第22話

 数日前から降り始めた冷たい秋雨はいつまでも止まなかった。

貴宏は午後の治療時間が終わったあと、更衣室でスーツに着替えると人目につかぬようそっと裏口から病院を出た。

 通りでタクシーを捕まえると、駅から少し離れた住所を伝えた。ああ、はいはい、と運転手は相槌を打って、一瞬バックミラーで貴宏の顔を窺ったが、特に何も言わなかった。

 タクシーは通りに面したコンクリート造りのビルの前で止まった。正面入り口の上に、参議院議員、円谷美(つぶらやよしみ)事務所、という大きな看板が見えた。ドアのガラスやドア横の壁に本人の顔が映ったポスターが所狭しと貼られていた。貴宏は、釣りは要らない、と言って傘を広げながら通りに降り立った。

 数日前に電話を入れて秘書に事情を伝えると、先生は御多忙ですから、一五分程度でしたら、という条件で日時を指定された。普段は東京に滞在しているらしいが、この日は地元後援会の会合で一日だけ帰郷するとのことだった。正直、邪険に断られることも覚悟していたので、会ってもらえると聞いて貴宏はほっと安堵した。

 約束の時間ちょうどに正面入り口のドアを押して中へ入った。五坪ほどのオフィス内はさっぱりと清潔な印象を与えた。右手の窓辺に背の高い観葉植物が青々と葉を広げていた。向かって左手に木製の大きな事務デスクがあり、黒いツーピースのスーツを着た女性が座っていた。三〇前後だろうか。電話で話した秘書に違いなかった。

女性は立ち上がると、お待ちしておりました、と言って深々と御辞儀をした。予想以上に丁重な出迎えに貴宏はいくらか戸惑いながら、

「聖マリア病院の佐藤です。今日は貴重なお時間を頂戴して大変感謝しております」

 と、柄にない丁寧な返答をした。

「こちらです」

 秘書は事務デスクを回ってオフィスの中央に進み出ると、正面奥の黒い木目調のドアをノックした。

「どうぞ」

 いくらか嗄れた低い声が中から聞こえた。秘書は金色のドアノブに手を掛けて貴宏を中へ通すと、会釈をしてからドアを閉めた。

 十畳ほどの室内は、正面奥に据え付けの大きな書籍棚が聳え、腰の高さほどの木製のキャビネが書籍棚から向かって右手の壁にまでL字を描いて伸び、額縁に収められた写真や賞状がその上に立てられていた。部屋の中央には明るい色調のペルシア絨毯が床全体を覆うように敷かれ、その上にマホガニー材を遇ったロココ調の長方形のコーヒーテーブルが置かれていて、一人掛けのソファが周りに四つ並んでいた。キャビネの上の壁には何枚かの大きな額縁が飾られており、そのうちの一枚が貴宏の目を引いた。横長の長方形の額縁に、大きな筆書きの書体で「敬天愛人」とあった。

 円谷美は、書籍棚手前に設置されたアンティーク調の重厚な両袖机の奥に座っていた。量の多い真っ白な髪がいかにも高級そうな濃紺の背広によく映えていた。チェーンのついたフレームの細い金縁の眼鏡を掛け、何かの書類に目を落として万年筆を走らせている姿は、政治家というよりもどこかの大学教授といった風貌だった。

「失礼しました」円谷は顔をあげた。「ちょっと急ぎの仕事だったものですから。さあ、どうぞお掛けください」

 円谷は腰をあげて部屋の中央に歩み出るとソファを勧める仕草をして、貴宏に腰掛けるよう促した。中肉中背の引き締まった体格には、どことなく政治の世界とは無縁の上品さが漂っていた。

 貴宏は、失礼します、と小声で呟くと、円谷の正面のソファに腰を下ろした。

「さて早速で恐縮ですが、今日はどういった御用件でしょうか?」

 一時間程度で病院に戻らねばならない貴宏にとっては、余計な前置きも世間話もなしに本題に入れるのはむしろ有り難いことだった。貴宏は単刀直入に切り出した。

「今日は、奇跡のピアノのことでお伺いしました」

「奇跡のピアノ?」

「はい。震災で津波に流されたピアノです。菅野ピアノ工房で修復作業が進んでおりました」

「ああ、はいはい」円谷は大きく相槌を打った。「たしか市の倉庫に何年も保管されていたピアノですな」

「左様です。ようやく修復が済んだと聞いております。それで、近々市民ホールでお披露目コンサートが開かれるとか」

「ほう、そうですか。それは知りませんでした。なるほど、それはよいお話ですな。私どもも復興のために賢明に努力しておるのですがね。かれこれ一五年になりますからな。中央のほうではもう復興は終わったという、そんな空気が漂っておりましてな。なかなか地元の現状は向こうへは伝わらんのですよ」

「ええ」貴宏はひとまず相槌を打った。

 ドアにノックの音がして、茶碗を乗せた盆を手にして秘書が入ってきた。彼女はコーヒーテーブルの上に茶托に乗った湯飲み茶碗を二つ並べると一礼をして出ていった。

 円谷は茶碗を手に取ると茶を啜り、それから言った。

「それで、そのピアノのことで私どもに何かお力になれることでもございますかな?」

「はい」貴宏は覚悟を決めて切り出した。「市民ホールでのコンサートですが、主催されているのはRainbow Music Clubの竜石堂先生と聞いております」

「ああ、それは礼ちゃんですな。いや、失敬。それは竜石堂さんのところの礼子さんというお嬢さんのことです。うちはあの御家庭とは古くから付き合いがありまして」

「そのことは存じ上げております」

「ほう、そうですか」

「それで、ここからが本題なのですが、奇跡のピアノのお披露目リサイタルはうちの病院のチャペルで開くという話も出ていたのです。ピアノの修復に携わった工房の菅野さんともそういうお話をしておりました。ところがいつの間にか、何の相談もなく市民ホールで開かれることになってしまいまして」

「なるほど」円谷は話の意図が飲み込めたらしく貴宏を見据えた。

「それで、何とか病院のチャペルで開けるようお力添え頂けないでしょうか?」

 円谷は腕組みをして無言のまま貴宏を見詰めた。それから言った。

「病院で開く話が出ていたと仰いましたが、それは何か正式な取り決めのようなものはあったのですかな?例えば、双方で一筆認めたとか、そういったものです」

「いえ、そういったものは特に何もなかったと記憶しております」と貴宏は円谷の眸をまっすぐ覗き込むように言った。

「失礼ですが、そうすると単なる口約束だったことになりますな」

「世間的に見れば、そういうことになるかと思います」

「あいにく、政治の世界には世間以外の世界は存在せんのです。世間がすべてなのですな、政治というやつは」

「ええ。それは承知しているつもりです」

「それで、つかぬ事をお訊きしますが、市民ホールでのコンサートにいったいどんな不都合があるのですかね?」

「はい。実は、うちの小児科の子供たちにも是非お披露目リサイタルに参加させてやりたいのです。子供たちにそういった目標を持たせてやることは治療の観点からもとても意味のあるものになりますので」

「なるほど。お察しするに、竜石堂主催の市民ホールでのコンサートには、お宅の病院の子供たちは参加させてもらえないということですかね?」

「仰るとおりです」

「その理由はご存じですか?」

「礼子先生の御方針のためかと思います」

「方針というのはどういった?」

「子供たちの演奏は人に聴かせるようなレベルにはないということのようです」

「なるほど。まあ、それは実にあの娘らしいことですな。幼い頃から真面目で一途な子だったですからね、礼ちゃんは」

「もしチャペルでリサイタルが開けることになれば、小児科の子供たちだけでなく、ユーカリ学園の子供たちにも参加してもらうつもりです。もっともこれは健翔君の発案なのですが」

「健翔?」円谷は顔をあげて目を丸くした。「うちの健翔ですかな、それは?」

「はい」

「あの子がボランティアをしている施設の障害児たちですな」

「ええ」

「そうですか。いや、ここのところ健翔とはまともに顔すら合わせておりませんでしたから、そんなことになっているとは存じませんでした。なるほど、そうですか。だいたいの御用件は呑み込めました。ただ——」

「はい」

「簡単ではありませんな。もう正式に市民ホールでやると決まっておるのでしょう?それをひっくり返すのは簡単なことじゃない」

「正式かどうかはわかりません。いま決まりかけているところと聞いております」

「そうだとしてもね、これは私の憶測に過ぎませんが、きっと竜石堂さんも一枚噛んでいるんでしょう。竜石堂さんというのは、つまりその、礼子さんのお父さんのほうです。市会議員の竜石堂礼治さんです。あの人とは長い付き合いですがね、私が頭を下げたからといってどうにかなるとも思えんですな。娘のこととなると、あの人も簡単には引き下がらんでしょうしな。私としても市行政のことに下手に口だしをするとあとあと色々面倒なことにもなりますからね。あいにくですが、なかなか難しいように見えますな」

 貴宏は椅子から腰をあげると、ペルシア絨毯の上に両膝をついた。

「なんとか、お力を頂戴できないものでしょうか」

 貴宏はゆっくりと体を前方に折り曲げ、絨毯の上に揃えた両手の甲に額を押しつけ、そのままじっと静止した。部屋の空気がしんと張り詰めた。

「どうか、顔をお上げください」と円谷は言った。「先生のお気持ちはよくわかりました。そこまで仰られるのであれば、私のほうにも全く考えがないわけではありません」

 貴宏は顔をあげて円谷を仰ぎ見た。

「実はですな、先生」と円谷は続けた。「次の選挙に向けて色々と準備を進めておりましてな。詳しいことはお話できんのですが、つい先日、東京のある有力な病院の医院長から腕のいい外科医がいたら紹介してくれんかと言われましてな。都心のほうで色々と伝を頼って探しておったのですが、これといって適任者も見つからんままでおりました」

 円谷はそこで一息つくと冷めた茶を啜った。ずうっという音が室内に木霊した。

「失礼ながら、先日お電話を頂いた際に秘書にあなたのことを調べさせてもらいました。非常に優秀で、評判もよろしいですな。経歴的にも文句のつけようがない」

 貴宏の両の眸に驚きの色が浮かんだ。

「さあ、いつまでもそんなところに跪いておらんで」

 円谷はソファに戻るよう促しながら言った。貴宏は小さく頷くと腰をあげてソファに座り直した。

「先生、どうでしょう?東京に行ってみる気はありませんかね?私もあなたなら自信を持って推薦できる。外科医としての腕前だけではありませんよ。人間としての腕前も、すこぶる立派ですな。たったいま目の前でそれを見させてもらいましたから間違いないでしょう」

 貴宏は思わぬ展開に呆気にとられたまま円谷を見詰めた。この町を離れて東京に行くという考えには一欠片の現実味も感じられなかった。

 しばしの沈黙のあと貴宏は言った。

「つまり、それと引き換えにお披露目リサイタルをチャペルで開けるようにしていただけるということですね?」

 貴宏の言葉に円谷は声を上げて笑った。

「先生、政治家というやつには引き換えなどという質の悪い言葉は存在せんのですわ。私どもはただ、あちこちの方々のお力添えをするだけなのです。そうやっているうちに、時にはある人のためにしたことが他の人の利益になる場合もある。ただそれは、偶々そうなったというだけの話です。東京の病院の話は、知り合いの医院長のために偶々させてもらったということです。それはそれとして、先生からのお話はしかとお聞きしましたよ。それはそれで、私どもにできる限りのことはさせて頂く用意はあります。おわかりですな?」

 貴宏は政治家のレトリックに感心しながら頭を下げた。

「わかりました。では、よろしくお願いいたします」

「東京はパンデミックがかなり逼迫しておりますから、先方のほうも一日でも早く来てもらいたがっておるようです。正式に決まり次第ご連絡しますから、いつでも行ける準備だけはしておいて頂けますかな?お宅の病院の医院長とも面識はありますから、そちらのほうの心配は要らんと思いますよ」

 事務所から通りに出ると、来たときよりも雨脚が増していた。

 傘を手にタクシーを待つ貴宏の頭に沙希の顔が浮かび、それから健翔の笑顔が続いた。

 あの二人のためにもオレはここにはいないほうがいい——。ぼんやりとそんな考えが浮かんだ。

 そして何より、これで大樹の生き甲斐を叶えてやることができる——。そう思うと、貴宏は早く病院に戻って無性にあの小さな天才児の顔を見たくなった。


 二週間降り続いた秋の長雨がようやく途絶えると、早朝の陽光にはひんやりとした冬の煌めきが感じられた。

 貴宏は病院の正面ドアを通過して、外科病棟のオフィスへ上がろうとエレベーターの前に立っていた。すると、後から大きな声が聞こえてきた。

「ツンツル」

 振り返ると、いきなり沙希が胸元に飛び込んで来た。脇の下に両腕を回し込まれ、力一杯抱きしめられた。周囲が気になって思わず正面ラウンジを見まわすと、受付の職員や薬局の薬剤師、清掃の男性が手を止めてこちらを眺めていた。新たに出勤してきた医師や看護師たちも、何事かと横目に視線を浴びせながら通り過ぎていく。

「朝っぱらからいきなり何なんだ?ちょっと、離れろよ」

 貴宏は苦笑しながら言った。沙希の髪からシャンプーの香りが匂い立った。本当はもう少しこのまま抱き合っていたい気持ちがないわけではなかった。

「もう知ってるんだよね?どうしてそんな奇跡みたいなことが起こったんだろう?」

「ちょっと待ってくれ。オレは何も知らないよ。いったい何があったんだ?」

 心当たりはもちろんあった。ただ今のところはっきりとした連絡はなかった。貴宏は念のため慎重になった。

「さっき健翔君から連絡があったんだ。お披露目リサイタル、チャペルで開けることになったって。菅野さんのところに昨晩遅くに市から連絡があったんだって。詳しい事情はわからないけど、市は復興の象徴という意味ではうちのチャペルで子供たちと一緒に演奏会を開いたほうがいいって判断したみたいなの。信じられないけど、これで皆演奏会に参加できるんだよ」

 円谷美がいったいどのようなルートを使って力添えをしてくれたのかはわからなかった。だが間違いなくそのせいとしか考えられなかった。だいたい市の役人が勤務時間外に電話連絡をしてくるなど世間的に見て怪しすぎるではないか。恐らく円谷は息子の健翔にすらそのことを打ち明けてはいないのだろう。

 いずれにしても、これで本当に自分の東京行きも断れなくなったわけだ。貴宏は咄嗟にそんなふうに考えた。

 この数日間、何度も頭の中でリハーサルを繰り返している言葉があった。次に沙希に会ったときに絶対に言おう言おうと思いつつ、いざ本人を前にすると途端に喉元につかえたまま一向に声にならない言葉だった。今日もまた言えずに終わりそうだった。こんなときに言えるはずもない。

「どうしたの、ツンツル?嬉しくないの?具合でも悪い?」

「いや、あまりの驚きで言葉を失っちまった」

「だよね?本当にどうして突然そんなことになったんだろう?ツンツルが何か裏で手を回したんだと思ったけど…そうじゃないのね?」

「いや、オレは何もしてないよ。いったいどうなってんだろう?世の中まったくよくわからない」

 果たしてそんなにあからさまな嘘をついてまで隠すべきことなのかどうか、自分にもよくわからなかった。ただ何となく、言うべきではないという漠然とした直感に突き動かされていた。

「とにかく、早く大樹に知らせよう」

 二人はそのまま西病棟へ移動するとエレベーターに乗って小児科の病室を目指した。

 静かにノックして部屋に入ると、大樹はまだ眠っていた。ブラインドから差し込む陽の光がすっかり頬のこけた小さな顔の上に落ちている。

 沙希が枕元の椅子に腰を下ろして大樹の肩をそっと揺すった。大樹の眸が静かに開いた。室内に視線を移ろわせたあと、大樹は小さな声で言った。

「どうしたの?こんな朝から、二人揃って…」

「大樹君」と沙希は言った。「お披露目リサイタルを病院のチャペルで開けることになったんだ」

「ほんと?」

「うん。本当だよ」

「すごい」

「うん」

「いつ頃になりそう?」と大樹は言った。

「リサイタルのこと?」と沙希は尋ねた。

「うん」

「えっと…」

 沙希はそう言って貴宏のほうへ振り返った。

「できるだけ早く開けるように頑張るよ。な?そのほうがいいだろう?」

 大樹は無言のまま頷いた。

「クリスマスは?」と沙希が叫び声をあげた。

「え?」

「クリスマス・イブにリサイタルを開けないかな?小児科のクリスマス・パーティーと合わせて、今年はチャペルで一緒に開けないかな?」

「うーん、どうかな。いろいろ調整が大変そうだな」

「大樹君、どう思う?」

「いい考えだと思う。さすが沙希さんだね」

「でしょ」

 沙希はそう言って一人で舞い上がっている。

 どうかクリスマスまで持ってくれ、と貴宏は心の中で祈りの言葉を呟いた。

 大樹ははしゃぎ回る沙希の様子を笑みを浮かべて静かに眺めていた。

 貴宏はふと思った。コイツもきっと心の中で同じことを願っているんじゃないだろうか——と。


 市内のあちこちでH5N1ウィルスのクラスターが発生していた。聖マリア病院も緊急体制でどうにか持ちこたえているような状態だった。

 そんななか、貴宏は仕事の隙を見ては部屋の整理を続けていた。

 円谷美からは数日前に連絡があり、いつでも行けるように準備だけはしておいてほしいと頼まれた。夜勤明けの今日はおおよそ一月ぶりの休日で、午後まで睡眠を取ったあと、取り寄せていた段ボールに小物などをぽつぽつと詰め込んでいるところだった。

 奇跡のピアノのお披露目リサイタルは、沙希の提案通り小児科のクリスマス・パーティーと合同でクリスマス・イブの午後に開けることになった。あちこち奔走しては頭を下げて頼み込み、何とか漕ぎつけたアレンジメントだった。ただし院長をはじめ、誰もが本当にリサイタルを開けるとは思っていなかった。パンデミックが落ち着いて院内の勤務態勢が通常の状態に戻るというのが開催の条件だった。

 正直言って貴宏自身、望みは薄いのかもしれないと内心では思っていた。昨晩、沙希に伝えると、彼女は生まれたばかりの子鹿のように飛び跳ねて見せた。

「ありがとう、ツンツル。本当に何もかもツンツルのおかげだ」

「喜ぶのはまだ早いぜ、沙希ちゃん。あくまでパンデミックが落ち着いたらっていう条件付きだからな」

「そっか——。今のままだと、たぶん…」

 晴天の空が突然現れた分厚い雲に覆われ、真っ黒な土砂降りの雨が落ちてきたような沙希の面持ちが胸を突いた。ふと、一五年前、天翔のことを待ちわびて屋上で呆然と立ち尽くす沙希の後ろ姿が脳裏を過った。

「そんな顔するなって」考えるより先に言葉が漏れた。「クリスマスまでには絶対に収まるよ」

 沙希は口を開けたままこちらを見上げた。

「こんなパンデミックの一つや二つ、絶対に収まる」

「出た」と沙希は嬉しそうに言った。「ツンツルのいつものやつ、久しぶりに出たね」

「は?」

「なんだかここのところ柄になく物思いに耽ってるみたいで、どうしたんだろうって思ってたけど、久しぶりにツンツルらしいのが出た」

 そんなにマジマジと互いの顔を眺め合うのは久しぶりだった。沙希の眸が妙に生き生きと光っていた。

「冗談抜きで、パンデミックはきっと収まるよ。ただ、オレはもうあんまり手伝えないかもしれないから、あとのことは沙希ちゃんに任せないとならないぜ。大丈夫か?」

「大丈夫。任せておいて」

「だいたいのことはもうあちこちに頼んであるから大丈夫だと思うけどな」

「変なの」

「なにが?」

「なんだか、ツンツルどっか行っちゃうみたいな言い方するなあって」

「どっかってどこだよ?」

「知らないよ。なんとなくそんなふうに聞こえただけ」

「こんなに病院が大変なときにどうしてオレがどっかに行っちまうんだよ?」

「どうしてそんなに向きになるの?やっぱりツンツル、最近ちょっと変だよ」

そのまま勢いで言ってしまうべきだったのかもしれない。だが昨晩も言えなかった。ここのところずっと頭の中でリハーサルを繰り返し、洗面所で鏡を覗き込むたびに声に出して練習までしているというのに、いざ彼女を前にすると胸元に言葉がつっかえたまま一向に声にならなかった。

 理由は自分でもよくわかっていた。怖いのだ。打ち明けたはいいが、大した反応もなく軽く流されてしまうのが途轍もなく怖かった。

 小学校の図書室で初めて言葉を交わし看護師を目指しているのを知ってから、いつの日か彼女と同じ職場で働くのをずっと夢見てここまでやって来たのだった。震災後、文字通り天涯孤独の身の上になって県外の児童施設に引き取られたときも、その夢があったからこそ頑張れたのだった。中学、高校では周囲からいつも腫れ物に触るように、いや、より正確に言えば、汚物を避けるように扱われ続けた。そのたびに歯を食いしばり医者になる夢のために一人図書室に籠もって勉強し続けた。

 そうやって歯を食いしばれたのは彼女のおかげだった。辛いときにはいつも、帰りの会で自分をかばってくれたときの沙希の姿を思い出した。本町第二小の屋上で、偶然の義理チョコに過ぎなかったにせよ、手作りのチョコレートをくれたときの彼女の笑顔を思い出した。震災の直後、母と弟を津波で失い、途方に暮れて瓦礫の片付けを手伝っていたとき、偶然目の前で立ち往生する軽トラックのフロントガラスの向こうに見えた焦燥と悲嘆に暮れた彼女の顔を思い出した。

 そしていつの日か、また彼女が微笑むところを目にしたいと思った。いや、この自分が彼女に笑顔を取り戻させてやりたいと思った。そのことだけを心の励みにしてここまでやって来た。そして、数ヵ月前、病院の廊下で偶然彼女とぶつかったとき、本当にその夢が実現したのだった。

 信じられなかった。嬉しさで身体がバラバラになりそうだった。そしてその嬉しさはいまでも少しもすり減ってはいなかった。このままずっと彼女のそばにいたかった。東京になど絶対に行きたくはなかった。彼女のそばを一メートルだって離れたくなどなかった。

 しかし、大樹と彼女のデュオをどうしても聞きたいという気持ちも同じくらい強かった。そしてそのためには円谷と取引する以外に方法は考えられなかった。

 そして——健翔とのこともあった。二人が互いを求めているのなら幸せになってほしいと心から願っていた。詭弁でも偽善でもなく、本心からそう願っている自分がいた。誓ってもよかった。

 しかし一方で——矛盾しているのは自分でもよく承知していた——自分が勇気を出して打ち明けさえすれば、もしかしたら沙希は一緒に東京に行きたいと言い出すのではないか。もちろん今すぐには無理だとしても後から行くと言ってくれるのではないか。いや、百歩譲って東京に移り住むのは無理だとしても、この東北の地で、生まれ故郷のこの町で、自分が帰ってくるのを待っていると、そう言ってくれるのではないか。そんな一縷の望みに縋っている自分がいるのも否定できなかった。

 いや、やはりそんなことがある筈がなかった。

 沙希も健翔も互いのことを強く思っているのは、この間のチャペルでの二人を見ていれば明白だったではないか。打ち明けたところできっと笑い飛ばされるのが関の山だった。だがもしかしたら——。

 ふいに、キッチンの壁に設置されたインターフォンが鳴り響いた。

 頭の中の堂々巡りをいつまでも断ち切れない自分に嫌気が差していたところだったので、ちょうどよかった。きっと引っ越し屋が追加の段ボールを持ってきたのだろう。

 貴宏は梱包の手を止めて立ち上がるとキッチンへ行って、インターフォンの液晶画面を覗き込んだ。そして思わず目を疑った。

 間違いない、礼子だった。

 相変わらず薄化粧の小さな顔が液晶画面の真ん中でまるで日本人形のように微動だにせずこちらをじっと見詰めていた。小さくて見えないはずなのに、どういうわけか両の眸に怒りの色が浮かんでいるのがはっきりと見えた。

 居留守を使うか、一瞬迷った。だがここで逃げたところで、明日にでも病院に押し掛けて来られれば一層厄介なことになる。とはいえ、あまりの形相に怖じ気づかずにはいられなかった。

 そして、一五年前の帰りの会のことがまた脳裏に蘇った。

 一五年前のあの時も自分は礼子のあの目が怖かったのだと、今頃になって気がついた気がした。

 あの日の数日前に母がどこかのゴミ箱に入っていたのを見つけてきて自分にくれた四色ペン——。帰りの会で礼子がその話を始めたとき、母が拾ってきたのは彼女のペンだったのだとすぐに気がついた。しかし自分のほうをちらりと一瞥した礼子と目が合ったとき、自分の勇気は蹴散らされてしまったのだった。

 あのときと同じ目が、いままた自分を見詰めていた。再びいま自分のことを責めていた。そして自分もまたその視線に怯えているのだ。思うに、いまだにこうして一五年前のことを思い出すのは、心の何処かで彼女のことをまだ恨んでいるからではないだろうか。彼女のことをまだ赦せていないから、だから彼女に見詰められるのが怖いのではないだろうか。奇妙な論理であることはわかっているが、そんな気がしてならなかった。

 インターフォンが再び鳴った。

 貴宏は覚悟を決めて指先で「話す」というボタンを押した。

「はい、佐藤です」

 液晶画面の礼子の表情には一切何の変化も表れなかった。初めからこちらが在宅であることを確信し切っていたかのように、淀みない口調で彼女は言った。

「お休みのところ御自宅にまで押し掛けてしまい、大変申し訳ありません。竜石堂礼子です。御住所は病院の知り合いを通じて調べさせて頂きました。本当に不躾な振る舞いをどうかお許しください。今日はどうしてもお話したいことがあって参りました。ほんの数分でも構いません。御時間を頂戴できないでしょうか」

「わかりました。大変散らかっておりますが、拙宅でよろしければお上がりください」

 貴宏はエントランス・ドアを開けるボタンを押した。液晶画面の中で礼子が深々と頭を下げるのが見える。後方のドアが音を立てて開くと礼子はその奥へと姿を消した。

 貴宏は咄嗟にリビングに駆け込むとソファ周辺に散乱した様々な物を拾い集め、寝室の中へ放り込んで扉を閉めた。まだリビングのあちこちに梱包途中の段ボールが散乱しているがもうそれらは諦めるしかない。いずれにしても、おそらく礼子は自分が近々東京に移ることもきっとおさえているに違いない。この期に及んでジタバタしても始まらない。腹をくくるしかなかった。

 エレベーターに乗って礼子が八階まで上がってくるところを想像した。エレベーターから降り立ち、左手の廊下を進んで角部屋の前に立った。手を伸ばし玄関のベルを押す。

 チャイムが鳴った。貴宏はリビングから玄関口へ出ると恐る恐るドアを開けた。

 礼子はドアが開くのに合わせて御辞儀をした。

 それからゆっくり顔をあげた。ベージュ色のトレンチコートの裾が雨で濡れているのがわかった。手に持っていた花柄の傘の先から滴が廊下にしたたり落ちている。久しぶりに再び降り出した雨はいつの間にか大降りになっていたようだ。

「お休みのところ、本当に申し訳ございません」

 言葉の意味とは裏腹に、貴宏はその口調に自分への非難がびっしりと込められているのを感じた。

「いえ。どうぞ。本当に散らかっていますよ。あいにくスリッパもない始末で」

「どうぞお気になさらずに」

 礼子はそう言って紺色のパンプスを脱ぐと上がり框に膝を曲げて反対向きに靴を揃えた。貴宏は、こちらへ、と言って礼子をリビングへ案内した。

 案の上、部屋中に散乱した梱包途中の段ボールを目にした礼子は何の反応も示さなかった。貴宏がソファに向かって仕草をすると、彼女は小さく頭を下げて腰を下ろし手に持っていた紙袋から菓子折りを取り出すと、つまらないものですが、と呟いてコーヒーテーブルの上に置いた。

「せめて御茶くらい煎れましょう。コートをお預かりしましょうか?」

「いいえこのままで。本当にお構いなく。すぐに参りますので」

 貴宏は薬缶を火にかけるとキッチンのカウンター越しに礼子の様子を窺った。彼女はぴんと背筋を伸ばした姿勢で脚を揃えてソファに浅く腰掛け、膝の上に両手を揃えたまま俯き加減にじっとどこかを見詰めていた。

 湯が沸くとティーバッグを入れた湯飲み茶碗に湯を注ぎ込み、盆に載せてリビングへ運んだ。こんな御茶しかありませんで、と言ってテーブルの上に茶碗を二つ並べ、それから礼子の向かい側のソファに腰をおろした。  

 礼子が顔をあげた。再びあの視線が飛んでくる。一瞬の間を置いて、地底に滞留していたマグマが爆発するかのように彼女は言った。

「ずいぶん汚い手をお使いになるのですね?」

「汚い、ですか?」

「ええ、本当に汚い手ですわ。おかげで大変な思いをして押さえていた市民ホールの日程をキャンセルしたり、教室の保護者の皆さまに長い謝罪のお手紙を認めたり、リサイタルを楽しみにして必死に練習を重ねていた子供たちを慰めたり——。いいえ、そんなことは大したことではありません。それよりも、とにかくあのピアノをあんなチェペルでお披露目するなんて…。私にはどうしてもそれが我慢できません」

 いまさら白を切るのも時間の無駄だった。貴宏は礼子の視線から目を逸らしながら、勇気を振り絞るように言った。

「それなら言わせて頂きますが、最初に汚い手を使ったのは貴方のほうではありませんか?貴方のほうこそ最初に父親の力を利用したのではありませんか?あの時と同じで、貴方のほうこそいつも汚い手を使うのではないかですか?」

 礼子の瞳孔が驚きのあまり渦巻いているが見えた。

「あのとき?いま、あのときって仰った?」

 恐ろしさのあまり目が泳いでいるのが自分でもわかった。

 それは、このあいだ沙希から本町第二小の階段の話を聞いて以来ずっと気になっていることではあった。だが、いまここでそんな話をするつもりなど全くなかった。ほとんど無意識のうちに口を突いて出た言葉に一番驚いたのは自分自身だった。

「一五年も前のことをまだ根に持っていらっしゃるのですか?」礼子はオクターブ高い口調で続けた。「私は何も汚い手など使いませんでした。私のペンを誰が盗ったのかなんて何も考えずにただ単純に持ち物検査をするように先生にお願いしただけです。貴方が犯人だったのは単なる偶然の結果に過ぎませんでした。それをいまだに根に持っているのはとんだお門違いです」

「そのことではありませんよ」

 貴宏は腹を括って踏み込んだ。

「は?」

「僕が言っているあのときというのは、帰りの会のことではありませんよ」

 礼子の表情が曇るのがわかった。

「あのときというのは、震災の晩のことです」

 この一五年間ただの一度も口にしたことのない事実が、沙希にすら伝えることを躊躇い続けてきた事実が、溶け出した雪水のように自分の中から流れ出ていった。もう止められなかった。

「あの晩遅く、貴方は避難所になっていた本町中を訪れましたね?」

 突如背後から鈍器で背中を叩かれた人のように礼子は上半身を震わせた。瞳孔が大きく見開いたまま凝固し、恐怖の色がくっきりと浮かんだ。

「僕も家と家族を流されて、あの晩、あの校舎に避難していました。たしか二階の教室の隅に蹲っていたと思います。すると貴方が目の前の廊下を通り過ぎたんです」

膝の上に揃えられたままの礼子の手がぶるぶると震えている。

「あの中学校の校舎には沙希ちゃん一家も避難していました。貴方はあのとき彼女に会いに来たのではなかったのですか?」

 礼子の視線はコーヒーテーブルの湯飲み茶碗の中にまっすぐに向けられたまま動かない。

「彼女は地震のあとケータイをなくしました。でもその代わりに行方不明だった円谷君のタクトがいつの間にか戻って来たのです。証拠は何もありません。ですが、何か貴方に思い当たることはないのですか?」

 礼子はじっとどこかを見詰めたまま、声を震わせながら言った。

「仰る通り、タクトを大須賀さんの鞄の中に入れたのは私です。あの日、卒業式の予行練習の最中にクラスメートの明美という子が彼女の鞄から抜き取って私のところに持って来たんです。私は驚いて明美に戻してくるように言いました。そんなことをしたら私が盗んだように思われてしまうからって。でももうタイミングを逃してしまってこっそり返すのは無理でした。明美は私を喜ばせようと思ってタクトを盗ったんです。私は泣きじゃくる明美からタクトを受け取って、もういいよ、私が事情を説明して直接天翔に返しておくから大丈夫だよ、と言って彼女と別れました。それで、放課後にタクトを返そうと思って天翔を教室に呼び出したとき、ちょうど地震が来たんです。そのあとはもう滅茶苦茶になって、結局タクトも返すことができなかった…」

「それで、夜になってわざわざ避難所までタクトを届けに行ったのですか?」

「ええ」

「何故わざわざそんなことをしたのですかね?」

「わかりません」と礼子は言った。「いま言った通り、たぶんタクトを持っていたら自分が盗ったと疑われるのが怖かったんじゃないかしら。いろんなことで気が動転していましたし、よく覚えていません」

「沙希ちゃんのケータイについて、何かお心当たりはありませんか?」

 その問いかけに礼子は微かに息を詰まらせて何度か瞬きをした。魂を抜かれたような西洋人形のように体を強ばらせた。

 しばしの沈黙のあと、礼子はようやく囁くように声を絞り出した。

「特に何もありません」

「本当に?」と貴宏は言った。

「ええ、本当です」

 会話が途絶えた。突然のように部屋のあらゆる空間を静寂が埋め尽くした。土砂降りの雨の音がどこからともなく鳴り響いた。

 ふいに礼子が腰をあげた。

「御時間を取らせてしまって本当に申し訳ありませんでした」

 彼女はそう呟いて再び頭を下げた。

「よろしいのですか?」

 礼子は顔をあげてまっすぐにこちらを見た。

「病院のチャペルでやらせて頂くということで、よろしいのですね?」

 礼子は突然聴覚を失った人のようにじっと貴宏の口元を見詰めたまま、何の反応も示さなかった。

 玄関口でパンプスを履くと、彼女は再び深々と頭を下げた。

「エントランスまでお送りします」

 貴宏はそう言ってサンダルを突っかけて廊下へ出た。無言のままエレベーターを待つ二人の間を夕暮れの冷たい風が通り抜けた。雪にならないのが不思議なくらい空気は冷え込んでいた。

 エレベーターがやって来た。貴宏は先に礼子を乗せると、ドア口に立って一階のボタンを押した。エレベーターが降りはじめた。一瞬の間を置いて、ふいに背後から礼子の声がした。

「あなたって、どこまでお人好しなのかしら」

 言葉の真意を酌み取るのに貴宏は一瞬の間を要したが、何も言わなかった。すると礼子が再び口を開いた。

「あなた、大須賀さんのことが好きなのでしょう?どうして健翔から彼女を奪おうとしないのかしら?本当にこのまま怖ず怖ずと東京の病院へ移るおつもりなの?あの娘のためにならあなたは自分を犠牲にして何だってするおつもり?馬鹿みたいだわ。貴方はただの負け犬よ」

 エレベーターが一階に到着した。礼子を先に降ろし、貴宏は後からエントランスホールの先まで見送りに出た。

 外はもうすっかり日が落ちて、薄闇のなか土砂降りの雨の底に沈んでいた。

 礼子は傘を広げると何も言わずそのまま通りに出て、水浸しの路上をパンプスを濡らして歩き始めた。

 貴宏は凍てつく初冬の夕風に打たれながら礼子の後ろ姿を眺めていた。すると、ふいに礼子の足が止まった。

 随分長い間、雨に打たれながら彼女はその場に立ち尽くしていた。それからこちらへ振り返った。そして顔をあげるとこちらを見詰めた。彼女はゆっくりと地面に両膝を突くと持っていた傘を手放した。突き刺さるような土砂降りの雨が彼女の髪を濡らした。

「いくつも偶然が重なったんです」礼子は叫ぶように言った。まるで全身に溜まった毒を吐き出すようだった。「あの日、私は天翔と大須賀さんが屋上で待ち合わせをしているのを知っていました。その三〇分前に私は彼を二階の教室に呼び出したんです。前の日に大須賀さんが天翔の忘れていったタクトをわざと返さなかったことも、明美が私のために彼女の鞄からタクトを盗ってしまったことも、すべて話すつもりでいたんです。そして大須賀さんのことも明美のことも許してあげてほしいって、天翔にそうお願いするつもりでいたんです。天翔ならきっと許してくれる。私はそう信じていました。けれど、あの日、天翔はいつになく私に素っ気なかった。私がタクトの話を始めると、いま忙しいからその話はまた今度にしてくれないかって、あれほど大切にしていたタクトのはずなのに、まるで私と話す時間が惜しいとでも言うみたいに彼はとても素っ気なかった。いいえ、彼は冷たかった。物心ついた頃からいつも一緒だったあの彼が、いつだってやさしかったあの彼が、その日、たぶん生まれて初めて私に対してとても冷たかった。私は動揺して、かいつまんで事情を説明しました。けれど彼はありがとうの一言も言ってくれなかった。私はひどく傷つきました。こんなの天翔じゃない、とちょっと情けなくなりました。そして、あの娘のせいだ、と私は思いました。あの娘と関わり出してから天翔はすっかり変になってしまったと、そう思いました。天翔は、話はそれだけかな?もう行くよ、と言って私の横をすり抜けて教室から出ていこうとしました。そのとき地震がやってきたのです」

 雨脚はいっそう激しさを増した。橙色の街灯に照らされた礼子のトレンチコートがずぶ濡れになっているのが見えた。

「私たちは教室の床に這いつくばりながら揺れが収まるのを待ちました。天翔は私のことを力一杯抱きしめてくれました。そのとき、私は本当に幸福な気持ちに満たされました。ああ、このまま時が止まってくれればいい。このままコンクリートの下敷きになって二人揃って押しつぶされてしまえばいい。私は心からそう思いました。けれど、揺れが収まるとまた現実が戻って来ました。天翔は私に大丈夫かの一言もなしに真っ先に自分の鞄の中からケータイを取り出すと大須賀さんにメールを打とうとしました。でもネットは繋がらなくなっていました。天翔はケータイを鞄に戻すと私に向かって、絶対にここを動かないように、と言い残して、私を一人置き去りにして教室から飛び出していきました」

「彼が屋上へ向かったのはわかっていました。私はすぐに後を追おうとして彼の鞄を手に持つと立ち上がって走りだそうとしました。ですがそのとき床に転がっていた椅子に足がひっかかって前方に転んでしまったのです。その勢いで天翔の鞄の中身が廊下に散乱しました。その中にはさっき返したばかりの白いタクトと天翔のケータイ電話もありました。散乱したものを急いで掻き集めて彼の鞄の中に仕舞おうとしているとき、彼のケータイを手にした私の脳裏に邪悪な考えが芽生えたのです」

「私はそれまでずっと天翔と大須賀さんが密かにメールの遣り取りをしているのを知っていました。私はそのことを考えないようにしようといつも必死で努力していました。そのことを考え始めると、私は自分の身体が嫉妬の炎でバラバラに引き裂かれそうになるのがよくわかっていました。けれどそのときばかりは私は自分を抑えることができませんでした。私はそっと天翔のケータイを開くとメール画面を開いて二人のメール履歴を辿り始めました。そこには二人の楽しげなメッセージがずらりと並んでいました。その中には自分に関する遣り取りもありました。礼子ちゃん、天翔君のことが好きだよ、という大須賀さんのメッセージが目に入りました。そして、うん、知ってるよ。でも僕にとってはただの幼なじみ。親たちがくっつけたがっているだけなんだ。僕は何とも思ってないのにね、という天翔の返信を読んだとき、私はもう自分のことを抑えることができなくなってしまいました。そんなに強い感情に打たれたことは生まれて初めてでした。憎しみなのか、嫉妬なのか、恨みなのかはわかりませんでした。ただ、世界の全員を敵に回しても構わないくらいに激しい負の感情に全身が支配されてしまったのです。そして自分の中にそんなにも醜い感情が芽生えうることに心の底から驚かずにはいられませんでした。私はケータイを閉じて鞄の中に仕舞い込むとすぐさま立ち上がって無我夢中で天翔の後を追いかけました」

 道路の路肩を流れる大量の雨水が礼子のパンプスに遮られ、大きな波となって道路の中央のほうまで溢れ出しているのが見えた。背後から乗用車の音が迫るとかなりの速度で二人の横を通過していった。水しぶきが立ち上がり、礼子のトレンチコートをさらに濡らした。

 貴宏は居たたまれなくなって、雨の中に飛び出すと小走りに礼子のところまで駆け寄った。それから彼女を抱きかかえながら立ち上がると傘を持ったまま肩を支えた。

「大丈夫ですか?」と貴宏は言った。

「ありがとうございます」と礼子は俯いたまま言った。それからまた彼女は続けた。「屋上にあがると天翔は一番奥のフェンスのところにしがみついて何度も大須賀さんの名を叫んでいました。私は胸が苦しくなって階段の踊り場のところまで引き返しました。必死に大須賀さんの名前を呼んでいる彼の姿をそれ以上見ていられなかったのです。私は踊り場のコンクリートの塀に寄りかかって俯いていました。すると、吹き抜けの隙間の下のほうに一階の階段から誰かが上がってくるのが見えたのです。大須賀さんだとすぐに気づきました。私は咄嗟に塀の蔭にしゃがみ込みました。こんなところで自分の姿を見られたら私は恥ずかしさで死んでしまうかもしれないと思いました。どうかこのまま塀の蔭に隠れて、彼女が階段を駆け上がりそのまま屋上のドアを通り抜けて隠れている自分には気づかないでほしいと心の底から祈り始めました」

「私は気が動転したまま再び鞄の中から天翔のケータイを取り出すと、僕は何とも思ってないのにね、という天翔のメッセージをもう一度読み直しました。いつの間にか頬に涙が流れていました。大須賀さんの足音はもうすぐそこまで迫っていました。もうこのまま死んでしまいたいと私は思いました。そしてふとケータイのアンテナが立っているのが目に入りました。どういうわけかそのときだけネットが繋がっていたのです。それを見た途端に再び邪悪な考えが私の脳裏に芽生えました。このまま世界は終わりを迎えるのだという考えに私の魂は鷲づかみにされていたのです。こうなればもう後先のことなどどうでもいい。とにかくいまこの瞬間に、絶対にあの二人を合わせてはならない。それは自分の意思を超えた命令のように感じられました。そして、自分の目の前であの二人が再会し喜び合う姿を阻止できるのなら、私はどんな悪にでも自分の魂を差し出してたって構わない。私はそう感じました。私は大須賀さん宛てに急いでメッセージを打ち始めました。沙希ちゃん、大丈夫?津波警報が出てるから屋上はやめて公園でまっています。気をつけて。そう打ち込むと私は迷わず送信ボタンを押しました。でももう間に合わないと思いました。大須賀さんの足音はすぐ下の階まで迫っていたからです。私はもうダメだと覚悟しました。いつ立ち上がって自分の姿を曝け出すか、勇気が出ないままタイミングを見計らっていました」

「奇跡が起こったのはそのときでした。半階下の踊り場のところで足音が止まったのです。もうあと二〇段くらいしかない階段の下で大須賀さんが立ち止まっている気配が伝わってきました。私は自分が送ったメッセージが彼女のもとに届いたのだと思いました。彼女がケータイ画面を開く音が微かに聞こえました。外からはちょうど津波警報のアナウンスが聞こえてきました。屋上へ通じるコンクリートの薄暗い空間が束の間静寂に包まれました。ほんの一瞬に過ぎなかったはずですが、私には永遠に時が止まったかと感じられるくらい長い静寂でした。やがて足音が遠のき始めました。どうやら大須賀さんは再び階段を降り始めたようでした。私はそのとき神様は本当に存在するのだと感じました。私は全身汗でびっしょりになっていました」

 貴宏は言葉を失ったまま礼子の肩を抱きしめていた。雨に濡れて彼女の身体を芯まで凍てつかせている寒気が自分の身体にも乗り移って来るような錯覚に囚われながら、震えの止まらない彼女の肩を摩り続けた。そして摩れば摩るほど礼子の身体はいっそう冷たくなっていくようだった。

「私はもう天翔に合わせる顔はないと思いました。そして彼の鞄を持ったまま小学校を離れました。津波警報が何度も響き渡るなか、私は高台とは反対の海岸のほうに向かってとぼとぼ一人で歩き始めました。天翔は屋上にいればきっと大丈夫だろうと思っていました。そして自分はこのまま津波に呑まれてしまえばいいと思いました。もし神様がいるのなら、今度は私を津波で浚ってそのまま天国まで連れて行ってくれるに違いないと。いいえ、きっと神様は天国の入り口で私を拒むかもしれない。でもそれでもいい。このまま生きて恥を晒すよりは地獄へ落ちる方がどんなにましだろう。私はそう思いながら海岸線の一本道を浜辺のほうに向かって歩いて行きました。すると後から車がやってくる音が聞こえてきました。私はハッとして空を見上げました。ああ、やっぱり神様はいないのかもしれないと私は咄嗟に思いました。いいえ、神様は私が犯した罪をすべて御覧になっていて、それで私に罰と試練を与えようとしているかもしれないという考えが後に続きました。そのうちに軽トラックが私の傍らに止まりました。運転席から、何やってる?早く逃げねば、という声が聞こえてきました。それは通りがかりの見知らぬ中年男性でした。立ち尽くす私の顔を見て男性は、あんた、竜石堂さんのとこのお嬢さんだろ?こんなとこで何してる?早く乗れ。町まで連れてってやるから、と言って助手席のドアを開けました。私は断り切れずにトラックに乗り込みました。そのまま無視をして海に向かって歩き続けるのはどう見ても無理だったからです。私は神様を恨みました。そして涙が溢れて止まりませんでした。ああ、こうして私はこのまま生き続けなくてはならないのだなと思いました」

 貴宏はいまにも壊れそうなくらいに細く華奢な礼子の身体を両腕で強く抱きしめた。

「もういいです。もうわかりました」

 そんな言葉しか出てこない自分に苛立ちながら、ただ抱きしめる以外にどうしたらいいのかわからなかった。しかし礼子はまだ続けた。

「私は夜になって天翔が津波に呑まれたことを耳にしました。それを聞いたとき何かの間違いだろうと思いました。そしてそれが真実だと知ると頭の中が真っ白になりました。屋上にいれば大丈夫だと思っていた天翔が津波に呑まれ、津波に向かって歩いていた自分がこうしてまだ生きながらえている。本当に、神様はどこまで残酷なのだろうかと神様を恨みました。けれど少しずつ冷静さを取り戻し始めると、心の底から途轍もない恐怖が湧き上がってきました。この先自分はどうやって生きていったらいいのだろう?怖くて怖くて仕方がなくなって全身の震えが止まらなくなりました。信じてもらえるかわかりませんが、あの晩私が避難所の中学校を訪れたのはせめてもの罪滅ぼしのつもりからでした。いまとなっては天翔の形見となってしまったこのタクトを大須賀さんに届けなければ——私は本当にそう思っていました。そしてすべてを彼女に打ち明けようと思っていました。すべてを打ち明けて彼女の赦しを乞おうと思ってあの晩避難所を訪れたのです。けれど、大須賀さんの家族がいる教室に辿り着いたとき、またしても神様が私に試練を与えたのです。私は大須賀さんがお兄さんとお父さんと一緒に冷気で冷え込んだ教室の床で毛布にくるまっているのが見えました。私は近づいていって声を掛けようと思いました。けれどそのとき昼間自分を救ってくれた中年の男性が大須賀さんのお父さんであったことに気づきました。私は立ち止まって混乱する頭を整理する必要がありました。その数時間前、私は全世界を敵に回してもいいくらいの激しい憎しみを大須賀さんに抱いていました。そしてどんな手を使ってでも彼女が天翔と会うことを阻止しようとしました。その結果、命を失ったのは天翔でした。私の憎しみは奇妙な形で矛先を変え、私の最も愛する人を私から奪いました。そして私の命は私の憎悪の矛先であった人の実の父親の手によって救われたのです。私の命は愛によって救われたのか、憎しみによって救われてしまったのか、私の頭は混乱していました。そのとき、すぐそばで誰かが小声で囁いている言葉が耳に漏れ聞こえてきました。大須賀さんのお父さんの広哉さんは大須賀さんのお母さんと末子の友哉君を助けに自宅向かったということでした。それなのに、お母さんと友哉君は車に乗せず他の人を乗せて戻って来たのだと——。いったい神様はどこまで悪ふざけが好きなのだろう。私は混乱した頭を整理できないままその場にしばらく立ち尽くしていました」

「やがて教室に救急隊の方が飛び込んできて、大須賀さん、ちょっと来てくれ、見つかったかもしれない、と叫びました。それを聞いた三人は急いで教室から飛び出して行きました。私はその晩はもうそのまま帰ろうと思いました。そして頭を整理してからまた改めて戻って来ようと思いました。けれどそのとき床の上に大須賀さんの鞄が置いてあるのが目にとまりました。私はまた神様に試されているのだと思いました。私は自分のポケットの中に忍ばせていた天翔のタクトを取り出しました。彼女の鞄の中にタクトを残していくべきなのか、それともこのまま帰るべきなのか。私は恐る恐る鞄に近づきました。そして決心がつかぬまま床の上にしゃがみ込み鞄の中を覗き込みました。すると鞄の中に大須賀さんのケータイが横たわっているのが目に入りました。私の良心の葛藤はそれを見た瞬間にぷつっと切れてしまったようでした。命拾いをして赤子のような真っ白な心に漂白されたはずの私の胸の中に再び醜悪な虚栄心が芽生えました。私はケータイ電話を見た瞬間に昼間自分が大須賀さんに送ったメッセージを消去しないといけないという考えに絡め取られました。死のうと思っていた人間の心にどうしたらそのような醜い感情が芽生えうるのか、今になってみればただただ不思議でしかありません。けれど一度火のついた醜い衝動を止めることはもはや不可能でした。私は大須賀さんのケータイ画面を手に取ると急いで自分が送ったメッセージを探して消去しようと思いました。しかしそのとき誰かが教室のドアから入ってきて、驚きのあまりタクトを大須賀さんの鞄の奥に仕舞い込むと彼女のケータイを握り締めたまま急いで教室を後にしたのです」

 貴宏の脳裏にそのときの光景がまざまざと蘇った。あのとき教室に入っていったのは自分だったのだ。教室に入るとすぐに礼子が反対側のドアから去って行くのが見えたのだった。

 だがもう十分だった。今さらそんなことを口にしていったい何の意味があるのだろうか。この一五年間、彼女が生きてきた地獄を想像すると気が遠くなった。

 ありがとう、と小さく呟くと礼子は身体を引き離し、路肩に逆さまになったまま大量の雨水が溜まっていた傘を手に取った。それから小さく御辞儀をすると、突き刺さるような雨の中を再び歩き始めた。

 貴宏は礼子の後姿をいつまでも眺めていた。突っかけたサンダルの先から靴下に染み込んだ雨水が猛烈に凍てつき足の爪先の感覚を奪い取った。

 礼子が街頭の角を曲がって姿が見えなくなると、彼女の告白に耳を澄ませていたときには堪えていた感情が一気に噴き出してきた。気がつくと大粒の雨に打たれながら水溜まりの中を飛沫をあげて駆けていた。

 角を曲がると礼子がタクシーに乗り込むところだった。貴宏はあらん限りの声を振り絞って薄闇の中に叫んだ。

「貴方だって同じなんじゃないですか?貴方だって、健翔君のためになら何だってするんじゃないですか?」

 一瞬礼子が動きを止めてこちらを見たような気配がした。それからドアが閉まりタクシーは走り去った。

 びしょ濡れの前髪から滴り落ちる雨粒が目の中に侵入してもう何も見えなかった。貴宏は暗い滝壺の底で水に打たれているような錯覚に陥った。

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