第3話(1) カフェの恋 ードーナツの彼ー

 ある秋の土曜日の朝、私は行きつけのカフェへの道をいつものように歩いていた。散歩代わりに上り下りの道のりを歩きながらあれこれと考え事をする。その内容は作品のアイデアであったり、次話のエピソードの構成であったり、Web投稿して読者様からいただいた御感想への返事であったりだ。


 道の途中で、ゆっくりと歩いている若い男性を追い越す。身長は170cmには届いているぐらいだろうか。後ろから見ていると、すっきりと短く刈り調えられた頭が時々俯いてはまた前を向く。歩きスマホをしているようにも思えるが、追い越しざまにちらっと見ると、手に持っていたのは単語カードだった。

 高校生、今日も歩きながらも勉強しているのだろう。「頑張って」、そう声に出しそうになって、慌てて口を閉ざして歩く。かなり離れた頃合いを見計らって、呟く。「いろいろと頑張って」と。


 カフェに着いてドアを開けると、「いらっしゃいませ!」と元気な声が出迎えてくれる。「おはようございます」と返しながら、カウンターに向かう。笑顔で待っているのは、しばらく前に新しく入ったアルバイトの若い女の子だ。店長さんに聞いたところによると、社会経験と少しのお小遣い稼ぎを兼ねた、土曜日だけのシフトらしい。

 コーヒーを注文すると、「いつもの、ですね」と明るい声で返事をして、準備に入る。


「今日は良いお天気で、お散歩日和ですね」


 そう言いながら、彼女はカウンターにトレイを置き、マグを乗せてコーヒーに蜂蜜を垂らす。


「ええ、風もまだ冷たくないしね」

「空気も乾いてますしね。いつも、どのくらい歩かれているんですか?」

「家からここまで、三十分ぐらいかしら」

「それは、結構な時間ですね」

「そうね。まあ、運動不足の解消も兼ねてっていうところね。あ、シュガードーナツを一つもらえるかしら」

「はい、畏まりました」


 返事をするとお皿を出し、ショーケースの後ろの戸を開く。トングを手に持って、彼女は躊躇った。


「後ろから二番目の、少し小さいのをお願いできるかしら」


 すかさずそう頼むと、彼女は「はい」と返事した。その声に、ほっとしたような響きが聞き取れる。

 見ていると、トングを持った手を慎重に伸ばし、一番後ろのドーナッツを脇にけてその前の一個を挟んでお皿に乗せ、横に避けておいたものを元の場所に戻した。扱いがとても細やかで慎重だ。ドーナツについている砂糖粒を一つも落とすまいとするかのように。


 私は支払いを済ませてトレイを取り上げて店の横にあるテラス席に向かう。

 すると、背後で入口のドアが開く音がした。一瞬の間があって、彼女の挨拶が店内に響く。


「いらっしゃいませ」


 私の時よりも少しだけ、ほんの少しだけ音が高い。テラス席へのガラス扉に映ったのは、途中で追い抜いてきた高校生の彼だ。私は振り返りたくなるのをこらえて扉を開けて外に出た。

 背後では彼が、彼女が待ち構えているカウンターの前に立ち、メニューを見ずに俯いて注文している。


「レモンティーとドーナツを」

「はい、畏まりました」


 そう返事をすると、彼女は無言で準備をする。


 私は知っている。このやり取りが何度も繰り返されたことを。彼は土曜日の午前中はこのカフェで参考書を拡げて勉強するのが習慣らしいことを。いつもレモンティーとシュガードーナツを注文することを。そして、彼女は、彼とだけは、世間話ができないことを。


 彼女は、トレイにソーサーを置いてカップを乗せると、周囲に気付かれないように、ほんの少し多めの紅茶を丁寧に注ぎ、小皿にレモンスライスを添える。

 ソーサーをもう一枚取り出し、ガラスケースの中から一番手前のシュガードーナツをトングで迷わずに挟み取って乗せる。そのドーナツは、あらかじめ一番大きそうなものを選んで、一番手前に置いてあるのだ。ソーサーをトレイに乗せ、紙ナプキンを置く。

 会計が済むと、手をお腹の前で揃えて「有難うございました。ごゆっくりお楽しみください」と慎ましやかに頭を下げる。普段より少しだけ丁寧なその仕草を知ってか知らずか、彼は無造作にトレイを取り上げて、少し硬い足取りで自分のお気に入りの壁際の席に向かう。その後ろ姿を、彼女は見守っている。彼に気付かれることのないその眼に込められた熱さを私は知っている。多分、他の常連さんの数人も。それぞれの席で自分の飲み物を楽しんでいるふりをしながら、視線を二人に送らないように気をつけているのだ。

 彼がトレイをテーブルに置き、座ってバッグから取り出した参考書とノートを拡げると、店内にほっとした雰囲気が広がり、静けさが戻る。そして穏やかな土曜日の午前中の時間が、今日も流れ始めるのだ。


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