──21── もう一度、おまえと

 夜がはじまったばかりの此倉街を、俺はひとりで歩いていた。


 ぬるい夜風が頬を撫でて、饐えたような、甘苦いような独特の空気が、俺の身体にまとわりつく。呼び込みの声と、行き交う人々の熱っぽいざわめき。酔っ払いの笑い声。ここ数日ですっかり慣れてしまったそれらの中を通り抜けて、俺はただ夜の中を進んだ。


 今日の俺は男の格好で、しかも制服のままだった。行き交う人々がじろじろと、明らかに未成年の俺を眺めている。けれどそんなことはちっとも気にならなかった。


 きらびやかな夜の街を歩き回る。吸い殻とガムで汚れたアスファルトをスニーカーで踏みつけて、俺はあのネイビーの制服を、清楚なボックスプリーツの人影を、ひたすら探して歩き続けた。


 ずいぶん歩き回った。俺は一ノ瀬とはじめて出会った、そしてふたりで星を見た、あの裏路地に入ってみた。一ノ瀬はいなかった。赤いビールケースがひとつだけ、暗い路地の隅にぽつんと転がっている。


 ビールケースの側に歩み寄って、簡素なプラスチックを見下ろした。日に焼けて少し色褪せた赤色を、こつん、とスニーカーの爪先で転がす。


 昨日、このケースに腰掛けて、一ノ瀬が星を眺めるのを見た。あのときの光景が、あざやかに脳裏によみがえる。

 幻の星に感動する、ただの少年みたいな横顔。紅潮した頬と、興奮で半開きになった素直な口元。すごい、とこぼれおちた、ため息混じりのきらきらした感嘆の声。

 きっとあれが一ノ瀬の、本当の姿なんだと思った。あの瞬間、俺はたしかに、彼の真実に触れたのだ。でも。


『──全部おまえのせいじゃねえか‼』

『…………ごめん』


 開きかけた扉は一方的な俺の暴言で閉じられて、二度と開くことはなかった。断罪を待つ囚人みたいな顔をしていた一ノ瀬。俺の怒声に傷付いたはずなのに、それをすべて受け入れて、ただ糾弾されるのを待っていた。そんな彼を置いて、俺は身勝手にその場を飛び出して、この街から走って、逃げた。


 後悔が、心臓を切々と叩いていく。一ノ瀬にだって、理由も言い分もあったはずだ。もっと話をすればよかった。ちゃんと事情を聞けばよかった。

 彼の過去はどうであれ、今の一ノ瀬は『女の子は人間だ』と、とても正しく知っていた。その上で、女の子に夢を見る男の気持ちもわかっていた。きっと思うところがあったのだ。


 どうして聞いてやらなかったのだろう。一ノ瀬はきっと俺なんかより、ずっときちんと知っていたのに。この街にうずまく、少女にまつわる文脈を。


「……くそっ」

 爪先でビールケースを突き回すのをやめて、身を翻す。彼がいないのなら、こんな裏路地に用はない。ネオンきらめく表通りに戻ると、俺はふたたたび歩き出した。


 すれ違う、夜のにおいがする人たち。欲めいた、浮き足立つような、ひそひそした雑踏。酒の香りをまきちらす彼らを身をよじって避けながら、俺はひたすらあの清楚な人影を探し求めた。


 どうしても、一ノ瀬と話がしたかった。なにを話したいのか、話してなにがしたいのか。そんなこと、ひとつだってわからない。それでも、黙ってじっとしているのは耐えがたかった。だから歩いた。


 そうして、ゲートの手前から順番に、表通りも裏通りも順番に探して、探して、探し回って。ようやく辿り着いた、ラブホ坂の、ふもとに広がる噴水広場。


 一ノ瀬は──果たして、そこにいた。


 軽やかな水音を立てて、照明で淡くライティングされた噴水が、透明な光を放っている。その噴水の縁に腰掛けて、華奢な人影はぼんやりと、なにもない空を見上げていた。


 美しいはずの目元を真っ白なVRゴーグルで隠して、どこか頼りなさげな横顔が、白いおとがいを晒している。その背景に、夜に飛び散る透明なしずくを背負ってなお、彼はやっぱり清楚で、美しかった。


 ゆっくりと歩み寄る。じゃり、という足音で、きっと気付いているはずなのに。一ノ瀬はありもしない星を静かに見上げたまま、ぴくりともしなかった。

 座っている一ノ瀬の、すぐ傍に立つ。さあさあと噴水の音。俺は少し迷って、息を吐いて、小さく吸った。


「なに、見てるんだ」

 問いかけに、一ノ瀬は驚きもしなかった。ただ当たり前のように静かな声で、「木星」とだけ言った。


「秋になると、特別よく光る」

「……そう、なんだ」

「ああ」


 それきり、静寂。水が飛び散るきらきらした音だけがやけにはっきりと耳に響いて、熱を帯びた夏の夜は、不思議なほど静かだった。

 ぽつり、と呼びかける。


「座って、いい」

「好きにしたら」

「わかった」


 一ノ瀬の隣に、静かに腰を下ろした。膝の間で指を組んで、俺は爪先をじっと見下ろす。さあっ、と噴水がひときわ大きく吹き上がった。ライティングが一気に明るくなる。とりどりの光がランダムに明滅して、誰もいない噴水広場をふわりと照らした。


 下を向いたまま、押し黙る。感情が、胸の底でゆっくりと動いていた。うまく言葉にできないそれが、俺のくちびるに静かに言葉を乗せさせる。


「一ノ瀬」

 呼びかけに、彼は答えなかった。ただ黙って、そっとゴーグルを外す。現れた澄んだ瞳は静かで、落ち着いていて、なにか淡々とした覚悟みたいなものが見て取れた。

 俺はそっと彼へ向き直ると、少しだけ眉を寄せて、言った。


「話をしよう。俺はおまえのことが知りたい」




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