メレーの子(前編) 2

 凪いだ海面に漂う小さきものをピトゥレーが見留めたのは、それから間もなくのことであった。かれはその小さきものを拾い上げ、眺めた。一見では人の嬰児に見え、頑なに閉じ合わされた瞼を、石英の光が飾っている。ピトゥレーは未だ光に慣れぬ赤子の目を、指先で押し広げた。

 そこに在ったのは人の眼に非ず、ピトゥレーと同じ神の瞳であった。しかしながら、あまりにも小さくか弱い、人の赤子のような姿で生まれた神など、これまでにない。ピトゥレーは他の神々との関わりこそ好まないが、最も古くから存在し、強大な力を持つ神の一柱である。その原初神の瞳は遥か彼方、カエラスの裏側までをも見通すことができるのだから、かれが知らぬものごとなど、ほとんど存在しないのだ。

 つまり、ピトゥレーが拾い上げた小さきものは奇怪な存在であったのだが、かれはその小さきものからメレーの気を感じ取った。

 ピトゥレーがメレーを呼べば、メレーはすぐに姿を現した。人の眼では捉えることのできないメレーの姿も、神の眼は鮮明に映し出すことができる。それは高次の光であり、『脈動する水晶球が、虹色の帯を無数にたなびかせるが如きさま』である。

 ピトゥレーは小さきものの柔らかな足首を掴んで吊るし、忌々しげに睨みつけた。「半神半人とはこのようなものか。これを私の元へ寄越すとは、一体どういったつもりなのか」

 メレーは虹色の帯をはためかせながら答える。「それはあなたのもの」

「私は他の神など好かんが、人間はもっと好かぬ。半ば神であろうが、こうして逆さにしていれば死ぬ。脆い生き物だ」

「あなたのものとはいえ、私の子。殺せるというのなら、どうぞやってごらんなさい」

 ピトゥレーは気難しげに呻き、嬰児を近くの磯の中へと投げ込んだ。嬰児はその時になって、ようやく声を上げて泣き出した。

 それをまた拾い上げたのは、ウェヴィリアの末妹リリエであった。彼女は、長女のジャメナがピトゥレーに殺される際に切り落とされた尾びれが転じて生まれた、幼い妖精だった。「ピトゥレー様がこの子を側に置きたくないのなら、私たちが面倒を見ましょう」リリエはジャメナ譲りの物怖じのなさで言った。

 ピトゥレーはリリエに見向きもせず、返事もしなかった。気難しい神に代わり、メレーがその提案を許した。


 リリエはウェヴィリアの棲家に半神の赤子を連れて帰った。姉妹は話し合い、赤子に『メリウス』と名付けた。イルカの乳を飲ませ、その子供と遊ばせているうちに、メリウスは成長してゆき、やがてウェヴィリアらが獲ってきた魚や貝を食べるようになった。しかし、時折妖精たちの棲家の岩上に、大量の魚が打ち上がっていることがあった。妖精たちは魚の肉を食べることはしないので、メリウスがその肉を食べなければならない。

 そういった事が幾度か続いたある日、リリエはピトゥレーの神殿に行き、退屈げに水槽を眺めている海神に伝えた。「ピトゥレー様、メリウスはそれほど食べません」

 ピトゥレーは鮮やかな模様を輝かせている小魚を見つめたまま、「それがどうした」と言った。

「お伝えしておこうと思ったのです」リリエは答えて、それだけを用件に神殿を後にした。

 その後も時折、ウェヴィリアの棲家の岩上に魚が打ち上がることはあったが、せいぜい二、三匹に留まるようになった。

 更に成長したメリウスは、人間の街へと出掛けるようになった。人々の住まう街には、海では目の当たりにすることのできないものが多くあった。メリウスがよく足を運んだのは、近く栄えたジュローラの街であったが、彼はそこが自身の出生地であることは知らずにいた。

 ある日、彼はこのような話を耳にした。

『かつて、アンドローレスという神官がいた。しかし、彼は神官の決まりを破り、自らの子を成し、そして生まれた子供とその母親と共に海へ潜り、死んだ』

 メリウスは詳細が気にかかり、知ろうとして、街の人々に訊ねて回った。アンドローレスが死んだのは、十二年前の出来事だった。メリウスは、自分が丁度アンドローレスの子供と同じ年齢だと気づいた。そして、彼は街の人々から「君はどこか、落ちぶれる前のアンドローレスに似ている」と、頻りに言われた。

 メリウスは、アンドローレスという人が自分の父親なのだという確信を持った。彼は、母親がメレーであることは知っていたが、父親が誰であるのかは知らずに生きてきたので、激しい関心を抱いた。

 彼はアンドローレスについて、更に訊ねて回った。しかし、聴くほどに街の人々から発せられるのは、「神官の規則を破り零落して死んだ、情けない男だ」といった言葉ばかりだった。メリウスは虚しくなり、訊ねるのをやめた。

 彼は妖精の姉たちが待つ海へ帰ろうと、日暮れ時の港へ向かった。そこで彼は、「近頃、一帯の海を荒らす怪物が現れる」という話を耳にした。漁師たちは怯え、仕事に身が入らないらしい。

 メリウスは正義感と好奇心を半々に抱いて、その怪物とやらを探しに向かった。


 噂の怪物は、深海の底で淡い白色光を放っていた。手脚を六本ずつに持つ、途方もなく臣大な生物である。

 メリウスは恐れを知らない少年だった。彼はその生き物に近づき、声をかけた。「この頃、この辺りの海を荒らしているというのは、あなたですか」

 謎めいた生き物は臣大な水晶球のような目玉を回し、問い返した。「お前は何者だ」

「メリウスです」と、彼は答えた。

 怪物は瞳の光をかすかに弱めた。「知っている。メレーが生んだ半人の子だろう」そう言って、恐ろしく長い腕を伸ばし、メリウスの細い体を掴まえた。

 怪物の力は強く、メリウスは苦しみに藻掻き解放を求めた。しかし彼の言葉は届かないようだった。

「私はケーレーン。ピトゥレーの気まぐれによって生みだされた。この醜い姿がその証。十二本もの手脚をつけられた。かれは私のようなものを造ったのを恥じてか、海底に沈め縛りつけた。何万年と。だが、私はあるとき気づいてしまったのだ。何故私がこの様な仕打ちを受けねばならぬのかと。ゆえに私は外へと出向くようになった。この体を海面へ浮かべれば、大波が興り生き物は逃げ惑う。成る程、荒らしていると思われるのは道理やもしれぬ」ケーレーンは淡々と、半ば独白のように言った。

 暗く冷たい深海の底には、巨大な鎖と楔の残骸が散乱している。それは、ケーレーンが力の限りで以って破壊したものなのだろうと、メリウスは想像した。

「己の醜悪さは理解している。どうにもならぬことにもはや悲しみを覚えはしないが、人間を怯えさせたいわけではない。もうここから離れるのはやめよう。私には陽の当たらぬ場所がふさわしいのだ」ケーレーンは巨大な手からメリウスを解放した。

 全てを諦めたかのようなケーレーンの様子に、メリウスの胸は痛んだ。ケーレーンに悪意などはなく、かれが浮上した場所が偶然ジュローラの近くであったというだけなのだ。ならばと思い、メリウスは言った。「人間のいない場所なら、きっと誰も怯えさせることはないでしょう。僕が案内します。今日は月が満ちていて、天上の国がよく見えますよ」

 メリウスはケーレーンを誘い、浮上した。ケーレーンは戸惑いがちながらも、メリウスに続いた。海面が近づくと、メリウスはケーレーンの背に乗った。二人は共に水上へと姿を現した。水面に浮かぶケーレーンの体の巨大さは、その上に街を築けるほどだった。

 ケーレーンは水晶球の瞳を満月に向けて、七色に煌めかせていた。月光を浴び、数ときほど漂ったかれは、突然に「神の叡智たるや!」と叫んだ。巨大な声は雷鳴にも似て、彼方まで響き渡った。そしてケーレーンはメリウスに言った。「友よ、感謝する。私は闇雲に存在していたわけではなかったのだ。天上の国は私のすぐ近くにあった」

 メリウスにはケーレーンの言葉の意味が分からなかった。しかし、ケーレーンの瞳からは憂鬱な陰りが消えていた。メリウスはケーレーンの気持ちが晴れやかになったのならば幸いだと思った。

 海面が小さく揺れ、海の底から低い音が轟くのをメリウスは聞いた。

 ケーレーンは身を沈めながら言った。「戻らねばならない。メリウス、万年と生きてきたが、お前と過ごしたこの僅かなひと時にこそ、最も意義があった」

 ケーレーンが海の底へと姿を消して間もなく、轟音が鳴り響き、海が動いた。

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