第12話 地下四階層




 一歩足を踏み入れると地面が少し泥濘ぬかるんでいる。地下三階層までの単純な造りの洞窟とは違い、地下四階層は広い空間に浅い沼地が広がっていた。


 歩く度に泥が跳ね、衣類を汚していく。しかし、こんなことで怯んでいては到底、探索者など務まらない。少年と女騎士は躊躇うことなく歩を進めた。


 この地下四階層は沼地に適した魔物が出現する。それ故、パーティーを組むことを推奨されている。最低でも二人、近遠距離の役割を分けた二人が望ましい。


 この二人にはあまり関係のないことだが、ゼルは受付でそれらの情報を仕入れていた。


 すでに気配を感じる。浅い泥濘みにどうやって自生しているのか、背の高い木の上にそれはいた。見た目はただの猿だ。何の変哲もなく、見た目通りに木登りが得意だ。遠距離攻撃を持たない戦士などは苦戦するだろう、受付の女はそう言っていた。


 それは魔猿も同じでは?ゼルも最初そう思った。高い木の上からの猿に攻撃手段なんてないだろう、弓でも引いてくるのか。魔物であればそんな種類もいるかもしれないが、この魔猿は違う。


 少年と女騎士の接近に気づいた一匹の魔猿は地上を睨みつけている。攻撃の間合いに入ったのだろう、魔猿の周りには魔術が行使され、拳ほどの大きさの石が生成された。それを掴み取ると、少年目掛けて投げてきた。


 中々の威力だ。少年が飛び退った跡の泥濘みが軽く弾け飛んで、その所為で泥を被ってしまった。後方を見れば少し離れた位置にセリアがいた。泥を被った様子はない。さては知っていて、予め避けていたな。恨めしそうに一瞥したが、泥を被るぐらい何でもない。


 第二の石礫が飛んできた。どうするか、避けて泥を被るのは別に気にならない。ただ、後でセリアに笑われるか、馬鹿にされそうな気がする。それに避けてばかりでは勝てない。少年は飛んできた石礫を手のひらで受け止め、そのまま掴み取った。


 石は少年から見れば少々大きかった。魔猿の身体も少年に比べて大きくは見えないが、指が長いのだろう、しっかりと石を握っていた。多少の掴み難さは握力で誤魔化した。ゼルは魔猿に狙いを定め、石を投げ返した。


 これに驚いた魔猿だが、自分が投げたよりも更に速い速度での投げ返しに、反応できなかった。石は魔猿に吸い寄せられるように当たり、頭が消し飛んだ。ふぅ、当たって良かった。少年は被った泥を拭いながら、何でもない涼し気な顔をしている。


「君はなんて奴だ。あんな方法で魔猿を攻略したのは初めて見たぞ。その身体能力はスキルの影響だろうが、その発想もスキルの影響なのか?それとも元から君が変わっているのか?」


 気がつけば後ろに立っていたセリアに声をかけられた。


「スキルが思考にまで影響するなんて聞いたことないですよ。そうなると僕が変わった奴になりますが………それにしても、セリアさんも人が悪いですね。泥が跳ねるのを最初から知っていたんでしょ?だから、あんな後方に下がってた」


「人が悪いとは聞き捨てならないな。私は初めての探索の君に配慮して教えなかったのだ。未知の体験も探索の醍醐味だろうからな」


 意外に子供っぽいのかもしれない。見た目で言えば二十歳前後だろうが、意外にもっと若いのかもしれない。さっきのミリタリーアントの件が嫌だったのだろう。基本的に暢気なゼルも、他人の機微に鈍感というわけはない。気づける部分もある。蜜を採取してから明らかに機嫌が悪い。そんなに嫌だったのかな。


「ほら、ボーッとしてないで次が来るぞ」


 女騎士に言われるまでもなく、新たな魔物の接近に気づいていた。泥だらけの地面が微かに揺れて、ボコボコと小さく隆起した。沼に隠れていたのは泡田ガニと言う、蟹の見た目をしたそのままの魔物だ。


 人間の膝ぐらいの全高で他の魔物に比べたらやや小型だ。しかし、通常の蟹に比べれば十分大きく、探索者でなければ大怪我をするだろう。泡田ガニはその大きなハサミでゼルの足を掴んだ。掴んだ獲物は決して離さない泡田ガニのハサミはギリギリとゼルの足を締め付けるが、少年は痛がる素振りを見せなかった。


 ゼルはそのハサミ攻撃を避けることは容易かったが、あまり避ける気がしなかった。掴まれても大丈夫、と漠然とした安心感があった。全然痛くないな、満足したゼルは掴まれている足を軸に、もう片足を振り上げ、泡田ガニを思いっきり蹴り上げた。


 外殻が割れ、ハサミは根本からもげて、無惨な姿の泡田ガニは沼に落ちて、そのまま動かなくなった。掴まれたハサミはまだ少年の足にあるが、主を失ってもう掴む力はなかった。


「君は見た目に反して、残酷な斃し方をするね。いや、魔物に対して手加減はできないが、何と言うか、意外だよ」


「優しく斃すことなんてできませんからね。矛盾してます。それに、向かって来る者に手心を加えることは相手に失礼です」


 言っていて違和感があった。以前からこんなこと思っていたかな、何だか物語の中の騎士道みたいだ。


「それにしてもそのハサミは痛くなかったのか?見ているこっちが痛々しかったぞ」


「いえ、全然です。何となく大丈夫なんじゃないかと思いましたけど、やっぱり大丈夫でした」


「身体能力の向上に加え、身体の頑強さもあるか………これは『拳闘士』の線は薄いな。拳で戦うが、身体が頑丈になるとは聞いたことがない。『拳闘士』は主に拳で攻撃し、足で敵を撹乱、回避する戦い方をする。まあ、君もやろうと思えばそんな戦い方はできるだろうがね」


「そうですね………それにしてもここの魔物はそんなに強くなかったですね」


「それは君が規格外だからだよ。通常は上の魔猿に気を取られている内に足元の泡田ガニに囲まれている状況が往々にしてある。遠距離で素早く魔猿を仕留めて、泥に擬態している泡田ガニに如何にして早く気付けるかが、ここの攻略のカギになる。ここ地下四階層は力以外の能力が試される場所だ。君には意味なかったがね」


「そういえば、ギルルヤさんもそんなこと言ってました。魔物単体ばかり考えていてそれに関しては全然意識してなかったです。あっ!このハサミ食べます?」


 力を失ったハサミを取り上げ、セリアに向けた。泡田ガニは通常のカニ同様、食べられる。身体が通常より大きいから、食べられる身も多い。沼地で生息していて泥塗れのはずだが、不思議と身に臭みはない。わざわざ地上に持ち出して市場で売れるほどの価値はないが、探索者の臨時の食料として調理されることがある。


「うむ、頂こう。次は五階層だ。その前に少し腹ごしらえしておいた方が良いだろう」


 あっ、甲殻類は大丈夫なんだ。蟻も蟹も似たようなもんだと思うけどな。少年は少し納得いかなかった。単純に個人の好みの問題であるから、他人がどうこう言うものでもないが、単純に食い意地を張っているようにも見える。探索者として道中のエネルギー補給は大事だが、何となく納得がいかない。


 そういえば、最初に行った茶屋でも紅茶にこだわっていたし、良家の出身なのかもしれない。家の影響で食へのこだわりが強い。そう考えればこれ以上気にならなかった。人の趣味趣向にいちいち口を挟む気もなかった。


 しかし、火をおこし、ハサミの外殻から身を取り出すさまは、とても良家の令嬢には見えなかった。

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