カイロフォビア
「絶対に厳守してくれ。その箱は絶対に開けるな」
何でも屋というのは、本当に何でもやる。そのせいで、黒い人脈も広がったものだ。思い出したように、どこぞの半グレ集団の末端あたりが今日もやって来て、俺に依頼を落としていく。
目の前には、細長い段ボール箱。長さはせいぜい肩幅くらいだろうか。短い角材みたいな箱だ。透明なビニールテープでしっかりと止められている。少し厳重なくらいだ。きっと大事なものに違いない。
俺の隣で、相棒が調子のいい返事をする。こいつはいつもなんでも安請け合いする。
「任せて下さいよ。約束は守ります」
依頼人の高梨が茶封筒に札束を突っ込んだものをテーブルの上にそっと置いた。封筒に乗せた手のひらを子どもをあやすように何度も押しつける。
「この依頼はすでになかったものとして考えてくれ」
その物言いに引っかかった。
「どういうことです?」
「俺はここに来なかったし、あんたらも依頼を受けなかった。ここでは何も起こらなかった……そういうことだ」
口外不要というわけだ。
「そちらがそう言うなら、従いますよ」
相棒の竹川出雲は、高校からの友人であり、今では大切なビジネスパートナーだ。目の前の札束に気が奪われているのかもしれない。金額分だけのリスクが、札束の間に織り込まれている。
「念のためにもう一度確認しますが、これを指定の場所に運んで、指定の人物に手渡せばいいんですね?」
「その通りだ。その住所と受け渡し相手がこれだ」
高梨はしわくちゃになったメモ用紙を封筒の上に仰々しく乗せた。住所は隣県の山間の集落、受け渡し相手は溝倉惣介とある。
「この人の特徴は?」
「行けば分かる。山岳ガイドもやっているじいさんだ」
車で二時間ほどあれば、目的地に向かうことができる。依頼内容は荷物の運搬。報酬はたっぷり。少し考えたが、受けることにした。
高梨が帰って行って、出雲は満足げに封筒に手を伸ばした。
「キヨちゃん、うまい話があるもんだねえ」
楽観的なのはいいことなのかもしれない。俺は考えすぎるきらいがある。
「全部を俺たちに丸投げしているようで、勘繰りたくはなるな」
「裏があるって言いたいの?」
「そこまでは言ってないが、全額前払いで依頼はなかったことに、というのは、どこか気持ち悪い」
「まあまあ。考え込んでもアレだし、ちょっとした旅っぽくていいんじゃない? 運転は俺がやるからさ、キヨちゃんはどんと構えてなよ」
行動力が人生を作り替えるのならば、出雲は俺の人生に道を敷いてくれたようなものだ。この何でも屋をやることもなかっただろう。そのおかげで、衣食住に困らない生活を送れている。きっと俺はごく普通の社会生活など送れなかっただろう。
午後二時の一番暑い時間に出発した。
夏真っ盛りだ。水色の壁紙に真っ白い雲が浮かぶ。運転席に出雲、助手席に俺、運ぶべきブツは後部座席に置いた。「箱を開けるな」以外に取り扱い方に特に注意はなかったから、問題はないだろう。
箱の重さは二、三キロといったところか。箱の中で固定されているのか分からないが、多少振っても中の物が転がったりする気配はない。
「帰りにうまいものでも食って帰ろうよ」
出雲はそう言ってアクセルを踏んだ。
高速に乗って、車は突き進む。遠くに見える山の稜線の上に見事な入道雲が立ち上っている。出雲はスマホをスピーカーに繋げて、曲を流し始めた。クーラーを効かせた車内に、『波乗りジョニー』が夏の風を吹き込ませる。
「海行きてえなあ」
サングラスをかけた顔が海の色を求めてか、空に向けられる。
「海で何するんだよ」
「色々だよ」
「色々ってなんだよ」
「色々だよ。何しようか考えて遊ばないだろ」
遊びとは無縁の人生だ。つくづく、なぜこの男とこれほど長い時間を過ごすようになったのか、分からなくなる。
曲と曲のわずかな隙間に、カリカリ……と微かな音が脳髄にダイレクトに飛び込んでくるように聞こえた。何かが擦れるような音?
「車故障してるのか?」
「なんで?」
「カリカリいってる」
「マジ?」
出雲はスピーカーの音を落として耳を澄ましたが、異音は現れない。
「何も聞こえないじゃん」
「すまん。気のせいだったかも」
「なんだよ! また修理で金が飛ぶかと思ったわ!」
「いや、それはお前、余所見で自損やっただけだろ」
「原因は問題じゃない。金が飛んだことが問題なの」
「どういう理屈だよ……」
取り留めもない会話を続けて、旅気分が濃かったせいだろうか、高速を降りて目的地の集落に入った頃には、午後四時半を過ぎていた。
「うわ、すげえ草の匂いする!」
クーラーを止めて窓を開けたまま山間の道を駆け抜ける。雪崩れ込んでくる空気は、少し陽が傾き始めたせいもあるのだろうが、涼しさの欠片を孕んでいた。
疎らに民家のあるほかは青々とした水田が広がる。外を歩く人影はひとつもなく、時間の流れが都会と全く異なっていることに気づく。
「ん~? どこだあ?」
出雲が珍しく道に迷っている。カーナビに住所を入力して、目的地付近にはk近づいていることは分かる。集落から少しずつ離れるように、山道を進んで行く。虫が入ると良くないので、窓を閉めて再びクーラーを入れた。
深い緑が切り取る空が、徐々に色づいていく。その頃に、目的地と思しき資材置き場となっている広場に到着した。設置されている自動販売機のそばの色褪せた赤いベンチに、ひとりの老人が座っていた。車を停めて荷物を片手に近づいていくと、男は飛び上がるように立ち上がった。
「溝倉惣介さんですか?」
俺が尋ねると、向こうから喉を詰まらせたような返事がやってくる。だが、箱を渡すよりも前に、「ちょっと待ってくれ」と、すそばに停まっている彼の軽トラックの方に走っていった。
「普通に堅気の人に見えるけどねえ」
出雲が小声で言う。人を見た目で判断してはいけないという好例かもしれない。車から戻って来た溝倉は金の入った封筒とメモ帳を手にしていた。俺にそれを押しつける。
「すまんが、お前たちでやってくれ。指示はそこに書いてある」
高梨が俺たちに渡したのと同じくらいの札束だった。
「いや、ちょっと待って下さい。俺たちは……」
溝倉は俺の言葉に耳も貸さずに車の方へ行き、軽トラックの荷台からスコップを持って来た。
「これをやるから、深く埋めてくれ」
「埋める……?」
俺の質問に答えずに、溝倉は逃げるように軽トラックに乗って、広場を出て行ってしまった。蝉時雨の中、出雲と二人で佇む。
「遅刻したこと怒ってたんかな?」
俺の手には、ブツの箱と大金と指示の書かれたメモとスコップ。理解が追いついていない。指示には、
≪山奥に埋めること。ただし、絶対に箱は開けてはいけない≫
と、念を強く感じる筆圧で書かれている。メモを覗き込んだ出雲が小さく笑った。
「じゃあ、埋めに行こうか」
「簡単に決めるなよ……」
「だって、しょうがねえよ。俺たちしかいないし。それに、そんな大金貰ったんだから、いいじゃん。タダ働きではないよ」
下手をすれば、小さな会社のサラリーマンの年収ほどがこの数時間で舞い込んできた。金はあるに越したことはないが、これは不気味だった。溝倉にしても、箱を埋めるだけの作業をなぜ投げ出していったのか?
俺の手からスコップが引き抜かれていく。出雲がそれを肩に担いで、親指で山の方を指さす。
「細かいこと考えずに、ちゃっちゃと終わらせちゃおうぜ。〝この依頼はなかった〟んだから、何事もなく帰りに豪勢なもんでも食おうよ」
状況からしても、出雲の言う通りにするほかはなかった。手の中の箱が少しだけ重みを増したような気がして、自分がいかに乗り気でないかを思い知ることになる。
出雲が運転する車は、広場からさらに山の方へ向かう。木立が太陽を遮って、辺りはぐんぐんと暗さを増していく。陽も落ちかけて、ヘッドライトが点灯する。
「とりあえず、車で行けるところまで行って、ちょっと入ったところに埋めよう。それでいいな?」
こういう時にただただ前に突き進む出雲には感謝しかない。
いつの間にか道の舗装は砂利に変わって、ガードレールも消え、山の斜面側には苔むして黒ずんだコンクリートの擁壁が続く。道幅は車一台分ほどしかない。
どんどん。
何か車体を叩くような音がした。出雲がブレーキをかける。
「なんかぶつかった?」
俺は窓を開けて、後方を確認した。薄暗い山道には何もない。出雲が車の外に出てフロントバンパーを確認している。俺は車の後ろの方に歩いていって辺りを見回したが、特に異常はないようだった。
助手席に戻ろうとして、ハッとした。
助手席の窓のど真ん中に手の跡がついていた。指を大きく広げた右手。白くぼんやりと残った跡が、水蒸気のようにゆっくりと消えていく。
「なんか見つかった?」
車を挟んだ向こうから出雲が声を掛けてくる。
「いや、何でもない」
二人で車に乗り込み、再び走り出す。少し寒気がした。
陽がすっかり落ちた頃、砂利敷きの広場に辿り着いた。周囲はぐるりと木々に囲まれ、広場の隅には朽ち果てた小屋が傾いでいる。
「うわあ、すげえ蝉の声」
空気が滞留するようなムッとした草いきれ。ジージーと絶え間なく、蝉そのものが静寂になり替わっている。後部座席の箱に手を伸ばして、心臓が早鐘を打った。重さが増しているように感じたのだ。
「早く行こうぜ」
出雲がスコップを掲げるので、俺は苦笑を返して箱を抱えて後についていった。木々の間の獣道が山の上の方まで続いていそうだった。柔らかい地面を踏みしめながら、黙々と歩いていく。普段運動をしていないせいか、出雲との距離が少しずつ離れて行く。
「ちょっと……待った……」
先の方で出雲が振り返って笑う。手に持ったスマホのライトがこちらを向いた。
「へばるの早すぎだろ」
「お前が速いんだよ……」
「あ、ここ圏外じゃん。珍しいからスクショしとくわ」
のんきな奴だ。俺は息を切らして出雲のそばに辿り着いた。
カリカリ……。
車の中で聞いたような音が俺の耳に届く。辺りを見回すが、何もない。
「休憩してないで行くぞ」
出雲に急かされて歩を進める。頭も背中も汗でびしょびしょだ。
しばらく進んで、獣道を外れると、より一層草木が鬱蒼と生い茂る場所に辿り着く。
「もう……、ここでいいだろ……」
さすがの出雲も額を汗だくにしていた。そして、早速穴を掘り始める。俺は近くの木に身を預けて息を整えることにした。
「でもさ、その箱の中身ってなんなんだろうな?」
「さあ、知らん。知りたくもない」
十分ほどで膝の高さほどの穴ができあがる。出雲に箱を渡すと、箱が穴に置かれる。出雲が土をかけて、任務は完了となった。
木々の間から夜空に星が浮かんでいるのが見えた。
広場まで戻った頃には、下半身が土で汚れていた。
「すげえ重労働だったな。あれだけの金を貰う理由はできたな」
俺は疲れすぎて眠気を感じていた。すぐに助手席に乗り込んで、シートに深く腰掛けた。出雲が車を走らせる。来た道を戻るのだ。
「これ、帰りは夜中になりそうじゃねえか」
「どこか宿を見つけて泊まるのでもいいぞ」
俺が提案すると、出雲は嬉しそうに笑った。
「いいじゃん。いいところ探してよ。なんせこっちには金がたんまりとあるんだ」
スマホを取り出すが、圏外だったことを思い出す。
どどどどどん。
車体のまわりを何かが叩く音が大きく響いた。
「うわ!」
出雲が思わず急ブレーキをかける。
「なんなんだよ……!」
出雲の顔越しの窓に真っ白な手のひらがべったりと貼りついているのが見えた。
「うわあああっ!」
出雲が俺の声に驚いて、俺を睨みつけた。
「急にでかい声出すなよ!」
指を差そうとしたが、もう手のひらは消えていた。来る途中で見た手の跡を思い出して、全身に鳥肌が立った。
何か、おかしいことが起こっている。
「早く……山を出よう!」
俺が叫ぶように言うと、出雲はうなずいてアクセルを踏んだが、車は動かない。あまりの出来事に気づいていなかったが、車体が少し傾いている。
「やばい。後輪が道を踏み外してる」
「なんでだよ……」
「知らねえよ。きっと今のでブレーキかけた時に滑って崖から落ちかけたんだ」
出雲はしばらくアクセルを踏んで頑張ったが、車は動きそうになかった。電話は通じない。麓までだいぶ距離はあるが、歩いて山を下りることにした。
車を置いて、山道を速足で下っていく。今度は俺が先頭だ。
今回の依頼は断った方がよかったのかもしれない。いまさらながらにそう思っていた。あまりにもうまい話だ。もう少し警戒しておけばよかった。こんな後悔をしても意味がないのは分かっている。だが、そう思わずにいられない。
後ろの足音が止まった。振り返ると、出雲が蹲っていた。
「どうしたんだよ」
出雲は蹲ってうなだれたままだ。
「ちょっと気持ちが悪くて……」
「勘弁してくれ……。山下りるまでは我慢してくれよ」
「分かった。ごめん」
立ち上がった出雲の首元に真っ白い、ぬめっとした細い手が絡みついていた。
「お前……! 首に……!」
「えっ?」
出雲が首元に手をやるが、そこには何もなかった。
幻覚……? いや、そんなはずはないほどにくっきりと見えた。
頭の中を整理していると、突然出雲が胃液を吐き出した。
「大丈夫か、出雲? ……おい!」
蹲って咳き込みながら、俺を見上げる彼の顔は蒼白だった。
「キヨちゃんさ、あの箱、もうちょっと深く埋めといた方がよかったかもしれないね」
急にケロッとした様子でそう言うので、自分の耳を疑ってしまった。
「はぁ? なに言ってんだよ? もうあれで十分だよ」
「いや、心配だから、行くわ」
そう言って、ずんずんと山道を登って行こうとする。さっきまでとは歩幅も歩く速さも、別人のようだった。
「待てって!」
大声をあげても、出雲は意に介さない様子で闇の中に消えていってしまった。何が起こっているのか分からないまま、出雲を置いていくわけにもいかず、後を追った。だが、息は苦しくなる一方で、とてもではないが出雲の背中を捉えることなどできなかった。
乗り捨てた車のそばにやって来たとき、背後からヘッドライトの光とクラクションが近づいてきた。
振り返ると、運転席の溝倉の必死の形相が目に入った。
「あんたら、なんでまだここにいるんだ!」
物凄い剣幕だった。
「友人が……山の方に行ってしまって……。でも、手が……」
「手……?」
「手が……白い手が……」
どう説明すればいいのか分からなかったし、さっき見た光景が本当に現実だったのかも分からない。言葉が続かなかった。
「心配で戻ってきてよかったわ……。あんたの連れ、俺と会った時からおかしかったぞ」
「おかしかった?」
「白い手がずっとあいつの肩を掴んでたんだ……」
言葉が出なかった。全く気づかなかった。
思い返せば、ずっとおかしかった。車内で聞いたカリカリという音も車を叩くような音も……全部あの箱を受け取ってから始まった。
あの箱の中には何が入っている?
「いいから、乗りなさい。友達を助けに行こう」
俺は言われるがままに助手席に乗り込んだ。溝倉が運転する車は猛スピードで山道を駆け上がるが、広場にやって来ても出雲の姿を見ることはなかった。
「あいつ……本当に箱のところに」
「何が入ってるのか聞いてないのか?」
「いや、知りません。知りたくもなかった。溝倉さんは知ってるんですか?」
「俺が知るわけないだろ」
車の中から懐中電灯を取り出すと、溝倉が俺を先導して獣道へ踏み出す。俺は記憶を頼りに方向を示すことしかできない。
両足が悲鳴を上げている。ふくらはぎが攣りそうになるが、溝倉とはぐれれば終わりだと思って必死で食らいついた。
そして……、
「おい、あんた!」
溝倉が暗闇に懐中電灯の光を向けた。乱暴に搔き乱された土の真ん中で、出雲があの箱を抱きしめてこちらを睨みつけていた。
「これは渡さない……!」
彼が彼じゃないみたいだった。血走った眼、泥だらけの身体。汗ひとつ掻いていない顔。蒼白な顔面。彼が胸の前できつく抱きしめるので、箱がぐにゃりと曲がっている。
「出雲、お前なにしてんだよ! どうしちゃったんだよ!」
「絶対に渡さないからな!」
出雲は立ち上がってこちらを威嚇するように鬼の形相を向ける。我を失っているようだった。出雲は俺たちを睨みつけると、闇の中へ駆け出した。
「待ってくれよ、出雲!」
そうだ。
出雲と仲良くなったきっかけは、あいつが放課後にクラスメイトと一緒にサッカーをしようと誘ってくれたことだった。あいつが仲間に引き込んでくれたおかげで、俺はみんなと打ち解けられたんだ。
その背中が遠ざかろうとしていて、それがなぜだか永遠の別れのように思えた。
走り出した俺を、溝倉が全身で止めようとする。
「行くんじゃない! 絶対に行くんじゃない!」
「行かせて下さいよ! あいつは俺のただ一人の友達なんだよ!」
見放すことなんてできるはずがなかった。溝倉の腕を振りほどいて、彼の顔をじっと見つめた。
「溝倉さんは山を下りて助けを呼んできて下さい。俺があいつを見つけて連れてきますんで、こっちは任せて」
そう言いながら、声が絞られていくのを感じる。意識が遠のいているのではなかった。息苦しさが募って、大きく息を吸い込もうとする。
俺を見つめる溝倉の顔が絶望に塗りたくられたように、一切の表情を失っていた。
彼の目線の先……喉元に手をやる。
──冷たい何かが絡みついていた。
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