──18── 「きもちわるい」

 ゆりと一ノ瀬が知り合ったのは、中学三年生のときだった。受験生だったゆりは個別指導の塾に通うようになり、その担当教師が一ノ瀬だったのだという。


 互いに感情が通い合っていることは、二人ともうすうす感じていた。その上で最初に気持ちを伝えたのは、一ノ瀬のほうだった。


 ゆりは本当に一ノ瀬のことが大好きだった。付き合いは順調だった。憧れの、大好きな、大人の先生と恋人になれて、毎日が幸せで、どきどきして、なにをするにもときめきが止まらなかったとゆりは語った。


 けれど、甘ったるい幸せは、ある日とつぜん終わりを見せたのだという。


 好きで好きで、好きだったから、どうしても我慢できなかったの。ゆりはそう言った。

 なにをしたって楽しくて、どきどきが止まらなくて、心臓が破裂しそうで、もっとこの人の近くに寄りたくて、だから我慢できなくなった、と。


 ある日、ゆりは自分から一ノ瀬を家に上げて、自室に招き入れた。最初は行儀よく床のクッションに座って、お茶を飲みながらおしゃべりなんかしていたものの、ゆりは必死に頭を巡らせて、なんとかそれとなく場所を移動した。


 ようやく並んでベッドに座って、ゆりは控えめに一ノ瀬の袖を引いた。はじめて自分からキスをして、その胸にそっとすがりついて、ささやくように言った。


『うちの親、今日……泊まりだから』


 それはゆりにとって、ぎこちなくも精一杯の、懸命な〝お誘い〟だったのだという。


「そのときの、一ノ瀬先生の顔を、今でも忘れられない」

 ゆりは言う。

「うそだ、みたいに目を見開いて、視線をうろうろさまよわせて、愕然とした表情が私を見た。信じられない、って顔をして、それで、あの人は言った」



 ──君はまだ、そういうんじゃないだろ……?



「その瞬間、こみ上げた強烈な感情を、今もずっと忘れられない。あのとき、私、思ったの」

 押し殺した、震え混じりの、小さな声が言う。


「──きもちわるい、って」


 はく、と口が半開きになった。うまく言葉が出てこなくて、なにも言えなかった。バカみたいに息を詰めている俺をよそに、ゆりは淡々と言葉を続ける。


「そういう、ってなに?」


 疑問だか、確認だかわからない言葉に、答えることができない。ゆりは静かに言う。


「意味がわからなかった。ただ、先生の、きれいで可愛くてけがれのないものを見るみたいな目が、私じゃないなにかを見てるみたいな眼差しが、呆然と私を見つめているのが、すごく──きもちわるくて」


 だから言ったの、とかすれた声。


「ベッドの上で、先生の胸にすがったまま、まっすぐに視線を合わせて。『先生の目、きもちわるい』って」

「ッ……!」


 言葉が、喉につっかえたみたいになって、一つも出てこない。ゆりは不気味なほど冷静に、冷えた声で続きを語る。


「先生はひゅって喉を慣らして、目を見開いて、黙り込んで。それで──それっきり、おしまい」


 元彼なんて、そんないいものじゃなかったけどね。ゆりの言葉が蘇って、俺はひたすら絶句する。くす、と自嘲気味な笑い声が聞こえてきた。


「同じようなこと、何度もあったよ。似たような目で見られて、きもちわるいって思ったこと、いっぱいあった」

 押し殺した笑みが、ふふ、と言う。

「私じゃない、なにか素敵なものを見る目で、みんな言うの。きみはきれいだって、そういうんじゃないって、けがれてなんかないって、たくさんの人が。だから、だから私──」


 だから、ゆりは。

 此倉街に飛び込んで、男の手を撫で回す仕事を続けて、店がどんどん危うい方向に傾いても、いつまでも逃げなくて。そうして白い髪の男に会ったとき、彼女はただ連絡先を交換して、思い詰めたような目で、こう言ったのだ。



 ──ここに連絡すれば、

 〝そういう〟女になれるんですか。



(そういう、ことか──)

 ゆりがどうして自分を売りたがったのか。その発端が、刻まれた傷が、そのすべてが、誰のせいなのか。なにもかもの理由と現実が、じわじわと納得を伴って、俺の中に落ちてくる。


 ゆりの言葉ははっきりしていて、まっすぐだった。さっきまでの、支離滅裂な借り物じみた叫びとは違っていた。だからこそ、今語られた傷口が、ゆりにとってどれだけ深く重い意味を持っているのかが、はっきり、わかった。


(そんなの、って……)

 絶句する俺に、ゆりがふっ、と笑う声がした。それきり、通話は無音になる。ドアの向こうから、少しこもった重低音。出ていったきりの足音が戻ってくる気配は、まだ、なかった。


 沈黙が、いっそ重たいくらいのそれが、細く繋がった電波のあいだに降り落ちる。俺はなにも言えなかった。ただ言葉を失って、バカみたいにずっと、黙っていた。

 そういえば、最初に一ノ瀬に相談したとき。あいつは小野塚という単語に反応した。やけにフルネームを聞きたがった。


 天文部で、星占いが好きな、小野塚という名字の高校二年生。心当たりがあったから、だからあいつは、名前を聞いたんだ。

(あいつ、最初から、小野塚のこと知って──)


 そのとき。ずっと聞こえていた重低音の音楽が、いきなりズン、と大きくなった。

 びくっ、と顔を上げる。カラオケルームのドアが薄く開いて、一ノ瀬が戻ってきたところだった。


(あ──)

 ひゅ、と喉が鳴る。気が付けば、親指が反射的に通話終了の赤いボタンを押していた。たった一本の、たぶん一度きりの通話だったのに、俺はとっさにそうしてしまっていた。一ノ瀬とゆりを、どうしても、同じ時間の中にいさせたくなかったのだ。


 細い手が後ろ手にドアを閉めて、廊下の重低音がすうっ、と遠ざかる。足音とともに、一ノ瀬は俺の隣へと歩み寄った。いぶかしむような眼差しが俺を見つめる。


「あれ? もう通話終わったの」

「……っ……」


 なにを言えばいいのか、わからない。

 今さっき、知ったばかりの情報が、ぐるぐると頭の中をめぐっている。意味をなさない言葉がひたすら湧いては消えて、俺はぐっ、と歯を食いしばった。


 かつて塾講師だったという一ノ瀬。ゆりと付き合っていたという過去のこと。この男はかつて彼女をこっぴどく傷付けて、その心の深いところを残酷に捻じ曲げて、そのせいでゆりは今、こんなことになっている。


「敬斗? どうしたの」

 怪訝そうな一ノ瀬に、返事をすることができない。喉の奥でよくわからない感情が詰まったみたいになって、言いたいことが、ちっとも上手に出てこない。


「まあいい。ちょっと気になることがある。さっきおまえの──」

「…………小野塚と」

「え?」


 一ノ瀬が顔を上げる。その可憐で清楚な顔立ちに向かって、俺は、押し殺した声を振り絞った。


「……小野塚と、付き合ってたの、おまえ」

「──……ッ‼」


 びくっ、と激しく一ノ瀬の身体が跳ねた。美しい顔がかすかに動いて、俺を見る。その表情は完全にこわばって、あ、の形に開いたくちびるが、声を失って固まっていた。


「それ、は──」

「小野塚があんなんなったの、おまえのせいなの」

「っ……」


 一ノ瀬が息を呑む。桜色のくちびるがとてもかすかにわなないて、でも。その口元からは、なんの言葉もこぼれることはなかった。端正な表情が、すうっ、と血の気を失って、青ざめていく。それがすべての答えみたいに思われて、俺はぎっ、と歯を食いしばった。


「なんでだよ」

「……」


 ぎゅうと拳を握って、肩に力が勝手にこもって、どうしても我慢できなくて。俺は振り絞るみたいに叫んだ。


「なんで黙ってたんだよ!」


 一ノ瀬は答えない。ただじっとしている。それが俺の苛立ちを一気にかきむしって、俺は顔を歪めると、気が付けば吐き捨てるように叫んでいた。


「全部おまえのせいじゃねえか! 小野塚が傷付いたのも! 自分を安売りしようとしてんのも! あんな変な感じになっちまったのも! ぜんぶ、おまえの……っ!」

「──……っ」


 一ノ瀬はただ、痛いみたいに表情を歪めて、黙っていた。まるで断罪される死刑囚みたいな顔をして、耐えるように吐息すら凍りつかせて、ただじっと、俺の罵声を、下を向いて聞いていた。

 その従順が余計に俺を苦しくさせて、苛立ちと諦念と悔しさみたいな感情がぐちゃぐちゃに混じり合って、だん、とテーブルを殴りつける。デンモクが大きく揺れる。


「ッ──なんとか言えよ! 言ってくれよ!」

「……っ」

 一ノ瀬はただ黙って、ぎゅうっ、と垂れた手を握りしめると、

「…………全部、おまえの、言う通りだ」

 ごめん、と。

 消え入りそうな声でつぶやいて、それきり、ふっつりと黙ってしまった。


 急にあたりが静かになる。沈み込むような空気の中、二人分の人影はじっとしたまま、ぴくりとも動かない。


 ズン、ズン、と扉越しに重低音が鳴った。安っぽい、ネオンと良く似たライティングのカラオケルームの中、一ノ瀬はただうなだれて立っている。かつてゆりを傷付けて、そのいちばん根っこの部分を、思い切り捻じ曲げてしまった男が。


 こみ上げる、胸を乱した感情の、名前がわからない。ありとあらゆる不快感が入り混じったそれは、強いて言えば苛立ちにいちばん似ていて、心の中で、子供みたいな罵倒が渦を巻いた。


(……っ、くそ、くそ、くそッ──)

 反射的に、ぎっ、と拳を振り上げて、でも。俺の動作になんかとっくに気付いているはずの、一ノ瀬は動かなかった。ただうなだれて、俺の糾弾を待つだけの姿。心臓のあたりがめちゃくちゃになって、ちっとも言葉にできない感情がどうしようもなく俺を苦しくさせて、


「──……ッ、バカ野郎……‼」


 絞り出すみたいに、それだけを叫ぶしかできなかった。


 ガッ、と鞄を引っ掴む。俺は勢いよくドアを開けて、一ノ瀬を室内にひとり取り残して。気が付けば、その場から全力で逃げ出していた。


 階段を駆け下りて、カラオケ店の自動ドアを飛び出して、ネオンきらめく生ぬるい夜の街を走る。息を切らして走って、走って、迷惑そうな大人や、怪訝そうなお姉さんを振り切って、ただ走って。


 そうして、ぎらついたゲートをぽんと抜けた瞬間。ざあっ、と周囲の空気が切り替わるのを感じた。顔を上げる。当たり前の、清潔で健全な、ありふれた夜の街並み。『もとの世界』に戻ったのだ、という体感。


「っ……は、はっ、は、……はあっ……」

 ぜえぜえと肩を上下させ、膝に手を付いて、肩越しに背後を振り返る。その途端、原色の光がぎらりと俺の顔を照らした。


 ピンクとブルーの電飾がぎらぎらとまたたく、巨大なゲート。此倉街の文字。

 見上げるほど大きく立ちはだかる、ふたつの世界を分かつそれが、まるで俺を拒むみたいに感じられる。表情がぐしゃぐしゃに歪んで、どうしようもない激情が、ひたすらに胸を乱していって。


(……くそ……っ!)

 握りしめた手が震えて、食いしばった奥の歯が、ぎりっ、と小さく音を立てた。

 顔を歪めて、呆然とその輝きを見上げる俺をよそに。けばけばしくまたたく電飾の光が、異世界を象徴する境界の門が、のしかかるように闇の中に立っていた。




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