第九章 3

 なにもすることがないから、ただ水面を眺めてるばっかりだ。青い空間の上の方を見上げれば、遠くの月みたいな光がぼんやりと浮かんでいる。あそこから落ちてきたってことだろう。あの淡い光が、この非現実的な空間と俺が知っている世界とをつないでいるような気がした。もうあちらには戻れないのに、あの光が見えるせいで、幻想の世界に浸りきれもしない。まだ、どこかに抜け道があるんじゃないか、なんて思っちまう。

「……せっかくだし、少し、あいつの話をしようかな。聞いてくれる?」

 『あいつ』っていうのが、リオンを裏切った男のことだっていうのはすぐに分かった。これまで関心薄そうにしていたが、気が変わったんだろう。こんな状況だ。

「ああ」

 深い青緑色の石壁に背中を預けて、俺たちは静かな水面を眺め見た。リオンはしばらく黙っていた。こいつの中で言葉がまとまるのを、俺は黙って待った。

「一時期、仲は良かったって言ったでしょ。子供の頃のあいつは、素直だった。将来は大富豪になるのが夢なんだって。スレイマン様――僕らを育ててくれたズフールの総督のことね――彼みたいに、身寄りのない子供たちを救けたいからって。誰よりも熱心に勉強していた。毎晩、夜空の向こうの神に祈ってたよ。夢が叶うようにって。でも、そんな夢を人に語ったところで馬鹿にされるのは目に見えてるから、言わなかった。僕以外には。あの頃のあいつは輝いて見えた。少し……、君と似ていたような気がする」

 俺と似ていた、か。一瞬、複雑な気分になった。だが、輝いていた頃のそいつを語るリオンの表情がえらく穏やかだったから、こいつにとってそれが大切な記憶もので、それを共有するのに俺は足る人間なんだと思えば、モヤのような感情はすぐに薄れた。

 リオンは何かを惜しむように、口から長い息を吐いた。

「……あいつが変わってしまったのが悲しかった。悔しくて仕方がなかった。変わらせてしまった自分が憎かった。あんな友人なんてもの、初めからいなかったんだって思おうとした。もう戻ってこないものに、縋りついていたくなかったから。でも……、もういいかな。僕を『親友』と呼んでくれたあいつを、僕は殺しきれなかった。あいつの夢は高尚だ。そして今もそれを叶えようとしている。『夢を選びきれていれば、僕に当たる必要もない』。そうなのかもしれない。大それた目標と天秤に掛けても、僕を振り落とせなかった。なら、結局僕もあいつも同じだ。僕にはかつて、親友と呼べる人がいたよ。ずっとそうではいられなかっただけで」

 吹っ切れたように遠い天を仰いだリオンの横顔は、神々しく見えた。

「俺は……」

 お前が望んでくれるなら、いつまでだって――。

 安易な気持ちじゃない。でも、だからだろうか。口にはできなかった。


 それからまた、静かな時間を過ごした。俺の体は、少しの苦しみも訴えなかった。けれど、リオンは自発的に喋ることはしなくなったし、ほとんど横になったまま、身動きも少なくなってきた。十年前を思いだす。なんてことない俺のそばで、燃えていく体に弱っていく、慕ってやまなかった兄貴分。この上で、あいつは死んだ。もしかしたら、あの場所に打ち捨てられて骨だけになった体も一緒に落ちてきたかもしれない。この広大な湖の中に、あいつの残骸が沈んでいるかもしれない。

 くだらないことばかり考える。そうして青い水をずっと眺めてる。触れなければ揺れもしない水面が、ほんのわずかに上下しているような気がした。気のせいだ。だが、気のせいだろうと思いつつも観察を続けて、考えを少し改めてみようと思ったのは、足場にしている高台の側面に刻まれたレリーフを目印にして、ほんの一インチ程度の差で起こる水面の上昇と下降を確認できたときだ。おそらく規則的に繰り返されている、水位の変動。昼か夜かも分からないが、仮にこれが潮の満ち引きと関係しているのであれば、どこかに海に通じる道がある。全て淡水の湖だと思っていたが、もしかすると下の方は海水なのかもしれない。だとすれば、潜水したときに感じた僅かな水流にも納得できる。調べてみる価値はあると思った。リオンを地上に帰す手段が、残っているかもしれない。

 それから、俺は湖の探索のために時間を費やした。リオンにはとくに説明しなかった。俺の思い違いだったとき、下手な希望をこいつに持たせておいて取り上げるのは嫌だったから。急に活動的になった俺の様子を、リオンは不思議そうな顔して眺めていたが、こいつも俺に『どうしたのか』とか、訊いてくることはなかった。

 広大な湖の中で、壁面に一辺三フィート程度の正方形の穴を見つけたのは、水位の上昇と下降を四回繰り返すくらいの時間が経った頃だった。ここに落ちてきて十日は過ぎたかもしれない。全く、俺は元気だった。腹の虫一つ鳴りやしなかった。水に潜っていられる時間も、明らかに長くなっていて、なんなら、水から顔を出して呼吸するほうが億劫に感じられるくらいになってきた。まるで、自分が人じゃなくなってきているような、異様な感覚。『お前は永遠にここで生きていけ』とでも、この奇妙な場所に言い迫られているような感じがした。

 ようやく見つけられた穴は、長い道のようだった。わずかに傾斜して上昇しているそれは、どこまで続いているのかも分からない。一度進んでみたが、青く発光する直線が伸びているばかりで、行き着く先が見えない。水に満たされた通路。とてもじゃないが肺呼吸を止めて泳ぎ進み切るなんて、無謀としか思えない。でも、たしかに水流の発生源はここだった。湖の水面が上昇するとき、ここからはぬるい水が流れ込んできて、水面が下降するときにはここから水が吸い出されていた。その水が海水だということは、体感で分かった。ここは間違いなく、海と繋がっている。

「リオン、海と繋がってる道を見つけた。ただ、たぶんすごく長い。呼吸を止めて泳ぎ切るのは、正直無理だと思う。けど、他に出口はない。どうする?」

「……僕は、君が一緒なら、ここで死んでもいいんだ」

 リオンは細い体を起こして、細い声で言った。

「それでもいいぜ。どうせ賭けにもならないようなものだ。ここで死ぬか、狭い道の途中で死ぬか。運が良ければ、とりあえず体は上に戻れるかもしれない。相当運が良ければ、生きて上に戻れるかもしれない」

 リオンは青白い額を膝に乗せて、苦しげな呼吸をしながら暫く黙った。ずっと横になってたから、目眩でも起こしてるんだろう。息が整ってから、リオンはまた穏やかな声で言った。

「……本当は、『生きたい』とも思ってる」

「……そうだろうよ」

「でも、君を追ってきたことを後悔はしてない。投げやりに聞こえるかもしれないけれど、本当に、どっちでもいいんだ。ただ、一人で死ぬのは嫌かな。できれば、君に看取ってほしい。……それだけ」

「俺はお前に生きてほしい」

 どっちでもいいなら、生きてくれ。ほんのひと欠片の可能性でも、それにしがみついてほしい。ここは確かに綺麗だ。広くて、穏やかで美しい。狭い道の途中で溺れ死ぬより、心地いいかもしれない。でも、あの天井の彼方に見える、遠い月の光よりも心もとないものに運を託してみたとしても、間違いではないだろう。

「なら、一緒に来てよ」

「もちろん。駄目なら俺も死ぬ」

 そう言ったら、リオンは微妙に笑った。

「べつに、君に死んでほしいわけじゃないんだけれど。『心中してくれ』って言ってるようなものだね、僕」

「実際、他に方法はねえからな。願おうと願わまいと、そうなるさ」

 リオンの笑顔を見たら、俺も自然と口角が上がった。いくらか元気になっただろうか。体は弱っていたとしても、気持ちが弱りきっていなければ、きっとなんとかなる。

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