第16話

 貴宏がピアノ工房へ出掛けていった午後、沙希は休憩時間にこっそりとチャペルに忍び込んだ。

 大樹はまたチェロを弾き始め、レッスンへも通い始めた。いよいよ奇跡のピアノのお披露目リサイタルに向けて小児科全体が動き始めていた。

 ただ、一つ気になっていたことがあった。

 この間、ピアノ工房であのピアノに触れようとしたとき、突然指先に痺れを感じてすぐ目の前にあるピアノに触ることができなかった。まるで金縛りにあったかのように全身が硬くなって動きが止まってしまったのだ。単に気のせいだと思っていた。けれど、そのことが気になって今朝はいつもより早く目が覚めてしまった。

 正面の木造りの扉を押してチャペルの中を覗き込むと、幸い人影はなかった。静かに中に入り重い扉をそっと閉めた。中央の通路をゆっくりと進んでいく。ドングリのような形をした正面のステンドグラスから大量の光が差し込んで誰もいない礼拝堂に降り注いでいる。古い日本家屋を思わせる白い壁と黒い木造のコントラストが美しい。

 祭壇の手前まで来るとステンドグラスのイコンがはっきり見えた。赤い衣装を身につけた聖母マリアが生まれたばかりのキリストを抱きかかえている。静かだった。イコンを見つめていると、しんとした静寂の音が聞こえてくる。病院内の喧騒が嘘のようだ。こんなにすぐ近くにこんなに静かな場所があることが信じられない。いままでどうして気づかなかったのか不思議なくらいだった。

 祭壇の中央手前には電子オルガンが置かれていた。左手奥の壁際にあるダストカバーで覆われているのがアップライトのピアノのようだ。この間、健翔が調律しに来たのもあのピアノに違いない。

 胸元で手を組み合わせて瞳を閉じ、聖母マリアに向かって祈りを捧げた。それから一段高くなった聖所の中にそっと足を踏み入れた。どうやらグランドピアノを置くスペースは十分にありそうだ。

 深紫のダストカバーを静かに取り払うと、年季の入った美しいアップライトが姿を現した。椅子を引き、そっと腰を下ろす。深呼吸をしてから鍵盤蓋をゆっくりと上げた。安堵の溜息が漏れた。ピアノに触れたのは一五年前のあの日以来だ。大丈夫。特に何の反応もない。この間ピアノ工房で金縛りのような状態になったのも、やはり気のせいだったようだ。

 人差し指でラの音を弾いてみた。ポーンという品のある澄んだ音が礼拝堂の隅々まで木霊していった。いい音だ。これが健翔の音なのだ。もう一度鍵盤を叩いてみる。ポーンという音が再び遠くのほうまで伸びていった。余韻が漂い、次第に波のように遠ざかっていく。チャペル全体に静寂が満ちていく。

 何か弾いてみようと思いながら目を閉じた。静けさに耳を澄ませると、遠くのほうからピアノの音が聞こえてきた。

 漣立つ水面を音符たちが風に吹かれるようにポロポロと流れていく。『Le Cygne』の旋律だ。真っ青な空と燦々と降り注ぐ陽の光が目蓋の裏側に蘇ってきた。

白いコンクリートの上で『Le Cygne』の譜面を覗き込んでいた。すぐ目の前に誰かが立っていて一緒に楽譜を見つめていた。この近さ。この匂い。やがて彼は白いタクトを取り出して拍子を取り始めた。それからこちらに向かって頷くとやさしく微笑んだ。

 ゆっくりと目を開けた。それから鍵盤に両手を置き、脳裏に焼き付いた楽譜を見つめながら『Le Cygne』を奏で始めた。

 きらきらと輝く水面を目がけて湖の底から無数の水泡が上っていく。やがて主旋律が始まり一羽の白鳥が水面を滑っていく。傷ついた翼を折り畳んだまま白鳥はぐるぐると湖の水面を漂っている。そのうちに何を思ったのか白鳥はもたげていた首をピンと伸ばし、空を見上げ両方の翼を高く広げた。飛び立とうとしているようだ。強い意志が伝わってくる。白鳥は飛び立つタイミングを取っているように見えた。そのときだった。

 森の中を強い突風が吹き抜けた。湖を取り囲む樹木がざわめき、気がつくと白鳥の背後に黒い高波が迫ってきていた。いくつもの切り刻まれたイメージが脳裏を掠めた。

 雪のちらつく曇天下の盆地。灰色に霞むコンクリートの古びた建物。屋上に巡らされた金網のフェンス。一人屋上の端に佇む小さな人影。遠く背後から忍び寄る巨大な黒い壁。

 ダメ!逃げて!

 目を閉じたまま心の中で叫び声をあげた。胸が詰まり心臓が張り裂けそうだった。鍵盤を叩く指が先のほうからじわじわと痺れ始めた。固く瞑った瞳からいつの間にか大粒の涙が溢れて頬を伝っていた。

 白鳥は勢いをつけて水面から飛び立った。だがわずかに遅く、片足を高波にさらわれ、バランスを崩して水面に叩きつけられた。その瞬間、沙希は背後から力一杯殴打されたような衝撃を覚え、鍵盤から手を離すと譜面台の上に突っ伏してしまった。ガーンという音がチャペル全体に響き渡った。

 そのままの体勢でしばらく蹲っていた。息が詰まり、乱れた呼吸がなかなか元に戻らない。涙が止まらずピアノを汚してしまっていないか心配なのに、身体が固まって動けなかった。

 どのくらいの間そうしていただろう。ようやく呼吸が整うとそっと顔をあげた。それほどの驚きはなかった。薄々こうなるような気はしていた。

 腰を上げて鍵盤蓋を閉じ、再びダストカバーを掛けた。

 ふとステンドグラスを見上げると、聖母マリアは前と変わらぬやさしい目でこちらを見つめていた。


 翌日、チャペルで貴宏と会った。

 約束の時間までまだ数分あったけれど、チャペルの中に入って前方を見渡すと、会衆席の最前列に後ろ姿が見えた。がらんとした礼拝堂には他に人影はなかった。

 貴宏は白衣を着たままの格好で、木製の長椅子の背に片腕を伸ばしながらステンドグラスをぼんやりと見上げていた。

 沙希は貴宏から二列後ろの席に静かに体を滑り込ませると、

「ごめん、待った?」

 と小さな声で言った。囁くように言ったつもりだったのに、礼拝堂全体に声が木霊した。

「どうたったの?うまくいった?」

「菅野さんと健翔君は大賛成してくれたよ。菅野さんは絶対にピアノを直すって約束までしてくれた」

「菅野さんと健翔君はって…つまり、他の誰かが反対した?」

「ああ」

「昨日、他にも誰か工房にいたってこと?」

「まあ、そういうことだな」

「誰?」

 貴宏は不意に神妙な顔つきになって視線を逸らすと、正面に向き直ってステンドグラスを見上げた。キリストを抱きかかえる聖母マリアが相変わらずやさしく微笑んでいた。

 沈黙がチャペルを覆った。貴宏は無言のまま固まっている。

 それからふと、彼は前を向いたまま言った。

「竜石堂先生がいらっしゃったんだ」

「え?」

 思わず訊き返した。

「竜石堂礼子だよ」

「そう」

「驚かないのか?」

「Rainbow Music Clubの主催者」

「知ってたのか?」

「このあいだ気がついて調べたの」

「そうか」

「ツンツルも初めから知ってたの?」

「ああ。どうして沙希ちゃんに言わなかったのかな。よくわからんけど、たぶんオレ自身も、無意識のうちになるべく彼女とは関わらないようにしてたような気がするよ。大樹の外出許可を出すときだって、本当は電話で直接事情を伝えたりすべきだったのに、結局しなかったしな。何となく避けてたっていうか。会うのが怖かったっていうか——」

 怖かった、という言葉を耳にして、十五年前の帰りの会の光景が脳裏に蘇った。

 あの日、竜石堂礼子は朶先生に持ち物検査をするようにお願いしたのだった。朶先生に問い詰められて、じっと俯いている貴宏の後ろ姿が目蓋のすぐ裏側に思い浮かんだ。そして、自分自身も心のどこかで貴宏のことを見下していたことに気づき、その疚しさから思わず立ち上がって彼を弁護してしまったのだった。

 あのときの心細さ、早まったことをしてしまったという焦燥感がまるで昨日のことのように湧き上がってきた。そしてそれから教室全体が、サ、ト、ウ、ド、ロ、ボー、という大合唱になって収拾がつかなくなり始めたときの、あの恐怖心が再び胸に迫ってきた。この十五年間、見て見ぬ振りをして来た自分の中の様々な思いが、鍵の掛かった箱をうっかり開けてしまったかのように次々と噴き出して来る。

 あの当時、自分は怖くて仕方がなかったのだ。クラスメートたちの嫌がらせは毎日のようにエスカレートしていき、唯一の親友だと思っていた香苗にも見放され、登下校のときも、休み時間のあいだも、自分はいつも一人ぼっちだった。いま振り返ると、よく平然と生き延びられたと思うくらい孤独な日々が続いていた。本当は全く平然となどしていなかったのだけれど、それを認めてしまえば崩れ落ちてしまうことに薄々気がついていて、自分の気持ちに気づかぬふりをしていたのだ。実際あの頃、自分はもうダメになりかけたことが何度となくあった。それでもその度に貴宏が姿を現して、自分を支えてくれたのだった。

 そして、ほとんど望みのない天翔への想いにすがり続けたのだった。そうやって、きっと自分は一人ぼっちの恐怖をギリギリのところで紛らわしていたのだ。だからあのクリスマスイヴの晩も、何かに取り憑かれたように彼の家にまで押し掛けていってしまったのだ。そして思いも掛けずそこで出会ったのは、彼ではなかった。彼女だった。

 あのときの、みすぼらしい情けない気持ちが蘇ってきた。

 結局、円谷家のインターフォンを押すことなどできなかった。そして雪の散らつくなか、とぼとぼと自転車を押して帰りかけたとき、門の前に高級車が停まり、道端に礼子が降り立ったのだった。まるで舞踏会に向かうお姫様のように、彼女は美しいブルーのドレスを身に纏い、髪をアップにして、小さなブーケを握っていた。二人は目を合わせた。あのときの彼女の顔が忘れられない。彼女の瞳に浮かんだ驚きの眼差し。それはすぐに憐れみへと変わった。あのときの彼女の表情は、いまもまだはっきりと目蓋の裏に焼きつけられたままだった。

 貴宏はふと立ち上がって、ステンドグラスの聖母マリアを見上げた。白衣のポケットに両手を入れたまま、彼は無言で立ち尽していた。その背中を見つめているうちに、恐怖心と入れ替わるようにして、メラメラとした激しい感情が噴き出して来た。

 何故だろう。一五年も経った後になって、ふと妙な考えが沙希の頭を過ぎった。

もしかすると、礼子は初めから貴宏のことを疑っていたのではないだろうか。彼女の周りにはたくさんの取り巻きたちがいた。貴宏が四色のボールペンを使っているのを目撃し、それを礼子に伝えていた可能性は十分にあった。だから彼女は最初から貴宏の筆箱の中に四色ペンが入っているのを知っていて、それで持ち物検査を提案したのではないか。朶先生を通じて、こっそりとそのことを確認することだってできたはずなのに、なぜ彼女はわざわざクラス全員の前で事を荒立てるようなことを提案したのだろうか。

 貴宏はレイコに嵌められたのではないだろうか。何らかの形で貴宏があの四色ペンを手に入れるように、そもそも最初から仕組まれていたのではないか。

 いや、ドラマではあるまいし、そんなことがあるはずがなかった。だがそんな気がしてならなくなって来た。なぜ彼女はそんなことをしたのだろう。貴宏に何か恨みでも抱いていたのだろうか。彼が母子家庭の貧しい少年だったからだろうか。彼がいつもツンツルテンのズボンを履いていて、それが赦せなかったからなのか。

「ツンツル、ごめんね」

 思わず謝罪の言葉が漏れた。

「どうして沙希ちゃんが謝るんだ?」と貴宏は振り返って言った。「そこ、全然沙希ちゃんが謝るところじゃないだろ?」

「彼女があの工房に出入りしていること、知らなかったから。知ってたら、私が代わりに話をしに行ったのに…」

 貴宏は笑った。「話が本末転倒してるな。そもそも最初にリサイタルのことを言い出したのはオレのほうだよ。それに、もともと沙希ちゃんが健翔君に会いたくて仕方がないのに、自分から会いに行けないって言ってたからそういう話になったんだよな。そのことを完全に忘れてるぜ」

「それはそうだけど…」と沙希は言った。「でも、ツンツルにきっと嫌な思いをさせてしまったでしょう?」

「いや、オレは大丈夫なんだが」と貴宏は反応した。「ただ、マズいことになったのは間違いない」

「彼女が反対したのね、お披露目リサイタルに?」

「まあ、そうだな」と貴宏は歯切れの悪い調子で言った。

「どうして?」

「前から市民ホールでお披露目コンサートを開きたいっていう話を菅野さんとしていたらしい。彼女の音楽教室主催で、奇跡のピアノを子供たちに弾かせたいって——」

「そうなんだ」と沙希は言った。「でもさっき、菅野さんと健翔君は賛成してくれたって言ってたよね?菅野さん自身は何て言ってるの?」

「菅野さんは、合同でリサイタルをやったらどうかって言ってくれたよ」

「市民ホールで?」

「いや、ここでだよ」

 貴宏はそう言って誰もいない礼拝堂を見渡した。

「そうなの?」と沙希は言った。「でも彼女は市民ホールに拘っている?」

「まあ、そうだな」

「それなら一緒に市民ホールでやれないのかな?皆で頑張ればうちの子供たちの世話とか、何とかなるんじゃないかな?」

「実際そういう話も出たんだ」

「それにも彼女は反対した?」

 貴宏は曖昧に頷いた。

「あの人はいったい何を求めてるの?」と沙希は言った。

 貴宏はしばらく沈黙したあとで言った。

「音」

「え?」

「音だって言ってた。絶対にそこだけは妥協できないって」

「どういうこと?意味わかんない」

「このチャペルは音がイマイチだって——。前に聞いたことがあるらしい」

「そんな…」

「それから、実は健翔君がユーカリ学園の子供たちもリサイタルに参加させたいって言って——でも彼女はそれも勘弁してほしいって…」

「それも音への拘りから?」

「ま、そだな」

「ひどい」

「大樹は間違いなく演奏させるって言ってたよ。アイツはもうどこへ出しても恥ずかしくない力があるって」

 貴宏の口から不意に大樹の名が飛び出してきて、面を食らったように動揺した。

礼子に指導されながら、楽しそうにチェロを弾いている大樹の姿が頭を過った。胃の底に虫が湧いたような嫌な感情が湧き出した。

 考えて見れば、自分と出会うずっと前から大樹は礼子にチェロを習ってきたのだった。自分は彼にあれほど酷いことをしてしまったのだ。今頃になって二人の間の絆を思い浮かべて狼狽するなんて、虫がよすぎるとしか思えない。それは自分でもよくわかっている。

 しかし——。

 一度芽生えてしまった醜い感情はなかなか振り払えなかった。

 恥ずかしい。そのあまりの醜さに自分でも辟易してしまう。自分の中にこんなに激しい独占欲があることに戸惑いもする。だがどうすることもできないのが歯痒かった。

 あの女はいったいどれほど奪えば気が済むのだろうか——。

 そんなみっともない考えがまた脳裏を過ぎった。情けなかった。ただの看護師の分際で、患者とその周囲の人たちにそんなに牙を剥くなんて、赦されることではなかった。それなのに、あの女に大樹を取られたくないという意味不明な気持ちを抑えることができない。

 心のうちが表情に剥き出しになっているような気がして、恥ずかしさのあまり思わず俯いた。

「ねえ、ツンツル」と沙希は俯いたまま言った。「万一、市民ホールでやることになったとして、私が大樹君と一緒に演奏をしたいって言ったら、彼女は許してくれるのかな?」

 貴宏は相変わらずステンドグラスの聖母マリアを見つめている。しばしの沈黙のあとで彼は言った。

「いや、それも無理だって」

「どうして?その話もしたの?」

「ああ、それも確認したよ。音楽教室主宰のコンサートに、会員以外の演奏者が出たことはないそうだ。前例がないものを認めるわけにはいかないんだそうだ」

 ふうっという深い溜息が漏れた。

 何という人だろう。彼女の拘りは単に人を苦しめるためだけの拘りのようにさえ思えてくる。やはり十五年前のあの時も、初めから貴宏を嵌めるつもりだったのではないかという疑念が、ますます真実味を帯び始めた。

「向こうは前から話をしてた。父親は地元の有力な政治家。音への拘りも周りから見たらもっともに聞こえる。どう見てもこっちに勝ち目はない」

 沙希の言葉に、ずっと向こうを向いていた貴宏がこちらを振り返って言った。

「そんなことないさ」

「え」

「そんなことないって」

「どういうこと?」

「絶対やるよ、ここで」

「だって…」

「いや、絶対やる。絶対にオレがなんとかする」

「絶対にって」と沙希は言った。「何かいい考えでもあるの?」

「いや、全くない」と貴宏は屈託のない表情で言った。

 呆気にとられて返す言葉が見つからなかった。戯けとも照れ隠しとも取れるような笑みを浮かべながら、貴宏はまたステンドグラスのほうに視線を戻した。

 彼のまっすぐさに触れたせいだろうか、不思議と気持ちが軽くなった気がした。その勢いで、今日、貴宏に絶対に言わなくてはならないと心に決めていたことを思い切って口にした。

「あのね、ツンツル——」

 貴宏は振り返った。彼の口元から笑みが消えた。何か感じ取ったようだ。

「私——ピアノ弾けないんだ」

 貴宏は驚いた表情を浮かべた。

「昨日、休憩時間にそこにあるピアノを弾いてみたんだ。でもダメだった。弾き始めたら、背中を何かで叩かれたような感じになって——。コンサートで弾くなんて、わたし全然無理なんだ」

「そうか」貴宏は沙希を見つめたまま言った。

 チャペルを沈黙が覆った。貴宏は呆然と立ち尽くして何かを考えているようだった。

 しばらくして彼が言った。

「あのタクトのことで、まだ自分を責めてるのか?」

 沙希は頷いた。「それもそう」

「他にもまだ何かあるのか?」

 貴宏から目を逸らし、ステンドグラスの聖母マリアを見上げた。青や、赤や、緑の美しい光が目蓋の中に差し込んでくる。

 貴宏は無言のまま沙希の言葉を待っている。

 呼吸を整えると、聖母マリアを見つめたまま小さな声で言った。

「階段…」

「ん?」貴宏は不思議そうな顔をした。「階段?」

「うん」

「どこの?」

「本町第二小の」

 貴宏は少しのあいだ何かを考え、それから言った。

「もしかして、屋上に出る階段のことか?」

 沙希は黙ったまま頷いた。

「あの階段で何かあったのか?」

 沙希は首を振った。「ううん。何もなかったよ。階段では何もなかった」

「は?」貴宏はいくらか苛立った様子で言った。彼がそんな表情を浮かべるのは珍しいことだった。「うーん、何だかよくわからんな」

「昇らなかったんだ」

「ん?」

「あの日、階段を昇らなかったんだよ」

「あの日って、あの日のことか?」

 沙希は頷いた。「円谷君と約束してたんだ。屋上で、三時に会う約束。でもその直前に地震が来て——。途中までは昇ったのに、最後の階段だけ昇らなかった。屋上に彼はいたのに、昇らなかった。すぐそこにいたのに、あと二〇段昇れば彼に会えたのに、昇らなかった…」

「どうして昇らなかったんだ?」と貴宏は囁くように言った。「そんなに近くまで行ったのに、どうして?」

「メールが来たから…」

「メール?」

 沙希は頷いた。

「誰から?」

「彼からだよ」

「何てメールが?」

「公園にいるからって」

「高台の?」

「たぶん」

「でも本当は屋上にいたってことか?」

「たぶんね」

 貴宏はいくらかのあいだ沈黙に落ちた。それから言った。

「あいつ、沙希ちゃんに嘘をついた?」

 沙希は躊躇いがちに小首を傾げた。「どうかな…」

「どうしてそんな時に嘘ついたんだ?」貴宏は強い調子で言った。「わざわざメールまでして来て?」

「わからないよ」沙希は首を振った。「それが私にもわからないんだ。どうしてあんなメールを…。どうして突然私に会いたくなくなったんだろうって、ずっとそのことばかり気になって来たんだ。十五年間ずっと、私、何をしちゃったんだろうって。彼を怒らせるようなこと、何をしちゃったんだろうって。そればっかりずっと考えて来たんだ」

「あいつを怒らせたとは限らないだろう?何か理由があったのかもしれないし」

「ううん」と沙希は言った。「きっとタクトのことだと思う。きっと私がタクトを盗んだことに気づいたんだと思う。それで失望して、もう会いたくなくなったんだと思う」

「それはどうかな」

「絶対そうだよ」と沙希は吐き出すように言った。「でもね、たとえそうだったとしても、それでも階段を昇るべきだったんだ。だって、私はそのことで彼に謝ろうとしてたんだし。でも、ちょうど津波警報が聞こえてきて、それで階段を昇らず引き返してしまって…。迷ったんだ。あのとき、昇るかどうか、本当に迷ったんだよ」 

「うーん、どうも話が変だな」

 貴宏は腕組みをして首を捻った。

 いったい何が変だと言うのだろうか。彼にそんなつもりはないのはわかっているが、その冷静さに傷つけられる。

「どうしていつもそうなの?」

 堪え切れず、言うべきでない言葉が口をついて出てしまった。

「え?」

「どうしていつもツンツルは、私の言うことを信じてくれないの?」

 もう止まらなかった。

「信じてるさ」

「信じてないよ」

「沙希ちゃん、冷静に…」

「ツンツルは頭が良すぎるんだよ」

「またそれか」

 デタラメな不協和音を鳴らしたときのような、気まずい沈黙が礼拝堂に響き渡った。貴宏は長椅子に腰を下ろすと両手で頭を抱えた。彼のそんな姿を見るのは初めてだった。

 胸が痛んだ。ツンツルを責めるなんて最低だ、と思った。

「ごめん」と沙希は言った。

「いや、オレのほうこそ」と貴宏は小さな声で返した。それから続けた。「でもさ、やっぱりちょっとおかしいと思うんだよ。だって、そもそも円谷は誰かに対して腹を立てるような奴じゃなかっただろう?あいつ、凄く怒ってたのか?」

「メールのこと?」

「ああ。そういう、怒ってる文面だったのか?」

 沙希は首を振った。「たぶんそんなことはなかったと思う。ただ公園で会おうって書いてあっただけだったと思う。ていうか、よく覚えてない」

「どうしてだよ?どうしてそんな大事なメールを覚えてないんだ?」

「なくしちゃったから…」

「ん?」

「ケータイ、なくしちゃったから」

「ああ…」貴宏は顔をあげると、キョトンとした表情を浮かべた。「いつ?」

「わからない——。震災のあとだと思う。気がついたらなくなってたんだ。地震の直後にお兄ちゃんと公園であって、ケータイ貸してくれって言われて貸したところまでは覚えてるんだけど…。どこかに落としたのか——。とにかく、あんな後で何もまともに考えられなかったから、よく覚えてないんだよ」

「そうか」と貴宏は呟いた。「あの公園にはオレもいたよ」

 沙希は黙って頷いた。

 内心恐怖が渦巻いていた。人とあの時の話をしたことはこれまで一度もなかった。大樹がそのことに触れたのが誰かとそれについて話をした最初のときだった。そしてあんなことが起こってしまったのだった。

 耐えられるのか、全く自信がなかった。

「オレも見てたよ。全部」

 体が震えていた。ツンツルはいったいどこまで話すつもりなのだろうか。

「他の人たちは気づいたかどうかわからなかったけど…」

 ツンツル、もういいよ。もう十分だから。

「屋上に人影が見えた。豆粒みたいだったけど…」

 心臓がはち切れそうだった。呼吸も乱れていた。

「たぶんあれが…」

「やめて」

 ようやく声が出た。

「え?」

「もうやめて」

「ご、ごめん」貴宏は慌てた様子で長椅子を跨ぎ、沙希のそばに寄って背中に手を回した。「ごめん、気づかなかった。大丈夫か?」

 大丈夫と言ったつもりだったけれど、声になったのかわからなかった。

 しばらくの間、貴宏はやさしく背中をさすってくれた。ありがとうと呟いたけれど、それも声になったのかわからなかった。

 少しすると貴宏が言った。

「でもね沙希ちゃん、いいか、落ち着いて聞いてくれ。もしあのとき円谷からメールが来ていなかったら、沙希ちゃんも一緒に屋上にいたんじゃないのか?」

 言葉の意味がわからなかった。いったいこの人は何を言っているのだろうか。

「あいつは別に嘘をついたわけでもなく、怒ってたわけでもなく、ただ単に沙希ちゃんを助けるためにメールして来たんじゃないのか?」

「いったいなに言っているの?」思わず声を上げた。「そんなことあるはずがないよ。だってもしそうなら、どうして彼は逃げなかったの?どうして自分だけ屋上に居続けたの?めちゃくちゃなこと言わないでよ」

 激しい口調に貴宏は動揺した様子だった。

「そうだな」と彼は呟いた。「たしかにそこがよくわからない」

 声を荒げてしまったことが恥ずかしくて仕方がなかった。

 貴宏は腕時計に目を遣った。

「そろそろ戻らんとマズい」

 貴宏はそう言って腰を上げた。

「とにかく、絶対オレが何とかする」

「絶対って…」

沙希は苦笑した。

「ケータイが見つかったら、克服できるんじゃないのか?」

 え、と内心声をあげた。まるで今にも失われたケータイをポケットから取り出してみせそうな言い方だった。

「どうして?何か心当たりでもあるの?」

 沙希の問いかけに貴宏は答えなかった。だが、何かについてじっと考えていることは伝わってきた。

「悪いけど、先行くよ」

 貴宏はそう言ってドアへ向かって進みかけ、それからまたふと振り返った。

「そう言えば——」

 今度は何を言い出すのか、少し身構えた。

「菅野さんのところに昔の写真があったよ」と貴宏は言った。

「入り口のところの?それなら私もこのあいだ見たよ。たくさん飾ってあった」

「いや、入り口のところのやつじゃなくて」

「他にもどこかにあった?」

「ああ。奥のオフィスのキャビネットの上に額縁が飾ってあった」

「何の写真?」

「グランドピアノの前で、子供が四人写ってた。たぶん円谷家か竜石堂家のどちらかの家だと思う」

「そう」

「健翔君と、菅野さんそっくりの男の子が肩を組んで床に座ってた」

「その男の子なら、私も見たよ。入り口のところの写真にも何枚か写ってた」

 貴宏は黙って頷いた。「話の途中で菅野さんがふと立ち上がって、写真をじっと見つめてたよ。たぶん、菅野さんの息子さんだな。たぶん震災で——」

 沙希はどこかへ視線を落とした。やはりそうだったのか。嫌な予感が当たってしまったのだ。

「それで、あとの二人はピアノの前に並んで立ってた」

 沙希は顔をあげて言った。「礼子と、円谷君?」

「うん」と貴宏は頷いた。「円谷は不思議な顔をしてた。視線はカメラに向かってるのに、何も見てない感じがするっていうか——」

「彼、時々そういうことあった」

「ああ」貴宏は一瞬の間を置いてから言った。「大樹もあるよな。時々、そういうこと」

「うん」と沙希は頷いた。「私もいま同じこと考えてた」

「礼子は見るからに円谷のことで頭が一杯って表情だった。痛々しいくらい彼のことを意識してるっていうか——」

「そう」

「きれいな青いドレスを着て、もう立派な大人の女性みたいなのに、何がそんなに不安なのか、目が泳いでいるっていうか——」

 貴宏の言葉を耳にして、沙希はまるで予期していなかった陥穽に落ちたような衝撃を覚えた。

「いま、青いドレスって言った?」

「ん?」貴宏は沙希を見据えた。「ああ。青いドレスだったと思う。それがどうかしたか?」

「髪はアップにしてた?」

「ああ、そうだな。発表会用の衣装みたいだったかな」

「彼女、手にブーケを持っていなかった?」

「えっと」貴宏は沙希の突然の殺気に蹴落とされるように言った。「そうだな。言われてみると持ってたかもな」

 貴宏の言葉を聞いて、沙希は沈黙に落ちた。それはあの震災前のクリスマス・イヴの晩に撮影された写真に違いなかった。なんという不思議な巡り合わせなのだろうか。

「でも」と貴宏は言った。「どうして知ってるんだ?あの写真、前にどこかで見たことあったのか?」

「ううん」と沙希は首を振った。「彼女の発表会用の衣装のこと、誰かから聞いたことがあったから——」

 咄嗟に話を誤魔化した。あの日、のこのこと天翔の家に出掛けていったことを貴宏に知られたくなかったからだろうか。自分にもよくわからなかった。

「そうか。でも、あいつらは正真正銘の幼馴染みだったんだな」貴宏は苦笑しながら言った。「やばい。ホントに行かなきゃ」

 そう言って彼はドアに向かって通路を下っていった。

 なぜだろう。貴宏の背中が妙に寂しそうに見えた。

「ツンツル」沙希は言った。「私とツンツルだって幼馴染みだよ」

 貴宏は歩をとめて振り返った。ちょっと目を丸くした。

「私とツンツルだって、正真正銘の幼馴染みだよ」

 貴宏は黙ったまま沙希を見つめていた。それから言った。

「そっか。まあ、そうだな」

 彼は片手をあげてグータッチの仕草をした。それから、チャペルの重い扉を押して姿を消した。

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