幻聴の翼

 そのワーゲンバスには夕闇を疾走する理由があった。

 文学的あるいは情緒的あるいは感傷的なものではない。遅れそうなのだ。それもこれも無茶な話から始まったんだと、運転席でハンドルを握る宮下は声高に主張したい。

「おいおいおいおい、これ本当に大丈夫なのかぁ?」

 助手席で甲高く叫ぶ綱吉が気にしているのは時計ではない。

「でもそういう命令だったんですよ」

 全開にした窓からの風に負けないように宮下が大きく口を開けた。

「すげえ見られてんだけど」

 追い越したミニバンの窓に子どもの顔が貼りつく。その目には、赤いバンダナを額に光らせて、頭の後ろでエレキギターを弾くジミ・ヘンドリックスの白い歯が映り込んでいた。


「ジミヘンのバンを用意しろって言ってました」

 つい最近やって来たくせに、クタクタのぼろきれみたいになったパシリからそんな電話を受けて、宮下は綱吉にその旨を報告したのだが、丸投げをされてしまった。仕方なく、知り合いのカーディーラーに片っ端から掛け合っていた。結局、良い返事はひとつもなかった。二週間後の木曜日までに手配しなければならない。焦った彼の頭の中には、もう答えはひとつしかなかった。

 使えそうなワーゲンバスを確保して、組織の先輩に紹介されたイベント会社に駆け込んだ。そして、ジミ・ヘンドリックスの写真を見せたのだ。

 世紀のギタリストのラッピングシールはこうして作られ、ワーゲンバスの車体に綺麗に貼りつけられた。それに掛かった目玉の飛び出るような金額はどこで精算できるわけもなく、この思い出は宮下の心の暗いところに乱暴に突っ込まれた。


 もう捕まってもいいという気概を感じさせる走りで、ジミヘンのワーゲンバスは組織の本部前に到着した。日没が近くともうだるような熱の渦の中で、サイケデリックな色合いを身にまとったこの車だけは妙にグルーヴを感じさせる。

 綱吉と宮下は藤堂の部屋の窓から眼下の車を誇らしげに指さした。

「どうにか手配できました」

 自分の手柄のようにそう報告する綱吉の姿は、もはや宮下には引っ掛かることもなくなった。だが、今回ばかりはそれが功を奏しそうだった。

「なんだ、あれは?」

「はい?」

 綱吉の素っ頓狂な返事が部屋に響き渡る。明らかに、藤堂の声色に殺気が漲ったのが分かったからだ。

「なんなんだお前、あれはよ?」

「いえ……、指示いただいていた車です」

 言い終わるや否や、綱吉の左頬に藤堂の拳が直撃した。衝撃と痛みに堪えながら、綱吉が声を上げる。

「すいませんっす!!」

「あんなにバカみてえに目立つ車が使えるかよ!」

 藤堂の怒号を頭を下げながら脳天で聞く二人。すぐに綱吉は頭を上げて弁解を始めた。

「指示通りにしたつもりです。なあ、宮下!」

 宮下がうなずく。内心、殴られずに済んでよかったと思っていただけに、話を振られることに苛ついていた。

「俺の指示ってなんだよ、言ってみろよ」

「ジミヘンのバンを用意しろ、と……」

「てめえ、耳腐ってんのか! 俺は『地味で変じゃない車』を用意しろって言ったんだ! どんな世界でもこの状況でジミヘンのバンなんか要らねえんだよ!」

「えっ、いや、でも……」

 宮下のやらかしをこの場で問い詰めたかった綱吉だが、そんなことをできるはずもなく、初めての大都会で目のやり場に困る若者のように視線を彷徨わせるしかできなかった。

「お前には失望したよ。あの車はきっちりと処分して来い」

「じゃあ、車は……?」

「誰かのを使う。足がついたらお前が責任を取れ」

 冷たい一言と共に二人は部屋を追い出された。無言のまま熱気充満する車内に乗り込んで、エンジンもかけず一分ほどじっとしていた。続いて綱吉は、堰を切ったように誰にも聞き取れないような大絶叫と共に運転席の宮下をボコボコにぶん殴った。次第に呂律が回り始める。

「お前が! ちゃんと! 話を! 聞いてりゃあ! こんなことにならなかったんだ!」

「すいません、すいません、すいません、すいません!」

 すでに汚名返上できるような時間は過ぎ、二人は汗の迸る車内でぐったりとしてしまった。綱吉は泣いていた。

「俺はな、ここで成り上がりてえと思ってたんだよ! お前のせいで台無しじゃねえか!」

 思わぬ形で先輩の人生の青写真を見せつけられた宮下は、自分がこの組織で何事を為そうとなど露とも考えていなかったことに気づいた。悔し涙など流したことのない人生だ。

 怒りを吐き出して落ち着きを取り戻したのか、綱吉は口を開いた。

「組織がお世話になってる金属リサイクル業者がいる。そこでこの車を処分してもらう」

「……処分するんですか」

「あたりめえだろ! 藤堂さんが言ってんだ!」

 宮下の懐に空いた風穴から、札束がばら撒かれていった。もう戻ることはないだろう。そして、そいつを追いかけることすら許されず、ただ黙って見送るしかできなかった。

 綱吉の案内に従って、宮下は車を走らせる。彼の胸の中に虚しさが去来する。鉄くずにするためにこいつを仕立て上げたようなものだ。初めて悔しさが込み上げて、目尻に熱いものが浮かび上がる。横目でそれを見た綱吉が優しげに宮下の肩に手を置いた。すれ違いだとしても、そこにはある種の強い結びつきが生まれたのかもしれない。

 寂れかけた街を走って、夜の闇が迫るダイナーに寄り道をする。アメリカの片田舎にあるようなダイナーだった。その駐車場に車を停めると、向こうから星条旗をスパンコールのスーツにした怪しげな男が近づいてくる。

「イカした車に乗ってますね!」血走った眼に青くなった顎……ずっと寝ていないのかもしれない。「ぜひ、今夜開催の『俺だけのカー・コンテスト』に出場しませんか?」

「なんだ、そりゃ?」

 綱吉が興味を示すと、男はにこやかに両手を広げた。

「この近くの山の麓にあるドリーム・フィールドという場所で開催します!」

「トウモロコシ畑から野球選手が湧いてきそうな名前だな……」

「今夜でなんと、ちょうど第六十七回目の開催なんです!」

「なにがちょうどなんだよ」

「参加条件は、俺だけの車を持っていること! 参加費は一切かかりません!」

「優勝したら何か貰えるのか?」

「なんと、素晴らしい名誉と豪華なケータリングが与えられます!」

 二人は顔を見合わせた。どうせ、これから鉄くずにするんだ……無言のうちにそう言葉が交わされたようだった。

「よし、じゃあ、参加してやるよ」

「ホントですか! お待ちしてますよ!」

 男はくるくると回りながら去って行った。

 ダイナーで食事を済ませて、宮下はワーゲンバスを山の方へ走らせた。会場が近づくと、遠くに煌びやかな電飾やら大きなテントなどが見えてくる。

 広大な草原に、大小車種様々な車が集結していた。炎を噴き上げるトラック、LEDで眩いばかりのスポーツカー、巨大な龍の頭を乗せた金色のリムジン……まるで夢の中の行列のようだ。多くの人間が酒の入った紙コップを片手に歓声を上げて、巨大なソーセージやポテトを頬張って、車たちの共演に見入っていた。

 二人はエントリー受付で手続きを済ませ、バックヤードで本番を待つ。ここの空気感全てが熱を帯びた夏の夢のようだった。これからステージに上がるというのに、綱吉がしこたまビールを腹に収めて、豪快に笑い声を上げた。

「宮下よ、人生は一本道じゃない。たとえ失敗してもいいんだ。だから、俺は別の道を行こうと思う」

 どういう経緯でそこまで辿り着いたのかは分からなかったが、宮下の目には綱吉が多幸感の中で酔いしれているように見えた。

「いいと思います。俺も失敗を恐れずに進みたいと思います」

 やがて、歓声の中でジミヘンのワーゲンバスと共にステージに上がる。

 用意してくれたのか、大音響で『パープル・ヘイズ』が流れる。観客から、ワッと声が上がった。

 メリメリと音を立てて、ワーゲンバスが揺れる。綱吉と宮下の目の前で、車体から三メートルほどの大きさのジミ・ヘンドリックスが這い出してきた。赤いバンダナ、風に揺れるアフロヘア、東洋趣味の黄色いキモノ、背中には≪地味変≫と書かれた旗を掲げている。巨大なジミヘンが肩から提げたエレキを掻き鳴らすと、ヘッドから炎の柱が吹き上がった。

「映画で観たことある!」

 綱吉が興奮していると、ジミヘンがステージからジャンプして地面を揺らしながら客席に降り立った。ギターを掻き鳴らして炎が迸ると、周囲の客たちが燃え上がって悲鳴が上がる。どういうわけか腰に下げた日本刀を抜くと、横一閃した。前線の客が上半身と下半身に分断された。逃げ惑う観客のど真ん中でジミヘンは絶頂に達したかのようにギターの音色を響かせた。

「逃げましょう!」

 腰の抜けかけた綱吉を引きずりながらステージから裏手に走り出す。ステージセットが轟々と燃えながら崩れていく。そいつをジミヘンの容赦ない斬撃が切り崩していく。人の手足が飛んで、血飛沫が舞った。

「なんでこんなことに! なんでこんなことに!」

 大きな木の陰に隠れながら周囲の悲鳴に耳を塞ぐ宮下の隣で、綱吉は向こうの様子を窺っていた。

「逃げ回る奴を狙ってる……」

 向こうで車が紙細工のように吹き飛んでいた。金属のひしゃげる音とクラクションの音と足音と悲鳴が混然一体となる。

 どこかの勇敢なドライバーが猛スピードでジミヘンに突っ込んでいく。そいつを闘牛士のようにひらりと回避したジミヘンはその勢いそのままに刀を抜いて脇を通り過ぎる車を真っ二つにした。しばらく走った車は爆散する。燃えながら逃げ惑う人々がバタバタと倒れていく。地獄が広がっていた。

「とにかく、駐車場まで逃げましょう!」

「逃げたって、車には乗れないだろ」

「でも、誰か一人くらいエンジンに鍵差したままのガサツな人がいるでしょ」

 二人はその可能性にかけて木陰から飛び出した。ギターから放射される火が二人の背中をかすめた。ジミヘンは巨体にもかかわらず、素早い動きで人々をバサバサと薙ぎ倒す。二人は首を飛ばして犠牲になった四人組の女子グループのそばを駆け抜けてホットドッグ屋台の影に身を隠した。

周囲を火炎で掃射するジミヘンに乗じて駐車場まで走った。焦りながら一台一台のドアに手をかけるが、どれも開く気配はない。

ドーンと音がして、クラクションが連続して鳴り響く。跳躍して車の上に着地したジミヘンがギターの炎で駐車場を火の海に変える。黒煙が夏の夜空に立ち上る。そこかしこで爆発が起こって、タイヤの焼け焦げるにおいが漂う。駐車場に希望はないと判断して、オレンジ色の炎を明かりに、二人は山の方へ一目散に駆けた。同じ考えの人間が群れになって、そのせいでジミヘンの標的になる。かつてのようにギターを叩きつけると、数人の命が押し潰される。しかし、ギターは壊れない。ジミヘンは真っ白な歯で満足そうに笑った。

綱吉と宮下は死に物狂いで木々の中に身を投じて、少し先の小さな崖から転げ落ちた。森が燃えていく音がする。喘ぎながら駆け抜けていく声が急に途絶える。遠くでまた爆発が起こる。

「こんな騒ぎになれば、きっと警察もやって来るだろう」

「あんな化物、どうやって対処するんですか」

「そんなこと知らねーよ!」

 綱吉が声を上げると、ギターの音が近づいてくる。柔らかい土の上で慌ただしく立ち上がって、崖に沿って山を降りて行く。鳥たちが鳴きながら夜の闇に飛び去って行った。

 それから何時間もたって、ようやく遠くの空が白んできた。無我夢中で逃げてきた二人は、ようやくあの地獄の音色がどこかへ去っていたことに気づいた。

「もう……疲れました……」

 泥だらけの宮下が音を上げるが、綱吉は叱咤する。

「馬鹿、ここにいるより山を下りた方がいい。そして、早く誰かに伝えるんだ」

 宮下は汗みどろになった顔でうなずいた。

 小一時間して、木立の向こうに道路が見えた。だが、様子がおかしい。多くの人影が見えるのだ。

「ああっ! いた!」

 二人が木々の間から出て行くと、そこにいた人々が声を上げた。少し離れたところにはパトカーと救急車、さらにはマスコミの車も停まっている。

「おーい、見つかったぞ!」

 誰かが声を上げると、どこからともなく拍手が上がった。


 警察は事件性がないか調べていたようだった。

「なにしろ、神隠しなんて、俄かには信じられないからさ。あんなひと気のない場所でよく気づいてもらえたよね」

 岡部という刑事が扇子を片手に苦笑いした。そう言われても、二人には何も答えることができないのだった。

「一体誰が助けを……」

「奥寺とかいう青年だって聞いてるけど、誰も連絡先聞いてないんだよ」

偶然の思し召しで命を救われたわけだ。その後の病院での精密検査では特に何もなく、二人はかすり傷を負って軽い脱水症状にかかっているだけだった。

 マスコミの取材を受けても、夢見心地でなんとか言葉を絞り出すだけだ。あの地獄のような光景を口にしようとしても、夢だったのかもしれないという強烈な思いが込み上げてくるのみだった。

「一体どういうことなんでしょう……?」

「分からん。だが……」綱吉は病院の壁に掛かっているカレンダーを見上げた。「もう藤堂さんの計画は実行されたはずだ」

「どうなりましたかね……」

 綱吉は立ち上がった。

「やっぱり、一度ちゃんとお詫びしないとな」

 二人で組織の本部に向かった。ところが、藤堂の右腕の谷本は首を捻っていた。

「お前らが直接会いたいってのは分かったけど、藤堂さんの姿が昨夜から見えないんだよ」

 しかし、綱吉はそう簡単に諦められるたちではなかった。

「でも、どうしても直接お話したいんです」

「いや、だから、説明しただろ……。何をそんなに話したいんだよ?」

「藤堂さんに指示されていた車の手配を満足にできなかったことを改めてお詫びしたいんです」

「何の話だ?」

 谷本の目が訝しげに細められる。

「車の手配を……」

「藤堂さんの指示は全部把握してるが、そんな話はないぞ。個人的に頼まれたのか?」

「いや……、昨夜、何か計画があるようなお話でしたよね。というか、谷本さんともそのお話をしましたよね」

「……お前、なに言ってんだ?」

 笑って胸を小突かれる。

 ますます訳が分からなくなり、綱吉は宮下と顔を見合わせる。不完全燃焼のまま部屋を出て行こうとする二人の背中に、谷本が笑いかける。

「あの車、お前たちのだろ?」

「へ? なんですか?」

「裏に停めてあるだろ。ジミヘンのワーゲンバス」

 二人の間に戦慄が走った。頭を下げて本部の階段を駆け下りる。

「どういうことなんだよ!」

「分かりませんよ!」

 二人とも理不尽の坩堝に放り込まれて泣きそうだ。前を駆け下りる綱吉の足がピタリと止まる。階段の途中から一階のエントランスホールが見える。

「どうしたんですか……?」

 綱吉は自分の口元に人差し指を当てて、エントランスを指し示した。そこには、並んで談笑しながら歩く綱吉と宮下の姿があった。二人は階段の下を、奥の通路に向かっているいていく。

「はぁ?」

 宮下が大きな声を上げる。到底、自分の目が信じられないといった様子だ。

「馬鹿……!」

 綱吉が咎めたが、遅かった。階段の下から声が上がる。

「なんだ? 誰だ?」

 紛れもない綱吉の声だ。こちら側の綱吉は宮下の首根っこを摑まえるようにして一気に階段を駆け下りた。

「おい! お前ら、なにふざけてる!」

 背中に声が伸びてきたが、立ち止まることなく二人はエントランスから外に飛び出した。蝉の声が耳をつんざく炎天下。後ろから足音が追いかけてきているような気がして、二人は一目散に裏手の駐車場に向かう。

 駐車場の隅にジミヘンのワーゲンバスが大人しく座り込んでいる。宮下のズボンのポケットには鍵があって、それで鍵を開けて、ムッとする車内に滑り込んだ。何も考えずにエンジンをかけて、助手席の綱吉と声を上げながら車を発進させた。

 タイヤがアスファルトに爪を立てて軋む。通りに出たワーゲンバスは行く当てもなく猛スピードで風になった。

 しばらく走ったところで、颯爽と駆けるジミヘンは、何もない場所で唐突に凄まじい衝撃と轟音に包まれた。

 通行人が振り返った時、そこには煌めく真夏の陽光の欠片が舞い踊るだけだった。

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