第2話 恨みの感情と孤独

苦痛の初日が終わった。


洗礼の後は、よく覚えていない。

ただ、必死にあの甲高い声を出そうとしている私に奥さんは、

相変わらずな態度だったが、

一応返事だけはしてくれた。



散々竹刀でお尻を叩かれた後は、

もう、ここで生活するしかないんだな。と、覚悟するしか無かった。


逃げることも出来ない。

寮内は、全て鍵がかかっている。


今までなら激しく抵抗すれば、

話を聞いてくれる誰かがいたけれど、

ここにはいない。

抵抗すれば、あの竹刀で叩かれるだけ。

それに生徒同士の会話すら禁じられている。


ここは、今までとは全く違う世界。


少し前までは、帰りたくて仕方なかった。

帰りたいと言っても、親のところではなく、友達のところだった。


でも、この寮内に一歩足を踏み入れてからは、

そんな事を考える余裕もなく、

ただただ今までとは違いすぎる環境に困惑していた。


問答無用にここでの生活に馴れさせようとするだけで、

私の求める環境ではなかった。

生徒達の冷たい態度にも、

感じたことの無い恐怖を感じた。



まだ肌寒い季節のその日の夜は、

布団の中でも、

体が温まらず、小刻みに震えていた。


聞こえてくるのは、遠くの電車の音と、犬が吠えている声だけ。

田舎町にある施設は、

とても静かだった。


叩かれたおしりがまだ痛い。

座布団を一枚お尻につけたかのような感覚で腫れていた。


なかなか寝付けず、

キーンという耳鳴りのような音

を聞いていた。


感覚的には2時間くらい過ぎた頃だろうか。

私の中で、何故なのか

スイッチが入った気がした。


そして思った。


絶対ここを早く出る!

1年7ヶ月なんてたったの19ヶ月!

そうだ!そう考えよう。

一切の反抗はせず、

黙って言うことを聞いていればいい。

19ヶ月だけ従っていよう。

19ヶ月。

時間は必ず過ぎるのだから。


そう吹っ切ると、少しだけ眠った気がする。


・・・。

......................................................


「起きろー」先生の声


すごい勢いで皆が起きて、

布団をたたみ始めた。


死ぬ程苦痛な一日が、

また始まった。


部屋長のはなちゃんの指示に従って布団をたたみ、

押し入れの自分の場所に布団をしまう。

そんな事をしている間にはもう、

事務室の前には、

皆が一列にならんでいた。


「急いで!」

はなちゃんに急かされ

私もその列の後ろにならぶ。

さらにその後ろに

はなちゃん。

新しい子を後ろにしないためだ。

部屋長には、新人が逃げられないように

見張る役割もあった。


そして一人ずつあの、甲高い声。

しかし先生に対しては少し

トーンは下がる。


ゆっくりお辞儀をしながら

「失礼します。

先生、おはようございます。」


「おはよっ」


「御手洗と、洗面なんですけど、

行かさせていただけますか?」


「うぃっ」


「ありがとうございます。

失礼しました。」


この決められた言葉を、

先生の顔色を伺いながら発する。

14人ほどの生徒たちが一人一人行い、

いよいよ私の番!

前の子達を見よう見まねでやって見る。

先生は、とりあえず返事をしてくれ、

見事クリア出来た。


トイレにはズラっと

皆が列んでおり、

中には今にも漏れそうで、

必死に堪えている子もいた。

落ち着かずウロウロし、

それはまるで、

高速のパーキングエリアの混雑した

トイレで、我慢しきれなくなっている子供の行動と同じだった。

この年齢の子で、そんな姿を見ることは殆どない。


トイレットペーパーも、

無駄遣いは禁物。

トイレの個室にホルダーはなく、

外側にトイレットぺーパーが、

ぶら下がっていた。

それを一人ずつ、使用する分だけ

最小限の長さで巻きとる。


トイレと洗面を済ませたら

各部屋で、指示を待つ。


寮生活の長い古い子に、当番という学級委員のような役割があり、

その子が先生や奥さんに次の行動の指示をもらう。


「出てくださーい」

当番の声が響く

「はーい」と答える。


ゾロゾロと外に出ると、

ラジオ体操が始まった。

そして、

ジョギング


どうしよう。

どれくらい走るのだろう。

ついて行けない。


私は運動神経は悪い方ではなかったが、とにかく走る事は苦手で、

スピードも、遅かった。


当番が先頭で院内敷地の庭を走り始める。

始めはゆっくり。

そして、

後半の数百メートルで、突然ダッシュになった。

勿論私がついていけるわけもなかった。


また叩かれる!


そう思っていたが、


「明日はついてこい!」


先生はそう言った。


無理だ。

走るのは人一倍苦手なのに。

距離は分からないけれど、

私には辛すぎた。

辛いと言っても、優しく

聞き入れては貰えないだろう。


明日も苦痛だ。


ジョギングが終わり、寮に戻ると、

朝食の支度が始まる。


給食当番が4人ほどいて、

別の建物へと、

食事を取りに向かう許可を得るために、

奥さんを呼ぶ。


すると奥さんが、奥の自宅から、

事務室へと出てきた。


全員が走って事務室の前に急いで列び、先程の先生の時の様に

朝の挨拶が始まった。

しかし先生よりも、奥さんの時の方が、もっとピリピリとした空気が漂う。

また私は遅れを取り後ろから2番目。

勿論、一番後ろは部屋長はなちゃんだった。


私の順番が来た。


「失礼します!

奥さんおはようございます。」


返事がない。


どうして良いか分からず、

黙っていると、後ろからはなちゃんが、

「ちゃんと言わないと!」

と促す。

しかし、ちゃんと言えと言われても、何が正しいのかが全く分からない。


もう一度言ってみる。

「奥さん、おはようございます。」


返事はない。


するとはなちゃんが先に、


「失礼します。奥さんおはようございます。」


と、割って入ってきた。

それに対して奥さんは、


「おはよう!」と返した。



分からない。


何故だろう。


そして奥さんはこう言った。


「あんた、可愛くないなぁ」


またか。

私には、分からない。


可愛くないと言われても。


分からない。


「あんた、前の施設、4回逃げたんだって?」


確かに、前に4ヶ月程生活していた

県の施設を、

私は4回逃げ出していた。


「税金泥棒!て言ったんだって?」


確かに言った。

でもそれに関しては、以前友達が言っていた事を真似ただけで、

どんな意味なのか良く分かってなんかいなかった。

だが、大人がその言葉に

面白いくらい反応するもんだから、

面白がっていただけ。

しかし、そんな言い訳はしても意味が無いだろう。


言ったことは事実なのだから。


なんて返したら良いのかが分からず、

黙っていた。


「黙りかいな」


「奥さんごめんなさい。」


「はぁー?聞いてるんだけど、

言ったんだろ?税金泥棒って。」


「奥さんごめんなさい。」


「無視かいな」


どう答えても怒られるし。


言葉の揚げ足をとられる。


この人にとっての、正解が分からない。


すると奥から、竹刀を持った先生がやってきた!


来た!


まただ!


「手ぇ、付け」


これは壁に手をついて背中を見せろという意味。

今から尻を叩くので、壁に手をつけと。


先生は、私のお尻を竹刀で1発2発3発と、連続で叩く。


その痛みはもう言葉にはできず、


泣き叫ぶ声も出ない。

苦痛に顔を歪め、

痛みの強さに

恐怖しかない。


助けてくれる人は誰一人いない。

その事に恨みの感情が沸いた。


何度も何度も叩かれるうちに、


私の意識は宙に浮いた気がした。



今、起こっていることは、

私に起こっている出来事では無い。

叩かれているもう1人の誰かを、

私は上から見下ろしている。


そんな感覚になり、

そう思い始めたら、

少し楽になった。


その日から私はずっと、

そう考えるようになり、



自分と、自分を切り離した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る