第4話

 配信を終えて三十分が過ぎても、おれはカーペットにへたり込んだまま、立ち上がることができなかった。自分がいつ椅子から崩れ落ちたのかすら認識できていない。体に力が入らない。

 つい昨日の朝までは、こんなことになるだなんて思いもしなかった。

「それでですねー、純君の前で『おれ』とか『君』とか言ってみたわけなんです。もちろん、ついついポロッと出ちゃいました、って感じでですよ? でも純君の表情を見るに、驚いていただけで、それが奈落野ラクナという存在には繋がった感じじゃなかったんですよねー」

 おれはこの小貫紫子という女子高生に、弱みを握られ、脅されている。

 弱みとは端的に言えば、このおれ自身――松風まつかぜ伊吹という人間の存在である。つまり、奈落野ラクナの中身がバレた。どうやったのか住所まで調べて押しかけてきた彼女に部屋を漁られ、実家の情報まで突き止められてしまったのが、昨日の話だ。(結果的に昨日、ラクナは初めて配信を休んでしまった。)

 ラクナの過去の雑談内容やツイッターの投稿の中に、おれへと繋がるヒントがあったのかもしれない。最低限気をつけてはいたけれど、でも、最低限は最低限だ。どこかに穴があった可能性は全然ある。だって、ラクナは中の人がおじさんだと公表している。熱心なファンほどそんなの見たくはないだろうし、アンチからしたって公然どころか公認の秘密を暴くような面白みの薄い嫌がらせに労力をかけようとしないだろうし――と高をくくっていたのだ。

 でも、この子の目的はストーキングでもネガキャンでもなかった。

「ねぇ、ちょっと聞いてます? 伊吹さん」

 高校の制服のままおれのベッドに腰かけ、小貫さんはリラックスした様子でおれを見下ろしてくる。

「おじさんでいいってば……」

 力なく答えることしかできないおれ。どうすればいいのだろう。

 仮におれの姿がネット上で拡散されたとしても、ラクナーさんたちは擁護してくれると思う。でもいつの間にか少しずつ離れていって、きっと最後にはみんないなくなる。いや、みんながいなくなる前に、おれから消えるだろう。

 だっておれが嫌なのだ。話したいように話しているだけで愛してもらえるラクナという姿に、松風伊吹というノイズが混じり込むなんて耐えられない。

 そしてもう一つ。家族バレだけは何としても防がなくてはならない。あの厳格さだけが取り柄の夫婦が息子のバ美肉なんてものを見て見ぬふりするわけがない。それも、そんな息子の「醜態」を世間に知られてしまうのだ。どんな手を使ってでもVTuber活動を禁じてくるだろう。体罰も罵倒も人格否定も慣れている。でもラクナを消されてしまうのだけはダメだ。万が一でもその可能性が残されることは許容し切れない。

 つまり現状、おれは小貫紫子に逆らえない。だから、彼女の要求に応えられるのであれば、さっさと叶えて解放してもらうというのが、悔しいけれど最善だ。

「……小貫さん。君の目的は結局、その純君という子と付き合うことなんだよね?」

 恐る恐る問いかける。すると彼女は長くて白い脚を組み替え、

「そうですよ。何度も言っているじゃないですか」

「じゃあ協力するよ。君の恋が成就できるように大人としてできることがあると思うんだ。健全とは言い難いけれど資金的な援助もできるし、二十六年の人生経験を元にアドバイスをすることも――」

「出来るわけないですよね、美少女キャラクターオタクのおじさんに恋愛指南とか。どうせまともに恋愛経験とかないですよね」

 ……いやまぁそうだけれど。

「……い、いやさ、てかそもそもさ。こんなことしなくても君なら高校生の一人や二人簡単に落とせるんじゃないかな。実際モテるでしょ、君。うん、真っ正面からぶつかれば、きっと付き合えるはずだよ」

「……無理ですよ……」

 か細い声で俯く小貫さん。弱気な姿は初めて見た。もしかしたら行動力がおかしいだけで、精神的にはまだまだ幼いのかもしれない。つつくならここだろう。このチャンス、逃すわけにはいかない。

「大丈夫、もっと自信持ちなよ! 君はめちゃくちゃ可愛いからさ! 可愛い女の子になることを突き詰めてきたおれが言うんだから間違いないよ! うん、可愛い! そうだよ、自分でも言ってたじゃんか! 小貫さんはめっちゃ可愛い! 世界一可愛い――」

「知ーーってますよ! 私が世界一可愛いことくらい!! 当たり前でしょう、そんなこと!! 私は可愛い! 私が可愛い! 可愛いは私! それが宇宙の真理です!!」

「ええーー……」

 急に爆発しやがった……。小貫さんは飛び跳ねるように大きな身振り手振りで自分の可愛さを訴えてくる。

「それなのに! こんなに可愛いのに! 私から告白までしてあげたのに! 純君は私になびかなかった! 何故でしょう!? 何故だと思います!? はい、伊吹さん!」

「え、知らないけど」

「お前のせいだよおぉぉぉぉぉぉ!!」

「ええーー……」

「純君は! ある2Dの美少女キャラクターに夢中だったんです! 恋していたんです! それはいい! 美少女キャラが好きなオタクさんなら、むしろ美少女である私には好都合です! でも! 彼が好きなキャラクターは、美少女なんかじゃなかったんです!」

「ラクナは美少女だよっ!」

「おっさんだろおぉぉぉぉぉぉぉ!!」

「おじさんだけど美少女だもんっ!」

「もんっ、とか言うなあぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 声を荒らげまくり肩で息をする美少女がそこにはいた。酷い。これが荒れる十代か。最近の若者ってやつか。

「彼はあなたの配信に『結婚して』とか『おじさんじゃなきゃ嫌だ』とかコメントしまくっているんです! なに高校生の性癖を歪めてくれてんですか、このおっさん! 変質者!!」

「そうなんだ……そんなことが……」

 そういう男性視聴者がいることはもちろん知っていたけれど、実際にこうして生の声を聞くと罪悪感も覚える。ラクナの魅力によって、男子高校生の性癖が……。

「何ニヤニヤしてんですか、このおじさん! キモいキモいキモい!」

「キモくないよっ! しょうがないじゃんっ! 嬉しいじゃんっ! それだけラクナが魅力的ってことなんだからっ!」

 そうだ、おれのありたい姿を、おれの大好きなラクナを、そんなにも愛してもらえたのなら、おれの人生でそれ以上の喜びなんてないんだから。

「もうホント、何で純君はこんなおじさんが演じているキャラのことなんて……せっかく陰キャ君が好きそうな、おっとりお淑やか女子を演じてあげていたのに!」

「君は本当にその子のことが好きなの……?」

 ベッドに崩れ落ちながらあまりにもナチュラルに好きな男子をディスっているのは気になるが、そんな場合でもない。そろそろ問題の核心へと迫ろう。

「で、そんな風にしてみても好きになってもらえないから、もういっそ、その子が好きなラクナの中の人になってしまおうと……そしてその『事実』を彼に明かして付き合ってもらおうと……君はそう考えたってこと?」

 うーん、まとめてみたら改めてやべぇなこいつ。

「ええ、その通りです!」小貫さんは腰に手を当て胸を張る。何で偉そうなんだ、この犯罪者。「と言っても、私の方から『私が奈落野ラクナです!』と言い張っても嘘っぽいですからね」

「ぽいっていうか微粒子一つ混じらない純度百パーの嘘だろ」

「私だって出来るだけ嘘は避けたいところなのです。ボロは出るものですから。嘘ではなく、真実にしたいんです。だから、奈落野ラクナを私に譲ってください。今日からは私が奈落野ラクナを演じます」

「…………っ! ふざけたこと言わないで。そんなの――」

 無理に決まってるだろ、と続けようとしたおれの言葉を、小貫さんは平然な顔で遮る。

「――とは、言いません。だって不可能ですし。中の人が実際に交代なんてしたら、配信した瞬間にバレてしまうでしょう? 私にそんな萌えキャラの口調や性格をコピーすることなんて無理ですし、どうやらその機械を使っても声を自由自在に変えられるというわけじゃないみたいですし」

 おれのボイスチェンジャーにチラと視線を投げかけてくる。確かにこれはそんな万能なガジェットじゃない。元々かなり高いおれの声を自然な女声に近づけるだけでも一苦労だ。

「だから、私が奈落野ラクナになるのではなく、『奈落野ラクナは初めから小貫紫子だった』と純君に思い込ませる――これが私の目標です。騙す相手が数万人の視聴者から一人の高校生になったわけですから、一気に簡易化したでしょう?」

 知らねーよ。何をにっこり笑顔で解説してんだ。

「……つまり、君の具体的な要求は……」

「ええ、これから先、奈落野ラクナには配信中に『小貫紫子』の要素を匂わせていただきます。もちろんこれまで二年間の活動で築いてきた奈落野ラクナのキャラクターが崩壊しないように、矛盾が生まれないようにです。そうしなければ、純君に疑問を持たれてしまいますからね。伊吹さんにとってもこの方針は好都合でしょう?」

 それは当然そうだ。ラクナのキャラクターを変えられてしまうのなら、それはラクナを奪われるのに近しい拷問だ。

「……でもそれって、結局君は純君に嘘をついているのと変わらないよね? やっぱりボロが出るのは不可避だと思うんだけれど」

「ふふん、人を騙すのにはコツがあるんですよ。こちらから嘘をつかないことです。私からは絶対に自分が奈落野ラクナだとは名乗りません」

「は?」

「伝えるのではなく気付かせるのです。私はただ、ラクナの配信内容に合わせて日常生活での自分の言動などを調整するだけ。ほのめかすだけです。純君には自分で『真実』に辿り着いていただきます」

「……なるほど」

「自力で掘り当てた『真実』を疑うことはなかなか難しいものです。多少の矛盾・齟齬があったとしても、『真実』にとって都合のいい解釈をしてくれるはずです。ゴールへの道のりの方を勝手に修正してくれるでしょう。ゴール地点――『奈落野ラクナ=小貫紫子』という『真実』が変わることは永遠にないのです! ゴールテープを切った純君が確信を持ってそれを問い質してきたとき、私に必要な唯一の仕事は――静かに首を縦に振ることだけなのです」

 小貫さんは満足気に「えっへん」と胸を張る。うざ。

「あとは簡単です。大好きな奈落野ラクナの正体である私と付き合うことになった純君は、やがて生身の私の身体に夢中になっていき、奈落野ラクナの活動への興味を徐々に失っていくでしょう。そして頃合いの良さそうなところで私は彼にこう伝えるのです。『あなただけのものになりたい』と。『もう、みんなのラクナではいられない』と。ラクナの演者を、自分とそっくりな声を作れる協力者――つまり伊吹さんに譲ることにしたと付け加え、それで計画は完遂です。結果として、私達ラブラブカップルと奈落野ラクナという存在の関係は完全に断ち切れ、伊吹さんもまた完全にこれまで通りの配信活動に戻れるというわけです。いぇい」

 ご機嫌な様子でピースサインを作る小貫さん。

 でも、彼女のその長々とした提案は――、

「無理だよ。お断りだ」

 おれには、到底飲むことができない。

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