最終話 ゲートをこえて

──23── 真実

 嘘みたいに明るかったライトアップが、すうっ、と光を低くした。すとん、と辺りが薄暗くなる。

 いつまでも笑い合っていた俺たちは、顔を見合わせて最後にひとつ、くすりと肩を揺らした。そのまま、拳を下ろす。


「……敬斗。あのさ」

 ぽつり、とそれだけ言うと、一ノ瀬がふっと目を伏せた。思慮深い眼差しが膝頭の辺りに落ちて、じっと考え込むような仕草。

「どうした?」

 呼びかけに、一ノ瀬がすっと顔を上げる。真摯な、けれど少し控えめな瞳が俺を見た。


「おまえの大好きな〝カメ兄〟のことなんだけど」

「……」


 遠慮がちにささやかれた名前を聞いて、美優の泣き顔が思い浮かぶ。思わず気持ちが沈んだ。


 表情を曇らせた俺に、一ノ瀬が言いにくそうにつぶやく。

「俺、ずっとその人のこと、〝亀岡さん〟だと思ってたんだ」

 ツルとカメの亀ね、と補足する一ノ瀬。


「でも、昨日おまえのスマホに表示された名前で、違うって気付いた」

 たしかにそうだ。〝甕岡〟は読みはともかく、漢字表記だとかなり珍しい名字だった。普通に耳で聞いたらまず〝亀岡〟の字が浮かぶだろう。目で見て初めて字を知るというのは、十分ありえることだった。


「でも、甕岡さんの名字が、そんなに大事なのか?」

 こくりと一ノ瀬がうなずく。華奢な指先が膝の上でゆっくりと組まれて、可憐な眉がぎゅっと寄せられた。ためらいがちな、静かな声。


「……そいつ、要注意人物だから」

「えっ」


(甕岡、さんが……?)

 ひや、と嫌な予感がして、俺はおずおずと口を開く。


「それって──この街で、甕岡さんがなんかした、とか……?」

 呆然とした問いかけに、一ノ瀬が首を振った。

「いや。〝外〟での話」

「外……」


 一ノ瀬は静かに顔を上げると、端正な面を巡らせて俺を見た。少し苦い目をしたまま、抑えたように語る。

「俺、いつもSNSで、この街に落ちてきそうな子たちを探して、声をかけてるんだ」

 知っている。あの韓国風の制服の子が言っていた。

「そんなとき、SNS上でよく遭遇するやつがいた」

「……それって」


 もしかして、というかすかな予感。けれど一ノ瀬は断言をしないまま、淡々と続けた。

「そいつは、表向きは親身で誠実で、常識的なリプライを送ってた。むしろ下心のある大人たちを遠ざけさえしてた。でも、あまりにも遭遇率が高くて」

 いくらなんでも多すぎる、と。一ノ瀬はその〝誰か〟を警戒したのだという。


「しばらく見てて、やっぱり不審だなと思ったから、個人的にちょっと調べてみたんだ。調査の中で──〝甕岡〟って名字だけはわかった。珍しい字だなって思った」

「……〝甕〟の字……」

 一ノ瀬がうなずく。


「その〝甕岡〟──彼ないし彼女は、何人もの家出少女に声をかけて、二人で会っていた。ネカフェやカラオケ、ラブホで一緒に一晩過ごす、なんてこともザラだったみたい」

「……っ」


 さっきから浴びせられる情報はどれも、到底信じたくないものばかりだ。でも、俺の脳裏にはずっと、美優の泣き顔がよぎっていた。たぶん本当なんだろうという、うっすらした確信が、押し殺した心の底を静かに叩いている。

 一ノ瀬が、厳しい表情で言った。


「ただ、もっと詳しく調べようとしても、家出少女たちは軒並みそいつを庇うんだ。だからそれ以上は突っ込めなくて」

「それは……そうだろうな」


 なんとなく、わかる。あの人の話を聞いたら、あの人と一緒に、二人で時を過ごしたら。彼を庇うのは、とても自然なことのように感じられた。他でもない俺自身が、彼に心酔するひとりだったからだ。


「そうこうするうちに、春ごろから被害報告がぱたっと途絶えて。だから、今まですっかり忘れてたんだ」

「春ごろ……?」


 そういえば。ふっと思い浮かんだことを、俺はぽつりと口に乗せる。

「あのさ。甕岡さん、春くらい……四月の半ばから転職活動中なんだ。天文部のドキュメンタリーもその一環で」

 でも、と俺は取材申し込みのときの甕岡を思い出した。


 あの人は、撮影所を辞めたから転職活動を始めた、と言っていた。そう、辞めるから、じゃなくて、『辞めたから』と言ったのだ。

 そのことを伝えると、一ノ瀬はたちまち顔をしかめた。


「転職先も決まってないのに職場を辞めた? 四月の半ばなんて半端な時期に?」

 うなずいて、一ノ瀬を見る。一ノ瀬もまた、真剣な瞳で俺を見つめ返した。


 家出少女たちと何度も会っていた、甕岡という名字の人物。今年の春になって急に途絶えた被害報告。同じころに甕岡は不自然な転職活動をはじめて、そして、そんな彼はずっと、未成年である美優と付き合っている。

 ぽつり、とつぶやきが漏れるのを、止められなかった。


「もしかして、甕岡さんは、仕事を辞めたんじゃなくて──」

「──辞めさせられた。それこそ未成年淫行がバレてクビ、……とかかもね」


 俺の言葉を受け継いだ一ノ瀬が、淡々と告げた台詞に、背筋がかすかにすっとする。たちまち表情を固くした俺に、一ノ瀬がかすかに眉を下げた。


「ごめん、こんなこと言って」

「いや……」

「本当は、言うかどうか迷ったんだ。でも気付いた以上、黙っておくのも違うと思って」

「…………」

「敬斗?」


 一ノ瀬の、怪訝そうな声を、俺はほとんど聞いてはいなかった。ただ頭の中でいろいろな情報がぐるぐると巡って、脳内でなにかが少しずつ、ひとつの形を成していく。


 ゆりの失踪後、甕岡の家を尋ねた美優が言っていた。『寝室に入れてもらえなかった』と。それから、『部屋のモノの配置が変わっていた』とも。そして、『カーテンの向こうに、身を寄せ合う二人の人影を見た』という目撃証言。

 そこにさっき聞いた、『家出少女に手を出す甕岡という大人』のピースを足せば、答えはもう、ひとつしか──ない。


(……ああ、だから、たぶん)

 眉を寄せ、痛みにも似た確信に耐える。そうであってほしくはなかった。でも、たぶんもう、間違いない。

 俺は小さく息を吸うと、言った。


「……小野塚の居場所、わかったかも」

「え?」

「たぶん──甕岡さんの、マンション」


 すうっ、と一ノ瀬が目元を鋭くする。口元をわずかに引き締めて、整った表情から、硬い声がした。

「どうしてそう思うの」

「それは──……」


 俺はひとつずつ、知っていることを話した。甕岡と付き合っているという美優の話と、ゆりの失踪後に判明した、唐突な浮気疑惑。甕岡の自宅の異変。そして。

「通話したとき、小野塚の様子がおかしかった」

「小野塚さんの?」

「ああ。なんか現実とはまるでそぐわない、借り物みたいな言葉を並べて、まくしたてて」


 ゆりはたしかに言ったのだ。『私をわかってくれる人なんてほとんどいない』と。

(そう、〝ほとんど〟って──)

 それはつまり、誰か『わかってくれる人』がいた、ということだ。あの、現実とはまるで噛み合わない妄言に、わかるよと呼びかけた人がいる。


 俺はかすかにくちびるを噛んだ。過去の自分を思い出した。幼い日、たったひとり信頼する大人から与えられた、美しくきらめく言葉のことを。


『あのきれいなものを、きみが守ってあげなきゃいけない。

 きみが、やるんだ。いいね?』


 甕岡に選ばれて、特別にほんとうのことを教えられて、ものすごく嬉しくて、どきどきして、興奮して。この人の言うことこそが真実だと、ほとんど陶酔じみた信頼を寄せた。俺は確かにあの人を、そのくちびるが語る言葉を、無条件に受け入れていた。


(甕岡さんなら、……できる)

 あの人は、俺に〝真実〟を信じさせた。美優に〝恋愛〟を信じさせた。

 彼は未成年の心を引きつける術を、とてもよく知っている。あの、尋常ではない、明らかにいつもと違うゆりの様子。なにか美しい〝物語〟を与えられて、それを心から信じているような。


 ぽつぽつと語る俺に、一ノ瀬は表情を険しくする。凛とした口元が少しだけ歪んで、彼は敬斗、と俺の名を呼んだ。


「おまえには、悪いけど」

「……わかってる」

 こくり、とうなずく一ノ瀬。そして彼は続けた。


「本当にやばいヤツは、こんな街に女の子を買いになんて来ない。奴らは一般の〝恋愛市場〟にやってくる」

「……」

「彼らは言葉巧みに未成年を誘惑して、自分の意志だと思わせて──少女たちを食い荒らすんだ。だから、たぶん」

「っ……」


 ずきっ、と心臓の奥が痛んだ。それでも、きっとそうなのだと思った。かつて与えられた言葉を無心に信じ込んだ自分と、ゆりの言動を照らし合わせる。共通点はいくらでもあった。間違いないと思った。

(もう、目を逸らすことはできない)



 ゆりをたぶらかして、連れ去ったのは──甕岡祐介だ。



 俺と同じことがきっと、ゆりの身にも起こったのだ。甕岡の語る〝物語〟を、小野塚は素直に信じ込んだ。それで、彼のもとに身を寄せて──、

 思い浮かぶのは、涙混じりの美優の言葉。カーテンの向こうで、重なり合う二つの影、という単語。胸の底がずん、と重くなる。もしかして、二人はもう、とっくに。

 すっかり黙り込んでしまった俺に、一ノ瀬がそっと呼びかけた。


「どうするの。敬斗」

「……」

「つらいなら、俺がなんとかするから、おまえは家に──」

 一ノ瀬の言葉をさえぎり、俺は静かに首を振る。そして、ゆっくりと顔を上げた。


「俺のすることは決まってる。小野塚を連れ戻す」

「……そう」


 一ノ瀬は少しだけ息を吐くと、じゃあどうする、と真剣な顔で言った。俺は顎に手を当て、考え込む。


「マンションに乗り込む……のは無謀だよな」

「ああ。鍵くらい当然かけてるだろうし、インターホンを鳴らしたところで、開けてはくれないだろうね」

 淡々とした事実の羅列に、俺はため息をつく。一ノ瀬は少し遠慮がちに言った。

「警察沙汰……はまずいんでしょ」


 うなずく。警察や、大人の介入は──絶対にだめだ。

 ゆりはひどく混乱していて、甕岡に与えられた〝物語〟によって、頭が凝り固まっている。そんな状態で秘密のバイトまで周囲にバラされたら、変なヤケを起こしかねない。できるなら、俺たちだけで解決したかった。


 そう伝えると、一ノ瀬は「そう」とだけ言って、じっと考え込んだ。俺も同じようにする。

「美優さんに頼んで、家の中をそれとなく探してもらうとかは?」

「だめだ」

 即座に首を振った。

 ただでさえ親友のゆりが失踪して心配なところに、恋人だと思っていた人が、まったく自分を大切に思っていなかったという事実をつきつけられたのだ。美優の精神はたぶん、とっくに限界を迎えている。


「もう、美優を甕岡さんと二人きりでは会わせられない」

「それもそうか……」

 一ノ瀬は静かに思考へと戻る。そして、ちっ、と小さく舌を鳴らした。

「俺たちはただの一般市民だ。鍵のかかったマンションへの侵入方法なんかあるわけない。……くそっ」


 珍しく品のない罵倒語を使った一ノ瀬に、少し驚く。それだけもどかしく思っているのだろう。俺も同じ気持ちだった。なんとか、なんとかゆりと対面する方法を考えなければ。


(あ……でも、待てよ?)

 ふ、と思った。ゆりと会う、彼女を連れ戻す、それはいい。でも、本当にそれは甕岡のマンションでなければならないのか? 真正面から乗り込まなければ駄目なのか?


(そうだ。もし、あの方法が可能なら──……)

 俺はゆっくりと顔を上げると、一ノ瀬の肩をそっと掴んだ。思案げな横顔が、どうした、と言いたげな目をして俺の方に向き直る。

 俺は一度だけ唾を飲み込むと、口を開いた。


「一ノ瀬、おまえの力を貸してくれ。俺に──考えがある」





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