第九章
第九章 1
旧き民は惜しみなく、新しき民に知恵を与えた。じきに滅びゆくことを知っている旧き民にとって、新しき民の存在は、己らが築き上げてきたあらゆるものごとを引き継ぎ、残し、更なる発展へと繋げられる。そのような希望を抱くに充分な好奇心と、頭脳と、生命力があるように思えたのだ。
高位指導者の色を戴いた髪を隠し、新しき民の
旧き民の誰も、このような感情を抱いて新しき民の群れの中へ混ざり込もうとはしない。この身に宿された『感情』は、新しき民のものより遥かに薄くとも、確実に行動へと影響を与える。
露店の若い娘に声を掛けられた。赤い果実を投げ渡され、その果実と似た色をした丸い頬をこちらに向け、爛漫たる笑みで果実の美味を語る。
果実に鼻を寄せれば、芳醇で爽快な、甘やかな香りが胸を満たした。光と、風と、土と、水とが創り出した生命のかぐわしさ。偽りの蒼を灯す広大な空も、いずれは真の清廉さを取り戻し、この大地に生きる者たちを覆うのだろうと、遠い未来には訪れると信じる可能性の希望を見た。
部屋の窓際に、赤い果実を飾る。これを口に含めたなら、あの娘の笑みの意味をより深く知り得たのであろうか。
生命が朽ちるのは早いものだ。瑞々しく爽快な香りで部屋を満たしていた果実も、ふと気づいたときには既に色褪せて、しつこく纏わりつく死の匂いを放つようになる。そうして、またふとその果実を投げ渡し笑んでいた少女の姿を思い出したときには、彼女は老いて土に還っている。
そのようなことを、幾度となく繰り返す。幾千万の命を見送る。旧き民の記憶領域を持たぬ身では、その生命の記憶全てを保持しておくことはできない。
殊更大切な存在に思えた者の記憶さえ、遠く薄れていく。愛の記憶も哀楽の感情も、留めておけない口惜しさ。
残されるのは、虚しさばかりだ。
*
水面から顔が出せた瞬間、激しく咳き込んだ。気管の中に入り込んだ水を吐き出して、呼吸が整うのを待つのももどかしく周囲を見回す。広大な部屋のように、壁で囲まれた場所だ。どこにあるのかも分からない光源が、空間を青く染めている。天井は恐ろしく高く、存在するのかどうかも定かではない。水の底も、確認できないほどに深い。
「……リオン……!」
一緒に落ちてきたはずのあいつの姿が見当たらない。まだ水中にいるのか。呻いている肺に空気を取り込んで、光る水の中に潜り込む。揺れる金色はすぐに見つかった。俺はガキの頃にイルカに習ったように、微かな水流の上を滑った。白い腕を掴み、脱力した体を引き寄せ、急いで上昇する。もう一度水面に顔を出して、痛みを訴える心肺を働かせる。抱え込んだリオンは力なく、空気中に口鼻を出しても呼吸を再開させる気配がない。
俺は足場を探して、もう一度周囲を見渡した。目測五十フィートの距離に、平らな岩場のようなものがあった。人間一人抱えて、俺はそこに向かって泳いで、乗り上げて、引き上げた。
動かない体を仰向けに寝かせて、気道を伸ばす。形の良い鼻を塞いで、半開きの口に口を重ねて、深く吸い込んだ空気を思い切り吐き出した。手足が僅かに痙攣したので、顔を横に向かせれてやれば、リオンは体を丸めて水を吐いた。咽せながら自力で俯いたリオンの背中を暫く叩く。次第に落ち着いて、やがてまともな呼吸をするようになったのを確認して、俺はとりあえず安堵した。
「……ここは……?」
「……地底湖みたいだな」
俺は上の方を見ながら答えた。滝の音みたいなのが響いてる。上の方で抉れた川の水が落ちてきてるんだろうか。そもそも、俺たちはどれだけ落ちたんだろう。随分な距離だった気がする。水面に叩きつけられて死ななかったのが不思議だ。
「人が造ったのか……」
リオンが背中を預けた壁を見て言った。壁に彫り込まれた線の滞りのなさ、滑らかすぎる広大な円形の空間、そして水中から突き出て並ぶ模様が刻まれた無数の柱。人が造ったもので間違いない。
「まさに『神殿』って感じだな」
親父が探していたものはこれだ。海に沈んだ王墓。ここに満ちているのは淡水だった。この場所はきっと、この辺りの海底よりも深いところにある。
たぶん、出口はない。これが海水だったら、海と繋がってるってことだから、どこかしらに道はあっただろう。それが実際に生きて通り抜けられるような道だったかどうかは別だが。
「ここが俺の死に場所か。ここで死ねるなら、……いいかもしれねえ」
「綺麗なところだ」
全く、嫌になるほど綺麗なところだよ。ここで、できれば楽に死にてえ。けど……、
「……お前を死なせるのは嫌だな」
俺一人だったら気兼ねなかったんだ。でも、こいつがいる。こいつは地上に、生かして帰したい。だって、これから生きていこうって希望を持ってたんだ。そのために体切るなんてことまでしたんだ。
「僕は、君が一緒なら、ここで死んでもいい」
なんの躊躇いもないみたいに、リオンは言う。死ぬのを嫌がったところで、今更どうしようもないのは事実だろうが、せめてもう少し、無念そうにでもしてくれればいいのに。
「……そういうこと言うなよ……」
そりゃ、俺だって独りで寂しく死にたかない。けど、もう誰かを道連れにするのは嫌なんだ。違う、これまでは道連れにもできなかった。俺が引きずり落とすだけで、いつだって俺自身は生き延びちまう。なら、もういいじゃねえか。俺は一人で落ちてくるべきだった。
なのに、こいつが脇目もふらずに駆け寄ってきたとき、俺に手を差し伸べてくれたとき、『よせ』と思う気持ちと同じくらい、――いや、それ以上に、嬉しかった。状況も把握できない中で、普段ろくに表情を動かさないこいつが俺のために見せた顔が、俺の名を呼んだ声が、こいつにとっても俺は特別な存在なのだろうか、なんて思わせるから。
特別、ってなんだろう。俺にとって、新しい家族――きょうだいみたいなものだって、俺はこいつのことを思っているんだろうか。でも、アンドレーアに抱く思いとは違う。似たところもあるけど、たぶん、違う。得体の知れない感情だ。
出会って五ヶ月も経っていない。その間ずっと一緒にいたわけでもない。俺はこいつのことをろくに知りやしないし、こいつだって俺について詳しく知ってるわけじゃない。でも、なんでだか……、ずっと長く、こいつと同じ時間を過ごしたような気がする。俺は、実際には知りもしない、こいつの正体を知っているような気がする。それは、出会った瞬間、海に漂うこいつの姿を見つけたあの時、自分さえも気づかないところで、何かを思い出したような。『何を?』と問われれば答えられない。分からない。俺はこいつのことをろくに知らないんだ。なのに、まるで初めから知っていた。
矛盾してる。なにひとつ噛み合わない。なんでこんな具合に感じちまうのか、俺は考えて、一個だけ思いついたんだ。たぶん、俺が散々憧れて思い描いてきた雷神の姿に、こいつがあまりにも似ていたから、混乱しちまったんじゃねえかって。
「俺は、なんでお前を『リオン』なんて呼ぶことにしちまったんだろう」
別の名前を考えればよかった。なんなら、『ザヒル』だって知っていたんだから、そう呼んだってよかったのに。
「……僕は気に入ってる」
「俺も気に入ってたよ。お前に似合うと思った」
ならなんで、って顔して俺を見てくる。濡れて艶めいてる金の髪が眩しい。それは晴れた明け方の、ラピスラズリの空を駆けて彼方の海に降り立つ、雷神の光によく似ている。
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