アイドルになるはずが剣士になってロボットで戦えってどんな謎理論ですか?

朱音紫乃

第1話 ウロボロス

 プロローグ



 ぼんやりと白い光を放つ太陽が天頂から下る中、生徒が憩うブナの大樹の緑鮮やかな中庭に面した窓は、電車の車窓から外を眺めるようにどこか非現実的な色を帯びている。

 ベンチにいるのは友達グループかはたまたカップルか。

 窓から最も離れた廊下側の席に座るイェジには知る由も無い。

 唯一分かるのは残酷な時間がイェジを無視して流れているという事だけだ。

 ――数学――

 どこの誰が考えたものか知らないが余計な事を思いついてくれたとイェジは思う。

 どこかの誰かに何らかの形で役に立っているのかも知れないが、イェジの世界で数学が存在しているのは講堂の中だけだ。

 学科を取った当初意義を伝えようと意欲的だった数学教師は、退屈な顔でぼんやりしているイェジに愛想を尽かしている。

 正面の3Dディスプレイには数字とアルファベットと記号が浮かび、数学教師の言葉や仕草に合わせて拡大縮小や色の変化をしているが、イェジにとっては何の意味も持たない。

 授業に匹敵する50分の時間があったら何ができるだろうか。

 好きなアーティストの新曲を聞きこむ事はできる。

 振りつけがあれば何となく覚えるし、振りつけが無ければ何となく思いつく。

 イェジは特待生で入った舞踊科では座学はともかく実技ではプロダンサーとして充分通用するレベルだし、そこそこ大きな大会で優勝してもいる。

 ダンサーになるのであれば学科を捨てて舞踊科を専攻すれば良かったし、現在でも事務所にこそ所属していないが学校に通わなくても中堅以上のダンサーにはなれる。

 好きだから、得意だからその道に進むのか。

 ダンスで卒業資格取得の話が来た時にイェジが迷ったのはそこだった。

 イェジにとってダンスは日常以上に当たり前過ぎる存在だ。

 4つ歳の離れた姉が6歳でアイドルに憧れ、右も左も分からないうちから姉に半ば強制的に連れていかれる形でスタジオに通っていた。

 小学校に通う頃には大人に混じって踊っていて、元々ダンスをやりたがっていた姉は見切りをつけて普通科の過程に進みダンスをやらなくなってしまった。

 姉が妹の才能に嫉妬して挫折したという事は子供ながらに理解している。

 とはいえ実力の世界の中で情けをかけるような事ではないし、人に褒められて悪い気はしない。

 イェジも御多分に漏れず褒められ、踊る事も特に苦痛ではなく、それが努力というものであるのなら努力も重ね特待生になった時には誰もその進路を疑わなかった。

 悩む事など無いような恵まれた人生なのかもしれないが、イェジはダンス以外の人並みの生活や常識というものを知らない。

 世界の広さも知らなければ――恋も知らない。

 人生の壁にぶつかってぐれるなり火遊びをするなりという選択肢があるとしても、イェジにはそもそもぐれかたが分からないし、悪い事と言えば夜中にチョコパイを食べて罪悪感を感じてみる程度だ。

 まさかドラマで見たからと友達に「ぐれてみよう」などと言う訳にも行かないし、実際にそれが楽しいかどうかも分からない。

 ――ダンスマシーンって言われるわけだ――

 自分が踊らされていると思うと踊る気にもなれず、かといって気が付けば踊っているし踊る以外の選択肢が無い。

 そもそも好きでダンスを始めた訳ではないというのが元凶なのだ。

 物心つかないうちにダンスに巻き込んだ姉が諸悪の根源とも言える。

 悩み抜いて相談したスクールカウンセラーに『やりたい事が見つからない人の為にこそ学校がある』と言われ一般教養課程を取る事にした。

 だが、それこそ運の尽きと言っても良かった。 

 小学校はちゃんと卒業しているが中学生に移行してからはダンスで単位を稼いできたために一般教養は広い世の中と同じくらいに分からなかった。

 一体何のために受講しているのか分からないほど分からなかったが、補習込みで最低でも一年間は履修しなければならない。

 DであろうとFであろうとそれが学校のシステムだからだ。

 イェジは他の生徒たちの様子を眺める。

 教師の声だけが響く教室で熱心にディスプレイを見つめる者、手元のノートに何やら書きこむ者。

 イェジは息が詰まりそうだと思う。

 そもそも動きに躍動感がない。

 あれだけせわしなくノートに数字を書き込むなら、もっとビートを感じさせる動きであって良いはずだ。

 数学を愛しているなら机に噛り付いたりせず鉛筆やノートをもっとダイナミックに動かしてもいいのではないのだろうか。

 鉛筆とノートを上に放り投げてターンして背面キャッチするのはどうだろう。

 ノートはせっかくバサバサするのだから広げた状態で持った方が振りつけとして動きが出る。水平に動かして途中でバックハンドに切り替えるのはどうだろう。

 一クラス15人もいるのだから一斉に動いたらかなりインパクトがあるはずだ。

 椅子に座って机に噛り付くなんて愛が足りない証拠だ。

 イェジの脳裏で幼少の頃から刻まれている8ビートがリズムを刻み、頭の中で同級生たちが踊り出す。

 無意識に足が反応して跳ね上がる。足の甲に硬質の衝撃が走る。

 瞬間、静かな教室に不似合いな騒がしい音を立てて机がひっくり返り、タブレットとノートが床に転がる。

 ――やらかしてしまった――

 数学教師が時が止まったように動きを止め、他の生徒たちが冷ややかな視線を向けて来る。

 イェジは古色然とした学園ドラマに出て来るフラストレーションを溜め込んだ不良ではない。

 憤懣を爆発させるべく机を蹴倒したのではなく、授業が退屈すぎて脳が暇を持て余した結果こうなったのだ。

 イェジだけの責任ではない……と、思う。

「イェジ」

 数学教師が半ば呆れた様子で言う。

「すみません」

 イェジは机を起こし、床に散らばった教材を拾う。

 変人だと思われているのは百も承知だが、クラスでの理解者は幼年学校から一緒だったコ・オンジョだけだ。

 イェジがいたたまれない気持ちで他の生徒たちの視線を感じているとオンジョがタブレットを音高く叩いた。

 その音で現実に引き戻されたように数学教師と生徒が動き始める。

 昔から頭の良いオンジョは咄嗟の機転がきく。助けてもらった事も一度や二度ではない。

 イェジは内心でオンジョに礼を言いながら席に着く。

 タブレット上の時計では残り三分。

 頭の中で一曲踊り終えるより早く講義は終わるだろう。

 イェジはペンを握りながら脳裏のプレイボタンを押した。



※※※



 昼下がり、春先の深みの無い淡い空の上に、これまた厚みのない雲が浮かんでいる。

 小春日和と言うにはやや肌寒く、かといってカーディガンの上にダウンを着れば暑い。

 固く冷たい石畳の道路は冬の名残を残し、道路を挟む赤レンガとモルタルの家々は百年前からそうであったかのように静かに佇んでいる。

 歩道を歩くイェジとオンジョの横をロードバイクのお兄さんたちが勢いよく通り過ぎていく。

「……やっぱり一般教養は無理だったんじゃない? あんた特待だし今からでも学校に言って単位を変えてもらったら?」

 ブレザーを着たオンジョが湯気を立てているイチゴのクレープを食べながら言う。

 単位を変えてもらうとしても九月の新学期から既に七か月が過ぎている。

 ここまで耐えた忍耐力を無駄にしたくは無い。たとえ何の成果もあがっていなくてもだ。

「ん~、なんだかんだここまで頑張ったし、ここで投げ出したらダンス、ダンス、ダンスになるじゃん? せっかく勉強しようと思ったんだし」

 イェジはクレープのバニラアイスを齧る。アツアツのクレープと半分溶けたアイスを発明した人は数学を発明した人より偉いだろう。

「イェジが勉強しようって思うのが分からないよ。あんた幼年学校の頃からダンスのイメージしかないし、悪いけど一般教養赤点しかないじゃん」

 オンジョの言葉の意味をイェジは理解している。

 イェジは運動神経に自信があるしダンス以外に取柄がない。 

 イェジ目線でオンジョをはじめとしてリズム感の無い人がほとんどだし、画家がインスピレーションで白い紙に絵筆を走らせるように、自在に身体を操って表現者になれる人間は一握りしかいない。

 イェジはロワーヌ太后州の片田舎ではあるが、町一番のダンサーとして知られている。

 小さい頃は疑問を持つ事など無かった。

 イェジが踊れば周りの人々が笑顔になる。歓声を上げる。踊り出す。

 そんな当たり前の中で、16年も自分がそれ以外の事を知らなかった事、知ろうとして来なかった事、それは恐ろしく世間知らずで、馬鹿な事だったのではないだろうか。

 そして履修した普通科で数学や科学を取った所で、自分は馬鹿ではないかという疑念が確信に変わっている。

 ペンを動かす時はノートの端に棒人形を書く時で、パラパラめくるとダンスの振りつけだったりする。

 高度な振りつけを四度も見ればコピーできる自分が、真面目に座るという事すら満足に真似できない。

「それってダンスしかできない馬鹿って事じゃない」

「イェジ被害妄想もたいがいにしなよ。ダンサーになりたいって言ってなれない人の方が多いんだし。私の幼年学校の時の発表会はあんたも知ってるでしょ。人には得手不得手があって、あんたの場合はそれが尖りすぎてるのよ」

 オンジョが棘のある口調で言う。ここ最近このような会話が増えている気がする。

 数学や科学は退屈であるだけでなく人間関係も破壊するものであるらしい。

「オンジョは勉強できるからいいじゃん」

 イェジは学校を出たら一生ダンス漬けという事が目に見えている。

 嫌だという訳ではないが、そうあるように願った訳ではなくそうあって欲しいと思っている訳でも無い。

 できる出来ないでは無く、人として無目的に漫然と続けるのが正しい事とは思えないのだ。

「当たり前でしょ。あんたは踊れる。けど、私は踊れなくても3Dモデリングであんたの動きを再現できる。イェジはイェジ、あたしはあたし」

 オンジョが誇らしげに言ってクレープを頬張る。

 人生にそこまで自信が持てるのは一種の才能だろう。 

「ねぇ、オンジョ。私どうしたらいいんだと思う?」

 イェジが溶け落ちそうなバニラを一気に頬張るとオンジョが真剣な視線を返してくる。

「あんたの欠点っていうか……弱点分かってる?」

 改まった様子で言われてイェジは心臓が縮みあがるような感覚を覚える。

 イェジは勉強ができないと言われた事はあっても、これまで欠点だの弱点だのと言われた事が無い。

 振りつけの覚え違いや表現の方法で意見が衝突した事はある。しかしどんな時にも相互にリスペクトがあったはずで、一方的にダメだしされた事はない。

「べ、勉強ができない事……とか?」

 友人の唐突の変化にイェジはついていく事ができない。

「人間に欠点があるのは当たり前。あんたの失敗は挫折を知らない事なのよ」

 オンジョの言葉にイェジは時が止まるのを感じる。

 イェジはそのような事を言われた事が無い。ダンスと言えばイェジ、きっと誰をも魅了するダンサーになる……。

「勉強ができないなんて生ぬるいのよ。あんたは他人の土俵で負けているから他人事でいられる。あんたはあんたの土俵でそれを知らなきゃならないのよ」

 鋭い視線を向けられたイェジは手からクレープが滑り落ちるのを感じる。

 最も身近な友人はこんな事を考えて自分と一緒に行動していたのだろうか。

 ――他人の土俵で負けているから他人事でいられる……――

 イェジは口を開きかけて止める。

 言うべき言葉が見つからない。

 ――ダンスで挫折する?――

 しかし、イェジは自分より優秀なダンサーを何人も知っているし敬意も払っている。

 たかがロワーヌ太后の一地方で有名なだけで国際舞台で活躍している訳でもない。

 むしろ自分の限界を感じてもいる。

 本当に自分に自信があれば世界的な芸能プロダクションの「ウロボロス」のオーディションにでも挑戦していたのだ。

 しかし、ダンスとその表現力だけでトップスターにはなれない。

 生まれついての体格だったりルックスだったりという部分は努力だけでは補えない。

 ――だからダンス以外の事をしようと思ったのかな――

 ダンスに挫折した訳ではない。国際的な大会に挑んで敗北したという訳ではない。

 スターダムで自分より能力がある人間を認める事と自分が敗れて挫折感に塗れる事は違う。

 ――小さいころのお姉ちゃんみたいに――

 オンジョの視線が突き刺さる、授業より静かで張り詰めた時間が流れていく。

「あのさ……」

 イェジが言いかけた瞬間、自動車が衝突するような音が道路の空気を震わせた。

 オンジョが視線を向けた道路の先で灰色の煙が上がる。

「何?」

 オンジョがさっきまでとは異質の緊張感を感じさせる声で言う。

 聞いた事もないサイレンとけたたましい金属音と破砕音が響き、慌てた様子の自動車がイェジたちの歩いてきた方向に向けて走っていく。

 何事かと思ううちに横道から地響きと共に全高8メートル程の青と白に塗装された警察の警備用ランナーが姿を現す。

 ランナーとは主に人型をした大型作業用重機の事だ。

 警備用ランナーは大型トラックに手足を生やしたような重心の低い無骨な形をしており、人間であれば頭のあるべき場所にパトランプがついてサイレンを鳴らしている。

『ロワーヌ太后州警交通課です。所属不明のランナー破壊行為をやめて止まりなさい!』

 警備用ランナーが警棒を引き抜くと雷が鳴るような音を立てながら道路の先から二回りは大きなランナーが、警備用ランナーを弾き飛ばしながら道路を進んでくる。

 大きかろうが小さかろうがランナーが公道を移動するのは道路交通法違反だ。

『うるせぇ! 飲んで悪いのかよ!』

 燃え上がる炎をそのまま凍らせたかのような赤とオレンジの外装を持つ赤鬼のようなランナーが咆哮する。

 収穫祭の奉納舞踊に端を発するとされるランナー同士が戦う試合「ランナバウト」。その舞台で使われる競技用ランナーはその大きさと芸術性を考えると神像と山車の中間のような存在かも知れない。

 赤鬼の巨躯と警備ランナーを見るとまるで大人と子供、警備ランナーが相手になるとはとても思えない。

「イェジ、ヤバいよ」

 迫力に飲まれたようにオンジョが細い声で言う。

『飲むのが悪いのではなく飲酒してランナーに乗る事と公道をランナーで走る事が法律違反なのです!』

 警備用ランナーが道路に立ち塞がるが赤鬼の前では自殺行為にしか見えない。

 競技用のランナーは非常時の治安維持義務もあり、そもそも暴走する事が想定されていない。

『お前に俺の何が分かるってんだ!』

『分かります。まずはランナーを降りて話し合いましょう!』

『知った口をききやがって……これが飲まずにやってられるか!』

 赤鬼が図体に似合わない俊足で地響きを立てながら警備用ランナーに接近する。

 警備用ランナーは赤いランナーのライダーを制止するのではなく挑発してしまったらしい。

「イェジ! 逃げよ!」

 オンジョが我に返った様子で声を上げた瞬間、赤鬼が丸太のような腕を振り、弾き飛ばされた警備用ランナーが道路に面した赤レンガの家屋を破壊しながら転がっていった。

 つむじ風のような衝撃波が吹きつけ、砂埃で目を開けている事もできない。

「イェジ、大丈夫!?」

 イェジが薄く目を開けると、顔を腕で覆ったオンジョの姿が見える。

 砂埃で目を開けていられないらしいオンジョはとても大丈夫には見えない。

 巨大な質量が動く気配に、咄嗟にイェジはオンジョを抱いて路上を転がる。

 一瞬の差で普通自動車程の巨大なランナーの足が、ハンマーのように石畳の道路を踏み砕く。

「イェジ……」

「オンジョ、静かに!」

 イェジはオンジョの体温を胸に感じながら言う。

 あの酔っ払いは何をしでかすか分からない。

 普段なら頼りになるはずの警備ランナーもいともたやすく吹き飛ばされてしまう。

 イェジが目を細める先で赤鬼が学校の校舎に向かって行く。

 急な事で生徒が避難しているとは思えないし、あの赤鬼が学校で暴れたら大変な事になる。

 ――知らせなきゃ―― 

 警備ランナーでもどうする事も出来ないのなら逃げるしかない。

 あの酔っ払いが校舎を破壊したら死人が出るかも知れない。

 イェジが学校に危険を知らせようとポケットから端末を取り出そうとすると、赤鬼の踏み出した足が地響きを起こした。

 オンジョが腕にしがみつき、イェジの手を離れた端末が石畳の道路に転がる。

 端末に手を伸ばしかけた所で赤鬼が地響きを立てて向きを変え、巨大な足がイェジの目の前で端末を粉砕した。

 イェジは端末を諦めて赤鬼を注視する。

 酔っ払いがどちらに向かうのか分からず身動きを取れない。

 砂埃が風に流され目の前に赤鬼がその姿を露わにする。

 その威圧的な姿はランナバウトの試合であれば良いのだろう。しかし、今は気まぐれに動かれるだけでイェジとオンジョは踏みつぶされてしまう。

 注意を引かないように走って逃げる事はできるかも知れない。

 だが、オンジョは腰が抜けているし赤鬼は人の歩幅を軽々と超えてしまう。

 ――でも私一人なら?―― 

 イェジから運動神経を取ったら何も残らない。

 オンジョの腕を解いて歩道の向こうに突き飛ばす。

 オンジョがひとまず安全圏に出たのを見て考えるより先に走り出す。

「バァーカ! バーカ!」

 イェジが声を上げると髪を逆立てた鬼のようなマスクが向けられる。

『バカって言ったヤツがバカなんだ! 躾のなってねぇ小娘にバカ呼ばわりされるなんて飲まずにいられるか!』

 酔っ払いが頭の悪そうな怒声を上げる。

 赤鬼が腕を振るい、民家の二階がごっそりと抉られる。

 イェジの目の前に冷蔵庫が落ちて石畳に斜めに突き刺さる。

 イェジが飛びのく間にも破片が降り注ぎ石畳の上で耳障りな音を立てる。

 この酔っ払いは人死にが出ると思わないのだろうか。

「お巡りさんが飲むなって言ってたでしょ! バカじゃないの!」

 自分はバカだバカと思って来たが、歳を食ってもまるで成長しないバカがいるらしい。

『ガキに何が分かるってんだ! これが飲まずにいられるかってんだ!』

 イェジを追いかけるように踏み出された足が冷蔵庫を粉砕する。

 大人げないと言いたいが言う余裕はない。

 飲酒運転が駄目だという理由が良くわかる。

 一心不乱に走るイェジの後ろ髪を巻き上げて背後に足が踏み下ろされる。

 ――私の足じゃ……――

 逃げ切れない。

 赤鬼が陽光を遮る。どこまでも続く影の中をそれでも走る。

 地響きが自分を踏みつぶさないのは赤鬼が遊んでいるからか、それとも間一髪で逃れ続けているのか。

 息が切れる。誰かに助けて欲しいが人力でどうにかなる相手ではないし、警備ランナーが出て来る様子もない。

 何度目かの地響き。生きている心地がしない。限界に達したはち切れそうな足が動かない。

 ――もう駄目だ――

 石畳につまづきそうになりながら、それでも身体はバランスを取って必死に生きようとする。

 これまで鍛え上げた身体に答えて前を見据えて走る。

 心と身体が一瞬先の分からない生を求めて足掻く。

 背後に迫る地響きの恐怖より、歩みを止める事への恐怖、生きる事への希望が先立つ。

 ――私は負けない!――

 どんな窮地でも自分には決して裏切る事のない、これまで鍛え上げて来た肉体という相棒がいる。

 赤鬼の鉄槌が背中を掠めイェジの身体が石畳の上を転がる。

 転がりながら体勢を整えて地面を蹴って立ち上がる。今度こそ回避不能な赤鬼の足が頭上に落ちかかる。

 と、イェジの目の前に白い壁が出現した。

 急ブレーキをかけた所で足が滑って尻もちをつく。

 慌てて起き上がろうと着いた手にガラスの破片が刺さって鋭い痛みが走る。

 ――踏まれる!――

 それでも起き上がろうとした瞬間、イェジは目の前に白い巨大な花が咲いているのを見た。

 神々しいまでに美しい――それは純白の花弁を重ねたかのような白の電気騎士――

 アイドリング状態の低く唸るような雷音は競技用ランナーの金属繊維に息を吹き込むプラズマの吐息だ。

『テメェ! 俺に飲むなとでも言いてぇのか!』

 無分別に赤鬼が前進し、イェジの上に巨大な足が降りかかる。

 白騎士が片手を伸ばし、片足立ちになった赤鬼が仰向けに倒れる。

 イェジは砂埃の中で白騎士を見上げる。

『クソがっ! まずい酒になんだろうが! 飲まずにやってられるかってんだ!』

 起き上がった赤鬼が腰に手を伸ばして剣のような武器を手に取る。

 握られた剣の柄が伸びて槍に姿を変える。

 イェジのすぐ傍で白騎士の雷音がライダーの――ランナーのドライバーはライダーと呼ばれる――鼓動のように圧力を増す。

 驚くべき事に白騎士は足を踏み出してもまるで音を立てない。

 古典舞踊の足さばきを洗練させたかの動きは騎士というより舞姫と言えるだろう。

 赤鬼が突進した瞬間、白騎士が機械とは思えない身軽さで宙を舞った。

 体操の跳馬のように空中で逆立ちになり、片手を赤鬼の頭に置いて身体を捻る。

 落下しながら背後から赤鬼の腕を取って、着地と同時に捻りながら足を払って這いつくばらせる。

 必要以上に華麗で大仰な動きだが、取り押さえる姿は警察の捕縛に似ている。

『飲酒運転は違反15点、公道走行は違反20点です。免停の上、今後一年あなたは免許を取得する事ができません』

 白の電気騎士が涼やかな声を響かせる。

『たかが三本が飲んだうちに入るか!』

 吠えた赤鬼がモーター音を唸らせるが、腕を捩じられて組み伏せられている為か身動きする事ができない。

『量の話ではなく、アルコールを摂取したら飲酒なのです』

『酒は百薬の長って言うんだよ、テメェは糖尿患者にインシュリン打つなって言うのかよ! 酒も飲めねぇ下っ端じゃ話にならねぇ! 話の分かるヤツを連れてこい!』

 赤鬼が喚き散らすが関節を締め上げられて動けそうにはない。

『医師の処方でなければ公式に薬品であると認める事はできません』

『伝統医療をバカにすんのか! 怪我だって酒かけて治すんだよ!』

『医療用と嗜好品の区別もつかないのですか。あなたは耳掃除のついでに脳を掻き出してしまったんですか』

 白騎士が一々返答する。手も足も出ないのだから赤鬼は騒がせておくだけでいいとイェジは思う。

『耳かきで脳が出るか! バカがっ!』

『失礼。耳かきで脳が出ないという事くらいはあなたにも理解できるのですね』

『コクピットから出てこい! イッキで勝負しろ! 腰抜けが!』

『あなたもライダーならフィールドで決着くらい言ったらどうですか?』

 赤鬼と電気騎士が不毛な口論をする間にも無骨な警備用のランナーが地響きを立てながら集まって来る。

 赤鬼の胸部のコクピットに回り込んだ警備ランナーがハッチを強制排除する。

 警備ランナーの武骨な手がコクピットから赤ら顔の中年男性を引きずり出す。

 魂を失ったかのように赤鬼が崩れ落ち、白騎士が手を離す。

 やっと終わったのだと思った瞬間、イェジの膝から力が落ちて石畳の上にへたり込む。

 意志の力で膝立ちになっているが気を抜けば意識を失ってしまいそうだ。

『ご苦労様です』

 警備ランナーがパトランプを回転させて白騎士に向かって言う。

『ただの警備出動です。それではごきげんよう』 

 何事も無かったかのように言って警備用ランナーに赤鬼を引き渡した白騎士がイェジの前を通り過ぎ……。

 そのマスクがイェジの方に向けられたかと思った刹那……。

 音も無く舞い上がると住宅を飛び越し、旋風を残して重力を感じさせない軽やかさで去っていく。

 時計台ほどの大きさの機械があれほど華麗に舞える事が信じられない。

 中の人の会話は残念だが、電気騎士には圧倒されるばかりで思いつく言葉はと言えば一つしかない。

 ――すごい――

 イェジは白騎士、もといランナーの去っていた方角に目を向ける。

 と、今更のように右手に目を落とすと手のひらにガラスの破片が突き刺さっている。

 尻もちをついた時のものだろう。後で学校の保健室で縫ってもらう事になるかもしれない。

 自覚が出たせいか右手がじわじわと熱くなって来る。

 酔っ払いには腹が立つが、お陰ですごいものが見れたのかもしれない。

「イェジ! 大丈夫!? 何やってんの!」

 警備隊の毛布にくるまったオンジョが声を上げる。

 オンジョと学校の窮地を救おうとしたのだと言った所で信じないだろうし、説明するだけ野暮というものだろう。

 イェジはケガした右手を抑えながら苦笑いでオンジョに向かって歩を進める。

 ヒーローは多くを語らないのだ。



※※※



 鮮やかな朱に空が覆われた夕暮れ、イェジはロワール川にかかった橋の欄干にもたれながら町に昔からある時計台を眺めている。

 右手に刺さったガラスは神経を傷つけていなかったものの、一歩誤れば一生指が不自由になるかもしれなかった所であったらしい。

 傷口の縫合も済んでいるが麻酔が切れたらまた痛み出すかもしれない。

 ――何か騒がしい一日だったな―― 

 学校の帰り道にオンジョに胸に刺さる一言を言われ、その内容を考える余裕も無いまま酔っ払いランナーが現れ、白いランナーに取り押さえられ。

 右手が不自由になるかもしれないと言われてゾッとし、無事でホッとし。

 今日という日をどう考えていいのか分からない。

「これは美しい」

 突然響いた声に目を向けるとそこには比肩するものの無い美貌があった。

 一見して性別は分からない。地毛なのか染めているのか分からない腰まで伸びた金髪。

 顔は神が全力で依怙贔屓したとしか思えないほど整っているが人種は分からない。

 白いスーツ姿だが、それが男性用か女性用かは分からない。

 イェジが言葉も無く眺めていると映画のワンシーンのように顔が向けられる。

「百年前の写真家のアランの作品である残照のアングルが正にこの場所です。あかね雲を背に寂寥感を感じさせる時計台のシルエットが水面に伸びる。彼はこの場所を切り取った」

 言われて見ると今更ながらに空は茜色に燃え、時計台が切り抜かれたように黒い影となって聳えている。

「その位置からではこの感動は味わえません。アランが見たのはこの場所からです」

 お節介な白スーツが両手で額縁を作って言う。

「それを見ろって言うんですか?」

 イェジは警戒しながら白スーツに近づく。

 水面に映った時計台と朱が歩に合わせて移動する。

 イェジは水面から顔を上げ、息を飲んだ。

 あかね雲と時計台が合わせ鏡になって圧倒的な美しさが迫ってくる。

 何年もこの橋から時計台を見て来たのに、ほんの数メートル先の美しさを知らずに来た事が信じられない。

「きれい……」

 イェジが言うと白スーツが身体ごと向いてくる気配があった。

「あなたは何故あのアングルで時計台を見ていたのですか?」

 厳しい美術教師のような口調で白スーツが言う。

「何となく。昔からです」

 橋で一人でたそがれる時は大抵あの場所だった。

 いくらダンスが上手と言われていても、思った通りに踊れない事はあるしミスもする。

 多芸多才ならいいが一芸しかないイェジにとって一つのミスは人格を否定されたかのような気分になる。

 そんな傷ついた時、一人になりたい時はこの欄干のあの場所から時計台を見たのだ。

「なるほど、確かに夏の夕暮れはあなたの場所ですね」

 何かに納得した様子で白スーツが言う。

「何の話ですか?」

 イェジは聞き返す。白スーツが何かこだわりを持って生きている事は分かるが、言っている内容が不可解だ。

「あなたの居た場所から時計台を見る時、この季節だと凡庸ですが夏の夕暮れであれば時計台の三角屋根の上に夕日が重なります。あなたが最初に見た景色はそれだったのでしょう。それが習慣化したなら納得できます」

 白スーツが勝手に納得する。言われてみればそうかもしれないが、イェジにとってはただの習慣でそれ以上のものではない。

「あなたは誰ですか。私は州立トロワ高校のイェジです」 

「私はクリスチャンです。自己紹介も済んだ所で私からあなたに提案があります」

 自己紹介らしい事を言っていない気がするがクリスチャンが端末にコードを表示させる。

「何なんですか?」

 イェジは警戒して言う。知らない人に端末の番号を教えてはいけないし、不用意にコードを読み込んでもいけないのだ。

 白スーツが小さく息を吐く。

「ウロボロスのオーディション参加申し込みです。ウロボロスというのは手前味噌ですが、ランナーチームと歌劇団を擁する芸能事務所で、オーディションに合格すれば惑星最高の事務所の練習生になる事ができます」

 イェジは困惑しながら美しすぎるクリスチャンの顔を見つめる。

 イェジもウロボロスは知っている。否、知らない方がおかしい。

 世界一の事務所を構える芸能界の巨人。名を冠するタレントはスターとなる事が宿命づけられる名門中の名門。

 ウロボロスのアイドルのコンサートや歌劇のチケットは常にプラチナ、グロリーやヨークスター太陰では家を買うより高額で取引される事もあると言う。

「不審者じゃないですよね。嘘だったら通報しますよ」

 イェジは念を押すようにして言う。

 事実ならこれはスカウトだが、ウロボロスの大物がこんな田舎に現れる訳がない。

 しかもイェジは踊る所を見せた訳でもないのだ。

 クリスチャンが目尻を下げて小さく息を吐く。

「ウロボロスの公式ホームページから役員を検索してもいいですし、ランナーチームの所属ライダーを検索してもいいですし、歌劇のプロデューサーを検索しても構いません」

 イェジはその言葉に息を飲む。

 それが事実ならイェジの態度は失礼にも程があるし、スカウトとしてもトップ案件という事になる。

 イェジは端末でクリスチャンのコードを読み込む。

 ウロボロスの公式画面が映り、自動的にオーディション申し込み画面に遷移する。

 そのオーディションは四年前に新人の募集が締め切られた「迷宮少年」のものだ。

 迷宮少年は男女それぞれ四人のアイドルユニットを生み出す企画で、既に動画でも放映され、それぞれのメンバーには熱狂的なファンがついている。

 今年のクリスマスにデビューのはずだから四か月弱しかサバイバルの時間は残されていない。

 ――まさか私はトップスターになりつつある人と戦うのか――

 入力画面の片隅に見えない程の大きさで推薦人クリスチャンと署名され、バラの文様が描かれている。

「入力する前に聞きたいんですが、私の何を見てスカウトしたんですか?」

 イェジの言葉にクリスチャンの眉間に皺が寄る。

「つべこべ抜かすと身包み剥いでイカ釣り漁船に売り飛ばしますよ」  

 冗談に聞こえない視線と声音でクリスチャンが言う。

 イェジは端末に視線を落とす。練習生というサバイバルを勝ち抜く必要があるにせよ、これが本当なら人生のチャンスなどというものではない。

 しかも自分はウロボロスの生ける伝説クリスチャンにスカウトされたのだ。

「迷っているならヒントを差し上げます」

 改まった口調でクリスチャンが言う。

「私はこの上なく美しいものが好きで、美しい友情を見た。それが理由です」

 その言葉にイェジは胸を突かれる。

 赤いランナーからオンジョを守った時、クリスチャンはどこからかイェジを見ていたのだ。

 助けてくれても良さそうなものだが、誰一人信じてくれないあの行為を評価してくれていたのだ。

 イェジが顔を向けるとクリスチャンは彼にしかできない完璧さで背を向けた。

 流れるような動作でそのまま歩いていく。その背、その肩、その足運び、その全てが美しい。

 イェジは熱に浮かされたように端末でエントリーをしかけて手を止めた。

 ウロボロスに入るならこの先何度この町に戻って来れるか分からない。

 姉くらいには相談をしてから決めても良いはずだった。



 ※※※



 ウロボロスエンターテイメントの代表取締役カン・へウォンはバレンシア朱雀州にある本社ビルの会長の執務室を訪れている。

 へウォンは栗色の髪を長く伸ばした29歳の女性で立場上スーツを着ている事が多い。

 ヨークスター太陰州の若手起業家はポロシャツやパーカーを着ている事もあるが、ウロボロスの規模と格式には相応しくない。

 赤絨毯と白を基調としたロココ調の会長室内は自然と背筋が伸びる程に美しい。

 応接用のソファーの向かいにはウロボロスオーナーで銀髪の麗人のオーレリアン・バラデュールと、共同オーナーであり会長のクリスチャン・シュヴァリエの姿がある。

 目の保養になると思えたのは就職してからせいぜいが二週間と言った所だった。

 六年前世界最大のランナバウト、四年に一度の大祭「カーニバル」の開催権でウロボロスは蘇利耶ヴァルハラと争い多額の負債を背負った。

 その時ヨークスター太陰中央銀行に勤務していたへウォンは熱心な一ファンとしてウロボロスにアドバイスした。

 結果として当人たちから金に疎いからとスカウトされ代表取締役になったのだが、世界最高の呼び声高いウロボロスの経営状況は控え目に言ってどんぶり勘定だった。

 何をするにも収支を度外視していたのではギャンブルと変わらない。

 しかも、このオーナーたちの判断基準は美しいかどうかという極めて漠然としたものなのだ。

 オーレリアンとクリスチャンがレジェンドだから多くのタレントも盲目的に従っているが、これが一般的な芸能事務所であればとっくに破綻していたはずだ。

 とはいえ、ウロボロスは芸能事務所という次元の存在ではない。

 ウロボロスエンターテイメント本社の下に子会社として音楽配給のミュージック、映像配給のピクチャー、タレント事務所としてのエージェンシー、舞台興行としての歌劇、ランナバウトチームとしてのUMS、ファッションブランドとしてのウロボロス、広告企業としてのマーケティングがある。

 ミュージック、ピクチャー、エージェンシーはへウォンが歌劇から分社化したもので、最大の稼ぎ頭となっているマーケティングはへウォンの肝入りだ。

 反対に金食い虫で組織のお荷物となっているのがモータースポーツのUMSだが、オーナーたちはランナバウトをしたいからそもそも芸能を始めたというのだからそこを否定する事はできない。

「単刀直入に聞きます。トロワでオーディションを開催する決定は誰が下したのですか?」

 へウォンは事務的な口調で切り出す。人間の放つ気迫のようなものでは位負けする所があるが、経営に関してへウォンはプロで二人はド素人以下だ。

「私です。このトロワオーディションでは素晴らしい金の卵が見つかるでしょう」

 クリスチャンが嫣然とした笑みを浮かべて言う。

「何故エンタの社長である私に断りもなくオーディションを手配したのですか。迷宮少年のデビューまで残り半年もないんですよ」

 へウォンはクリスチャンの澄んだ氷碧色の瞳を見据える。

 魅了されたら負けという事はこれまで散々学んできている。

「開催すると言ったらあなたは反対するでしょう。私は美しいものが得られるのなら手段を選びません」

 クリスチャンの傍らでオーレリアンが頷く。

 艶やかな銀髪に淡いグレーの瞳、色白で薄い唇は大理石を削った彫刻のように非現実的で美しい。

「あなた方はご自身で判断を誤る認識があるから私を雇用している訳ですよね? 反対されると分かっているなら何故反対されるかも分かっているでしょう? 私にそれを説明させたいのですか?」

 へウォンは二人に向かって言う。自分は現代経済学を学びヨークスター太陰中央銀行に入社した冷徹非情のキャリアウーマン、年齢を考えれば本来ならそのままどこかの銀行の支店長なり役員なりを経てあわよくば中央銀行の専務や常務の椅子を狙えたはずの経営のプロだ。

 ――その一方でウロボロスの熱狂的なファンだった。

 ウロボロスの経営危機の噂を聞き、匿名のSNSでアドバイスした所オーナー二人から直々にオファーが来た。

 その時の喜びは今も忘れないが、その後の苦労を知っていたなら……やはり受けていたかもしれない。

 十代の頃からウロボロスの、特にクリスチャンのファンなのだから仕方ない。

「現在アイドルユニットはウロボロスで人気を独占していて市場が共食い状態にある。歌劇団は人員が多すぎて出番が回って来ないとタレントたちが不満を抱えている。ランナーチームはレギュラーの三人が出そろっている。練習生だからと無分別に増やした所で活躍できる場などない」

 オーレリアンがやや状況を把握した様子で言うが、オーディションを開いた当事者であれば反応は違っていただろう。

 こやつらは美しいと言い出すとポンコツ極まりない残念な美形になるのだ。

 しかもオーレリアンの認識ですら現実と乖離がある。

 かつてはウロボロスは歌劇とモーターとファッションの三本柱だったが、今では歌劇からエンタメ系の分野は分社化している。

 そしてそれぞれの会社の社長が常務として本社であるウロボロスエンターテイメントで役員を務めている。

 10名の役員の半数が歌劇出身のエンタメ派、残り半数が会長派なのはへウォンが会長にブレーキをかける為、また役員会の決定に説得力を持たせるためだ。

「いいですか、ウロボロスミュージックは現在の練習生のサバイバルを主力として放映し、将来的なファン獲得の為に先行投資しています。サバイバルは既に佳境に差し掛かっており、有力な練習生には固定ファンもついておりマーケティングとの広告契約の内定もあります。ここで新規メンバー参入は経営をいたずらに混乱させるだけですし、新人のプロデュースには相応の投資が必要になります。これまでのミュージックの方針を放り出し、新たに目途も立たない投資を上積みさせろと言うのですか」 

 へウォンはクリスチャンに向かって、オーレリアンにも聞こえるようにはっきりと言う。

 本来ミュージックの社長が役員会で言うべき事だが、役員会を開くにしても社長である自分が会長の真意を知っておく必要がある。

「素晴らしい才能であれば良い競争相手となるでしょう」

 状況を飲みこめていないのかクリスチャンが涼しい顔で言う。

「会長、迷宮少年のデビューは今年のクリスマスです。次期に回すならともかく中途半端な次期にオーディションを開いて新規の練習生を入れる事が問題なんです。デビューの日程が後ろ倒しになればこれまでの投資回収が遅れミュージックの風評と経営に悪影響が出ます」

 練習生は世界中でスカウトした男女30名の少年たちだ。

 直々に指導するという方針の為完全宿舎生活で生活を高いレベルで完全に管理している。

 高いレベルとは、美しいものを知らないと美しさを表現できないというクリスチャンの美学による余計な生活水準の高さに起因するものだ。

 後々ウロボロスに貢献するのだとしても、厳しい訓練を含め投資している額は大きい。

「私の見込みが正しければ新たなメンバーの参入は練習生に良い影響を及ぼします」

 クリスチャンは動じた風もなく言う。 

 現実問題としてオーディション開催を告知してしまったのだから今更撤回などできないのは事実だ。

 だが、引き返せないから黙って引き下がるという訳にも行かない。

「会長の見込みが正しく無かった事は多々あります。それに既に四年は練習生を続けて今年にはデビューできると思っていた彼らにどう説明するつもりですか?」

 へウォン自身ファンになってしまいそうな金の卵がウロボロスの練習生にはゴロゴロしている。

 ファンたちもデビューの日を心待ちにしているし、延期は経営面だけでなくファンに対する背任にもなる。

 へウォンの視線の先でクリスチャンが優雅にため息をつく。

「練習生には折り返しだと言えばいいのです」

「納得できないでしょう! 練習生もファンも! 四年ですよ!? 焦らして焦らして遂に発表って所で折り返しなんてあり得ないでしょう!」

 現在の練習生は単に競わせてアイドルや歌劇や役者としてデビューさせるというだけではない、ウロボロスの新たな顔としての責任と名誉が担わされている。

 で、あればこそその中から選ばれるであろうオーレリアン、クリスチャンの後継となるライダーとしての才能を問われてもいる。

 芸能人とアスリートに求められるおおよそ全ての基準をクリアするであろう逸材を集め、育て、その集大成が熟した果実のように落ちようという時なのだ。

 へウォンが声を上げるとクリスチャンが困ったような表情を浮かべる。

「率直に言いますと練習生たちは素晴らしいのですが、私の後継者にしたいとは思えないのです。芸能人として申し分が無くとも天衣星辰剣として彼らには資質があると思えないのです」

 ややこしい話が出たとへウォンは内心で頭を抱える。

 天衣星辰剣は世界に存在する三大剣術流派の一つだ。

 カーニバルで神楽を舞う、この最も美しい剣術の伝統を守り絶やさないという事がウロボロスの活動の根幹に存在している。

 ウロボロスは誰もが認める最高峰の総合エンタメ企業だが、実の所美の追及の副産物が芸能部門というのが彼らの中での真実で、芸術を通じての後継者探しと育成という目的が無くなれば彼らが芸能活動を行う理由が消えてしまうのだ。

 へウォンの存在意義は彼ら言わせる所の蛇足である経営で、剣術云々の話になると途端に門外漢になってしまう。

「目星があるようだな」

 オーレリアンが言うとクリスチャンが薄い笑みを浮かべる。

「私は天衣星辰剣を継ぐべき人間を見つけたかも知れません。あなたがアナベルを見出して以来8年間私はこの日を待っていました」

 アナベル・シャリエールはオーレリアンが発掘したウロボロスのスターだ。

 ダンサーでありシンガーでありアクターである。ランナバウトではオーレリアン、クリスチャンに次ぐレギュラーライダー。人気絶頂のウロボロスの目玉商品だ。

 ぼんくら二人に比べるとまともな経済感覚を持っており、トップ交代をして欲しいとさえ思う。

「アナベルは優れた人材だが天衣星辰剣には不向きではあった」

 オーレリアンが苦い口調で言う。

 へウォンが見る限りアナベルは死角が無いのだが、二人が剣術家としての顔を出すと経営や世の中の常識というものが一切通用しなくなってしまう。

「だから慎重に選べと言ったのです。私はあなたとは違います」

 誰に対しても慇懃無礼なクリスチャンが言う。

 クリスチャンは天衣星辰剣ではオーレリアンの弟弟子に当たる。年齢差は彼らの年齢が不詳なのと同じく不明だ。

「今季の練習生の中に天衣星辰剣の適性が無いのは分かるが彼らも素晴らしい才能の持ち主には違いないだろう。それに天衣星辰剣の適性があるからといって必ずしも芸能人として大成できる訳ではない」

 オーレリアンの言葉にへウォンは頷く。現在のタレントはどこに出しても恥ずかしくない逸材ぞろいだ。

 剣術がどうこうという話が無ければへウォンも徹底抗戦している。

「実の所、天衣星辰剣でなくてもランナバウトで活躍できる人材には目星がついているんです。その子と私が見つけた少女を対決させたいのです」

 クリスチャンの言葉にへウォンは不穏なものを感じる。

 現在最有力練習生は男女共に四名だ。世代交代の象徴として打ち出されないにせよ、この八人は確実に芸能界デビューするだろう。

 ウロボロスの象徴として新人がこの八人を押しのけるとして、それを誰もが分かる形で納得させる為には相応のイベント、言うなれば対外的な儀式が必要となる。

「対決と言うとランナバウトになるか」

 オーレリアンが思案気な表情で言う。

 ランナバウトはウロボロスの経営で最も金がかかりギャンブル性も高いものの、当たれば最も儲かる部門でもある。

 ランナバウトの世界大祭「カーニバル」は全世界の注目の的で、そのリアルタイム視聴率は脅威の六割越えだ。参加資格を有するチームには多くのスポンサーが名乗りを上げ、優勝候補のウロボロスのランナーのカウル(外装)の広告は天文学的金額となる。

 競技用ランナー自体百億をくだらない桁外れの高額商品であり維持費も相応にかかりはするが、年間広告費もカーニバル以外の年でも百億前後を推移している。

 歌劇のS席が8000ヘル、ヨークスター太陰で転売されたプラチナチケットが三十万ドル程度と考えるとランナバウトが扱う金額は桁違いだ。

「お二人に聞きますが、ランナバウトで決着の場合ランナーはどうするのですか?」

 へウォンは不穏な空気を感じながら言う。

 競技用ランナーは操縦するライダーと一心同体であり、全てがオーダーメイドの特注品である為に他人が乗るようにはできていない。

 無論文字通りの乗るという意味で乗れない事はないが、操縦して競技するという事はまずできない。

 その特性が百億以上という桁外れの機体代金に跳ね返っている。

 もっともオーレリアンのルビコンやクリスチャンのセラフィムは二十年以上現役で維持費用を差し引いても充分に元は取っている。

 ――それが金銭感覚麻痺の原因なのかもしれないけど――  

 もしランナー対決をさせるのであれば一機百億を超える特注のランナーを発注しなければならない。

 練習生サバイバルの一環と考えても出費が大きすぎるし、二人も三人もライダーを抱えるのであればウロボロスとして供給過剰だ。

「天衣星辰剣を競わせる場はカーニバルしかありません」

 クリスチャンが当たり前のような口調で言う。

 現実問題として剣術の三大流派の残り二つ「不動雷迅剣」「流水明鏡剣」と天衣星辰剣が公衆の面前で対決するのはカーニバルだけだ。

 剣術家がランナバウトで有利というだけでなくこの三流派にはファンを熱狂させる要素がある。

 それは天衣星辰剣は流水明鏡剣に強いが不動雷迅剣に弱く、不動雷迅剣は流水明鏡剣に弱いという三すくみが存在するという事だ。

 一方ランナーにもファイター、アーマー、ドラグーンという三つの基本形が存在している。

 運動性能の高いファイターは機動性の高いドラグーンに弱く装甲の厚いアーマーに弱い、アーマーはドラグーンに対して有利という特性を持っている。

 ランナバウトは三対三で行われ、組み合わせによって勝敗は大きく左右される。

 ウロボロスは技量こそ高いが全員ファイターという偏りが甚だしいチーム編成だ。

 これが全機ドラグーンというシューティングスターと当たると目も当てられない有様になる。

 一方シューティングスターも勝ち抜き戦で相手がアーマーを先鋒に出して来れば惨憺たる有様となる。

 三種のランナー特性×剣術流派の組み合わせでランナバウトは予測不能な複雑さと魅力を増す。

「それはランナーを新造するという事ですか?」

 へウォンは分かっていて画鋲の転がる床に足を踏み出す気分で言う。

「この間大学卒業制作の新人の作った美しいランナーを見ただろう。新しい酒は新しい酒袋にとも言う」

 オーレリアンがクリスチャンに同意を求める。

「私も彼以外に候補は無いと思っていました」

 クリスチャンがさも当たり前のような口調で言う。

 この世で二人にしか分からない基準で話をどんどん進めるのは止めて欲しい。

「ランナー一機幾らすると思っているんですか!? それに名前の通ったマイスターなら宣伝効果も見込めますが新人で卒業制作ってどういう事ですか!? ポンコツだったら誰が責任を取るんですか!?」 

 へウォンが叫ぶようにして言うとクリスチャンが目を細めて身を乗り出した。

 片手がへウォンの頬に添えられる。

 至近距離のクリスチャンは反則だ。そしてクリスチャンに触れられているなんて。

「大丈夫です。へウォン、あなたも美しいですよ」

 クリスチャンの言葉に鼻血が伝うのを感じる。

 ――尊すぎる――

 へウォンは頭の芯が痺れたように何も考えられなくなる。

 どんな大企業を抱えたファンでも金を積んでもクリスチャンに触れられる事などない。

 ウロボロス社長の巨大すぎる特権だ。

 ――幸せすぎる――

 明日経営上の問題が押し寄せても構わない。

 この一瞬の為に生きているのだ。



第一章 ウロボロス



〈1〉



 イェジは自室のベッドに腰掛けながら包帯の巻かれた右手に目を落とす。

 オーディションに出るなら期日は七日後だ。

 八針縫った傷は神経を傷つけなかったのが幸運な程で、一か月は安静と医者に言われている。

 両親はオーディションには出るだけ出てみればいいと言っている。

 常日頃から独立してさっさと家を出ていけと言っているのだし、そもそもダンスに関しては全くのド素人で特に興味を持っている訳でもない。

 右手が万全ならウロボロスのオーディションを受けようと思っただろうか。

 イェジは自らのその問いに答える事ができない。

 そもそもダンスで食べていく事に疑問があったのだし、ウロボロスのオーディションを受けるという事はその疑問を無視して流れに身を任せるという事だ。

 とはいえウロボロスはダンスだけやっている事務所ではない。

 アイドルや歌劇であれば歌の能力も問われるだろうし、そうであれば学校で声楽の単位も取っているがイェジは一線級のボーカリストの声を持っている訳ではない。

 容姿で考えても引き締まった身体ではあるがイェジの顔立ちは整ってはいるが美貌という訳ではない。 

 演技に関しても身体を使ったダンスの表現はできても、表情を使った役者としての演技となるとプロというレベルではない。何をやってもイェジになるだけだ。

 イェジがウロボロスのオーディションを突破すると考えるならやはりダンスしかないのだろうし、その一点突破が通用するのかどうかも分からない。

 そこまで考えてイェジは先日のランナーの大捕り物の様子を思い出す。

 あの時の白いランナーはとても美しかった。

 あんな大きな機械が足音も立てず、まるでバレリーナのように動くのはおとぎ話を生で見ているかのようだった。

 イェジは包帯の巻かれた右手の指を動かしてみる。

 ――あの白騎士が私の思うままに動くなら――

 想像してイェジは背筋がぞわりとするのを感じる。

 目線は時計台のように高い。二階建ての家は胸より下にあり、町がミニチュアになったかのようだ。

 身体が大きい自覚はある。しかし、足の先まで神経を行きわたらせ決して下品に音を縦て動いたりしない。

 目の前に粗暴な印象の赤いランナーが現れる。

 自分より遥かに小さな警備ランナーを倒していい気になっている。

 イェジには力がある。粗暴な力ではない。抑制され、限界まで引き絞られた鋭い刃のような力だ。

 つっ、と足を出すと足元で少女が赤いランナーの気を引いている。

 どうやら友人から赤いランナーを引き離そうとしているらしい。

 この出会いは運命とも言えるだろう。

 突進する赤いランナーを右手を出して止める……

「いだッ!」

 右手を前に突き出したイェジは右手首を掴んでベッドの上を転がる。

 水色の熊のぬいぐるみのトンベリのボタンの目と目が合う。

 自分は何を考えていたのだろう。

 ランナーなど操縦した事もないし、暴力で他人と争う事をした事もない。

 どうしてこんな事を考えたのか自分でも理解できない。

 しかし、あの白騎士の迫力と目にした時の衝撃を思い出すと今でも鳥肌が立つ。

 イェジはトンベリを抱き寄せる。

 ――どうかしている――

 トンベリに顔を埋めて目を閉じる。カーニバルという世界大会がある事を知ってはいてもランナーの事などこれまで考えた事もない。

 ただひたすらダンスだけをしてきたのだ。

 そこまで考えてイェジが自分が堂々巡りをしている事に気付く。

「おねぇちゃんに電話するかな……」

 イェジはトンベリを右腕で抱えたまま端末を手に取る。

 姉のソルは看護師で昼夜逆転しているから電話をかけても迷惑にはならないはずだ。

 しかし、オーディションの事で姉に相談するのは気が引ける。

 挫折したもののイェジ以上に芸能界に憧れていた姉なのだ。 

 心の中で折り合いがついているのだとしても、業界でも最も審査基準が厳しいとされるウロボロスのオーディションを受けるとなれば心中穏やかならぬものがあるだろう。

 とはいえ相談できる相手は姉くらいしかいない。

 学校の先生に言っても友人に聞いてもいい機会だくらいの事しか言わない。

 ダンサーイェジを見ていても人間イェジを見ていないと思う。

「よしっ」

 小さく息を吐いて姉の端末を呼び出す。

 姉が出なかった事を考えると滑稽だがその時はその時だ。

 コール音を聞いているとトンベリが右腕の中で潰れる。

〈イェジ? こんな時間に何の用?〉

 ソルの声を聞いて今更ながらにどう話を切り出していいか悩む。

「おねぇちゃん? こんどトロワでウロボロスのオーディションがあるんだけど」

〈出たいの? 出ろって勧められてるの?〉

 ソルがいきなり話の核心を突いてくる。そもそもそこが問題だ。クリスチャンに誘われなければ出ようとは思っていない。

 成り行きといえば完全な成り行きだ。

「誘われたんだけど……ダンス以外で通過できる気がしないし、でもダンスでやっていく覚悟もないし……」

 イェジの言葉に一瞬の間が空く。

〈ウロボロスならダンス以外の進路もあるんじゃない? 役者でも歌手でも超一流だけを出してるんだし〉

「おねぇちゃんは私がダンス以外で一流になると思ってる?」

〈それは無いと思うけど。でもやりたくないなら他の道を探す手助けくらいにはなるんじゃない? あんたの性格からして学校でできもしない勉強するより芸能事務所で色々トライしてみる方が性に合ってると思うけど〉

 言う事に遠慮がないが姉だからこういう事を言ってくれるのだろう。

「歌や演技は学校でも単位取ってるけどウロボロスでどうだと思う?」

〈知らないわよ。従業員じゃないんだし。でも幅は広いんじゃない。ランナーチーム持ってるくらいなんだし〉

 ソルの言葉にイェジが意味も無く胸が熱くなるのを感じる。

「ランナーって面白いのかな?」

〈ピンキリじゃないの? 土木作業重機から競技用まであるんだし。でも……〉

 ソルがふと何かに思い当たったように言葉を切る。

〈ランナーって性別や体格のハンデってのが無いのよ。当たり前の事だけど身体に障害があったとしても関係なく競えるって言うのはいいんじゃないかと思う。女性の競技人口も高いしね〉

 ソルの言葉にイェジは不思議な納得感を感じる。

 あの巨大な機械はライダーが感性で動かすものなのだ。性別も体格も障害の有無も関係ないボーダーレスが競技の魅力なのだ。

 ダンスでは男子との筋力差で諦めるような振りつけもランナーであれば関係ない。

 否、男子のものだからと先入観でやって来なかった言い訳がランナーでは通用しないという事なのだ。

「おねぇちゃんランナーに詳しいの?」

〈詳しいわけないでしょ。あんたがウロボロスの話をするからこういう流れになったんじゃない〉

 一般的な認識ではウロボロスはランナーチームでもあるのだ。

 芸能とランナーとどちらのイメージが強いかは人それぞれなのだろう。

 ――ランナーのライダーか……―― 

〈あんた何黙ってんの?〉

「あ、うん。いや、ライダーってなれるのかなって」

〈教習所行けば免許は取れるんじゃない?〉

「そういうんじゃなくて試合に出るようなやつ」

〈あんた試合見た事あるの?〉

 呆れたような声がスピーカーから響く。

「無いけど」

〈ないのになりたいわけ?〉

「見たの。目の前で赤いやつと白いやつが。白いのが勝ったんだけど」

 イェジは早口になりながら言う。

〈どこで?〉

「赤いランナーが飲酒運転で町で暴れてて、それを白いのがやっつけて……」

 イェジの脳裏にあの日の光景が蘇る。

〈……んな事ある訳ないでしょ。夢でも見たんだったら切るよ〉

 ソルが突き放すような口調で言う。確かに競技用のランナーが町で暴れる事など普通はあり得ないし、そもそも競技用のランナー自体そう滅多にお目にかかれるものではない。

「あ、ごめんごめん。何か変な事言ったね」

〈あんたは元々変でしょ。それよりウロボロス受けるかどうかって話よね〉

「あ、うん。そう」

 イェジはトンベリを抱きしめながら応じる。

〈人がどう思うか他人に聞く時って言うのは、本当は自分では答えが出てて背中を押して欲しい時なのよ〉

 ソルの言葉がイェジの胸に突き刺さる。

〈だから私は答えてあげない。自分を信じる事ね。それじゃ〉

 ソルの声と共に通信が切れる。 

 イェジはソルの言葉の意味を理解しつつも考える。

 自分は何かの可能性を感じて、今の自分では見つけられない何かがウロボロスにあると感じて行ってみたいと心の奥底で思っていた。

 ダンスだとしても世界最高峰の舞台で競う事になるのだし、事務所の中でもオンジョが言ったように挫折して悔しい思いをするかもしれない。

 そしてウロボロスにはイェジが未だ触れた事のないランナーというものが存在するのだ。

 ――あの日見た白いランナーがウロボロスのものならどれだけ素敵だろう――

 あの重力を感じさせないようなランナーで空を舞えたらどれほど気持ちいいだろう。

 イェジは恐る恐るウロボロスのホームページにアクセスするとUMSをクリックした。

 そこにあった画像を見てイェジはトンベリを抱いたままベッドの上で後ろに転がった。

 あの白いランナーはウロボロスのセラフィムというランナー。

 そしてセラフィムのライダーは夕焼けを一緒に見たクリスチャンなのだ。

 イェジはベッドの上を転がりながら顔が紅潮し鼓動が速くなるのを感じる。 

 ――これって絶対運命――

 これを運命と言わずして何を運命と言うのだろう。

 ――私はウロボロスのオーディションに合格する――

 オーディションに合格しクリスチャンに再会し、そして……。

 そこから先の事をイェジは考える事ができなかった。

 それは自分でも想像してはいけないと思うほど途方も無い事だった。



〈2〉



 オルソンは大型のキャンピングカーで朝のコーヒーを淹れていた。

 目覚ましに少し酸味の強いブレンドにしたコーヒーの芳香が狭いキャンピングカーの室内に充満する。

 朝食はサーモンのサンドイッチとアボカドの冷製スープだ。

 朝食を終えたら天井に取り付けたバーで懸垂して背骨を伸ばし、誰もいない所まで車を走らせてからランニングだ。

 オルソンが一日のルーティンを考えているとニュースのスポーツコーナーでランナバウトが取り上げられた。

『蘇利耶ヴァルハラで開発された量産型ランナー、マイティシリーズの破竹の勝利が止まりません』

 そのニュースにオルソンは苦い気分になる。

 コーヒーの苦味を強くしていたら廃棄している所だ。

 マイティーシリーズは蘇利耶ヴァルハラの心臓とも言えるVWCが参加のチームにライセンスを認めた量産型ランナーだ。

 VWCとはヴァルハラホワイトペーパークラブの略で、元々はランナーやライダーの格付け機関だった。

 それがランナー賭博に乗り出し、更にカーニバルの開催権までをも奪取したのが六年前。

 現在VWC傘下のクラブチームで採用されているマイティシリーズは元々オルソンが大学の卒業制作で設計したものだ。

 だが、オルソンの顔と名前を一致させる事ができる人間はほとんどいない。

 大学のゼミで実質的にランナー制作を取り仕切ったエイミー・アッシュベリーをオルソンだと思っている人間なら多いだろう。

 プレゼンや賞の受賞や公の場に出たのはエイミーと開発チームで、設計したオルソンは表舞台には出ていない。

 特別に謙虚な訳でもなければ特別な生い立ちがある訳でもない。

 オルソンは自閉症なのだ。

 自閉症といっても個人差はあるもので、オルソンは家から出ない引きこもりではないし、買い物一つできない程生活能力がないという訳ではない。

 ただ、他人と過ごしたり会話する事に極端な苦痛を感じ、相手が三人以上ともなると余程心を許した信頼関係のある人間がいないかぎりパニック発作を起こしてしまう。

 街中で誰にも注目されていないのであれば他人はモブと一緒なので一応どこにでも行けるが、仮に小銭を落として親切な人が五六人助けてくれるとなったとしたら、オルソンにとって都会は恐怖の場でしかなくなる。

 他人の生活音も気になるから集合住宅には住めないし、結果的にキャンピングカーで生活する事になっている。 

 学生時代はエイミーが傍にいたから対人関係は任せておけばよかったし、シェアハウスもエイミーが取り仕切っていたから対人面で困る事は無かった。

 しかし、卒業制作でマイティ―シリーズの一作目、重装タイプのランナー「マイティロック」を発表してからエイミーは変わった。

 軽量型のマイティウイング、機動型のマイティキッドが発表される頃にはゼミ生、もとい開発チームは有名チームからも引く手数多となっていた。

 オルソンはエイミーの陰に隠れたままチームごとどこかに採用されるものと思っていたのだが、エイミーはオルソンだけを残してVWCに行ってしまった。

 理由をオルソンは察しない訳ではない。

 エイミーもランナー設計者、ランナーマイスターになりたいと望んでいたエンジニアの一人で、オルソンの身の回りの世話を焼きたいと思って生きて来た訳ではなかった。

 しかし、ランナー設計で見た時エイミーの作品は凡庸だった。

 素晴らしい精度と完成度を持っているという点では文句のつけどころがない。

 だが、そういった問題は時間や試行錯誤を経る事によって解決できるものだ。

 発明や発見というものは時にはそういったプロセスの外にあるものだ。

 現在ランナーには軽量のファイターと人馬型のドラグーンと重装のアーマーがある。

 由来については諸説あるが、ランナーは元々ファイタータイプだけだっただろうとオルソンは考えている。

 仮にその仮説が正しいなら、全てのライダーにアンケートを取ったとして四本脚のドラグーンを作ろうとか、機動盾のついたアーマーを作ろうといった発想が生まれただろうか?

 これはライダーの、言うなればユーザーの貴重なご意見の産物ではなく、マイスターの独創性から生まれたものと見るべきなのだ。

 そう考えた時、ランナーマイスターに求められるのは無謀なまでの冒険心とそれを図面に落とし込むだけの企画力だ。

 エイミーは確かにオルソンの設計図を現実のものにするという難行を実行して見せた。

 当時は気付かなかったものの、それはエイミーのプライドであり同時にオルソンに対する嫉妬のようなものでもあったのかも知れない。

 エイミーはマイティロックを自らの成果物としてVWCお抱えのエンジニアになった。 

 そしてオルソンは一人になった。

 オルソンには現在ウロボロス会長クリスチャンから五億ヘルでのオファーが来ている。

 当然無職のままキャンピングカーでいつまでもウロウロして生きて行ける訳がない。

 しかし、オルソンは初対面の人間と話などできないし、契約書を交わすのも困難だ。

 そのハードルを越えたとして、UMSのエンジニアたちとやっていけるかと言われれば不可能だと答えるしかない。

 もちろん試してみる事は可能だがパニックと過呼吸の発作を起こして倒れるのがおちだ。

 自分の身を守り誰とも接する事なく生活できる環境があれば、設計に打ち込み最高のランナーを作る事もできるかもしれない。

 オルソンはコーヒーに口をつけながら考える。

 人と接する事はプライスレスだ。幾ら金を積まれようとできないものはできない。

 それならば……

 オルソンはランナーを輸送する目的で作られた移動するビルとも言えるランナーキャリアに目をつける。

 キッチンから果てはスポーツジムまで設備として備えたランナーキャリアがあればオルソンは全人類が滅びても何不自由なく生きて行ける。

 オルソンは契約金を保留し条件を付け加えようと考える。

 ――UMSはオルソン・カロルに指定される特注のランナーキャリアを用意する事――

  

 

〈3〉



「お疲れのようですね」

 会議から戻り社長室に戻って来たへウォンにコーヒーを淹れた秘書室長のオットー・ノイマンが言う。

 ウロボロスエンターテイメントの臨時役員会には嵐が吹き荒れていた。

 議題は会長のクリスチャンが独断で迷宮少年の臨時オーディションの開催を決めた事だ。

 それだけでもミュージックとマーケティングの社長は怒り心頭で、歌劇出身の専務マリア・ルカレッリはオーディションを取り下げろと主張した。

 対してウロボロスの副社長で古くからの重鎮であるアンドレイ・張はUMSが納得が行くのであれば支持すると表明。

 そこでクリスチャンが新型機をほぼ無名のオルソン・カロルに発注するという意向である旨を伝えた所、会議は更に紛糾。

 オルソンとは何者なのか、実績はあるのか、蘇利耶ヴァルハラに身内が身売りしたような人間を信用して良いのか……Etc。

 当然の事ながら役員会で満場一致は得られなかった。

 オーディションはどの道淘汰される可能性もあり取り下げるまでもないかもしれないが、新型のランナーに関しては莫大な金が動く事もありウロボロスエンターテイメントとしての発注は見送られ継続審議となった。

 ただし、へウォン直轄のマーケティングが資金を集め、エンタの影響を最低限に抑えるという策では辛うじて言質を取った。

「疲れもするわ。会長の気まぐれがゴルフならいいけどランナバウトなんだから。良くも悪くも影響が大きすぎるのよ」

 へウォンはコーヒーに口をつけながら言う。

「悪影響だけとは言わないんですね」

 オットーが好青年然とした笑みを浮かべながら言う。

「会長は芸能界の巨人だし、そういう人の直感みたいなものって下手に頭のいい人間が考えるよりすごい結果が出る事があるのよ」

 へウォンは高い背もたれに背を預ける。

「うちの会長が営業でそんな大きな成果を上げた事ってありましたっけ」

 社長室で他人に聞かれる心配が無いからだろうかオットーの言葉には遠慮がない。

「うちの会長は剣道バカだけど、蘇利耶ヴァルハラのリチャード・岸だって元はギャンブラーでしょ? それが前会長のヘクター・ケッセルリンクの時代のウロボロスに取り入って挙句には一つの国を作り上げた。理性的な行動でも倫理的手段でもなく、岸は『やってしまった』のよ。ボタンのかけ違いが一つあっただけで岸は場末で飲んだくれるギャンブラーになっている可能性があった」

 リチャード・岸が立志伝中の人物である事は間違いが無い。

 経歴らしい経歴はなく、歴史の表舞台に現れるのはUMSのマネージャーになってからだ。

 そこから格付け会社を作り、賭博を行い、独自通貨を発行し、独立国を作る所まで行ってしまった。

 とんとん拍子にも見えるが、その一つ一つを見れば実に危うい経営判断だ。

 へウォンの知らない何らかの事情があるとしても、岸には勝負師の嗅覚が紛れもなく存在しているという事なのだ。

「ギャンブラーと経済の専門家ならつながりもあるでしょうが、会長は芸能人ですしね」

 オットーが思案気な表情を浮かべる。

「会長が気にかけたらしい新人、ロワーヌ太后州でダンスの賞を取りまくってるのよ。神童と言ってもいいわ」

「そんな娘がこれまで出てこなかったのは妙なのでは?」

 オットーがデータを目で追いながら言う。

「顔は悪くないけどアイドルとしては十人並み、プロポーションもモデルやアイドルというよりは純粋なダンサー体型。プロからの評価は高いけど見かけは他の事務所にもいるようなアイドルとも言えなくもない。ただそれがウロボロスのファン層に訴えたり大衆受けするかどうかって言うとすごく微妙なんだけど」

「確かにルックスだけだとそこまで会長の好みという訳では無さそうですよね」

「お前、見た目だけで判断するな。会長はそんなに浅い方じゃない」

 へウォンはオットーに釘を刺す。クリスチャンは美にこだわるがそれは外見だけを指すのではない。

 エージェンシーなどを見ていると確かに美形が多いが、実力が伴わないタレントは一人として存在しない。

「ダンスをプロが見て評価してるという事は、他の方面でも成長すればアイドルとして評価されるとも言える訳ですね。反対に言えばダンサーどまりならウロボロスには既に充分な人材がいると」

 オットーの指摘は正しい。単純にスキルの高いダンサーというのであればウロボロスには必要がない。

「結局の所、会長はこのイェジって子を見て剣道の弟子にしたいって思ったらしいのよ。それはつまりUMSの次期エースを意味してる訳で、そうなるとランナーに乗せるって話になるんだろうし」

「要するに会長がその子の才能を見抜いたって事なんですよね?」

「そうなんだけど、その目が節穴じゃないかっていうのが最大の問題点で、私たちが最悪の事態に備えなくちゃいけない所でもあるのよ」

「ランナーマイスターも新しくするのに直接連絡を取れる訳でもない」

 オルソンのデータを身ながらオットーが言う。

「一応実力はあると思うわ。マイティロックのマイスターなんだから」

 マイティロックはアーマーの機体では一つの歴史を作ったと言っても過言ではない。

 現在マイティロックに確実に勝利できると言えるドラグーンは存在しないと言っていい。

「何で機体が蘇利耶ヴァルハラにあってマイスターには住所もないんでしょうね?」

 オットーの問いにへウォンは答える事ができない。

 オルソンという人物についての情報は皆無に等しく、大学のゼミで一緒でVWCのマイスターになったエイミー・アッシュベリーと一緒に部屋を借りていた事くらいしか分からないのだ。

 大学の教授は個人情報として詳しい事は口外しないし、謎としか言いようがない。

「何者か分からない人間だからとんでもないランナーを造れたのかもね。一発屋じゃなければUMSの方には明るいニュースになるんだろうけど」

「そもそもなんですが会長はどうやってオルソンの連絡先を知ったんでしょうね?」

 オットーの言葉にへウォンは肩を竦める。

 へウォンは現在のウロボロスエンタでは最も情報通であるはずだが、会長のクリスチャンが何を考え、何をしているかとなると考えが及ばないのだ。

 常人には想像もつかない人間だからこそクリスチャンは長年スターとして君臨しているのかもしれない。

 ――それでこそウロボロスの絶対的象徴とも言えるんだろうけど――

 クリスチャンの前ではへウォンは一ファンに過ぎなくなる。

 それが良い事なのか悪い事なのかはへウォンには分からなかった。 

 


〈4〉



 窓から春の日差しが差し込む昼下がり、テーブルと椅子の並ぶ室内に人の姿は疎らだ。

 所々でテーブルを囲んでいる学生がいるが、ほとんどが行く当ても無く時間を持て余しているかのように見える。

 退屈な講義を終えたイェジはオンジョと共に学食のテーブルにランチと端末を並べている。

「あんたさ……今更だけど私に何を期待してんの」 

 グリーンカレーのスパイシーな香りを漂わせながらオンジョが言う。

 イェジはオーディション対策としてこれまで見た事も無かったウロボロス練習生のサバイバルを見てみる事にした。

 一人で見ても構わないのだが、どんな練習生がいるのか、どんな傾向かを知りたいだけなので友達と一緒に楽しく見た方が良いだろうと考えたのだ。

「思った通りに言ってくれればいいって。知識や経験が無い方が率直な話を聞けそうだし」

 オンジョはダンスはと言えばイェジしか知らないと言っていい。

 音楽はインストゥルメンタルが一番で勉強のBGMにさえなればいいと言っている強者なのだ。

 自ら進んでダンスを見る事などないし、ドラマも映画も原作を読む速度の方が早いと言って憚らず、その読書傾向は学術書がメインで潤いというものがない。

 勉強以外で唯一ともいっていい楽しみが辛い食べ物で、一緒に食事をすると見ている方が汗ばむ事になる。

「言われたから見るけど」

 オンジョの好奇心を微塵も感じさせない声を聞きながらウロボロス練習生サバイバルの独占放映をしているチャンネルを読み込む。

 現在練習生は30名ほどだが、何かの形で確実にデビューしそうなのは10名ほどであり、既に熱烈とも言えるファンがいるらしい。

 イェジが見る限りダンスでは勝負になるだろうが、ルックスやアイドルとしての表現力では練習生が圧倒的に上だ。

「こんなもの私に見せてどうする気」

 オンジョは素晴らしいステージを見ても何とも思わないらしい。

 これはこれですごい才能だとイェジは思う。

「オンジョ的にさ、この中で気に入った曲とかない?」

 迷宮少年臨時オーディションは告知から一週間、残す所三日だ。

 だが、イェジにはオーディションで踊る曲すら目星がついていない。

 これまで大会で踊った曲や振りつけはあるが、使いまわしなど相手にされないだろう。

 相手は世界最高の事務所なのだ。

 残り時間は僅かなのに振りつけはおろか曲すら決まらない。

 イェジは他の人間よりタフなメンタルを持っていると思って来たが、気になって夜は眠れないし、食事をすると酸っぱいものが胃袋から逆流してくる。

 これがプレッシャーというものかとイェジは思う。

 ――あーどうしよ――

 今日曲が決まったとして、一日で振りつけを考えて二日で完成形にするのは不可能に近い。

 そんな事が普通の人間にできるのであれば舞台役者もアイドルも存在しない。

 同じ振り付けを何十時間と練習して身体が反射的に動くようになっても、ステージに上がると頭が真っ白になってしまう事だってあるのだ。

 今から寝ずに三日間練習しても七十時間強しかない。

「あんた、何考えてるの?」

 オンジョが思いきり他人事の口調で言う。

 他人事なのだから当然だろうが気を使っている素振りくらいは見せて欲しい。

「オーディションで踊る曲が決まらないんだってば。曲が決まらないと振りつけができないし、振りつけができないと練習できないじゃん? あと三日しかないのに」

 プロでもこんな状況に追い込まれれば切り抜けられるのは一握りの人間だけだろう。

「なら慣れてる曲で踊ればいいじゃん」

 オンジョがさも当たり前のような口調で言う。

「あ、あ、あ、あんたバカじゃないの? 天下のウロボロスのオーディションだよ?」

「それってつまりさ、私が受かると思ってなかった難関大学の受験の一次試験に通ったようなもんでしょ? 自分が一番難しいと思ってる試験で、自分がやった事もない科目で試験を受けようと思う? それにオーディションは告知から七日だって言うし、オーディションを受けるダンサーなりシンガーは全員同じ猶予しか無かった訳でしょ? 常識的に考えて自分が一番得意な曲なり実績のある曲なりで踊るのがベストじゃない?」

 オンジョに言われてイェジはハッとする。

 オーディションで競う相手は現役練習生ではない、全員無名の相手なのだ。

 イェジはそれなりに大きな大会での入賞や優勝の経験もあるが、ウロボロスが気に留めていたり、同じ曲で踊ったからといって減点するとも思えない。

「そっか……今までで一番良かった曲を踊ればいいのか」

「それが分かったなら練習でもすれば? 私はお茶飲んでから帰るから」

 オンジョに言われたイェジは椅子を蹴って立ち上がる。

 これまでで最高のステージと言えば、最初に立ったステージに決まっている。

 その頃は姉について踊っていただけなのだが、その初舞台を皮切りに舞台に立つ事が当たり前となっていったのだ。

 当時の振りつけは子供向けのものだったが今の自分は違う。

 遥かに高いレベルで同じ曲を新しい気持ちで踊る事ができるだろう。

 ――待っててウロボロス――

 合格でも不合格でも初めての曲であれば悔いはない。

 途中でリズムが合わなくなって振りつけまで頭から飛んでしまったあの曲であれば。


 〈5〉



 UMSの社長ヴァンサン・バスチエはバレンシア朱雀にある本社のハンガーの中を歩いている。

 ハンガーはランナーを直立して置いておけるほどの高さがあり、一機のランナーに対して百人近い専属スタッフが額に汗して働いている。

 近日中に試合がある訳ではないが、カウルやソールの着脱には練度が必要だ。

 ランナバウトは一試合三十五分という中途半端な時間で行われる。

 最初の十五分、ピットに戻って十分、ピットからフィールドに戻って十分だ。

 ランナーは巨大なほぼ人型の機械という事もあり、動かすだけでも高度な技術が要求される。

 それが剣や槍や盾を持って戦うのだから、その無理は推して知るべしだ。

 基本ルールとしてランナバウトでは重量でのカウルの損耗が80%を超えると自動的に敗北となる。

 世の中にはランナバウトを脱衣麻雀に例える不届き者もいるがあながち的外れとも言えない。

 いかに効率よく相手のカウルを剥がすかという事が目的とされる競技なのだ。

 だが、実際に八割もカウルが剥がれる事は無く六割も剥がされて、相手との差が開いていていればチームからの指示で白旗だ。

 ランナーを壮麗に飾りつける強化カーボンのカウルは当然ながらタダではなく、割れたカウルをご飯粒でくっつける事などできない。

 破損したカウルはファクトリーに発注する事になるし、その費用は莫大だ。

 全損に近い八割までカウルを失って敗北して賞金も入らず、スポンサーからボーナスも出ないではチームはやって行けない。

 そこで負けると分かったら六割程度というのが目安になっているのだ。

 しかし、試合時間15分で六割もカウルが剥がれるかと言うと、Sクラスのライダー同士が争ってそんなに大きな差がつく事はない。

 そこで大きな差を生むのが十分間のインターバルだ。

 ランナーはピットに戻ってソールを交換し、カウルの付け替えを行う。

 ソールは基本的に樹脂製であり、ファイターでも50トンを超えるランナーが走り回ればあっという間にズル剥けになる。

 かといって金属で良いかと言うと土やコンクリートの上では滑りもするし、氷原など特殊なフィールド以外では金属製スパイクなども認められていない。

 つまり、十五分戦ったら靴を履き替えなければならないという事だ。

 その上、前半15分で失ったカウルを装着し直すという作業が入る。

 ランナバウトの判定は試合終了35分の時点でのカウル損耗率で決まるため、インターバルで前半に失ったカウルを再び装着して損耗率を回復するという作業も行われる。

 特に装甲を失ってナンボの重装甲のアーマーなどになるとこのカウル装着は極めて重要な作業になる。

 逆に軽量のファイターでは失ったカウルをあえて回復せずに、時には更にカウルを外してより軽量にして運動性を高めて戦うという戦略も取られる。

 そういった判断を行うのが社長でありチームマネージャーのバスチエの役割であり、そのインターバルの間に求められる作業をこなせるよう常に練習を怠らない事がメカニックには求められる。

 試合がないからとのんびりしていて、いざ試合となった時にカウルを留めるインパクトの作業が一秒遅れるだけで一つのカウルが取り付けられない可能性もあるし、最悪のケースとしては宙ぶらりんのまま試合に戻らなくてはならないという事もあり得る。

 そんな無様な姿を少なくとも超一流チームであるウロボロスが晒す事はできない。

 バスチエはメカニックたちの動きに満足しながら、ハンガーを抜けて上階にある休憩室に向かう。

 今日は会議というほどの会議ではないが、重要度が極めて高くなるかもしれない決定をチームで共有しておかなくてはならないのだ。

「よう、揃ってるみたいだな」

 バスチエはコーヒーを飲みながら談笑しているチーフエンジニアのダニオ・ダリエンツォと営業のネリオ・フラテッロの顔を認めて言う。

 野次馬もいるがエンタのへウォンから情報が出た以上リークされても構わないという事だ。

「役員会の結果はみんな気になってるさ」

 ネリオがコーヒーの湯気で雲った眼鏡を拭きながら言う。

「良くないニュースとひどいニュースのどっちから聞きたい?」

 バスチエは自分の分のコーヒーを注ぐ。

「相変わらずいいニュースってのは無いんだな」

 ダニオが渋面を作って言う。職人肌のメカニックというより、若手に対してそれなりに威厳を保つ為に自然といかつい表情が板についているといった印象だ。

「いいニュースならあるぞ? 会議に出て来た連中のひどい顔は何年ぶりのひどい有様だった。あの顔を拝めただけでも眼福だ」

 バスチエは椅子に寄りかかりながらコーヒーをすする。

「迷宮少年で新人を入れたいってのは結局会長のごり押しなんだよな」

 ダニオが渋い顔のまま言う。

 これまでの路線で従来メンバーからランナーチームで一人デビューさせた上に、更に会長案件の一人をデビューさせるとなるとほぼ同時に二人のライダーがデビューする事になる。

 それは同時に新型機が二機導入されるという事でもある。

「会長がごり押しって事は天衣星辰剣の継承って問題か」

 ネリオがミルクの多いコーヒーをすすりながら言う。

 ウロボロスエンタ傘下の会社でUMSが最も会長の剣術に理解があると言っていい。

「オーディションをして練習生にしてみない事には分からないだろうさ。ものの役に立たなけりゃランナーは一機しか増えないだろうし、ずば抜けてても一機しか増えない」

「俺たちがその継承者がいいって言った所で歌劇やミュージックの連中が迷宮少年のヤツを推してくるんだろう」

 ダニオが面白く無さそうに言う。エンジニア畑でモータースポーツしかやっていない為にタレントに対しての熱量はゼロに等しい。

「そういう訳で二機増えると思って欲しいんだが、これまた別情報でオーレリアンが引退するらしい」

 バスチエは言う。二人入れば現状のままなら五人体制。

 ウロボロスが幾ら強豪だと言っても五人のライダーと五機のランナーを抱えるのは容易ではない。

 それは会長たちも分かっているはずで、そこで最古参のオーレリアンが引退するらしいという話にもそれなりの信憑性があるのだ。

「それは会長が推してる新人がものになればって話だろ」

 ネリオが言う。

 確かに新人が期待外れならオーレリアンは引退できない。

 もっともオーレリアンは前会長のヘクターと同年代のはずだから年齢的にも次のカーニバルが限界になってくるだろうし、引退できるものなら今でも引退したいだろう。

 それができないのは現状クリスチャン、オーレリアン、アナベルの三人体制で、アナベルは強力なライダーだが天衣星辰剣の継承者ではないという事情が大きい。

 天衣星辰剣のライダーがクリスチャン一人という事になれば、彼らが考える所の天衣星辰剣のチームという形式が崩壊すると言っても過言ではない。

「まぁそうだ。俺は会長の目は確かだと思ってるけどな。で、ここまで将来が不安になる話ばっかりだったが、ここから将来がもっと不安になるニュースがある」

 バスチエは肩を竦めて続ける。

「新型機、恐らくは会長が推してる方の子だな。こっちのランナーのマイスターは無名の

新人に依頼する。無名と言ってもマイティロックのマイスターだから才能は確かなんだろうとは思うが」

「マイティロックのマイスターはVWCのアッシュベリーってヤツだろう」

 ダニオが苦い顔で言う。Bクラスのチームで量産機という事はあるが、カーニバルに出るような強豪チームが量産機という事などあり得ないというのが一般的な認識だ。

 ところがマイティロックというアーマーはスーパークラスでも強すぎるほど強いランナーなのだ。

 VWC傘下のチームでアーマーと言えばマイティロックが当たり前になりつつあるが、トーナメントで似たような機体ばかりというのはエンジニアとしても観客としても面白いものではない。

 一方VWCの言い分を擁護するのであれば、同じ性能の機体を使う事でライダーの能力が公平に発揮されるという事になる。

「マイティウイングとマイティキッドはそこまで振るわないね」

 ネリオがコーヒーにミルクを足してミルクティーのような色にする。

「そこさ。マイティシリーズの元祖マイティロックのマイスターはオルソン・カロルってヤツだ。所がアッシュベリーはそのデーターとチームを抱えてVWCに行った。カロルとアッシュベリーの間に何があったのかは知らないがね。ウイングとキッドの方はアッシュベリーがVWCで完成させたもんだからどっちが優秀かは考えるまでもない」

「そりゃあいいニュースでいいんじゃねぇか。それが事実なら掘り出し物だ」

 ダニオが渋面の下でニヤつきながら言う。

「でもそれならそれでカロルは盗作だって主張してもいいだろうし、マイティロックが出てから二年間も無名というのも妙な話だ」

 ネリオの疑念はもっともなもので、だからこそ役員会も紛糾したのだ。

「その辺りの事情は俺には分からんね。金に困ってるのは確からしいが。それでこれまた妙な話なんだが契約内容でランナーキャリアを用意しろって要求してる」

「早速やる気があって結構な事じゃねぇか」

 ダニオが嬉しそうに言うが話はそう都合のいい方向にばかりは進まない。

「居住用に改装したキャリアが欲しいんだそうだ。中にスポーツジムやスパを作って欲しいって話でね」

「キャリアだって中古で買っても三億はするだろう。しかもそれは改装を俺たちにやれって言ってるって事だろ」

 ネリオが眉間に皺を寄せる。

「じゃあ何か? ランナー乗せるキャリアだけじゃなくてその若造を乗せるキャリアも用意しろってのか? バカも休み休み言いやがれ」

 これまで好意的だったダニオが手のひらを返すがそれも仕方ないだろう。

 移動するホテルのようなランナーキャリアなど前代未聞だし、運用する費用だってバカにならない。

「で、話を整理すると迷宮少年生え抜きのライダーのランナーは予定通り造られる、加えて会長案件の新人が投入されるかも知れず、そのランナーのマイスターはマイティロックを作ったらしいという他は奇妙な人物であるとしか分からない。社長は連絡を取ったので?」

 ネリオが話をまとめる。要約するとそういう事だ。

「ビデオ通話には応じない。メールを送ったが見たのかどうか分からない。直接連絡先を

やり取りしてる会長以外繋がらないようにしているのかもな」

「偏屈な野郎だな。まぁ、優秀なエンジニアにゃ偏屈なヤツもいるもんだが。ところでネリオ、マイティロックを一機調達する事はできねぇか。そんな偏屈な野郎だ、俺たちに相談も無しでいきなりファクトリーに設計図なり機械だけ送られて来ねぇとも限らねぇ。少しでもそいつの機械に慣れておきてぇ」

 偏屈同士何か通じるものがあるのかダニオが言う。

「ウロボロスがVWCに加盟するのかい? VWCは他のチームを潰すために格安で量産機を卸してるんだ。金を積まれたって目の敵の俺たちに譲るもんか」

 ネリオがダニオに応じる。

 ネリオの考え方は極端かも知れないが、マイティシリーズが相場より安くVWC加盟チームに卸されているのは事実だし、VWC以外のチームには当然ながら設計図も仕様も公開されていない。

「まぁ、ウロボロスとしてはマイティシリーズの設計図を買えるくらいの感覚で契約するしかないんじゃないかって結論でね」

 バスチエは役員会での結論を告げる。会長案件である以上避けて通る事はできないし、実現しなくてはならない以上、何らかの理性的な理由というものが必要なのだ。

「その為に左官屋呼んで突貫工事でキャリアを改装しろか。エンジニアに頼む仕事じゃねぇぞ」

 ダニオの言葉にバスチエは苦笑を浮かべる。

 先の見通しは全く立たないが、最低限それだけは用意しなくてはならないのだ。

「どこから予算を出すかですね。どうせエンタからは出ないんでしょう」

 ネリオがため息をつく。

 へウォンが手を回してくれはするもののウロボロスエンターテイメントとしてはこの案件を諸手を挙げて賛成した訳ではないのだ。

 そうである以上、会長案件を全面的に引き受ける事になったモータースポーツの負担も相応に大きくなる。

 ――だが、会長の目が確かなら――

 天衣星辰剣の正当継承者のライダーとマイティロックのマイスターはチームとしては魅力的な存在だし、その実力が確かなら次代のウロボロスを担うライダーとマイスターになるのだ。

  


〈6〉



 イェジは普段通りのスウェット姿でオーディション会場のあるホテルを訪れている。

 オンラインオーディションである程度はふるい落とされたのか、更衣室兼控室には20人ほどしか待機していない。

 イェジなりにベストな選曲と振りつけになったとは思う。

 トータル一週間でそれ以上を要求されても、それに応じられるプロもそうはいないだろう。

 できるのは自分のベストを出し切る事だけだ。

「12番、ヤン・イェジさん」

 呼ばれたイェジはオーディションの行われている部屋に向かう。

 調度の良いスイートと思われる部屋の中央が大きく開けられ、クリスチャン以下、ウロボロスの偉い人がテーブルに着いて視線を注いでくる。

「12番、ヤン・イェジです」

 イェジは言って音響さんに合図をすると全神経を集中する。



※ ※ ※



 一通りオーディションを見たウロボロスエージェンシー社長ダミアン・ベジャールはクリスチャンは耄碌したと感じた。

 クリスチャンは事前に意中の人物を伝えていなかったが、ダミアンには誰がクリスチャンの意中の人物なのか分からなかったのだ。

 ダンスの上手い子はいたし、イェジというダンサーはユニークではあった。

 選曲は十五年も前の子供向けアニメの主題歌で、それを最新のトレンドでカッコよく踊るというのは面白い感性だろう。

 右手を怪我しているらしいのは気の毒な話だが、プロであれば体調管理も仕事のうちだ。

「それらしい逸材は見つかりませんでしたね」

 ダミアンはクリスチャンに向かって言う。

 際立ったルックスの持ち主はいない。

 顔の見た目自体は多少整形するとしてもこれだという決め手になるものがない。

 内定している迷宮少年の男女四人には初対面の人間を魅了するようなオーラのようなものがあったのだ。

 このオーラのようなものというのを客観的な言葉で説明する事は難しいが、あえて言うならそのタレントが同じ空間にいるだけで殺伐とした空気が華やかなものになるといった現象を引き起こせる能力を持っているという事だ。

「上手い子がいたけど上手い人間なら掃いて捨てるほどいるし、舞台になれば演出家や振付師もいるんだから振りつけとダンスだけで判断しろって言われてもね」

 ウロボロスの現役スターのアナベル・シャリエールが言う。

 男装の麗人で女性からの人気は圧倒的の一言。

 舞台に出れば満員御礼、ランナーで戦っても一流という神様が依怙贔屓したとしか思えないタレントだ。

「あなた方の目は節穴です」

 クリスチャンが何の感情も現さない彫像のような表情で言う。

「2、6、7、8、12番の子をもう一度こちらに」

 クリスチャンが再度五名の参加者を呼び寄せる。

 ダンサーとしてなら充分食べて行けるレベルであろう五人だ。

 クリスチャンがホテルのボーイに言いつけてタンスのようなものを運ばせて来る。

 このようなものがある事はダミアンは聞かされていない。

 タンスの上半分が開き、下向きに収納された八本の剣が姿を見せる。

「課題曲は美しき青きドナウです」

 クリスチャンが淡々とした口調で剣に目を向ける。

「初めて聴く子の為に四回館内放送で流します。四回以内にこの剣を使って振りつけを考えて舞って下さい」

 無茶にも程があるとダミアンは思う。

 クリスチャンはこんな無茶は練習生に対してすら言った事がない。

 剣の重量は四キロ、軽やかに舞う事を身体に叩きこんできたダンサーにおいそれと振れるものではない。

 ダンサーの運動神経やバランス感覚が幾ら優れているといっても求められているものが違い過ぎる。

 そうでなければ流水名鏡剣の本山のホウライの立つ瀬も無いというものだ。

 タレントを夢見る若者たちが青白い顔で剣を手に取りそれぞれに動かす。

 剣は言ってしまえば鉄の棒だ。

 仮に新体操などでバトンを扱いなれていたとしても次元が違う。

 ダミアンは鋼鉄の実剣のようなものでは素振りさえしたくない。

「それでは各自、思う所のある者は挑戦して下さい」

 言ってクリスチャンが席を立つ。

 挑戦者たちが練習する所を見る気はないらしい。

 五人の挑戦者が剣を手に部屋を出、美しき青きドナウがホテルの館内に流れ始める。

 初めて聴く曲、しかもたったの四回、そして恐らく生まれて初めて扱うであろう剣を小物として扱わざるを得ない。

 こんなものはオーディションではないと思うがクリスチャンには思う所があるのだろう。

 タレント事務所の社長としてダミアンはクリスチャンより優秀だという自負があるが、タレントとして、アートの巨人としてクリスチャンに遠く及ばない事もまた事実ではあるのだ。


 

 ※※※



 イェジは掃除中の張り紙をした広いトイレで心臓を吐き出しそうな気分で剣の柄を握っている。

 アニメではヒーローは簡単に剣を振るっているが、振れと言われて簡単に振れるものではない。

 上から下に一度振り下ろしただけで次のアクションが取れない。

 非情にも美しき青きドナウというバレエの課題曲のような曲がホテルの中を淡々と流れていく。

 柄を握る右手から血が滲む。

 ――駄目だ。握れない――

 物理的に握る事はできても、それで振り回す事はできない。

 八針も縫う怪我をしたばかりだし、そもそも振り回すような腕力がない。

 イェジは左手で剣を保持したまま足で刃を蹴飛ばす。

 剣が振り子のように振れる。

 瞬間、イェジの脳裏に涼やかな風が吹いた。

 剣を振るのではない、剣と踊ればいいのだ。

 社交ダンスはした事がないが、剣を中心にして自分がポールダンスのように踊る事はできるだろう。

 剣を一定の高さの宙に浮かせたまま、音楽に身を任せてターンをしたり身体と剣との位置を入れ替えたりしてみる。

 振りつけなんてものを考えている時間はない。

 ――できるのは剣と仲良くなる事だけだ――


 

 ※※※



 緩やかに、軽やかに美しき青きドナウの旋律が始まる。

 アナベルは五人の挑戦者のうち、一人が片手でしか剣を保持していない事に注目する。

 12番のヤン・イェジだ。

 他の四人は剣を振ろうと顔を真っ赤にしているが、イェジは新体操のバトンのように剣を扱っている。

 剣を使っているのではなく剣と踊っているのだ。

 剣を中心に踊る姿はアクロバティックなポールダンスのようだ。

 初めて剣を手にするのであれば凄い才能という事になるだろう。

 社交ダンスとブレイクダンスを両方やっている達人であればやってできない事はないだろう。 

 ウロボロスは藁の山から金の針を見つけるのではない。

 粉砕されたガラスの山の中からダイヤの原石を発見するのだ。

 美しき青きドナウが円舞のように転調する。

 その時イェジの動きが変わった。

 剣が空中に舞い上がり、イェジの手の中で回転する。

 まるで魔法のステッキのように剣がイェジの舞を装う。

 イェジはダンスパートナーだった剣を僕に変えたのだ。

 その舞の前に四人のダンサーたちは座り込んだまま息をする事さえ忘れている。

 するとクリスチャンが踊るイェジに向かって剣を放った。

 イェジの剣がクリスチャンの剣を跳ね上げ、空中で回転する。

 イェジが左手の先で新たな剣を回転させる。

 剣は時に羽衣のような軽やかさでイェジのダンスパートナーになり、時に風車のような激しさでその手足となる。

 刃がダイヤモンドダストのように煌めき、火花のような赤い光が散る。

 否、火花ではない、イェジの傷口から溢れだした血が彼岸花の花弁のように待っているのだ。

 その凄絶な舞に全身に鳥肌が立つ。

 イェジの痛みを思うよりアナベルは目が離せない、否、魅了されていた。

「アナベル、これがあなたになくて、この子にあるものなのです」

 クリスチャンが静かな口調で言う。

 アナベルも練習すればこの剣の舞を舞えるようになるかもしれない。

 しかし、即興でこんな重量物を軽々と扱う事はできないだろう。

 ――これがクリスチャンに選ばれた人間――

 悔しさは感じない。アナベルは自分のスキルに自信を持っているし、イェジが自分の真似をしようとしてもそう簡単にできるものではないだろう。

 イェジは本質的にダンサーや役者といった存在ではなかった。

 美しき青きドナウが終わり、イェジが二本の剣を交差させるようにしてフィニッシュする。

 それは何千年も前から舞われて来た古の神楽であったのかも知れない。

 ――彼女は剣を愛し剣に愛される天衣星辰剣の剣士なのだ―― 

 


※※※



 バレンシア朱雀に帰る列車の車窓を眺めながらダミアンはため息をつく。

 クリスチャンは満足しているし、アナベルは素直にイェジを継承者として、次代を担うライダー候補として認めた。

 しかし、ウロボロスエンタのタレント部門、エージェンシー社長のとしては微妙な気分にならざるを得ない。

 イェジはウロボロスのモデルにしては筋肉質でファッション関係の仕事は来ないだろうし、アパレル企業とのコラボ企画ではまず避けられるだろう。

 顔はアイドルとしては十人並みでウロボロスのアイドルだと思う人間はまずいない。

 歌劇の方なら舞台メイクもあるしごまかしもきくだろうが、イェジは剣術の才能を除けば現状では優れたダンサーでしかない。

 歌劇に出たとしても花形を輝かせるためのバックダンサーが関の山だろう。

 そんなイェジが迷宮少年に参加したらどんな事になるか。

 間違いなく炎上案件。会長ごり押しという情報が漏れれば役員の首が飛びかねない不祥事だ。

 仮に迷宮少年のファンがイェジの剣術を認めたとしても、アイドルユニットではなくライダーに専念させろと言うだろうし、ダミアン自身もそれが一番だと思う。

 しかし、ウロボロスの伝統を守るのであればUMSのライダーは歌劇のトップスター、今のエージェンシーのトップアイドルという事になるのだ。

 ――会社の伝統と観客がファンになるかどうかは別問題だしな――

 イェジはどの道クリスチャンの弟子になる事が確定したのだし、ライダーになる事も既定路線だろう。

 イェジにUMSのファンしかつかなかったとしてもだ。

 今後のウロボロスはより分社化が進んでいくのかもしれない。

 ダミアンはまたため息をつく。

 時代が移ろい、多くの才能が生まれてはきたが、それは同時に組織の変革を求められる事なのかも知れない。

 迷宮少年に関してダミアンがすべきなのは人気を守り、炎上を鎮火するなり利用するなりしてどうにかプラスに働かせる事だけだった。



〈7〉



「受かったのに浮かない顔ね」

 オンジョは駅に向かってスーツケースを引きずる親友に向かって言う。

 イェジは元々ダンスの才能のある人間だった。オンジョから見れば思いきりが足りなかっただけのように見える。

「練習生になるのが不安?」

 オンジョの言葉にイェジが頭を振る。

「どう言ったらいいか分かんないんだけど、剣を持って踊ったら実力以上の力が出たって言うか……そもそも私ってダンサーだったのかなって。練習生ってみんな剣を振ってるのかなぁとか」

「私から見たらイェジはダンサーよ。でも、ダンサーで生きて行くかどうか分からないって言ってた時に剣持って上手くやれたんなら、それがあんたのダンスかも知れないじゃない? 自分が数学者だと思ってたら経済学者だったようなもんでしょ?」

 オンジョは動画で見たイェジのオーディション、剣の舞を思い出しながら言う。

 元々炎上案件で投下された動画だけあってコメントは荒れていたがオンジョから見れば剣を持って踊ったからどうだというのかという事でしかない。

 イェジのダンスは幼稚園の頃から見ているし今更感が強い。

 剣が一本4キロという事に驚きはするものの、イェジならやるんじゃないかという期待とも確信ともとれないものがある。

「オンジョに会えなくなると寂しくなるなぁ」

 イェジが柄にもなく殊勝な事を言う。

「社会人になって関係が今みたいに続く方が変なんじゃない?」

 大学で多少成績がいいといってもオンジョは普通に就職する事になるだろう。

 それが自分の器だという事は理解している。

 そもそもイェジのような芸能人の卵と友達だったことが不思議な事だった。

 オンジョが同年代の女子に比べて芸能人に蛋白だったのは身近にイェジという存在がいたからかもしれない。

 イェジのダンスを見慣れていると驚くようなパフォーマンスというものがなく、イェジより下手くそだとか、イェジよりルックスだけはいいとかそういった見方しかできなくなってしまうのだ。

 そういった意味ではオンジョはイェジの一番のファンだったのかもしれない。

「私が迷宮少年で勝ち抜いたらオンジョは私のマネージャーをやってくれる?」

「その時になったら考えてあげてもいいけど」

 マネージャーになるにはオンジョはイェジを知りすぎているし、反対に芸能の事はさっぱり分からない。

 文字通り金の運用なら増やせるかもしれないという野心もあるが、ファンを増やすなどという事は未知の領域といっても過言ではない。

 チケットを買ったイェジが改札に向かう。

「オンジョさ、今までありがとう」

 イェジが大きく手を振ってくる。

「今更よ」

 オンジョは苦笑を浮かべる。ダンス以外はとにかく手のかかる友人だった。

 そしてオンジョが知る限りイェジは最高のタレントだった。 



〈8〉



「女子さぁ、やべぇんじゃねぇの?」

 ウロボロス歌劇院高等部の一室が一瞬凍り付く。

 ウロボロス歌劇は千年以上の歴史を誇る劇団で、歌劇院はそこにスターを送り出すべく作られた養成施設だ。

 当然ながら高校であるから高校としてのカリキュラムもあればウロボロスで芸能デビューする気のない生徒も存在するが、そもそも一定水準のダンスや発声ができなければ入学できないのだから、立ち位置としてはウロボロス練習生の予備校といった側面が強いかもしれない。

「この時期に新人入れるとかさ、今の女子でデビュー組揃わないからじゃね?」

 ウロボロス歌劇院の特待クラスは共学で30人一クラス。

 その中で迷宮少年の最終企画に参加しているのは男女それぞれ四名。

 二つのユニットが生まれるのだから本来この期に及んでメンバーの入れ替えなどあり得ない。

 しかしオーディションは行われ、本当に一人が合格してしまった。

 ――剣の舞のダンサー――

 何百年も前の話ならいざ知らず、現代で剣の舞でオーディションに挑戦するなど前代未聞だ。

「会長のゴリ押し案件とかも言われているけどこんなのが趣味なのかな」

 男子が他人事の口調で陰口に花を咲かせる。

 様々な噂が飛び交っているいる事は事実だし、将来が不安になるのも事実だ。

「それならあんたは一本4キロの剣を二本同時に振って踊れるわけ?」

 アヴリル・メサは噂に興じる男子を睨んで言う。

「俺たち剣術家じゃないんだぜ? 舞台で使うのも1.5キロのイミテーションだしさ」

「迷宮少年から一人だけ、ランナバウトのウロボロスのライダーに選ばれる事を知っててそれを言ってる訳よね?」

 アヴリルの言葉に男子が引きつった表情を浮かべる。

 迷宮少年のサバイバルが激しいのはアイドルユニットとしてだけではない。

 さらにその中から一人がウロボロスの看板として選ばれる事が大きいのだ。

「それ超ブーメランじゃん。お前は剣持って踊れるのかよ」

 懲りない男子が笑いながら言う。

「少なくとも私はこれまでヤン・イェジって名前を聞いた事がないし、それが今の彼女の実力なんだと思う。三か月後の事は分からなくても私は誰にも譲る気はない」

 アヴリルは自分に絶対の自信がある訳ではない。

 練習生としては当然ながら努力に努力を重ねて今があるのだ。

 より高みを目指す為、時に同じジャンルで競う事を避ける為にスタイルを変える事もあった。

 ダンサーでラッパー、妥協なき攻めのアイドル。

 それが今のアヴリルの姿であり評価でもある。

「女子と口喧嘩とか超ダセェ」

 一人の癖毛で長身で男子が立ち上がる。

 迷宮少年男子部門で最も人気のあるファビオ・フェラーリだ。

「喧嘩に男子も女子もないんじゃない?」

 黒髪を長く伸ばしたチェ・ジスが鋭い視線を向けて言う。

 ジスはプライドが高く、特に何気なく発せられた侮辱的な言葉に反応する事が多い。

「言い方が悪かった。居もしないやつの事をああだこうだ言うのはダセェ」

 言ってファビオが教室を出ていく。

 迷宮少年とは無縁になった――サバイバルを脱落した――女子たちがファビオに熱い視線を向ける。

 ――自分が自分の一番のファンになれなくて何がアイドルよ――

 アヴリルは闘志にも似た熱が胸の中にあるのを感じる。

 最高の技術なんてものはない。

 それでも最も優れたエンターティナーというものは存在する。

 ――剣舞―― 

 自分にできるのだろうか。

 演劇の時代劇の授業の殺陣で剣を振った事はあるが、あの舞はそんなレベルのものではなかった。

 UMSの目線になれば歌って踊れるタレントより、剣を持って戦えるライダーの方が魅力的だろう。

 世界最大の祭典カーニバルで機械神楽を踊れるのは迷宮少年でただ一人。

 教えてもらうとして歌劇の先輩の中には剣舞のできる人はいるだろうか?

 ――そうか――

 私は既にあの子をライバル視してるんだ。



〈9〉



「ランナーキャリア取得という目的でウロボロスエンターテイメントからの資金提供はできません」

 へウォンは画面越しにUMSのバスチエに向かって言う。

 本来ならオルソンの要求など一刀両断する話なのだが、オルソン獲得は会長であるクリスチャンの意向なのだ。

 オンラインでも構わないが普通に顔を突き合わせて契約書を交わして、というのであれば話はそれなりに進められるのだが、契約前に居住用のランナーキャリアを用意しろというオルソンの条件が引っかかっている。

 UMSにもスポンサーを集める営業も広報もあるのだから資金を自力で調達して欲しい所だが、現状では動きにくいであろう事は事実だ。

 公にはオルソンはマイティロックを設計したかもしれないという程度の情報しかないのだし、ウロボロス側が設計したと断定的に報じればVWCと揉める事になる。

『そうは言ってもヘウォン、契約前じゃ経費でも落ちないし税金だってかかってくるだろう? それにUMSの移動宿舎を作ったなんて言ってみろ、試合で地方に行って宿で飲み食いするのを楽しみにしてる連中が黙ってないぞ』 

 大義名分としてUMSが移動宿舎のキャリアを作り、名目上の所有者をオルソンにしておけばそれなりに形は整うし実用性もある。

 しかし、一年の半分、カーニバルイヤーは丸一年旅暮らしになるスタッフをホテルなり民宿なりにも泊めずキャリアにすし詰めというのは非人道的だ。

 かといって純粋にキャリアを一台購入、改修して個人に贈与というのは贈与税がかかる事になり不要な出費を強いられる事になる。

 本体が中古で五億、改修に八千万、雑に見積もって六億として、贈与税が三割だから二億ヘルを追加で支払わなくてはならなくなる。

 それならオルソンをウロボロスで雇用して役員待遇にでもした方がいいのだが、そういった話し合いの場ができておらず、前提条件としてランナーキャリアを用意しろという話になってしまっているのだ。

「所有権を渡しさえしなければ贈与税は避ける事ができるのよね。で、UMSでは所有する大義名分がないと」

『今でも辺鄙な所に行った時の為にシャワールームと寝室程度のついたキャリアはある。仮にオルソンと仕事をするとして一人だけ風呂とジムのついたキャリアで生活させられるか?』

 バスチエの言葉は正論だ。

 そもそもオルソンがどうしてランナーキャリアを要求しているのかが分からない。

 チームと移動するにしても、ド田舎にでも行かない限りホテルに泊まる予算くらいは出るのだし、マイスターともなれば相応のレベルの所に宿泊させる。キャリアにいるより余程開放的で健康的な生活を送れるだろう。

「と、なるとキャリアの所有権そのものはウロボロスに置いて、その所有権、オルソンのポジションとなるグループ企業が必要になるわね」

『契約内容も分からないんじゃキャリア調達費用まではうちじゃ出せないぞ』

「そっちの台所事情は把握しているわ。費用と運用はこっちで考えるからものだけ用意してちょうだい」

 ヘウォンは言って通信を切る。

 ランナバウトしかしていないUMSに複雑怪奇な契約を一任する気はそもそもない。

 ヘウォンは子飼いとも言えるウロボロスマーケティングをコールする。

「ヴァネッリ社長。まずは迷宮少年の新人の処理を上手くしてくれている事に感謝するわ」

 画面に現れた栗色の髪を伸ばしたロゼッタ・ヴァネッリが小さくため息をつく。

 オーディション動画の流出とその後の世論形成は迷宮少年の広告代理店であるマーケティングの手腕による所が大きい。

 ダンスが凄い、ルックスはいまいち。会長案件、実力は大会で証明済み。

 同じ炎上でもプラスとマイナスの情報のコントロールさえできていればそれは広告としては成功だ。

『で、今度は噂のマイスターをどうするかって話?』

「話が早くて助かるわ。契約上ランナーキャリアは外せないし、贈与の形を取るほどウロボロスはお人よしじゃない」

 ヘウォンは告げる。ウロボロスは営利企業であって慈善事業ではないのだ。

 そもそも論ではあるが、オルソンという男も狡猾であるとヘウォンは思う。

 キャリアが無ければ交渉に応じられないのなら、交渉が決裂したとしてもオルソンはキャリアをわが物にできる。

 だが、そんな甘くて都合のいい話がある訳がない。

 どんなに美味しいドーナツにも人を太らせるという罠があるようにだ。

『それは企画部が企画書を作製中よ』

「見たいわね」

『その気が無ければ言わないわ』

 ヴァネッリが転送したファイルをヘウォンは展開する。

 企画は迷宮少年とG&Tのコラボだ。

 G&Tはヨークスター太陰に本拠を置くアパレルメーカーでファストファッションのシェアの2割を占める大手だ。

 本来ファッションブランドを持つウロボロスが組む相手ではないが、ウロボロスのファッション部門は高価格帯で十代二十代の若者が手を出せるものではない。

 その点G&Tであれば若者向けに売り出し、迷宮少年との相乗効果を見込めるだろう。

 G&Tは迷宮少年の後援として更にデビューまで残り三か月のツアーの費用を負担する。

 デビューしていないのにスポンサーがついてツアーまでするというのはやりすぎだが、新人投入で良くも悪くも燃えているのだから弾みをつけられるならつけたい所ではある。

 迷宮少年に限らずウロボロスの練習生は寮生活であり、その生活もコンテンツの一つとなっている。

 そこで巨大な移動宿舎を作ってリベルタ大陸を横断するというツアーを敢行するのだ。

 現状、練習生はデビューしていないとはいえそれなりにファンもおり、仮にツアーのような事をするのであれば問題を避けるために相応のセキュリティのホテルに泊まる必要がある。

 仮にそうするのであれば既にデビューしているタレントとの差別化ができず、迷宮少年だけを過度に優遇していると受け取られかねない。

 このキャリアの所有権は協賛であるG&Tとなり、オルソンはこの移動宿舎の管理人という役割になる。

 物理的にオルソンの要求を全てクリアしたキャリアは用意されるのだし、そこに住む事も本人の要望通りに保障される。

 後はオルソンと契約を詰めてマイスターとして働いてもらうだけだ。

 オルソンに不満があったとしても、ランナーキャリアを用意するという無茶を飲んでこちらも動くのだから契約はなくとも応じる義理はあるはずだ。

 それにオルソンが拒否するなら、要望通りキャリアを用意した事を公開すればいい。

 今後オルソンがどこかと契約するとしても、多額の契約金とも言えるキャリアを用意されて反故にしたという前歴がつけばまともなチームはまず相手にしないだろう。

「キャリアをG&Tに持たせるというのはいい案ね。オルソンが蹴っても迷宮少年のお披露目にはいい機会になるわ」

 迷宮少年のツアーで巡るとなれば地方都市なら観光課が何かと便宜を図ってくれるだろう。

 G&Tとのタイアップはそれなりにリスクもあるだろうが、大きな利益とは行かなくてもそれに見合ったリターンがありさえすればいいのだ。

『それは社長のGOサインだと思っていいのね?』

 ヴァネッリがしてやったりといった表情を浮かべて言う。

 マーケティングの企画部は良い仕事をしていると言えるだろう。

「一応会議にはかけるけどそのつもりで進めておいて」

 ヘウォンは笑顔で言う。

 迷宮少年から一人はライダーが選ばれる。即ち一機はランナーが造られるという事だ。

 G&Tがそのスポンサーにもなるのなら新型機は多少奮発しても良いという事にもなるだろう。

 それで二年後のカーニバルの成績が良ければUMSの方も言う事無しだ。



※※※


 

 深夜のサービスエリアの駐車場。

 オルソンは黒いパーカーのフードをおろし、黒いマスクをつけてキャンピングカーのトイレのタンクに溜まった汚物をマンホールに流している。

 キャンピングカーの生活は一見気ままな旅暮らしだが、大きな二つの問題を抱えている。

 一つは人間が生きて行く上で必要な水だ。

 ラジエターの水を飲んだり身体を洗うのに使うなら多少余裕もあるだろうが、無尽蔵に水を貯えられる訳ではない。

 第二がトイレだ。水洗だから水を使うのはもちろん、汚物はタンクに溜められる。

 SAやオートキャンプ場には汚物をマンホールに流せる所があるが、街中の駐車場にそんな施設はないし、ド田舎を走っていたらどこまで言ってもそういった施設が見当たらないという事もある。

 年中高速道路の上だけを走っていればいいのかもしれないが、バッテリーは消費されるのだし、SAでの食事はコスパが悪い。

 オルソン自身自炊ができるのだから、食材を買って自分で作った方が添加物も気にしなくて済むし経済的にも楽なのだ。

 人の疎らなスーパーのある田舎町で定期的にキャンピングカーの汚物を処理できる場所というのが理想的なのだが、それを両立する事は困難だ。

 オルソンは臭いホースから汚物がマンホールの中に消えていくのを眺める。

「おい、兄ちゃんまだか」

 ガタイと声の大きい運送業者らしい男が声をかけてくる。

 本来こういったマンホールはオルソンのような社会不適合者ではなく長距離運転のトラックの為にある。

「あ、あの」

 ――まだ全部きれいに流せていないし、流した後掃除もしたいし、でも後がつかえているなら迷惑だし、この人が終わった後また来ればいいかもしれないけど、次の人が来たら自分の番がいつになるかもわからないし……――

「さっきから待ってんだけどな」

「そ、その……」

 ――待たせてしまった事は大変申し訳なく思っているのだけど、トイレをマンホールに流すチャンスが三日ばかりなくて、トイレがほぼ利用不能で小は公衆便所でも何とかできるけど、大の方は落ち着かなくて自分のキャンピングカーでなくてはできなくて、トイレを我慢し続けて便秘になっていて、汚物を流し終えたらすぐにでも下剤を飲んでトイレに駆け込みたい所で……――

「何か文句でもあんのか? マスクくらい取ったらどうだ」

「あ、あ、あ」

 ――これはあなたに文句があるのではなく、昔から人に見られるのは苦手でいつでもどこでもだいたいこの恰好で、誰の迷惑にもならないように深夜に行動しているんですが、高速道路だとあなたのように昼夜逆転している人が多くて裏目に出てしまっている事がそもそもの問題で、かといって昼間から公衆の面前で汚物をマンホールに流せるだけの強靭なメンタルも持ち合わせていないので……―― 

「急かしてる訳じゃねぇんだけど、俺も朝には荷物を集配センターに届けなきゃならねぇんだよ」

「あのあのあの……」

 ――御多忙の所大変申し訳ありませんが、こちらも三日トイレを使えず便秘が深刻でとにかくトイレを使用可能にしないと生きて行けないんです。いつも人に迷惑をかけずにひっそりと生きているのでお目こぼし頂けませんか……―― 

「兄ちゃんよ、そんなオドオドしなくてもいいじゃねぇか」

「すみませんすみませんすみません」

 オルソンは汚物をまき散らしながらホースを引き抜く。

 もうこれ以上は無理だ。トイレが空になった訳では無いが使えない訳ではない。

 ここは速やかに立ち去り、他でまたマンホールを見つけるしかない。

「おいっ! 何やってやがる! 掃除していけ!」

 男が声を上げるが、オルソンは無視するようにして走る。

 ――声をかけずにそっと作業が終わるのを待っていてくれればこんな事にはならなかったのでとても遺憾ではあるのですが、豆腐メンタルの僕に声をかけてきたあなたの責任も小さなものではないと思うんです……――  

 オルソンは運転席に飛び乗りイグニッションを押し込む。

 アクセルを踏んで高速道路の流れに乗る。

 ――しまった。水を補給できてない――

 これではトイレの水が流れない。手も洗えない。

 ペットボトルの飲み水はあるがせいぜいが食事用でシャワーに使う事などできない。

 しかし、次のサービスエリアで再び誰かに襲撃される可能性もある。

 水を飲んだりトイレを使ったりすることは人間の基本的な権利に含まれないのだろうか。

 オルソンが暗澹とした気分でステアリングを握っていると、滅多に鳴る事のない通信の着信音が響いた。

 メッセージを送って来たのはランナーマイスターの仕事のオファーをしてきたクリスチャンだ。

 オルソンはメールを読み上げモードにする。

『拝啓オルソン・カロル殿、ウロボロス会長クリスチャン・シュヴァリエです。ウロボロスエンターテイメント社長のカン・ヘウォンからご要望のランナーキャリアの用意の目途が立ったと連絡がありました。正式にチームとマイスターの契約をさせて頂きたいので折り返しの連絡をお願いします』

 オルソンは心の中でガッツポーズを取る。

 ランナーキャリアサイズのトイレのタンクなら頻繁にマンホールに流しに行かなくていいだろう。

 要望通りというのであれば調理施設も運動施設もあるはずだ。

 屋外や人の家で他人と話をするのはハードルが高い。

 初対面の人ともなればその難易度はブレーキのない車を止めるより難しい。

 気苦労をするくらいならメールで契約しても構わないのだが、相手は一流の人だし大きな金も動くから直接会わずに済ませる事はさすがに失礼であるように思われる。

 だから自分が安心できるキャリアを確保し、自室をカスタムし、直接人と会える環境を整えてから契約したいのだ。

 ――こんな時にエイミーがいればな――

 エイミーはオルソンの対外的な事のほとんどの事をこなしてくれていた。

 だから学生時代に困る事は無かったし、マイティロックを完成させる事もできた。

 マイティシリーズを持ち逃げされた事は多少悔しいが、それ以上にエイミーのいない生活が不便で仕方ない。

 エイミーがいてウロボロスとの契約だったらどんなに嬉しかっただろう。

 人付き合いが不安になる事もそもそもキャンピングカーで旅暮らしにもなっていない。

 ランナーキャリアが欲しいとも思わなかった。

 だが、エイミーは出て行ってしまったのだし、VWCで成功もしているようだし戻ってくる事はないだろう。

 戻るというより形としてはオルソンから出向くという事にはなるのだろうが、どの道マイスターとして量産型を作るのは嫌だしVWCは何かと制約が多そうだ。

 変な契約を結んだらマイスターになった事を後悔する事になるかもしれない。

 その点、時間はかかったがウロボロスはランナーキャリアを用意してくれた。

 信頼の証と言えるだろうし、これで必要最低限以外は人と接する事なく安全に生きて行く事ができる。

 マイスターとしての仕事にも集中できようというものだ。

 ――エイミー、僕はこれから追い付いて見せる――

 そして自らの最高傑作であるマイティロックを倒すのだ。 

 

 

〈10〉



「荷物はその辺に置いといて。ベッドは私が下」

 迷宮少年サバイバルを戦っているエリザベッタ・ニェッキがイェジに向かって言う。

 ウロボロス歌劇にやって来たイェジは特に歓迎される訳でもなく、転校の書類手続きを済ませるとそのまま寮に行くように言われた。

 寮は二人一部屋で、イェジと相部屋になるのはエリザベッタという色白で長身の見事なモデル体形の練習生だった。

「……あとすぐにトレーニングウェアに着替えて。練習あるから」

 エリザベッタはイェジが寮に来るのを待っていてくれたらしい。

「練習ってダンス?」

「ダンスは一日四時間。筋トレ、柔軟、アイソレーション、体幹トレーニング、ランニングは自主トレ。ボイトレは45分」

 着替えを急かしながらエリザベッタが言う。

「学校の転入手続きしたんだけど勉強の授業ってあんの?」

「あるわよ。一般教養も無しでメディアで惨めな姿を晒せないでしょ。それにアイドルっていうのは子どもの理想や憧れでもあるんだからバカでいい事にはならないわよ」

 ――うわぁ、ド正論。反論できない―― 

 イェジが慌てて着替えるとエリザベッタが先導するように歩き出す。

 寮とスタジオとジムは併設されていて、現役のタレントも一般人の目に晒される事なく移動したりトレーニングしたりする事ができる。

 オーガニックのカフェや食堂もあり環境が整っていると言えば聞こえはいいが、基本的には日常生活から娯楽に至るまでの全てを管理されるという事だ。

「エリザベッタの事は動画見て分かる程度の事は知ってるけど」

「ここで練習生続けるって事は寝落ちしてよだれを垂らす姿までも晒されるって事。何をしてても、どこを切り取られても文句は言えない覚悟が必要なの」

 ――常に外面を意識して生きろって事か……――

 全員が全員そこまで意識が高いという事もないのだろうが、それを貫き通すくらいの事ができなければ、いざ芸能人になった時にエリザベッタの言う所の醜態を晒す事にもなるのだろう。

「でさ、ぶっちゃけた話、あの剣舞ってどこで習ったの? あれが決め手だった訳でしょ?」

 エリザベッタもオーディションの動画を見ていたらしい。

「いやぁ、あれ即興で」

「即興!」

 エリザベッタが驚いた様子で声を上げる。

「オーディションでやった曲は駄目で合格者もなしだったんだ。そしたら会長が剣持ってきて四回曲流すから踊れって言ってさ。それで無我夢中だっただけ」

 イェジは説明する。あの剣の舞が無ければここに来る事も無かった。

 何かに迷ったままぼんやりと学校生活を送っていただろう。

「そんな事って……あんの?」

「私にも分かんない」

 イェジが言うとエリザベッタがスタジオのドアを開けた。

 誰がタレントとしてデビューしてもおかしくない美男美女が思い思いに柔軟をしている。

「男子と女子一緒なんだ」

 イェジは思わずつぶやく。ここまで男子比率の高い所で踊った事はない。

「あ、皆さんよろしくお願いします。ヤン・イェジと言います」

 イェジが頭を下げると練習生たちが顔を向ける。

 自己紹介タイムというものはないらしい。もっとも練習生たちはファンに知られ過ぎるほど知られているので改めて自己紹介の必要もないのだろう。

 コーチが部屋に入ってきて手を叩く。

 課題曲が流れ、練習生たちが一斉に踊り出す。

 後から遅れて来たイェジはまずは振りつけを覚える事に集中する。

 ――すごい注目されてる――  

 ダンスに集中しなくてはならないと思っていても、練習生たちがイェジを意識しているのが感じられる。

 振りつけを覚えるのは早いか、どんな動きをするのか、どう表現するのか。

 練習生たちのレベルはイェジがこれまで地元のスタジオや地方の大会で見て来たものとは桁違いだ。

 ――これ、ついていくだけでもきついかも――

 内心でつぶやいたイェジは寮のベッドが開いていた事をふと思い出した。

 上のベッドで暮らしていたのはイェジよりハイレベルなタレントだったのかも知れない。

 それでもハイレベルな人たちと競ってそれに耐えられなくなったのかもしれない。

 ダンスや歌は格闘技のように直接相手を攻撃して倒すようなものではない。

 蹴落とそうと思って蹴落とせるものではないし、実力に見合わず不当に得た地位は容易に失われる。

 曲とコーチが手を叩いて取るリズムの音が延々と響き、イェジも振りつけを自分のものにすべく集中する。

 これからサバイバルが終わるまで重圧と練習の日々が続くのだ。

 ――オンジョ、私こんなんで続けられるのかなぁ――

 サバイバルに敗れた練習生の多くはそれでもエキストラの道に進む。

 アイドルとエキストラ、光と影。

 その差は紙一重だが、鉄筋コンクリートの壁より固くて厚い。

 生き残るには何かに秀でていなくてはならないだろう。

 イェジにそれがあるとするなら、一度だけ舞った剣舞以外に無いように思われた。 



〈11〉



 迷宮少年練習生ロビン・リュフトは更衣室のロッカーの陰で着替えている。

 迷宮少年のサバイバルの男子の中では最も小柄だが、特にそれを恥じているという事はない。

「あの新人ダンスはすごいな」

 男子の一番人気、ランナーに乗る事になるかどうかは別として迷宮少年でデビューが確実視されているファビオ・フェラーリが言う。

 涼しげな切れ長の目をしたハンサムで女性人気が高いのも当然と言える。

「振りつけ二回でほぼマスターしてたな」

 黒髪を短く刈ったセルジュ・クレールが言う。

 セルジュは人体模型のような身体を持つオールマイティな練習生だ。

 歌もダンスもトップクラス、どんな状況にも対応できるように身体を鍛え上げており、演技力も高く沈着冷静で頭もいい。

 人気も高いのだが、ロビンから見るとガラスの器にジュースを注ぐと色が変わるように、何でもできるという彼の能力には逆に個性がないようにも思える。

「ロビンはどう思った?」

 均整の取れた長身のキム・ドヒョンが言う。どちらかと言うと筋肉質でラップが得意。

 ダンスはブレイクダンスを得意としており繊細な表現力には欠ける。

 どちらかというと陽気な性格が好まれてファンが多いといった印象だ。

「底が知れないね。恰好良く踊ったかと思えば色気のあるラインも出すし。踊ってない時とじゃまるで別人だ」

 ロビンはイェジを評して言う。

「ロビンがそう言うなら本物か……そうなると誰か落ちる事になるな」

 どこか不満げにファビオが言う。

 迷宮少年の練習生は良くも悪くも四年の付き合いだし、幾ら外の世界で実績があると言ってもイェジは新参者だ。

 普通に考えるなら迷宮少年ではなく別のユニットとしてデビューするのが筋だ。

 しかし、迷宮少年をウロボロスの象徴的存在として考えるなら、その時点で最もハイレベルなタレントで構成するのがベストだ。

 ロビンの目から見てイェジの才能は迷宮少年としての基準をクリアしている。

 運動神経的な意味でのダンスの才能だけでなく表現力、アピール力にも優れている。

 生まれつきの外見はアイドルとしては平凡だが、裏を返せば化粧映えするという事でもある。

 ノーメイクで舞台や撮影などあり得ないのだし、それを加味するのであればイェジはウロボロス屈指のタレントとして彗星のように登場したとも言えるのだ。

 会長案件だと揶揄されるのも今のうちだけで、実力が認められるようになれば評価はがらりと変わるだろうとロビンは思う。

「落ちるのは女子だけじゃない。ライダーの椅子もだ」

 セルジュがさらりと爆弾を放り込む。

 イェジのウロボロス入りがあの剣舞であるなら、ライダーとして採用されたと見るのは自然だろう。

 舞と剣術に差があるにせよ、4キロもある剣を自在に操れるというのは剣術家としての基準もクリアしている事になる。

 UMSのライダーのうち二人、クリスチャンとオーレリアンが剣豪という事を考えるならイェジはライダーの最有力候補、もしそうなら迷宮少年としてのデビューは確定だ。

「ライダーデビューするのは俺だ」

 ファビオが鋭い視線と声音で言う。

 迷宮少年ナンバーワンの自負があればこそだろうが、ファビオにはそれ以上の何かがあるようにも見える。

「そうはさせないさ」

 セルジュが静かな闘争心を見せながら言う。

 ロビンはランナバウトの事は分からないが、仮に格闘技で競わせたとしてファビオとセルジュの差は微妙なものだと思う。

 ファビオは均整の取れた長身でカッコ良く踊る事には長けている。それだけ身体の扱いが上手いという事でもある。

 対するセルジュはいかなる状況にも対応した身体を自ら計算して作り上げている。

 よーいドンで同時に始めたならセルジュの方が有利である事に違いは無いだろう。

 もっとも単純に格闘技と考えるとフィジカルに優れたドヒョンが最有力候補という事になる。 

「ライダーになれるのは一人ってのが厳しいよな。ユニットでは四人なり五人でやるのにさ」

 ドヒョンの気持ちは分かるがランナーのような高価な機械を扱う競技スポーツで、なおかつランナバウトのルールで何人もライダーを抱える事はできないだろう。

 迷宮少年として公式ソングでカーニバルに出る事はできたとしても。

「そもそもなんだが、俺たちがライダーに選ばれたとして格闘経験ゼロでどうにかなるものなのか? アナベルさんの時はどうだったんだ?」 

 セルジュが疑問を投げかける。

「アナベルさんはライダーに選ばれてからキックボクシングベースの総合格闘技を習ったんっだって」

 ロビンはセルジュに答える。

「いつの間にそんな話したんだよ」

 ファビオが言う。そもそも迷宮少年からライダーが選ばれるというのは非公式の話で、直接的に練習生たちが候補生なのだと聞かされた訳でもない。

「何となくそんな会話になっただけ」

「お前、女の人と簡単に親しくなれるのが羨ましいぜ」

 ドヒョンが言うがそれには何かと誤解がある。

 ロビンはジェンダーXだ。簡単に言ってしまえば男でも女でもない。

 男子の肉体として生まれたが心は女子でなおかつ性指向、つまり好きになる相手の性別は女性というややこしさだ。

 普通なら思春期に入る頃には性自認が出て来るものだが、ウロボロスでモデル活動をしていたロビンは男子社会にありがちな体育会系気質に触れる機会が無く、ダンスのレッスンももっぱら女子と行っていた為に自分が男性だと強く意識する事が無かった。

 その上初恋の人が女性だったのから、自分がトランスジェンダーだと思うきっかけというものが無かった。

 所が男子更衣室で着替えている時にパニック発作を起こすようになり、検査した結果心の性が男性ではないという事が分かったのだ。

 心の性で言うなら十三歳の女の子が男子更衣室で男子に囲まれながら着替えをさせられたらパニックを起こして当然という事だ。

 そこで身体の性を変えれば事はシンプルだったのかも知れない。

 しかしロビンは既に男性タレントとして活躍しはじめていたし、ダンスをしていれば肉体の差は嫌でも認識させられる。

 男子のパワフルな肉体は女子には難しいアクロバティックな動きができるが、ロビンが望むような柔らかで繊細な表現が難しい。

 ロビンが身体の性を心の性に合わせようとするなら、女性ファンの大半を失う事になるだろうし、それを譲ったとしても男子としてのダンスも女子としてのダンスもできなくなるだろう。

 ロビンは身体はそのままにするというジェンダーXの決断を下した。

 男性としての肉体、骨格は今更変える事ができない。ホルモン治療や整形をしたとしても限界は見えているし、それが原因で今持っている美しさまでも手放す事になるのでは意味がない。

 それならそれで今現在の自分で最も美しくあれるように最大限の努力を払うだけだ。

「俺たちにも女性ファンはいるだろう」

 セルジュがドヒョンに向かって言う。それなりに気を使ってくれてはいるのだ。

「アナベルさんは選ばれてから格闘技を始めてあそこまで強くなったのか?」

 ファビオがどこか納得行かなそうな口調で言うが、自分たちもライダーに選ばれてランナバウトで戦うようになれば同じ事を言われるだろう。

 しかも負ければタレントがランナバウトに出て来るからとアンチを喜ばせる事になる。

 もっとも負けても波風が立たない程度ならタレントとしてもライダーとしても終わっている。

「アナベルさんはそう言ってたよ。ダンスは体幹と身体の扱いを極限まで高めるものだし、初見で正しい蹴りをトレースできるなら百回蹴り技の練習をするより効率がいいって。格闘家になるなら身体を守るための筋肉も必要になるけど、ライダーになるなら生身の身体での防御力は必要無いわけだし」

「会長も基礎ができてるもんだと思って俺たちの中から選ぼうって言うんだろう」

 セルジュが納得した様子で言う。

「ファビオはどうしてライダーにこだわるんだ?」

 ドヒョンが尋ねる。ロビンもそこまでライダーになりたい訳ではないから気にはなる。

「……個人的な理由だ」

 ファビオがそれ以上言いたくないといった様子で更衣室を出て行ってしまう。

 そもそもライダーになりたいならウロボロスに来るのはかえって遠回りだ。

 迷宮少年のサバイバルが始まってから4年だし、その間にどうしてもライダーになりたい理由というものができたのだろう。

 ――お母さんの死に目に会えなかったとは言ってたけど――  

 ファビオの母親は二年前に死亡している。 

 それまでファビオはどちらかと言うと快活な性格で思いつめたような表情を浮かべるタイプでは無かった。

 ――何かはあったんだろうけど――

 ライダーになろうとは思っていないロビンはファビオと競う気がない。

 仮に迷宮少年から脱落したとしても歌って踊っておしゃれをして生きて行ければそれでいいのだ。



〈12〉



「それにしてもあんた良く食べるよね」

 宿舎のキッチンでエリザベッタがイェジを見て言う。

 歓迎会という程のものはないが、レッスンの後で流れで何となく集まっている。

「走りこめば大丈夫だって」

 イェジは宿舎の冷蔵庫にあった冷凍のピザを食べながら言う。

「発想がアスリートね。どんなトレーニングをしてきたんだか」

 アヴリルが呆れた様子でピザを小さくちぎって口に放り込む。

 我慢をしているが口元が寂しいのは同じらしい。

「筋肉太りってものもあるんだし、あんまり太くすると服が着れなくなるよ」

 ジスがあらゆるものに耐えている表情で言う。

「デニムがL寸しか入らないんだよね。体脂肪は9%なんだけど」

 イェジは笑いながら言う。

「試合前のボクサーなの、あんたは?」

 アヴリルが水を飲みながら言う。水でお腹をいっぱいにするという作戦らしい。

「これまでダンスしかしてなかったし、そんなに衣装を着こなすとか意識した事無かったから」

 スウェットとトレーニングウェアが着れれば基本的に困らないのだ。

 余所行きの時もワンピースを着てしまえば足が太いのは気にならない。

「筋肉太りを細くするってボトックスとかしかないよね……まぁ、イェジはそこはあんまり期待されてないだろうけど」

 エリザベッタもアヴリルと同じように水を飲みながら言う。

 ピザを我慢しての事だろうが、砂漠の民からは恨まれそうだ。

「服を着せても様にならないのは認めるけどさぁ」

 屈伸をしながらイェジは言う。

 少し胃がこなれてきたら一回り走って来ればいい。

「あなたに足りないのは美意識です」

 ジスが大きなため息をつく。

「美意識って大げさな」

 イェジはお洒落どころかろくに化粧もした事もない。

 何もしないで済むならしたくないし、化粧はパックに全部くっつけて一発でばっちり決まるセットを発売して欲しいとさえ思っている。

「言葉が足りなかったわ。あなたは誰かに見られているって思ってないから全身から危機意識が欠如してるのよ。あなたはこれから私たちと同じように四六時中視線やカメラに晒され続ける事になる。だらしない姿を晒せば写真は一気に拡散し、悪意あるコメントがSNSを埋めつくす。自分は見なくていいと思っていても親兄弟から電話が来る。そんな中では否応なく自分の身を正さなきゃならないのよ」

 ジスは天性の委員長気質であるらしい。

 これだけ気を張っているのに肌荒れもないのだからある意味すごい事だ。

「それよりあの剣舞って即興だったんでしょ? どんな感じでやったの?」

 アヴリルが興味深そうに言う。

「どう言うんかな……多分ジャグリングとかが近いのかな……」

 イェジはモップを手に取って先の雑巾を外す。

 片手を軽く添えて蹴飛ばすと、モップの柄が空中で一回転する。

「振ろうと思うと身体が振り回されてどうにもなんないじゃん? ただ点で支えて振り子みたいに動かせば身体は振り回されない訳よ」

 イェジが言うと三人がそれぞれ長い棒を持ってきて真似をする。

「昔京劇を見たことがあって、薙刀を背負ったりしてたのね。腕力と脚力じゃなくて全身を使えば意外にバランスが取れてペアダンスみたいに動けるんだよね」

 イェジはテンポを上げながら言う。剣より軽いし柄だけだから扱いやすい。

 三人もその道のプロらしく棒をパートナーにそれぞれ踊り始める。

「でも何でダンスすんのに剣を振らされるのか分からないんだけど」

 ジャグリングのように空中で回転させた棒をキャッチしてイェジは言う。

「ウロボロスの会長は……UMSのライダーは天衣星辰剣の剣士だって事らしいのよ。剣豪がやってる会社だからUMSでランナーを転がすしランナバウトもするって訳。でも長い事天衣星辰剣の剣士ってのは生まれてなくて、オーレリアン共同代表の後継者のアナベルさんも剣術じゃなくてキックボクシングを選んだ訳。そうなると次世代のウロボロスのタレントなりライダーなりに期待されるのは天衣星辰剣って事になるでしょ?」

 アヴリルが水を飲みながら言う。

「だったら剣道やってる人がやればいいんじゃない?」

 イェジは言う。剣術がしたい、ランナバウトがしたいのなら元から剣術なり格闘技をやっている人にやらせた方がいい。

「天衣星辰剣は三大流派のうちでもっとも美しい剣なのよ。最も美しい人間の剣が天衣星辰剣って言ってもいいわ。強ければいいなんてのは野蛮な考えよ」

 ジスが包丁を拭きながら言う。悪気はないのだろうが真面目できつい性格の人間が包丁を持っていると何だか恐ろしい。

「まぁ、私らはまず迷宮少年のサバイバルをどうにかしないといけないんだしさ。迷宮少年だってオーディション受けた人間の人数だけで言うなら二万人なんだし。世界最難関の大学より競争率厳しいんだから。今の身分だって大したモンなんよ」

 エリザベッタの言葉にイェジは乾いた笑い声を出す。確かに迷宮少年は一般的には恐ろしく狭い門なのだ。

 ところがイェジは何の気なしにオーディションを受け、おまけに受かってしまったのだ。

 嫉妬している人は多いだろうし、恐ろしくて見る気にならないが昔アップした画像が拡散してひどいコメントがついていたりもするだろう。

 逃げる事はできるだろうが、ここで踏みとどまって戦うのならジスの言う通り美意識を高めて無責任な外野に文句を言わせないように生きるしかないのだ。

「あんた何で笑ってんの?」

 アヴリルが不思議そうに言う。

「いや、私って場違い感あるじゃん? 色々言われてるだろうし言われもすると思ったんだけど、文句を言わせないように生きるのが仕返しって考えたら何か面白くて」

 強く美しくなればこれまで凡人だったイェジに何も言えなくなる人たちがいる。

 他人を貶める人の多くは日の当たらない所にいるのだろうし、日が当たらないと知っているからそんな事ができるのだろう。

 しかし、強さや美しさは太陽の下でこそ輝くのだし、太陽が出ていなければ自分が太陽になるのだろう。

 その力をカリスマと呼ぶのだろうし、ここにいる練習生が多かれ少なかれ持っているものだろう。

 ――私がカリスマを持つ……―― 

 イェジは背筋がぞくりと粟立つのを感じる。

 イェジはこれまでお洒落をした事が無い。それは似合わないと先入観で決め込んでしまっていたからかもしれない。

 ダンスだけに打ち込んできたのはダンスに逃げ込んでいたからなのかも知れない。

 ――正面切って戦えるようになってやる――

 どこの誰と何を争うのか分からないがイェジは闘志が湧き上がるのを感じる。

 その為にはここにいる学校一以上の美人たちの力が役に立つはずだった。

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