第七章 2

「レナート、話せそうなら開けろ」

 気づけばもう夜だった。照明なんざつけないままでいた部屋の中は暗くて、俺は一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。いつの間にそんなに時間が経っていたんだろう。俺はずっと床に蹲っていたんだろうか。何もしなかったのか? 数時間の記憶が空白だった。

 扉の向こうから声を掛けてきたのは親父だ。珍しいこともあるもんだと思って、俺はよろめきながら立って、鍵を開けた。

 親父は何も言わずに、俺の顔を見る。そういえば、俺は泣いていたんだった。今は涙も止まっているが、たぶん酷え顔してるんだろう。

「なんて面してんだ」

「情緒がいかれてんだよ」

「……いいさ。話があるから、明かりつけろ」

 俺は親父を部屋に入れながら、照明をつけた。黄色っぽい光が四角い箱の中を照らす。親父は俺のとっ散らかった机の椅子を引いて軋ませながら座ったんで、俺はベッドに座った。

「大体どんな具合かってのは、マリアあたりから聞いてるが、実際どうだ?」

 親父は酒焼けした低いしゃがれ声で訊いてきた。実際、ね。

「ろくでもねえな」

 俺は仰け反って、天井を見上げて答えた。ろくでもねえ。みっともねえ姿をあの二人にまで晒しちまった。正直、次どんな顔して会ったらいいのか分からねえ。何もなかったみたいにするか? それでまたおかしくなったら目も当てられねえ。じゃあ悄気げた感じで行くか? そんなやつ相手するの面倒だろうが。もうどうしたって、これからあいつらは俺に気を回すのに神経使うようになっちまうんだろう。気の利くやつらだから。

「で、話って?」

「お前、しばらくジュールで休め」

「……は?」

 ジュール? なんであそこに行かなきゃならねえんだ。せっかく帰ってきたってのに。

「この島にいると、色々と思い出しちまうだろう。まして、次の調査でアビリス島に連れていくのは、気が進まん」

「そりゃ、俺がおかしくなっちまったからか?」

「俺は十年前、お前の近くにいてやれなかった。だから、あの一日半の間に何があったのか、詳しいことは分からんし、訊くのも酷だと思ってる。だが、お前を見つけたときの惨状には身震いした。全部終わった後の様子に、いい年した男らが揃いも揃ってビビっちまったんだ。それで、実際にえらい目に遭ったのは子供だってんだぞ」

 この人にも大変な思いをさせた。俺は浮かんできた疑問を口にせずにはいられなかった。

「……親父は、俺を拾ったこと、後悔してるか?」

「そんなわけねえだろ。ただ、お前を連れ回さずに、島で過ごさせてりゃあ、あんな目に遭わせずに済んだだろう、ってな」

 親父は俺を拾ったことは後悔していないらしい。それが本心なんだろうってのは分かる。

「俺は親父の姿見て育ってんだ。あんたが望まなくたって、ごねてついて行っただろうよ」

「……それならしゃあないか」

 そうさ。だからそんなことを後悔するなよ。俺は、俺のやりたいようにしてきた。それで嫌な目に遭ったからって、親父が気にすることなんかねえんだ。

「それで、なんでジュールなんだよ。行ってどうしろってんだ」

 親父は組んだ指の上に乗せた顎を、数回揺らした。何を悩んでるんだ?

「……まあ、まず、この島にいるのはしんどいだろうって思ったのが一つ。もう一つは、テオドーロなら、お前を守れると思ったからだ」

「……実父だからか?」

「そうだな」

 なんでだよ。アルベルティーニの家で、俺があそこの家で生まれたって知ったって、変わらねえって――。

「俺の親父はあんただって、言ったじゃねえか」

「ああ、ちゃんと聞いてたさ。だが――」

「俺はとっくに殺されてんだよ!」

 ああ、まただ。感情の抑えが効かねえ。ベッドを殴りつけながら、勢い余って立ち上がる。家の外まで響いてそうな大声が、喉の粘膜を削ぎ落としそうな調子で口から出ていった。

「あいつも望んでそうしたわけじゃねえんだ」

「知るかよそんなこと! 古い慣習だ? 使命だ? 本気で望んでなかったってんなら、本気で抗ってみりゃよかったじゃねえか! 勝手に殺しといて――そうだよ、俺はそんな偉い家のゴタゴタなんか知ったこっちゃねえんだよ! なにも分かりゃしねえ赤ん坊を海に放り出しといて、今更『親だから責任持って預かります』なんて、また勝手な使命感ってやつか? そんなもん俺に押し付けてくるな! そんなもので俺を振り回すんじゃねえよ!」

 視界が滲んでくる。ああ、もうガキじゃねえってのに、なんで俺はこんなにボロボロボロボロ。涙腺のネジが腐っちまったみてえだ。

「分かった。……そうだ、お前の言い分は正しい。勝手に話を進めて悪かった」

「俺はアルベルティーニじゃねえ。ただの『レナート』なんだよ。親父がくれた名前が好きなんだよ。なあ親父……、頼むから、ずっと俺の親父でいてくれよ……」

 俺はまたぐずぐず言い出した鼻をそのままにしながら、親父の太い脚にすがりついた。でかい手が、丸まった俺の背中をさする。

「頼まれなくたって、ずっとそのつもりでいるさ。だが、レナート。お前が生まれたとき、テオドーロはアルベルティーニの当主でもなけりゃ、ただの若い神官だった。権力のある家の人間って言ったって、若僧ってのは無力なもんだよ」

 ああ、そうだろうな。『俺には他人としか思えねえ』って言ったときの、おっさんの顔。後悔と未練にまみれてんだって、そのくらい分かったさ。そんな具合になるって、予想できなかったってこたないだろう。それでも、そうせざるを得なかった。俺を海に流して殺すっていう選択肢を選ぶしかなかった。伝統と周囲の圧力ってのは尋常なものじゃなかったんだろうさ。実際のところなんて知らねえけど、想像するくらいできる。

「……分かってるよ。でも、俺には関係ねえ」

「お前は俺の子にしちゃあ利口すぎる。あっちこっちよく気が回るやつだ。回りすぎて、結局誰も責められなくなっちまう」

 乗せられた。俺があのおっさんにもなんとなく同情して責められねえから、親父はわざとあの人庇うようなこと言ったのか。……俺は、少しくらいあの人を責めていいのかな。でも、やっぱり俺の親父はあんたで違いない。俺のことを分かりきってる。

「……どこまで本気だったんだよ、さっきの話」

「テオドーロに相談はしてある。これまでの経緯も含めてな」

「あのおっさん、余計に後悔するんじゃねえの」

「仕方ねえだろうさ。俺は今更お前を放り出す気はねえが、あいつにも親の責任はあると思うんでな」

「俺はジュールには行かねえけど、次の調査には行くぞ」

「お前がそうしたいなら、それでいい」

 俺はいくらかいつもの調子を取り戻したんで、ちょっとばかし強気な口調で言った。自分を鼓舞する気持ちも込めて。もしかしたら、行った先でまた狂った調子になっちまうかもしれねえ。そうなったら、たぶん調査どころじゃねえし、親父らも鬱陶しいだろう。けど、俺はそんな具合にならねえように自分を制御できるようにならなきゃいけねえ。じゃなきゃ、隊にいられない。俺の知識や特技なんて、隊のためにあるようなもので、他に大したものなんざ持っちゃいない。隊で働けない俺は、一生部屋の中か病室でメソメソして過ごすしかねえんだ。そんな人生に、意味があるのか。

「焦るこたねえさ。まだ若えんだ。さて、話は終わりだ。机、もうちっと片しとけよ」

 わりかし思いつめてた俺にそんな言葉を掛けて、親父は俺の部屋から出ていった。なんだよ、親父の部屋だって散らかってんじゃねえか。俺は机周りだけなんだから、俺のがマシだぞ。

 ……焦るこたねえ、まだ若い。そうかもしれない。けど、『時間が解決』してくれるとは思えねんだ。だって、十年経った結果がこのザマだぞ。忘れるなんてことしねえで、ちゃんと向き合って十年過ごしてたら、違ったのかもしれない。けど、俺は向き合えなかった。俺ってのは弱い人間なんだ。でも、そんなままでいたくねえから、逃げてきた分ぶつかっていきてえ。十年も逃げたんだ。俺はその十年を取り返す気持ちで、急いで生きたい。そのくらいしなきゃ、俺はいつまで経ってもガキのままだ。

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