデスク上も、窓際の花瓶も、ところどころの机横にかけられた誰かの持ち物も、知らない様相。空気の匂い自体、まるっきり別。他人の教室へ訪れたような感覚だ。

 ……ここで、魔法使いと知り合った。

 初対面でペットボトルをぶつけられたのは、はっきりと覚えている。目を細めれは、あのときのしたり顔がそこへ立っている気がした。

 記憶の湖に埋もれていくみたいだ。視線を動かすほどに、積み重なった憂いが胸を刺す。

 足を踏み入れ、窓際へ寄った。

 魔法使いが腰掛けていた机の位置には、当然ながら他人の机が置かれている。炭酸のペットボトルはおろか、傍らに本が散らばっていることもない。だけど、過去に想いを馳せるには十分すぎて、懐かしげに微笑んでしまう。

 引き戸をあけベランダから眺めると、相変わらず緑豊かな中庭が臨める。

 上から見下ろしたことはほとんどなかったというのに、胸の内に更なる懐かしさが去来した。池の苔は増えているようにも変わらないようにも見える。放置気味の生垣や花壇は荒れを増したかどうか判別がつかない。

 数分の間だけ堪能して、踵をかえした。

 魔法使いとどこでどんなことをしたのか、今や正確に思い出すことはできない。あっても、ぼんやりと「そういえばこんなことをしたっけ」なんて程度だ。まずは、その何てこともないありきたりな記憶から辿ろう。まして、もとより目的なんてあってないようなものだし、ひとつでも多く彼女の面影に当たることがあれば万々歳。


 教室をあとにした俺が次いで訪れたのは、昼休みを魔法使いと過ごした場所だった。不思議と中庭への侵入は難しくない。最短かつ最適な経路を身体は正確に覚えていた。それだけでなく、「この絵画はまだ飾られているのか」、「あの水道の蛇口はいつも上を向いてるな」等々、思い出と重なる部分は嫌でも目につく。

 そんな些細なことの数々が、胸に痛い。魔法使いとの記憶と比べればどうでもいい記憶のくせに、忘れることなく刻まれている。きっと俺の中の魔法使いは断片に生きた存在で、かき集めても足りないピースがある。自己嫌悪が増して、振り払うように俺は中庭のフチを伝って歩いた。

 庭に隣接する技術室。そのテラスには、あの日と同じように緑の天幕がかかっていた。巻きつくアサガオの蔓は減っているが、かつての名残なごりはたしかにそこにある。朽ちたか倉庫行きになったか……ふたりで腰掛けたベンチがないことが口惜しい。せめてそれさえ残されていれば、この寂寥せきりょう感など忘れさせてくれたはずだ。

 時間が止まっていた。

 ベンチのあった場所に立ち、中庭を一望する。目線の高さは違えど、たしかにそこは思い出の故郷。もの寂しさを濃くした場所で、感傷に堪えながら夏を感じる。左を向けば、サイダーを煽り飲む彼女の幻が現れた。そいつは一秒にも満たない、記憶による補完。もしかしなくても気のせいだった。


「我ながら、情けない」


 俺はなにをしているのだろう。そんなの自分にだってわからない。でもちっぽけで無力な人間にできることはたかが知れている。俺は魔法使いにはなれない。訳もなく訪れて思い出に耽るのが関の山だ。

 そういう意味では、ここはある種パワースポットでもあるはず。魔法使いと最もたくさんの時間を共有した場所……それがここなのだから。

 では、訪れた者はなにをすべきだろう? 魔法使いに導かれたわけでもないのに、何をしろと言うのだろう。

 周囲を見回し、仕方ないとばかりに、俺は懐からガラスを取り出した。

 手元に残された魔女のえん──宝石騒動の欠片は一日と保たず砂になった。輪郭を残していたのは、去年の冬に贈られたか弱くも尊いクリスマスプレゼントだ。ステンドグラスから飛び出た蒼薔薇の葉は夏の光を反射して、人形の最後を思い起こさせる。ちくりと胸を刺す痛みを受け入れて、俺はゆっくり目を閉じた。

 こうするしか、手がかりを探す方法は思いつかなかった。


「……」


 静寂。自身の鼓動すら遠ざけて、そのままに立ち尽くした。数分。十数分。やがてじわりじわりと、世界の音が届きだす。

 穏やかな風が流れていく。暑苦しさのなか、頼りなげに。

 蝉の声がきこえる。回想を急かすように、あの日の汗を喚び起こす。

 てのひらの感触を確かめる。握られているのは、巡ってたどり着いたアンカーだと信じて。

 ……ああ、予感だけはずっとあった。


 ゆっくりと、視界をひらく。


 彼方から、喧騒に混じった音色をつかんだ。その方向を振り返り、また俺は思い出の場所を後にした。

 校内に戻り、職員室とは真逆の方向へ向かう。間もなくして現れた階段に足をかけた。

 微かに奏でられる音は、真夏の気温を下げてくれる。

 外見そとみぜつが当たるたび、チリンチリンと手招きをする。山奥で耳にした音色と同じだ。風鈴はどこからともなく道導みちしるべを伸ばし、直感が背中を押した。定められたことだろうか、この時間は。裏にはだれかの意図があるのだろうか。どっちだっていい。俺は魔法使いのためなら、なんだってする。なんだってできる。だから、今はただただ、彼女を知りたい。

 二階を過ぎて、三階へと到達した。

 そこで、風鈴とは別の、ある意味騒がしくも感じられる音楽が耳をついた。音源を探すと、すぐに目につく。

 年季の感じられる扉越しに、壮大な音色が演奏されていた。視線を上げれば『音楽室』。小窓から覗かなくとも、ミワタリ先生と妹がいるのは火をみるよりも明らかだ。夏休みも真っ只中、盛大に歓迎するのは熱心な後輩たち。もと吹奏楽部の彼女からしてみれば、それなりに楽しい時間ではなかろうか。


「……、」


 喜ばしいこと。そのはずなのに、心中は薄情なほど冷めきっている。

 ああ、知っているとも。この苦い感情をよく知っている。身に覚えがありすぎて怖いくらいだ。

 これは普段生活をしていればしばしばぶつかる光景。現実の外に慣れてしまった異端者は、きっと普通が息苦しくなる。だれかの幸せやめでたい瞬間は、ときに残酷な仕打ちをする。こと不幸な者には眩しすぎて、目を背けたくなってしまう。

 その証拠に、俺は魔法使いを失ってからこっち、幾度となく見せ付けられた。

 まざまざと。

 その度に、俺は小さな痛みを覚える。まるで割れた破片が刺さったみたいな虚無がカラダの内側を占めるのだ。

 演奏は佳境にはいる。夏の暑さなどどこ吹く風、賑やかなサビを紡いでいく。


 そのすへてが、俺の現実にはあり得ない。


 意識をらしていた。

 風鈴の音が途切れてしまうまえに。掠れ消えてしまうまえに。後ろ髪を引かれることもなく、焦燥のまま上を目指した。逃げるようだと、だれかは笑うだろうか。心を読んだ神さまなんかは、鼻を鳴らして馬鹿にするに違いない。

 思い出した。

 現実なんて、元より嫌いなのだった。魔法使いを奪った無慈悲な化け物だ、おまえたちは。誰も悪くなく、ただ適合できない不純物なのが自分だ。それは理解しているけれど、どうしたって物足りなさは埋められない。

 ──魔法使い。俺はやっぱり、哀しいよ。

 踊り場からさらに階段をのぼれば、もうすぐそこ。今やはっきりと風を伝える音は、近くに風鈴があることを伝えていた。


 現実から逃げた自分を、透明な手招きが誘っていた。


 導かれるように、すがるように。錆びついた扉に手をかける。

 取手に触れただけだというのに、備え付けられた錠はガチャリと外れ落ちた。屋上にいる。彼女の欠片は屋上にある。

 押すと同時に広がる夏の光。目を細めながら、顔にあたる熱風。待てと留める背後の喧騒。ダメだと叫ぶ慣れた孤独。数秒もしないうちにソレは薄れた。

 心の中で、ごめん、とだけ謝罪しておく。

 反して、胸の奥はどうしようもなく魔女を求める。身を委ねれば、時間は肌を通り抜けていく。




 ──ちりん、ちりんと。

 軽い音が、手をとった。




◇◇◇




 夜が更けた。

 夏という季節を、闇はほどよく和らげてくれる。日中にこもった体温を冷ますように、辺りは涼しさが漂いはじめる。初夏はことのほか気温の落差が激しいのだと、引きこもり気味のあたしは最近になって思い知っていた。

 そんな変化を感じながら、胸中を不安で満たしていた。

 夏休みともなれば、校内からひと気は減る。放課後よりもの静かで、異形の化け物でも闊歩しているのではないかと余計な想像が恐怖をかき立てる。職員室は無機質な明かりに包まれているが、そのじつ、まったく気分は優れない。できるだけ出入り口の方を見ないようにして、けれど叫びながら兄を探し回りたい欲求を抑え込んだ。

 ミワタリ先生にもらったココアは、温かみを保つために開けていない。季節遅れのホットはじきに自販機からも消え失せるに違いない。それでも、自分にとっては正気を維持する生命線だった。

 ガラリと出入り口の戸が開け放たれる。

 顔をばっとあげると、ミワタリ先生が頭をかきながら入室してくるところだった。その浮かない表情をみて、「やっぱりか……」と思考に影が落ちる。


「お兄さん、やっぱりさきに帰ったとかはないのかい?」

「……あり得ないです」


 『三上春間さん。三上春間さん。職員室で妹さんがお待ちです』――なんて迷子のお知らせを、まさか母校で耳にするとは思わなかった。兄が姿をくらませたことに気づいてかれこれ三時間。連絡はなし、顔をみせることもなし。

 呼びかけてもらったのもこれで四回目だ。ここまでくると、もはや迷子というより神隠しに思えてくる。魔女と縁が深い彼に限って言えば、可能性は無視できない。それがとても恐ろしい。


「やはり警察に──」

「それはだめですっ!」


 幾度目かの問答。専門家に任せることを提案され、そのたび押しとどめる。ミワタリ先生は「まいったなぁ」と首のうしろをさする。


「じゃあ、なにか心当たりはあるかい?」

「ある、にはある。けど、結局どうすればいいのか、そもそも具体的に何が起こってるのかもわからないっていうか……」

「うーん、はっきりしないね。彼の動向でなにか変わったこととかは? ここ最近で」

「動向と言われても。お兄ぃはいつもどおり思い出ばかりに固執してるだけで、これといって変なところは──」


 ない、と言いかけて、ハッとする。

 最近。変わったこと。魔女絡み。

 ある。それもつい昨日から。あたしは顔をあげて、ミワタリ先生に訊ねた。


「先生。この学校に、風鈴はありますか?」

「……風鈴?」


 メガネ越しの頼りなさそうな相貌が、怪訝な表情をした。

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