メレーの子(後編) 3

 メリウスは退き、弾いた。彼の瞳はヴァイタスの刃を確と捉えていたが、衣服の端は切り裂かれ、皮膚もまた傷を負った。ヴァイタスは笑んでいた。邪気のない幼子のようだと、メリウスは感じた。故に悲しみを覚えた。本来のヴァイタスとは、このような面を持つ者なのだろう。クレスの民は戦を知らない。隣人同士で言い争うことこそあれ、集団同士での殺し合いなどとは縁がない。それは彼ら元来の性質がそうさせてきた。ヴェントの民は戦を好む。これもまた彼ら元来の性質がそうさせる。戦乱の血に染まるヴェントを治めるために、ヴァイタスは己の無邪気さを封じ込めたのだろう。父である高神フェムトスに倣わんとして、半ばは人であるというのに、人らしき情をひた隠し。ヴァイタスの剣を受けるたびに、メリウスの内に『無情な王』の苦悩が流れ込んできた。メリウスは打ち返しはしなかったが、ヴァイタスにとってメリウスは、長き生の中で唯一その力の全てを以て張り合うことのできる相手だったのだろう。彼の配下である人間たちには決して振るいはしなかった神力の剣、その真髄を目の当たりにした彼らの驚嘆と畏れが、二人の半神を囲んでいた。

 だが、やがてヴァイタスはメリウスの様子を訝しみはじめた。「なぜ返して来ぬのだ。そろそろ十分に要領を得たであろう。それとも死が恐ろしいか。細君は貴殿を待っておられるやも知れぬぞ」

 ヴァイタスの挑発にもメリウスは乗ることなく、受け身でいるばかりだった。しかしついに彼は踏み込んだ。メリウスは突き出されたヴァイタスの剣先にその身を預けたのである。メリウスの腹部を貫き背から突き出た剣を前にして最も驚愕したのは、無論ヴァイタスであった。

 メリウスは、身を突き刺す剣の柄を握ったままで一切の動きを止めたヴァイタスの手を、自らの手で握った。そして神気を尽かせようとしている半神を抱き寄せ、己の気を流し込んだ。メリウスの腹に、より深く刃が刺さった。そこから漏れ出る神気をも、彼はヴァイタスへ与えた。

「貴様、どういった心算だ」空になった体に注がれるメリウスの気に震えながら、ヴァイタスは呻いた。

「人とは多様な生き物ではないか」メリウスは自らの気を惜しみなく、無遠慮にヴァイタスへと与えながら言った。「神も同じだ。メレーとフェムトスの性質が異なり、我々が其々の性質を受け継いで生まれたのならば、それは意味があってのことではなかろうか。クレスの民には私が必要で、ヴェントの民にはあなたが必要なのであろう」

「私にはこれより先の展望が見えぬ。この民を恐怖で支配する以外の術を見つけられぬ。いつまで続ければ良い」ヴァイタスは注ぎ込まれる異質な神気に戸惑いながらも、もはや抵抗はせず、受け入れることを許しながら、抱く迷いを吐露した。それはメリウスの耳にのみ届く言葉であった。

「あなたは孤独であるか」メリウスは訊ねた。

 ヴァイタスは翡翠の瞳を伏せる。「判らぬ。だが、神々は私に力を与え賜うた」

「助力を請うことは弱さではない。それが神に対してであろうが、人間に対してであろうが」メリウスはヴァイタスの背を撫ぜ、その鋼鉄に覆われた胸を押した。腹を貫いたヴァイタスの剣を引き抜いた彼は、数歩後退り腰を突いた。己が今現在持ち得る神気の半ば以上を割いて与えたがゆえに、メリウスの意識は遠のいた。そこへすかさず、リヨン、トーラスが来て、メリウスがヴァイタスに与えた神気を補った。

 アイグリスは急速に注がれた他者の神気を、上手く己のものとして処理できず、やはり膝を突いてしまったヴァイタスに寄り、彼の身にメリウスの気が馴染むよう力を貸していた。

「メリウス王、感謝する。我らの王は生まれてこの方、何者の神気も借りようとしてこなかったのだ。死なれては困ると言うのに」トーラスが己の気をメリウスに分け与えながら言った。

 メリウスは他の神気を取り入れることには慣れたもので、すぐに活力を取り戻した。「なるほど、他の気を受け入れたことがないのか。一刻も争うと思い、急いで流し込んでしまったが、少々悪いことをしたか」メリウスは、トーラスとアイグリスの期待に応えることを選んだのであった。弱ったヴァイタスには聞こえてはいなかったのであろうが、二神の言葉は戦いの間絶え間なくメリウスへ届いていた。「どうか、殺めてくれるな」と。メリウスは膝を突いたヴァイタスの元に、彼の配下である人間らが歩み寄る様子を見守った。

「王よ、ご無事でありますか」と、ヴァイタスの配下の者たちが彼の元へ駆け寄り訊ねた。彼らの目では状況を把握することは困難だったろう。気づいたときにはヴァイタスの剣がメリウスの腹を突き破り、そして両者が膝を突いていた、程度のことしか解らぬに違いない。

 メリウスは、半身らしい輝きを取り戻し始めながらも、未だ胸と頭を押さえて蹲るヴァイタスへ声をかけた。「恐怖のみで支配された者らが、その様に主人を案じるものだろうか。ヴァイタス、人を信頼してみるが良い。きっとあなたが思っているよりも、あなたの民は王を信頼している」

 ヴァイタスは漸く整い始めた呼吸の合間から、「国をどうだのという取り決めは無かったことにする。相打ちであるのだから」と呟いた。

 しかし、メリウスは否定した。「いいや、決闘は明らかにあなたの勝ちであった。こちらはああも深く腹を貫かれたのだから。だが、そうとなると、困った。どうしたものであろう」

「相打ちだ」ヴァイタスは繰り返した。

「それで納得する者ばかりではあるまい」メリウスは言った。彼はヴァイタスの配下らを見渡し、その表情を窺った。

「王が無事ならば良い。国へ帰りましょう」と言う者もあれば、「それでは下の者らが得心せぬ」と主張する者もあった。

 メリウスは「どうしたものか」と、補填された神気を己の内で混ぜ合わせながら思案した。力を示し続けたヴァイタスにこそ畏れ従い続けてきた者が多いことは確かであろう。だからこそ、今後もヴェントの王として君臨することとなる彼が、武力での戦いにおいてメリウスに勝利を収められなかった、などとするわけにはいかない。そもそも、ヴァイタスが万全の状態で挑んできていたなら、メリウスは初めの一薙で絶命していたであろうという確信があった。さりとて、無論メリウスにクレスをヴァイタスへ渡すつもりはない。ゆえに彼は悩んだ。

 そのとき、低い轟きが遠方から響きやって来た。メリウスにとって慣れ親しんだ、地竜が身動ぐ音である。しかし、此度のそれは長らく続き、鳴動は増してゆくばかり。メリウスの脳裏に、古の記憶が蘇った。かの巨大な地竜が千年の眠りから目覚め、泳ぎはじめたのであろうか。

 不穏なざわめきが広間に広がる中、「これは何だ」とヴァイタスが呟いた。

 メリウスが「身を守れ」と叫んだ瞬間、轟音を伴いながら大地が彼らを激しく揺さぶった。広間は混乱に陥り、宮殿の内外から挙がる恐怖の絶叫がメリウスの耳へと届いた。柱や壁に罅が入り、天井の一枚岩から剥がれた月長石の破片が降り注ぐ。

 長い時間、メリウスはメレーに祈り続けていた。漸く地竜が去ったとき、広間内には硬い沈黙が満ちていた。人々は地に伏して身を震わせていたが、少なくともこの場にいる者たちに負傷した様子はなかった。それを確認したメリウスは窓辺へと駆け、街を見下ろした。そこは瓦礫が広がるばかりの光景と化し、硝煙が立ち込めていた。

 いつの間にか姿を消していたリヨンは、メリウスらの元へ戻るなり「海が来る」と言った。

 メリウスは怖気づき放心したヴェントの者らの意識を引き戻し、彼らの国の方角を示した。「直ちに国へと帰れ。間もなく大海が山となって押し寄せてくる。砂岩の道を決して足を止めずに走り、国へ渡ったら丘に登れ。蹲っている暇はない」

「重りを捨てろ」とヴァイタスが叫び、胸鎧と剣を罅割れた床に落とした。彼の配下らもまた鋼鉄を捨て、祖国の丘を目指して宮殿を駆け出た。ヴァイタスは暫しメリウスを見つめてから、人間たちを追って行った。彼の「動けぬ負傷者は置いて走れ。心中したくば残って構わぬ」という、フェムトスを彷彿とさせる冷淡な指示声が、メリウスの元へ届いた。

 メリウスはリヨンに、「セレネとイェラスの者を逃したい。私はイェラスに行く。あなたはセレネの者たちを丘へと引き上げてやってくれ」と頼んだ。

 だが、リヨンは「私の声は誰の耳にも届かぬだろう」と言った。時代は進み、人間はより変化した。彼らの目も、耳も、今や神の存在を認識することはできない。

「あなたの姿が見えなくとも、あなたが降らす雷は見える」メリウスは言った。

「丘を示したところでそれに気づくか。ならば雷撃で追い立てるしかなかろうか。恐怖の上に恐怖を与えるとは」リヨンは、しかしその様にする以外に方法はないと理解を示し、この北の都にて失われた多くの生命から気を集めた。

「救うための恐怖もあるだろう」メリウスはごく当然のことであるように言った。

 リヨンは笑った。「確かに、原始的な恐れはそのように作用するものだ。だが、人間は随分と複雑な生き物になった」気を十分に取り込んだかれは、砕かれた青色金剛石の煌めきを纏わせながら、セレネの方角へ向かった。リヨンは黄金の竜へ姿を変えて天空を舞い、その羽音は雷鳴となって轟いた。

 メリウスはイェラスへと向かい、建造物の倒壊から免れた人々を丘へと導いた。そして千年前に勝るとも劣りはしないピトゥレーの怒りに呑み込まれ消えゆく街を、泣き叫ぶ人々と共に見下ろしていた。

 ヴェントとクレスを繋ぐ砂岩の道は、跡形もなく消え去った。

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