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「目覚めましたか、”煤払い"」

 また、女の冷たい声がした。

「早く寝台から降り、懺悔室で溜まった"煤"を雪ぐため祈りなさい」


 シスター・ザインに急き立てられても俺は動けなかった。

 喉の奥に鉄錆の味が残り、攪拌された腹が疼く。内臓の全てが教団で朝と夜に出される灰色の粥になったようだ。

 顔を覆うと、骨と皮ばかりの俺の手が微かに黒ずんでいた。


「俺はもう無理だ……」

 シスターが白濁した片目を見開いた。

「お前は神の意志の代行者なのですよ。神には怯えも、迷いも、悔いも、眠りもない。立ち止まることなど許されません」

「神を信じた奴らはみんな"煤"になったじゃねえか!」


 寝台に拳を叩きつけると、枕元に置かれた短剣が跳ねた。夢見の短剣。シスターは鞘を掴んで俺から獲物を遠ざけた。


「シスター、それが何か知ってるか」

「第六の"煤"、"夢見る"モルフェが落とした物でしょう。刃に仕込んだ麻痺毒は醒めぬ夢を見せるとか」

「じゃあ、何でモルフェが"煤"になったかわかるか。あの子はずっと病気で救貧院から出られなくても神を信じてたんだぞ。それなのに、教団は"煤"の襲撃があったとき、病人たちを見捨てた。俺が駆けつけたときにはもう……」

 声が詰まって出なかった。


 シスターは火傷を見せるように、顔を窓に向けた。

「ヴァンダ司祭も出奔前に同じことを言っていました」

「先生が……」

 俺の腹の上に、鞘に包まれた短剣が投げられた。

「お前が為すべきことを為さねば、"煤"はひとを殺し続けます。民を救いたいならば行きなさい」

 灰色の空には煤と同じ色の鳥が飛んでいる。



 腸の焦げる匂いがする。

 路地を越えて、無残に焼けた雑木林に入った。黒い木の枝にはひとの手足や肉塊がぶら下がり、聖夜祭のときの聖樹の飾りのようだった。垂れ下がる物の中に擦り切れたウィンプルがあった。



 モルフェもそれを被っていた。

「いつか、ちゃんとこれを被れるシスターになりたいの」

 俺が慰問で救貧院を訪れるたび、少女は"煤"に侵された白髪を隠して微笑んだ。


「教団は神様の御遣いが沢山いらっしゃるんでしょう? 綺麗なところだろうなあ」

 モルフェは綿が飛び出た枕を軽く叩いた。

「決めた。今日観るのは貴方と教団に行く夢にする。枕にお願いすると好きな夢を見られるんだよ」

 褐色のこけた頬に笑窪が浮かんだ。

「いつか治ったら本当に連れて行ってね」



 倒れたベッドに潰された患者たちが呻いていた。病室には破れたガラスとカルテが散乱していた。


 俺は血で滑るリノリウムの床を蹴って、いつもの部屋に向かったとき、そこにモルフェはいなかった。

 ただ、蝙蝠の羽と山羊の角をもった"煤"が、破れた枕を握っていた。

 俺はモルフェを殺した。ヴァンダが自分の妻を殺したように。



 先程抜けた廃都がまだ僅かに都の体裁を保っていた頃だ。

 民衆の中で、"煤"は教団が権威のために操っていると信じる、悪魔信仰者がいた。奴らは教団の人間を襲い、神を否定するまで嬲って、殺した。

 貧民街の慰問に訪れるシスターや教団の子どもも例外じゃない。



 広場に血で描かれた悪魔の絵が現れ、ヴァンダは都に向かった。

 俺も行こうとしたが、救貧院を襲った"煤"の討伐があって行けなかった。初めてひとりで赴いた任務だ。


 モルフェを殺して満身創痍で帰った俺が、朦朧とした意識の中で聞いた噂だから定かじゃない。


 ヴァンダが駆けつけたとき、都にはズタズタに裂かれたシスターたちの制服と血肉が広がっていたらしい。その中には、幼い子どもの遺体もあった。

 ヴァンダは広場で"煤"と遭遇し、討伐した。黙示録の第八の"煤"、"諦めの"ラヨローナ。


 後から赴いた僧兵の話では、乾いた血に新しい血が上塗りされていたという。

 路地裏に捨てられていた遺体は原型を留めていなかったが、教団の人間のものではないとのことだった。あの日から、悪魔信仰者の活動はない。


 俺は寝台に横たわって治療を受けながら、シスター・ザインの鋭い声を聞いた。


「ヴァンダ司祭、大罪を犯しましたね。ひとを殺すべからずという神の教えを貴方は破った。数多の僧兵を育て、教団の父とも呼ばれた男が何たることです」

「何が神だ。"煤"は増え続け、数多の国が滅んだ。最後まで神を信じた者すら救わなかった」

 聞き慣れた低い声が答えた。

「何が父だ。唯ひとりの我が子すら救えなかった男が……」

 奈落の底から響くような声だった。俺が目覚めたとき、ヴァンダは姿を消していた。



 塵が一斉に舞い散った。雑木林に黒い靄の中が漂う。耳の奥がざわついた。

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